ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

 クリスマス・イブに相応しくないかもしれませんが、全くキリスト教と関係ないとはいえない話題です。

アメリカにおける陰の歴史ともいえる、人種差別を肯定し黒人に対して憎悪をむきだしにする

 クー・クラックス・クラン
        Ku Klux Klan

俗に KKK と呼ばれる、この白人至上主義を標榜する秘密結社が、南部連合の奴隷商人であり退役軍人だったネイサン・B・フォレストという人物によってテキサス州ブラスキで設立されたのが、今からちょうど160年前の今日・1865年12月24日のこととされています。

       
                              Nathan Bedford Forrest(1821-1877)

 

※この珍しい響きの結社名の由来は

◆ ギリシャ語の “kuklos (円環、集まりの意) ” の転訛と、英語の
clan (氏族、一族)“ を合体させた合成語。

◆ 銃に弾丸を装填する擬音から

という説があるそうな。

 

フォレストは一兵卒として入隊しながら南北戦争末期に将軍にまで昇進したという、非常に稀な経歴の持ち主・・・それだけ軍人としては図抜けた才能があったのでしょう。


しかし設立当時は先鋭的な人種差別支持団体ではなく、あくまで退役軍人のサロン的なものだったとか。

 

それがやがて合衆国政府の占領統治への反対という政治的な活動を始め、更には奴隷解放反対も運動に加えられるように。

そしてある時、白い布で作った装束で黒人居住区を練り歩くと、黒人たちが彼らの集団に恐れをなして家に逃げ込みました。

当初は単なる嫌がらせ行為だったのですが、その様子を見たKKKのメンバーは味をしめて繰り返しこの示威行動を取るように。

設立から4年後、創立者のフォレストは当初の目的から外れて暴力化していったことに嫌気し総司令の座を辞し解散を宣言。

 

しかし他のメンバーは活動を続け、南部の人種差別主義者が続々と結社入りし会員数は増加の一途を辿りました。

 

      

 

そして20世紀初頭になるとW・J・シモンズという白人の伝道師により〝第2のKKK〟が誕生。

 

「アメリカは予言によりキリスト教徒に約束された地。白人のみがアダムの子孫であり、唯一魂を持ち一切の罪を犯していない、神に選ばれし民として他の人種からは隔離されるべき。」

と主張する彼らは更に先鋭的で、黒人のみならず有色人種全体、更にはカトリック教徒・共産主義者の排撃をも主張。

 

これが白人貧困層の支持を集め、組織は拡大・暴力的に。


1923年にはオクラホマ州だけで2,300件以上の暴行事件を引き起こしましたが、その勢力は政治的にも影響力を持つまでに発展。


インディアナ州ではKKK会員が州知事になったばかりか、トルーマン大統領も嘗ては会員だったとか。


しかしそんなKKKにも、衰退の時が訪れます。

1925年、結社の指導者的立場だったD・C・スチーブンソンなる人物が女性教師を拉致・強姦し全身を噛み、逃げ出した女性が死亡するという事件を引き起こします。


スチーブンソンが逮捕・起訴され終身刑に処せられたことで、KKKのイメージは大きく悪化。


この事件の起きたインディアナ州では、事件前に18万人もいた会員が、数年で4,000人まで激減。

 

他州も同様で、一気に結社の活動は沈静化していきました。

しかし現在でも、KKKは水面下で活動を続けているといわれています。

kKKの活動に関しては様々な映画やTVドラマで取り上げられていますが、私が最も印象に残っているのはJ・ハックマンやW・デフォーが出演しアカデミー撮影賞を受賞した『ミシシッピー・バーニング』(Mississippi Burning 1988年公開)。

 

     

 

南部の強烈な人種差別の様子を実話を元に描いた作品ですが、時代設定は公民権運動が盛り上がっていた1964年。

東京五輪が開催された年に、アメリカで実際こういう事件が起きていたことにも驚かされましたが、最もKKKの活動が激しかった1920年前後は、これより遥かに差別は酷かったはず・・・そう思うと、ゾッとします。

