ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

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今日は、選手でも指導者でも、また球団経営者でもないのに野球界の発展に大きな貢献をした人物、

 ヘンリー・チャドウィック

      Henry Chadwick

 

の命日・没後111周年にあたります。

 

       

 

写真を見ても、ピンとこない方が殆どだと思いますが・・・実はこの方、
野球黎明期にルールや試合・個人成績の記録法を考案し、アメリカでは〝野球の父〟と呼ばれているのです。

チャドウィックは1824年にイングランド南西部のエクセターで生まれました。

兄も後に社会改革者となった優秀な兄弟は、ヘンリーが12歳の時に両親共々アメリカのブルックリンへ移住。

20歳の時ヘンリーは記者となり、ブルックリンのロング・アイランド・スターという雑誌にスポーツ記事を、またニューヨーク・タイムズにクリケットの記事を書き始めます。

ちょうどその頃ベースボールの原型がアメリカで出来上がったのですが、イングランド人でクリケットを熟知していたことが後の彼の野球に関する貢献につながりました。

なぜなら、そのクリケットのスコアカードを参考にして、現在でも新聞・雑誌等で利用されている〝ボックススコア〟を考案したから。

       

              1876年頃のボックススコア 

と同時に、これまた現在でも選手の成績・活躍度の目安となる『打率』や『防御率』の計算方法も編み出したといわれています。

24歳の時にバージニア州議会議長の娘と結婚した彼は、1850年代に野球規則委員会のメンバーとなり、1858年に完成した初期の公式野球ルールの編纂に尽力。

1860年代には数年にわたり野球の年次ガイド “The Beadle Baseball Player ” を編集・出版。

更にプロ野球のナショナルリーグが創設されて間もない1880年代前半には、友人のアルバート・スポルディングが監修していたナ・リーグ公式ガイドの編集も行いました。

※スポルディングに関する過去記事は、こちら。(↓)

 

現在でも出版されているガイドブックや選手名鑑の原型も、彼が作ったんですネ。

まさに野球発展を側面から支えた功労者・・・1908年4月20日に83歳で天に召された彼が、それから30年後に野球発展功労者としてアメリカ野球殿堂入りを果たしたのは、当然と言えましょう。

新聞等で野球の試合結果やボックススコアを見る時は、是非彼の名を思い出してください。

亡くなる前日まで試合結果を気にしていたという、筋金入りの野球ファンのご冥福をお祈り致します。野球ボール

 

 

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今から66年前の今日・1953(昭和28)年4月19日に行われた、第26回衆議院議員総選挙には、従来の選挙にはない2つの特徴というか出来事がありました。

まずそのひとつは、この選挙が俗に〝バカヤロー解散〟によって行われた突発的な選挙だったこと。

これは同年2月28日に、吉田茂首相が衆院予算委員会で執拗に食い下がった社会党・西村栄一氏に「バカヤロー」という暴言を吐き、これによって出された内閣不信任案が可決されたことで、吉田首相が解散に踏み切ったから。

 

※この〝バカヤロー〟に関する過去記事は、こちら。(↓)
   

そしてもうひとつは、1890年に行われた第1回衆議院議員総選挙から連続25回当選を果たしていた議員が、遂に落選したこと。

現在でも当選回数の世界記録保持者である、その方の名は、


 尾崎 行雄 


1858(安政5)年に現在の神奈川県相模原市に生まれた彼は、慶應義塾童児局に入るや福沢諭吉にその才能を認められ、十二級の最下級からいきなり最上級に飛び級を認められた秀才でした。

その後1879年に福沢諭吉の勧めで新潟新聞の主筆となり、報知新聞を経て1883年には東京府会議員に立候補し史上最年少で当選。

そして〝神風蓮の乱〟で九死に一生を得て余生を過ごしていた父親の住む伊勢から、第1回の衆院選に出馬し見事当選したのです。

以来〝政界の麒麟児〟などといわれ、様々な政党を渡り歩きつつ文部大臣・司法大臣を歴任。

昭和世代の方は、1920年の普通選挙運動で先頭に立つ彼の写真を教科書で見た記憶があるのでは?

