数多くの戦国武将の中でも、今も多くの国民にその名を知られ、慕われている
武田 信玄(晴信)
今日4月12日は、その信玄公の命日にあたります。
1521(大永元)年に、信玄公は甲斐国守護武田信虎の長男として生まれましたが、父はその4年後に生まれた次男・信繁を寵愛したと伝えられます。
1541年、暴政を振るう父・信虎を追放(※家臣主導説・隠居説あり)して、武田家第19代当主となった晴信は、その直後から信濃への侵攻を開始し領土の拡大を図ります。
越後・上杉謙信との5度に渡る川中島の合戦は有名ですネ。
また当時最強といわれた武田騎馬軍団を育てるとともに北条氏と同盟関係を結ぶなど、あらゆる策を講じて北関東の領有をも狙います。
貪欲に領土拡大を目指す信玄公。 おそらくは他の武将同様に天下統一を目指したことでしょうが、不運だったのは彼が上洛を目指す際、そのルート上には徳川家康、そして織田信長がいたこと・・・そして「病魔」だったといえましょう。
三方ヶ原の合戦で徳川・織田連合軍を撃破し、これからという時・・・信玄公は陣中で持病が悪化。
1573(元亀4)年4月12日、甲斐に帰る道すがらで絶命しました。
まだ53歳であった信玄公が、もし後10年生きていたら・・・日本の歴史は確実に変わっていたでしょう。
若くして(政略?)結婚したものの、難産のため妻子とも亡くしたり、父の追放、そして自らを謀殺せんとした長男・義信を処刑するなどした信玄公はまた、他の武将と結んだ同盟を数多く破棄したことでも知られています。
生き馬の目を抜く戦国時代をしたたかに生きた信玄公が、一方で仏教への信仰心が篤く、『碧厳録』 を勉強し高僧に参禅していた・・・このことに精神的な葛藤の深さを感じてしまいます。
攻めダルマの如き信玄公でも、救いを求める心が常に内在していたのでしょうね。
人は城 人は石垣 人は堀
情けは味方 仇は敵なり
壮絶な人生を駆け抜けた天下の名将・武田信玄公の言葉は、いつの世にも通用する人間世界の〝真理〟を簡潔に言い表しています。