全国組織としては1927年に崩壊しているとはいえ、地域別に水面下で(名前を変えて)活動は続いていると言われ、21世紀に入ってもマスメディアからネオナチと連携したとする報道もなされています。

(人種)差別や弱者に対するイジメは、ある種人間の自己防衛本能の為せる業。

 

そう簡単には無くならないようです。😞 

 

 

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拙ブログでは今まで日本共産党の歴史について何度か記事にしてかましたが、今日もそのひとつ・・・というか、犯罪をご紹介します。

1922年に結党された日本共産党は治安維持法により当初から非合法活動を強いられ、収入源に苦しんでいました。

そして1932年10月、同党は『熱海事件』・『赤色ギャング事件』(↓)により多くの幹部党員が逮捕され、壊滅的な打撃を受けます。

 

これらの取り締まりをかいくぐって検挙を免れた幹部党員により、同党は辛うじて存続したのですが、しばらくして

 

 日本共産党スパイ査問事件

 

が露見することに。

今から92年前の今日・1933(昭和8)年12月23日、当時同党中央常任委員だった宮本顕治(1908-2007)らが中央委員だった大泉兼蔵・小畑達夫両名にスパイ容疑をかけて呼出し監禁。

自白させようと〝査問〟と称するリンチを行い、同日小畑委員は死亡し床下に埋められたのです。

(この時大泉委員は壮絶な拷問に気絶。 しかし宮本氏は死んだと勘違いして引き上げたため、その後蘇生し命拾いしたとか。)

                       

             宮本 顕治 氏

 

翌日付の『赤旗』紙は「中央委員小畑達夫・大泉兼蔵の両名は、党攪乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する」という声明を掲載。

警視庁はこの〝極刑〟という表現に注目。 

 

両名が殺害された可能性があるとみて捜査を開始し、3日後の26日に宮本氏は逮捕。

黙秘を続けたものの、治安維持法違反等の罪で無期懲役の判決を受け収監。


しかし終戦直後の1945年10月、GHQが政治犯の釈放を命じた事により網走刑務所に収監されていた宮本氏の赦免が決定。

 

釈放直後から党を再建した彼は1958~70年に同党書記長、70~82年まで委員長を務め、実質的には亡くなる2007年まで約半世紀にわたり共産党を指導・支配し続けました。

この事件については、1988年に当時衆院予算委員長だった浜田幸一氏が

 

「宮本氏が人を殺したと言っただけじゃないか!」


などと発言し、辞任するキッカケとなったことで注目を集めたことも。

しかし宮本氏の影響力は、彼がこの世にいない現在でも同党から払拭されたとは言い切れません。

ついこの間まで長らく委員長を務めた志位和夫氏は、かつて宮本顕治氏の長男の家庭教師を務めていた人物ですから。

共産党はこの〝査問〟事件における小畑・大泉両名に対する暴行の事実をすべて否定しています・・・が、私はとても額面通りには受け取れません。

 

同党に関して詳しく知りたい方には、(上掲・赤色事件の記事でもご紹介した)『日本共産党研究』(産経新聞出版・刊)のご一読をお勧めします。       

また共産党は、オウム真理教関連団体や革マル派・中核派・革労協などの過激派らと同様、公安調査庁の調査対象団体であることも事実。

そんな危険な団体が公党として存在すること自体、国際的には理解されないことでしょう。

 

有権者の方々には、耳触りの良い選挙演説に耳を傾けるだけでなく、政党の歴史や背景も熟知した上で投票していただきたいものです。

 


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相変わらず、国際社会の意向に反しミサイル・核開発を止めない

北朝鮮。


過去に複数回日本の領土・領海上空にミサイルを飛ばした同国の存在は、我が国にとって最も頭の痛い存在です。

 

かの国の指導者の暴走がいつ始まるか全く不透明な中、国防能力

・体勢の充実を望むところですが・・・今から24年前の今日、その北朝鮮と一触即発の事態を迎えたことがありました。それは

 

 九州南西海域工作船事件

 