         

 

毎年春に話題となるアメリカ・ポトマック河畔の桜並木・・・あのソメイヨシノ3,000本の苗木を1912年に寄贈したのも、彼でした。

94歳まで衆院議員を務めたのはもちろん史上最高齢の日本記録であり、在職63年も同じく日本記録・・・これは今後おそらく破られますまい。

落選した翌年の1954年に大往生を遂げた尾崎氏が、〝憲政の神様〟と呼ばれるのは、至極当然のことでしょう。

さて、それでは他の長期勤続議員は誰なのか? 調べてみました。
ランキングは、以下の通り。

 

 第1位  尾崎 行雄    25回   62年7ヵ月
 第2位  中曽根 康弘  20回    56年9ヶ月

 第3位  原 健三郎    20回   54年4ヶ月
 第4位  三木 武夫    19回    51年7ヶ月
 第5位  桜内 義雄    17回    51年3ヶ月
 第6位  宮沢 喜一    13回    49年3ヶ月(内参院12年)
 第7位  海部 俊樹    16回    48年9ヶ月
 第8位  河本 敏夫    17回   47年10ヶ月

 第9位  山中 貞則    17回   47年9ヶ月

 第10位 二階堂 進    16回   46年6ヶ月

 

私のような中高年世代には懐かしい名前が並んでいます。

 

総理経験者も多いですが、逆に在職中どんな業績を残したかはっきり分からない方も・・・。

実は半世紀・50年以上国会議員を務めると〝名誉議員〟として表彰され、過去には国会内に銅像が建てられた方もいらっしゃいます。

中にはそれを目指して周囲の反対を押し切り立候補した方も過去にいらっしゃいました。

〝継続は力なり〟〝無事これ名馬〟とも言いますし、その執念は見上げたものですが・・・国民としては在職期間の長さより、在職中に何を為したかを最優先にしてもらいたいものです。
うー

 

 

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・・・と言えば、生涯で70回以上引越しを繰り返したベートーベンが有名ですょネ。

 

しかしそれを上回る93回、時には1日に3回(!)も引越したという、1999年にアメリカの雑誌 『LIFE』 が〝この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人〟の中で唯一選んだ(86位)日本人がいたのですが・・・誰だと思いますか?

 

それは、この人物です。(

           

             

この渓斎英泉が描いた肖像画だけでは分からずとも、その名はおそらく誰でもご存知でありましょう、

 

 葛飾 北斎

 

今日は、この江戸時代後期に活躍した天才浮世絵師の命日・没後170周年にあたります。

 

1760(宝暦10)年に、武蔵国葛飾郡(現在の東京都葛飾区)に百姓の子として生まれた北斎は、小さい時から手先が器用だったようで、14歳で早くも版木彫りの仕事に就きます。

 

そして18歳の時に浮世絵師・勝川春章に弟子入りしますが、内緒で狩野派や洋画など他派を学んだことで師匠の逆鱗に触れ、破門に。

 

それからは生活を支えるべく本の挿絵・役者絵・美人画・相撲画、果ては団扇の絵まで描きまくり、時には内職として唐辛子などの行商までしたとか。

 

そして有名な 『富嶽三十六景』 は、彼が70歳過ぎての作品。

中でも私が最も感銘を受けるのは、〝神奈川沖浪裏〟

 

     

 

北斎本人がそれを知らずとも、縦横がしっかり黄金比率になっている名作です。

 

構図といい波しぶきの躍動感といい、写真もビデオもない時代にどうしてこれ程の表現ができたのか?・・・ただただ驚嘆するばかり。

 

これを見て触発されたドビュッシーが、交響詩 『海』 を作曲したのも頷けます。

 

この作品より30年前に描いた〝賀奈川沖本杢之図〟の波は、こうでした。

    

数段の進歩がみられるのが、誰の目にも明らかですょネ。

 

同居していた娘の葛飾応為 (※この名前、子供の頃 「お~い、お~い」 と呼んだことからつけた名だとか) ともども創作活動に集中するあまり片づけに手が回らず、部屋が荒れるたびに引越を繰り返したという、〝片づけられない症候群〟のハシリともいえる親子。

 

しかし生涯に3万点以上もの作品を残したといわれる北斎の創作意欲とエネルギーは、凄じいばかり。

 

70年にわたって絵筆を取り続け、嘉永2(1849)年4月18日に90歳で世を去った北斎の最期の言葉は、

 

 「天 我をして 十年の命を長らしめば・・・

       五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし」

 

だったとか。

 

今宵は画集のページを久しぶりにめくりつつ、世界中の芸術家に影響を及ぼした、我が国が誇る怪物絵師・葛飾北斎の冥福をお祈り致します。笑3

 

