高校野球における名監督といえば、PL学園・中村順司氏、常総学院・木内幸男氏、横浜・渡辺元智氏、池田・蔦文也氏、箕島・尾藤公氏など何人もその名が浮かびますが、今年の3月に開催された春の選抜高校野球選手権で、これらの名将を凌ぐ甲子園通算勝利数59を達成したのが、智辯和歌山の
髙 嶋 仁 氏
高校球界で知らぬ者のない監督です。
予選で1回負けたら即終わりの高校野球。 1回出場するだけでも大変な甲子園に、30年間監督を務めて甲子園出場29回、うち優勝・準優勝が3回ずつ。
しかも私立でありながら、学校の方針で殆どの選手が県内出身者なのにこれだけの戦績を挙げるのは、髙嶋監督の指導力がいかに卓越しているかを物語っています。
その髙嶋監督のインタビューが、月刊 『致知』 7月号に掲載されていましたので、抜粋・編集にてご紹介致します。
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1946(昭和21)年に長崎で生まれた私は、長崎海星高校時代に2度甲子園に出場しました。 開会式で足が震えるほどの感動を覚え、その時から
「今度来る時には指導者として甲子園に帰ってきたる!」
と心に決めていました。
家が貧しかったので、1年間働いて入学金を貯め、日体大へ。
オフシーズンにもアルバイトに精を出し、野球道具代を捻出するなど苦労しましたが、指導者になりたい一念で頑張りました。
たまたま智辯学園(奈良県)の監督が日体大出身の方だった縁で、卒業後コーチに就任しました。 契約は3年でしたから、その間野球の勉強をして、それから九州に帰ろうと思っておったんです。
ところが3年目に「監督をせぇ」と。あれから40年経ってもまだ帰れない。(笑)
最初は猛烈な練習を選手に課し過ぎて選手からのボイコット騒ぎもありましたが、それをきっかけにして自分の思いばかりを一方通行で押し付けた指導をしていたことに気づかされたりもしました。
そして1回甲子園に出場できた後、1980年に新しくできた智辯和歌山高校への転勤辞令が出ました。
今までと違って、今度は全く一からチームを作り上げなければならない。
20年はかかると思われた甲子園初出場を結果的に6年で果たしたのですが、その期間短縮のために2つの方法を考えたんです。
一つは「教えるよりも感じさせる」 ということ。
要は強いチームと試合してコテンパンにやられれば、何かを感じるだろうと。
まずは蔦監督率いる徳島・池田高と練習試合をしたら、案の定30点以上取られてボロ負け。 和歌山に帰ってくるまで3時間くらいかかるんですが、何人かは途中で悔し泣きしていました。
「なんで同じ高校生でこんなんなるねん?」 と。 その姿を見た時に、「あっ、これで甲子園は行けるな」 と思いました。
次の日にミーティングして、「ホームラン打つにはこういうトレーニングが必要や」 などと話すと、あとは放っといても自主的にやり始める。 悔しさを覚えると自分で走り出すものなんです。
もう一つは、「テレビ中継を利用して選手を集めよう」 と考えました。
地元では1回戦から中継していますから、何とかベスト4に入れば4回テレビに映るんです。 それを見て智辯に入りたいと思ってくれる中学生が絶対におる、と思ったのです。
実際、和歌山大会に3年目でベスト4に入ったら、それを見た子らが入学してきて、彼らが上級生なった時に初めて甲子園にでたんですョ。
それからウチは一学年10人の選手しかいません。
そうじゃないと、一人ひとりの進路の面倒まで見てやれんのですよ。
それにベンチには3年生から優先的に入れてます。
だからみんな辞めないんです。 頑張っていれば、試合に出るでないは別にして、ベンチには入れますからね。
これも人数が少ないからこそできるのです。
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やはり伊達に最多勝を更新したわけではありません。
猛練習を課すだけではなく、選手のモチベーションを高め、地元の中学生を集める工夫をし続けた結果なんですネ。
わざと強豪校との練習試合を組んで大敗を喫するところから選手のやる気を引き出すところは、熱血指導で有名な伏見工ラグビー部・山口良治監督の創世期のエピソードを彷彿とさせます。
実はこの髙嶋監督、2年程前にベンチで選手を蹴って3ヶ月間謹慎させられたことがあります。
でも野球経験者の私に言わせれば、たかがそれくらいで騒ぐ世間の方が、よっぽどおかしいと思うんですけどネ。
おっと、こんな事を言うとモンスターペアレンツから目をつけられそう。
もうすぐ夏の甲子園、髙嶋監督が更に記録を伸ばすかどうか注目しましょう。