この海上保安庁の巡視船が初めて逃亡する不審船に銃撃を加えた出来事を、ご記憶の方も多いと思います。

 

2001(平成13)年12月18日、在日米軍から防衛庁(当時)に不審船の情報がもたらされ、それを元に海上保安庁は東シナ海の公海上で船体に『長漁3705』と書かれた国籍不明船を発見。

 

無許可操業の疑いがあったため強制捜査を行うべく停船を命ずるも、同船はこれを無視して逃走。

数日間追跡した末の12月22日、巡視船は機関砲による船体砲撃を敢行。

 

銃弾が燃料タンクに命中し火災を引き起こしますが、船員がこれを鎮火。

 

続いて巡視船が接舷を試みようとしたところ、突然乗組員が小火器や対戦車ロケット弾を使用して反撃。

 

巡視船はやむなく応戦して激しい銃撃戦となるも、不審船は自爆とみられる爆発を起こして自沈。

 

この交戦で海上保安官3名が負傷、不審船乗組員は10名以上が死亡したとみられます。 (後に8名の遺体を確認。)

 

この追跡・交戦映像(10分)の模様をご覧ください。(

 

 

映画やドラマのようなフィクションではなく、実弾が飛び交うリアルな映像に、思わず身体が硬直してしまいます。


この不審船は、北朝鮮・支那に配慮する一部左翼勢力の反対を当時の小泉首相が押し切って引き上げを決定。

 

沈没地点が支那の排他的経済水域であったため同国と粘り強い交渉の末、1億5千万円の謝礼金を支払って翌2002年9月11日、引き上げに成功。

 

   

 

遺留品の鑑定及び発見された遺体の検死結果から、同船を北朝鮮の工作船と断定。

 

同船は検証後スクラップにされる予定でしたが、日本船舶振興会(現・日本財団)が経費を全額負担して東京に移送・展示されました。

 

実は私、展示開始直後に女房共々見学したんです。

 

朝一番に行ったら、開館前から長蛇の列・・・まるで上野動物園のパンダ見物のようでしたが、船体に残された機関砲による銃痕の大きさと数の多さに、戦慄で体中の毛穴が開いたことを今でも鮮明に憶えています。

 

そして現在も、この工作船を見学することが出来ます。 

展示場所は

 

 『海上保安資料館 横浜館』

 

所在地は神奈川県横浜市中区新港1-2-1・赤レンガパーク隣

・・・そう、観光名所・赤レンガ倉庫のすぐそば。

 

開館時間は10:00~17:00 月曜定休

但し年末は12月29日~1月3日まで休館とのこと。

 

入場無料ですので、観光等で横浜に行かれる方は是非足をお運びください。

 ※同館HPは、こちら。(↓) 

 

 

   

 

領土・領海を護るために海上保安官や自衛官が命がけで職務に取り組んでいることを、きっと実感できると思います。

 

特に普段TVゲームのバーチャル世界でしか戦闘を知らない子供たちには、是非見学させて欲しいもの。

 

末筆となりましたが、普段暖房の効いた部屋でヌクヌク暮らし平和にクリスマスを楽しむ私たち国民を守るため、寒風吹きすさぶ荒海で監視活動等を命懸けで行っている海上保安官や自衛官に対し、心より敬意を表し、かつ感謝する次第です。🙏🙏🙏

 


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講釈師 見てきたような 嘘をつき〟

〝講釈師 扇で嘘を 叩き出し〟

なんて川柳もありますが・・・張り扇で釈台をパパン、パン、パンッと小気味よく叩きながらのリズミカルな語りで聴衆をその世界に引き入れるのが、講談。

落語・漫才と並ぶこの日本独自の芸能の世界に私を誘ってくれたのが


 田辺 一鶴  師匠

今日は、モジャモジャの口髭をたくわえ、一度見たら忘れられない強烈なキャラの持ち主だったこの名講談師の命日・十七回忌にあたります。

 

     

 