    

          『もっと知りたい葛飾北斎』 (東京美術・刊)    
 

 

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先日、時々行くラーメン屋に入った時の事。

私が暖簾をくぐった時点では、某宅配便のユニホームを着た2人がカウンターに並んで座って食べていました。

私はオーダーして彼らとは少し離れて座って本をパラパラ・・・するとすぐに、

「ごちそうさま~!」

と言って、年配の配達員が先に、そしてその2,3分後にもう一人の若い方が黙って店を出て行ったんです。

私は特に気にすることもなく本を読み続けていたんですが、2人目が出て行って店内のお客が私一人になった途端、麺の茹で上がりを待っていた中年男性の店員が、もう一人の若い女性店員に話しかけたんです。

「今出てった年配の方のお客さん、食べるの早くなったねェ。」

「えっ、そうなんですか?」

「あぁ、以前は若い方が早く食べ終わってたんだけど、最近は逆転してるもんなァ。」

「でも、若い方は大盛りだったから遅かったんじゃないんですか?」

「いやいや、今日は年配のお客さんも大盛りだったんだョ。」

「あっ、そうだったんですか~。」

「きっと相方を待たせたくなくて、気を使ってるんだろうなァ。
でも、若い方にはその気使いが分かってないみたいだけど。」


と言ったところで麺の茹で上がりを知らせるブザーがなり、会話はそこで終わりましたが・・・もし皆さんがこの会話をカウンターで聞いたら、どう思うでしょうか?

        

 ① 店員さん、お客さんを良く観察してるなァ~。
 ② 若い配達員、先輩待たせちゃいかんがナ。
 ③ 別に何にも感じませんけど?


等々、人それぞれだと思いますが・・・私はお客に聞こえるように他の客の話を店員同士でしていることに少なからず不快感を抱きました。


確かに店員さんがお客さんを観察することは悪い事じゃありません。
それは気配りにもつながりますから。

でもそれを他のお客さんが聞いたら、どう思うのか? 

これって、個人情報の漏洩・・・とまでは言いませんが、私は2人の会話を聞いた時、


(ってことは、時々来るオレのことも他の客の前で喋ってるのか?)

って、正直あまりいい気はしませんでした。

こうなると、小心者の私は店員さんの目が気になって、リラックスしてラーメンすすれなくなります。

というか、足が遠のくかも。

おしゃべり好きな従業員を抱えるお店のオーナーさん、くれぐれもご注意を!? うー

 

 

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昨年9月、USPGAツアー最終戦ツアー・チャンピオンシップで

 
タイガー・ウッズ

が見事優勝を成し遂げた時、私は彼の復活を予見しました。(↓)

 

しかしそれがこんなに早く現実のものになるとは・・・。

昨日まで行われていた今シーズン初のメジャー〝ゴルフの祭典〟マスターズ・トーナメントで、彼が1997・2001・2002・2005年に続き、14年ぶり5回目の優勝を成し遂げ、
優勝207万ドル(約2億3,000万円)を手にしました。

 

       


首位から2打差の2位タイでスタートしたタイガーは、各上位選手が伸び悩む中、勝負所のサンデー・バックナインに入り15・16番で連続バーディーを奪って首位に立つと、18番をボギーとしながらも1打差で危なげなく逃げ切ったのです。

この最終日は、タイガーにとって有利な展開を予感させる状況で始まりました。

当日午後から天候が悪化するという予報に基づき、通常はツーサム・ワンウェーで順次スタートするはずが、史上初めてスリーサムかつOUT・IN同時スタートに。


おかげで最終ラウンドは日本時間の午前3時30分頃に終了。
例年通り午前4時頃からサンデーバックナインの激闘を観ようと思って起きた方は、もう試合が終わっていてビックリしたはず。


これにより、従来ならタイガーは3日目終了時点で首位に立ったイタリアのモリナリ選手の1組前でプレーするところを、彼と同じ最終組で直接対決できることに。

パトロン(観客)の大部分がタイガーを応援し、その一挙手一投足に歓声を上げる中、さすがに昨年全英オープンを制したモリナリ選手も、やりにくかったはず。

そして過去のマスターズで幾度となくドラマを生んだ12番パー3で、そのモリナリ選手がオナーで池ポチャしたこと。

 

    
               12番ホールのグリーン

次に打つタイガーにとって、心理的な余裕が生まれたことは間違いありません。

オーガスタ・ナショナルで最も難しいと言われるこの12番で、もしタイガーがオナーだったら、別の展開になった可能性は大でした。

やはりゴルフの神様は、タイガーに勝たせたかったのでしょうか?