一鶴(本名:佐々木秀雄)師匠は、1929(昭和4)年の東京生まれ。

25歳の時に十二代・田辺南鶴師匠の内弟子となった彼は、信じられないことに当初は吃音で苦しみ、田辺の〝た〟さえ言えないことがあったとか。

それを克服する過程で独特の話術を身につけた彼を一躍有名にしたのは、万国旗を出しながら参加国の名を延々と読み上げる新作講談『東京オリンピック』。

小学生だった私が一鶴師匠の講談を初めて聴いたのが、コレ。

 

国の名前が次々と飛び出す話術に、当時各国の名前とその首都を全部覚えようとしていた当時の私は、とにかく(凄いな、この人。)と感心したものです。 


その5年後、NHKのTV番組『ステージ101』にレギュラー出演したことでその人気は全国区になり、1972(昭和47)年には、E・プレスリーの〝ポーク・サラダ・アニー〟をモジッた 『ポークサラダ兄ぃ』 を何とプレスリーとの共演(?)でリリース。

2000(平成12)年にはロサンゼルスで『イチロー物語』を披露し大好評、以後4年連続でロス公演を実現しました。

 

一鶴師匠の凄いところは、演ずるレパートリーの多くが新作ネタだったこと。

 

師匠は将棋アマ五段をもつ明晰な頭脳の持ち主であると同時に、その時々の時事問題も織り交ぜるなど、とにかく勉強家。

読書好きが高じ、一時期都内で『イッカク書店』を経営した程。


その弛まぬ創作意欲と情報収集能力で、『田中角栄伝』・『貴花田と宮沢りえ』・『野茂英雄物語』・『古賀政男物語』、そして自身がかつて居候をして仕事を手伝ったという『水木しげる物語』等々、次々と新作を演じました。


またビアニストの羽田健太郎さんと『ショパンと名曲の人生』で協演するなど、新境地も開拓。

そして一般人を対象とした講談大学を解説したり、講談界で初めて女性や外国人の弟子を取り育成したことは、講談という古典芸能の裾野を広げる大きな功績と言って良いでしょう。

「101歳まで現役」を目標とし、講談界最長老となった一鶴師匠でしたが、残念ながら病には勝てず・・・自叙伝を執筆途中の2009(平成21)年12月22日、肺炎により80歳で天に召されました。

師匠晩年の語り、短いですがこちらでご覧いただけます。(↓)

 

 

〝講談界の異端児〟とも言われた天才講談師のご冥福を、あらためてお祈り致します。🙏
 

 

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第二次世界大戦で活躍した軍人を描いた映画は何作かありますが、その中のひとつに『パットン大戦車軍団』(1970年) があります。

 

今日は、この映画の主役としてその名を知る昭和世代の方も多いであろう、

 

 ジョージ・スミス・パットン・ジュニア
        George Smith Patton Jr

 

の命日・没後80周年にあたります。

 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

パットン将軍は1885年・カリフォルニア州生まれ。

 

祖父は南北戦争で戦死、またアメリカ独立戦争で戦ったマーサー准将の血も受け継ぐ軍人一族出身で、本人もそれを強く意識し、また幼少時から人一倍出世欲・英雄願望が強かったそうな。


輪廻転生を信じ自らをカルタゴのハンニバル将軍の生まれ変わりだと信じていた彼は、当然の如く軍人を目指しバージニア州立軍事学校・ウェストポイント陸軍士官学校に入校。


運動神経も抜群で、1912年のストックホルム五輪には近代五種のアメリカ代表として出場し5位入賞を果たした程。

そんな彼が1916年のメキシコ国境戦で軍功を上げると、第一次大戦でパーシング将軍は彼を大尉に昇進させアメリカ戦車部隊の戦闘指揮を任せます。


そして大戦終結後ワシントン勤務になった際アイゼンハワーと親友になったことが、彼の人生を大きく変えることになります。

 

「戦争こそが人生の全て」という生粋の軍人だった彼・・・平和時には娘の親友と不倫騒動を起こしたり癇癪を起こして家族に当たり散らすなど精神の安定を欠いていたそうですが、再び世界情勢が不穏になり第二次世界大戦が近づくと同時に安定を取り戻し目の色が変わっていったとか。😧

そして1942年11月にアメリカ第一機構軍団を率いてモロッコに上陸すると、翌年には中将に昇進。

第二軍団の司令官に就任するや、まるで水を得た魚のように部下たちを鍛え抜きます。

 

軍規が緩んでいた同軍団に着任するなり彼は規律を守らない者には容赦なく罰則を科す反面、勇敢な働きをした者は過剰なまでに褒め上げる、いわゆる信賞必罰を徹底。

また本人も「私を見つけたかったら師団の先頭を走る戦車まで来い」と言ったように、常に最前線に身を置き率先垂範。

これで軍団の士気は高まり、彼はイギリスのモントゴメリー将軍と共にドイツ軍を挟み撃ちにして北アフリカから彼らを駆逐。

 

戦時中、野戦病院で身体に外傷がない精神疾患を患った兵士を怠慢だとして殴打する事件を起こし、アイゼンハワーによって前線指揮権を剥奪されたこともありましたが、ノルマンディー上陸・バルジの戦いなどで戦果を挙げ、ドイツの降伏追い込みに大きく貢献しました。

第二次大戦終結後に失言問題を起こして1945年10月に第15軍司令官に異動・・・実質的に左遷させられた彼は、同年12月9日に狩猟に行く途中皮肉にもアメリカ軍のトラックと衝突事故に見舞われます。

この時に頸椎を損傷して下半身麻痺となった彼は僅かその12日後の12月21日、肺塞栓症により60歳で突如天に召されてしまいました。


まるで第二次世界大戦の終戦により、自らの役目が終わったかのように・・・。

 

〝大胆不敵〟がモットーだった彼については、勇猛果敢・巧みな作戦立案が出来た指揮官であったと評価する意見もある反面、自らの昇進を第一に考える自己中心的な性格であり、古き良き軍人像を踏襲する精神論から脱却できない前時代的な人物であったとする意見もあります。

毀誉褒貶の激しいこの指揮官については、前出の映画を観て判断いただくのが一番よろしいかもしれません。

          
        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


※メイン・テーマはこちら。(↓)

 

 

フランクリン・J・シャフナーがメガホンを取り、あのフランシス・F・コッポラが脚色を担当したこの作品は、パットンを知る人物たちが一様に驚くほど生前のパットン将軍を正確に描いているといいます。

 

ただ本人は非常に言葉遣いは野卑だったようで、訓示では放送禁止の4文字単語を連発していたとのこと。

それ故この映画の冒頭スピーチは、その常套句を全て削除した脚本に書き換えられたとか。

また彼を演じるジョージ・C・スコットは低く威厳のある声ですが、本物は結構甲高い鼻声だったといいます。

その辺を考慮しつつ、リーダー論の勉強も兼ねてご覧いただくと面白いかもしれません。

個人的に言わせていただければ、部下にするには非常に頼もしいですが、この人の部下にはなりたくないと思いますけど。
😅

 

 

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もうすぐ年末・・・テレビニュースで毎年報道される、

 

「ハイハイ、マグロも数の子も安いょ~、もってけ泥棒!」

 

という店員のダミ声がトレードマークの商店街・・・といえば、

 

 ア メ 横 


ですょネ。


上野駅と御徒町駅の間に位置し、全長約400mの中に400店舗以上がひしめき、平時で1日約10万人、年末になると50万人以上が訪れる日本一有名な商店街。


1970(昭和45)年にその名が商標登録された『アメ横』のルーツは、戦後直後の闇市でした。


当時新宿や池袋などいくつものターミナル駅周辺にあった闇市の中で、現在唯一その風情を残している商店街でもあります。


もともとこの地域は長屋などが軒を連ねた典型的な下町の住宅街でしたが、国鉄の変電所があったことから住民は強制疎開させられ、そこに東京大空襲で焼夷弾を雨あられと落とされて全くの焦土と化しました。


そして敗戦直後、特攻崩れなどの旧日本兵や支那・朝鮮人らが集まり始め、トタン板などで作られたバラックが建ち、闇市が形成されたのです。


    ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

            終戦直後のアメ横

 