ホールアウトしたタイガーに最初に飛びついてきたのは、彼の10歳になる息子さんでした。

       

1997年に初優勝した時同じ場所で彼と抱き合ったのは、今は亡き彼の父・アールさん。

       

あの時の感動的なシーンを憶えている私は、一時は歩くことすらままならぬ程のどん底を経験した43歳のタイガーが、あれから22年も経ってからこういうシーンを私たちに見せてくれるとは、夢にも思いませんでした。

これでタイガーのPGAツアー通算勝利数は81となり、サム・スニードの82勝に王手。

そしてメジャー通算勝利数は15となり、ジャック・ニクラウスの持つ最多記録18勝にあと3と迫りました。


これでタイガーは完全復活したと見て良いでしょうが、私は復活どころか更により強くなったのではないかとさえ思います。

なぜなら今回の優勝が、彼にとって初めての逆転優勝だったこと。

かつての全盛期よりも選手層が厚い現在においてそれを成し得たことは、彼にとって新しい勝ち方・可能性を広げたことなるはず。


そしてタイガー世代と言われる、彼の活躍を見て感動しゴルフを始めた現在20歳代の若手プロに飛距離で全く引けを取っていないこと。

これまでの経験を更なる武器にして、来月から毎月順次開催される全米プロ・全米オープン・全英オープンで記録を伸ばしてくれる可能性は大。

それらのメジャー・トーナメントで、タイガーが最終日・最終組で松山英樹選手と優勝を争うシーンを観られれば、日本のゴルフ・ファンにとってこれ以上の喜びはありませんが・・・果たして?

 

 

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4月も半ば・・・進学した方や新社会人になった方も、新しい環境に少しずつ慣れ始めたことでしょう。

しかし一方で、「こんなはずじゃなかった」と失望を感じ始めている人もいらっしゃるかも。

今日は、そんな方に気持ちを切り替えていただきたく、ある禅僧のお話をご紹介したいと思います。

 

          ◆     ◆     ◆     ◆

 

〝足なし禅師〟と呼ばれた禅僧がいた。
小沢道雄師。 大正9年生まれ。

幼年期、曹洞宗の専門道場で修行。 20歳で召集を受け満州へ。
昭和20年、25歳で敗戦を迎え、シベリアに抑留され強制労働。

だが、肩に受けた銃創が悪化し、役立たずは不要とばかり無蓋(むがい)の貨車で牡丹江の旧日本陸軍病院に後送される。

氷点下4、50度の酷寒に夏服のままで、支給された食料は黒パン1個、飲み水もままならず、3日間を費やした行程で死者が続出した。

小沢師は死こそ免れたが、両足が凍傷に侵された。

膝から切断しなければ助からない。

その手術の担当軍医は内科医で、外科手術はそれが初めて。
麻酔薬もない。

メスを執った軍医がしばらく祈るように目を閉じた姿を見て、小沢師はこの軍医に切られるなら本望だと思い定めた。

想像を絶する激痛。歯がギリギリ噛み合い、全身がギシッと軋(きし)んで硬直した。

すさまじい痛みは1か月余続いた。

8月に突然の帰国命令。 歩けない者は担架に担がれ、牡丹江からハルビン、奉天を経てコロ島まで1,500kmを徒歩で行くことになった。

だが、出発して3日目の朝、目を覚ますと周りには誰もいなかった。
満州の荒野に置き去りにされたのだ。

あらん限りの大声で叫んだ。

折よく通りかかった北満から引き揚げ途中の開拓団に救われたのは、僥倖というほかはなかった。

崖っぷちを辿るようにして奇跡的に帰国した小澤師は、福岡で再手術を受け故郷相模原の病院に送られた。

母と弟が面会に来た。


「こんな体になって帰ってきました。 いっそのこと死のうと思いましたが、帰ってきました」

そう言うと、母は膝までの包帯に包まれた脚を撫で、小さく言った。

「よう帰ってきたなあ」

母と弟が帰ったあと、小沢師は毛布をかぶり、声を殺して泣いた。

懊悩の日は続いた。

気持ちはどうしても死に傾く。 その果てに湧き上がってきた思いがあった。

        


比べるから苦しむのだ。
比べる元は27年前に生まれたことにある。


27年前に生まれたことを止めて、今日生まれたことにしよう。
両足切断の姿で今日生まれたのだ。

そうだ、本日たった今誕生したのだ。

足がどんなに痛く、足がなく動けなくとも、痛いまんま、足がないまんま、動けないまんま、生まれてきたのだから、何も言うことなし。

本日ただいま誕生!