またヤクザ組織も闇市を支配しようと暗躍、終戦直後しばらくは警察組織も壊滅状態で厳しい取り締まりをする力はなく、まさに弱肉強食の無法地帯。

 

真っ昼間に拳銃の発砲音がしたこともしばしばだったとか。

 

しかしここで一旗揚げようとする人々は必死に知恵を絞り、物資を調達・・・そのエネルギーは異様な活気となって多くのお客を惹きつけたといいます。

 

モノ不足の中でもココでは何でも揃うといわれ、特に1946~48年頃は甘味品・・・特にイモを原料にしたアメが飛ぶように売れたことで アメヤ横丁という名が。

 

また朝鮮戦争が始まった1950年からはアメリカ軍からの流入品が多く並んだことからもアメリカ横丁、略して『アメ横』と呼ばれるようになったそうな。

 

GHQの払い下げパンツを〝Gパン〟と呼ぶようになったのはアメ横が発祥ですし、一説には東京五輪の金メダルに使用した金も、アメ横が調達先だったとか。😲

 

また1948年頃には、寅さん役で有名な俳優・渥美清さんもここでテキ屋の石鹸売りをしていたんだそうです。

 

ですから映画の中でバナナの叩き売りしているシーンがありますが、あれは演技ではなくて〝素〟だったわけですネ。

 

1946年5月、後に〝アメ横の王様〟といわれた近藤広吉氏が当時の下谷区長に掛け合って『近藤産業マーケット』を設立。

 

入居者を身元の確かなものに絞ったことにより、商店街としての秩序が出来始めました。

 

そして1981年に大きな火災に見舞われたことをキッカケに翌年その跡地に〝アメ横センタービル〟が建ち、同商店街のシンボルになると同時にショッピングモールの先駆けとなり、現在に至っているというわけです。

 

そんなアメ横の歴史を記した本が一冊、私の手元にあります。

 

 『アメ横の戦後史』


      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

著者は、長田 昭 さん。

 

大阪に生まれ1946年に17歳で上京。

上野の闇市で働き始め、ここで独立して菓子製造・販売を手掛け、前述のアメ横センタービルの建設本部長に。

 

そしてその運営会社・上野振興株式会社の社長・会長も務めた、まさに〝アメ横の生き字引〟のような方。

 

長田さんの語るアメ横の歴史は、戦後復興を成し遂げた日本の姿と重なります・・・が、本書の中で長田さんはアメ横の将来を不安視しています。

 

その理由は、終戦直後ゼロから立ち上げた初代経営者からハングリー精神に欠ける2世に商店街の経営者が代替わりしたこと。


世襲議員の跋扈によりレベルが下がった政界と同じってことでしょうネ。

 

それに加えてネット通販が拡充し消費者がわざわざ出かけて買い物のをしなくなっている昨今、『アメ横』がいつまで集客力を維持できるのか?

 

これから年末のニュースを目にする時、そんな心配をしてしまいそうです。😰

 

 

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年々拡充・整備されている日本の高速道路網。


今では片道3車線の高速道路は珍しくないですが、日本で初めて開通した往復6車線高速道路って、どこかご存知ですか?


正解は、


 第三京浜


そう、東京・世田谷区の玉川ICから神奈川・保土ヶ谷ICを結ぶ全長16.6kmの有料道路・・・これが全線開通したのが、今からちょうど60年前の今日・1965(昭和40)年12月19日のことでした。

 

       


東名高速(↓)が全通したのが1969年ですから、それよりも4年前・・・ちょっと意外に感じます。
 

 

 

では、何故『第三京浜』というのか? 