深い深い覚悟である。


 一、微笑を絶やさない
 一、人の話を素直に聞こう
 一、親切にしよう
 一、絶対に怒らない

小沢師はこの4つを心に決め、以後58年の生涯を貫いた。

命の炎を燃やして生き抜いた足なし禅師の人生だった。

          ◆     ◆     ◆     ◆

 

現状に不満を持つ方々には、是非小沢禅師の覚悟を反芻しながら、気持ちを〝再生〟してください。笑2

 

                      ※『小さな人生論3』(致知出版社・刊)より抜粋・編集にて

 

 

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ル・マン24時間耐久レース、インディ500と並んで世界3大レースのひとつとして数えられ、国家あげての1大イベントとして、また市街地の公道を使用することでも有名なカーレース・・・といえば、F1ファンならずともお分かりでしょう。 その

 モナコグランプリ
  Monaco Grand Prix

 

の第1回大会が開催されたのが、今からちょうど90年前の今日・1929年4月14日のことでした。

 

     

 

モナコのモンテカルロ区及びラ・コンダミーヌ区の超高級カジノやホテルが林立する丘陵を上り下りする公道を閉鎖し、6週間前から整備を行って作られる1周3,340mのコースを78周、走行距離約260kmで争われるこのレース。

 


当時の公道レースは郊外の田舎道で開催されていましたが、それをモナコの市街地で行おうと画策したのが、モナコGPの主催者でもあるモナコ自動車クラブ(ACM)会長の息子アントニー・ノゲ (1890-1978)でした。

       
                                   
Anthony Noghès


彼はモナコ大公ルイ2世やカジノ経営者らと交渉して協力を取り付けると見事開催に成功。

その功績を称えて最終コーナーに彼の名が冠せられています。
(※上掲コース図の左下)


市街地の公道を使用するためコースは直線が殆どなくカーブが多いこと、またトンネルもあるため平均時速はF1とは思えぬ160kmと低速。

 

また道路幅が2車線分しかないため追い抜きがなかなかできず、また頻繁なシフトチェンジなど高等テクニックが要求されるため、歴代チャンピオンには過去最多の6勝を挙げたアイルトン・セナ、ミハエル・シューマッハ(5勝)、グラハム・ヒル(5勝)、アラン・プロスト(4勝)など、超一流ドライバーの名が並びます。

ただ一方で事故やマシン・トラブルが頻発しリタイヤも多い事から、F1初優勝をこのレースで飾るドライバーも少なくないとか。

 

    


またこのレースの特徴としては、世界中からセレブが観戦に訪れ、街全体が華やかな雰囲気に包まれること。

通常とは違い1日早く木曜日に予選が始まり、休息日となる金曜日にはモナコ大公主催のパーティーがドライバーやチーム関係者をはじめ世界中のセレブが出席して開かれ、土・日に行われるこのレースには、普段人口3万人のモナコに20万人の観客が集まるのですから、そうなるのは当然といえましよう。

更にコース脇にある湾内には豪華なクルーザーが所狭しと係留されますから、他のF1レースとは全く趣が違います。

    

出来れば日本国内でもこんなレースが開催されれば・・・と思いますが、公道を何週間も閉鎖するのは、まず不可能でしょうネ。

私も一度は観戦したいレースなのですが、開催期間中のホテルは価格が跳ね上がり、かつ5~7日通しでの宿泊が義務付けられるそうですから、お金がかかります。

日本からのツアーで木~日通しでの観戦だと、軽く5~60万円はかかるそうですから・・・。

 

やっぱり金とヒマがあるセレブでないと、テレビ観戦で我慢するしかないようです。

 

 

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私がこの方を知ったのは、今から20年近く前に放映されたNHK・『プロジェクトⅩ』・・・前・後編に分かれた南極観測隊の物語を観た時。

 