 

これは第一京浜(国道15号)・第二京浜(国道1号)に続く、3番目の東京・横浜間を結ぶ道路という、ありきたりな理由。

 

元々は1929年に鎌倉急行電気鉄道が渋谷~藤沢~鎌倉坂ノ下までの鉄道免許を取得し、その後その路線に東急グループが渋谷~江の島間に〝東急ターンパイク〟という高速道路を建設しようと計画したのが始まりでした。

 

(しかしその計画は建設省に横取りされ、東急グループは仕方なく田園都市線の開発をすることになったのですが・・・。)

 

東名や首都高1号線に挟まれる形で、しかも片道3車線道路という広さからか、都心では珍しく渋滞せずにスイスイ走れ、しかも料金が割安というのも嬉しい高速道路ですが、腑に落ちないことがひとつ。


それは起点が東京・玉川ICという中途半端(?)な位置であること。

 

都心における高速道路は、一般的に首都高速と接続して交通渋滞の緩和を図っていますが、このインターチェンジに関しては一般道路の環状八号線にペタッと接続しているだけ。

 

何でそんな一般道のような形になっているのか?

 

どうもこれは、先に述べた開発経緯に絡むようです。

 

元々起点は渋谷になる予定でしたから玉川は暫定的だったはず。 

 

それが都心の宅地開発等の理由でそこから内側に伸ばすことが出来なくなったのではないでしょうか?

 

      

       赤矢印が玉川IC その先の緑点線に伸びるはずだった?      

 

地図を眺めれば、東名高速と接続する首都高3号線の用賀~三軒茶屋間とスンナリ合流させられそうにも見えますが、今となってはその一等住宅街を買収して工事するのは不可能でしょうねェ。

 

結局後発の東名高速に都心環状線との接続を譲る形になりましたが、残念ながらこの辺の建設経緯については資料が残っていないのだそうな。

 

東日本大震災における福島原発事故の際も会議の議事録が残っていないという問題がありましたが、どうも日本のお役所って自分に都合の悪い証拠は後世に残したがらないようですネ。

 

この〝寸止め高速道路〟が首都高速と接続する日は、果たしてやってくるのでしょうか?

 

【余 談】 

 

この第三京浜・上り線の玉川IC出口は前述の通り環状8号線に接続していますが、外回り・高井戸方面出口の交差点には信号がありません。

しかし一時停止ラインが引かれており、高速の勢いでついつい止まらずに合流する車が少なくないことから、頻繁に警察が取り締まりをしています。

 

   

ご利用の際には、十分ご注意を!

 

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東京には有名な銅像がいくつもありますが、その中でも知名度で東西の横綱といえるのは、渋谷のハチ公と

 

 西郷隆盛 像

 

ではないでしょうか。

上野公園に建てられた威風堂々たるこの銅像の除幕式が催されたのが、今から130年近く前の今日・1898(明治31)年12月18日のことでした。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

この銅像建立は、西郷さんが自刃して果てた2年後の1879年に正三位を贈られたことがきっかけ。

 

薩摩藩士であり明治天皇の宮内次官を務めた盟友・吉井友美を発起人として、宮内庁より下賜された500円と全国約25,000人から寄せられた寄付金32,000円余 (※現在の5,000万円以上) を元手に作られました。

 

身長370.1cm、胸囲256.7cm、足の大きさが55.1cmという巨体を製作したのは高村光雲ですが、横につき従っているイヌは岡崎雪聲による合作。

 

西郷さんは生前写真を残していなかったそうで、この体型は弟・従道の風貌を参考に作られたとのこと。

 

そして実物をご覧になった方はご存じかと思いますが、この銅像は頭が随分大き目・・・これはご本人の頭が格段に大きかったわけではなく、足元から見上げた際に均整が取れるよう工夫したからだとか。

 

しかし除幕式の際、列席した西郷夫人は銅像を一目見て

「うちの主人はこんなお人ではなかった!」

と腰を抜かさんばかりに驚いたとか。

それは風体ではなく、人前にこんな普段着のような格好で出る人ではなかったからだったそうな。

当初は皇居内に陸軍大将軍服着用姿で建てられる予定だったそうですが、では何故結果的に上野公園内かつ庶民的なデザインになってしまったのか?

そこには当時の政府の思惑が色濃く反映されていたようです。

 

デザインが変更になった主たる原因は、西郷さんの人気の高さにありました。

 

最終的に〝朝敵〟となった彼を立派な軍人姿にすると、その人気故に反政府機運を高める原因になりかねない・・・これは時の政府にとって許し難いこと。
 

それ故に彼のステータスを貶めるため立地は皇居内を避け、庶民的な格好にさせたというのです。


げに権力闘争は・・・というか、男の嫉妬は恐ろしいですネ。


最終的に西郷さんを慕う大山巌大将が発案した、愛犬を連れて兎狩りに出かける姿に落ち着いたとのこと。


彼の親派にしてみれば、この銅像はある意味受け入れ難いものだったでしょうネ。


それ故に、地元・鹿児島で1937年に建てられた銅像は陸軍大将の正装で直立不動の姿になったのは、当然といえましょうか。 

    
       

しかし平和国家となった現在では、かえって着流しの西郷さんのイメージが人々に受け入れられやすくなった気もしますが・・・果てさて西郷さん本人は、どちらがお気に入りなんでしょう?

 

皆さんは、いかがですか?

 

 

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〝歌曲王〟といわれるフランツ・シューベルトについては、先月記事にしました。(↓)

 

 

今日はそこで予告(?)した、彼の作品の中で最も有名だと言える交響曲

 

 『未完成』 

 

について解説させていただきます。

 

   

 

ベートーヴェンの交響曲『運命』とのカップリングで多くの指揮者・オーケストラからレコード・CDが出され、これを聴いてクラシック音楽に親しみを覚えた方も多いはず。 

 

(※ちなみに、昔売られていたレコードではこの曲を交響曲第8番としていましたが、現在では1978年に国際シューベルト協会が彼の作品を整理したドイチュ目録を見直し改訂した第7番とするのが一般的。)

 

同曲がウィーンで初演されたのが、今からちょうど160年前の今日・1865年12月17日のことでした。

 

 『未完成』という名がつけられているのは、通常交響曲は4楽章構成なのに、同曲は第1・第2の2楽章しかないから。

 

第3楽章以降は最初の9小節だけがオーケストレーションされているものの、残りはピアノ譜のスケッチが残されているだけなのです。

 

         書きかけの第3楽章 自筆譜 

 

シューベルトがこの曲を手掛けたのは1822年。 

 

翌年にシュタイアーマルク音楽協会の名誉会員として指名されたことへの返礼として、同協会の役員だったアンゼルム・ヒュッテンブレナーに第2楽章までの自筆譜が届けられました。 

 

ヒュッテンブレナーは、当然残りの第3・第4楽章の譜面が後から送られてくると思い、届けられた楽譜を協会には引き渡さず。

 

時が経つにつれ、この第1・第2楽章の自筆譜の存在は忘れ去られてしまいました。 

 

そして1865年にウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックがこの楽譜を発見。

 

作曲されてから実に43年ぶり、シューベルト没後37年を経てようやく初演されたのです。

 

ではなぜシューベルトはこの交響曲を完成させなかったのか? 

これには諸説さまざま。

 

① 最初の2楽章までがあまりに美しくまとまりがあったので、書きかけた第3楽章がそのクォリティに達していないと思い創作を断念。

 

② 当時の金管楽器ではロ短調の交響曲の完成が困難と判断し、作曲の継続を断念。 

 

③ より高い収入に繋がりそうだったピアノ曲『さすらい人幻想曲』の完成を優先させた。

 

等々ありますが、私は別の説を唱えたいところ。 

 

実は彼、他にも未完成のままになっている楽曲を多数遺しているのです。 

 

あまりに多くの作曲を手掛けている中で、「そのうち書こう」と思ってはいたものの結局手つかずのまま・・・この交響曲も、その中のひとつだったのでは? 

 

つまり未完成は、彼の気まぐれな性格の為せる業だったと思うのです。 

 

もしかしたら、彼の血液型は我が家の気まぐれ女王様と同じB型だったのかも?😅

 

※お時間のある方は、シューベルトが紡ぎだした美しい旋律をカラヤン/ベルリン・フィルの東京公演ライブ録音(1979年)でお楽しみください。(↓)

 

 

 

 

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