当時最年少の25歳で越冬隊員に志願した北村泰一氏が、半世紀近く前にお世話になった隊長の思い出に嗚咽する場面が印象的でした。

 

既に70歳になった北村氏が号泣して感謝した程のリーダーシップを発揮した越冬隊長・・・その方の名は、

 

 西堀 栄三郎 

 

今日は、この日本屈指の探検家・登山家・科学者の命日・没後20周年にあたります。

 

    

 

1903年に5人兄弟の末っ子として京都に生まれた西村氏は、11歳の時に白瀬中尉の南極帰朝報告会に参加・・・そこで氷山やペンギンの活動写真を見て、早くも南極に行く夢を抱いたとか。

 

そして化学の道を目指して京都帝国大学理学部に進学。

 

同大学在学中に、あの世界的科学者・アインシュタイン博士夫妻が来日した際の京都・奈良旅行に通訳として同行し、大いなる刺激を受けました。

 

       

              西堀青年とアインシュタイン博士

 

卒業後は同大学の助教授まで務めた後、東京電気株式会社(現・東芝)に入社して真空管〝ソラ〟を開発。

 

デミング賞を受賞する一方で、あの有名な 『雪山讃歌』 を作詞するなど学生時代から登山にも力を入れ、49歳の時には単身ネパールに飛んで日本人として初めてマナスル登山の許可を取り付けるなど、まさにマルチな活動を繰り広げました。

 

そして1958年、55歳にして子供の頃に夢見た南極観測隊に参加・・・日本初の第一次越冬隊長として極寒の地・南極の冬を若い隊員たちと過ごしたのです。 

 

       西堀栄三郎         

 

自らが率先垂範で実験や調査を繰り返し、各越冬隊員にも様々な研究成果を出させた西堀隊長は、その後京都大学理学部教授や日本原子力研究所理事を歴任。

 

更には77歳の時にチョモランマ登山隊の総隊長を務めて同隊の登頂を成功させるなど、年齢を感じさせぬ活躍を重ねます。

 

1989年4月13日、86歳でこの世を去った西堀氏・・・その4年前・1985年のインタビュー映像が、『プロジェクトⅩ』 のラストシーンで流れましたが、80歳を過ぎたとは思えぬ目の輝きと若々しさは、今でも鮮明に覚えています。

 

       西堀栄三郎

 

西堀氏は何冊もの著書を残されていますが、その全てに共通する教えは、

 

 ◆ 理論だけでなく自らの体験を大事にすること

 ◆ 常に挑戦せよ

 

ということだと思います。

 

〝とにかくやってみなはれ。

          やる前から諦める奴は一番つまらん人間だ〟

 

〝チャンスを逃すな。 まず決断せよ。 

           石橋を叩くのはそれからだ。〟

 

昭和の名隊長の言葉を噛みしめつつ、ご冥福をお祈りします。笑3

 

 

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近代日本史、特に第二次世界大戦前の軍部が台頭する時期について学ぶと、

  関 東 軍

という名が盛んに出てきます。

 

若い世代の方には、首都圏を中心として関東地方を管轄する軍隊・・・なんて勘違いする方がいらっしゃるかもしれませんが、ここでいう関東とは、〝関東州〟のこと。

これは日露戦争終結時の1905年に締結されたポーツマス条約によってロシアから割譲された遼東半島先端部と、東清鉄道(旅順~長春間)を運行するため1906年に作られた南満州鉄道沿線地域を指します。

 

 

この関東州の守備及び、南満州鉄道の警備を目的とした関東総督府の守備隊を前身とする参謀本部直属の〝関東軍〟が創設されたのが、今からちょうど100年前の今日・1919(大正8)年4月12日のことでした。

当初本部は旅順に置かれ、独立守備隊6個大隊を隷属。

 

更に日本内地から2年交代で派遣される1個師団によって編成された、小規模な軍でした。

 

しかし1928年、蒋介石率いる国民政府の北伐が(関東軍が制圧していた)満州に及ぶことを恐れた同軍高級参謀・河本大作大佐が張作霖爆殺事件を引き起こし(たとされてい)ます。

※謎多きこの事件に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

そして1931年に石原莞爾作戦課長ら主導で〝柳条湖事件〟を引き起こして張作霖の息子・張学良の勢力を満州から駆逐(満州事変)し、翌1932年3月には清国最後の(第12代)皇帝・愛新覚羅溥儀を押し立てて満州国を建国・・・と、本国(参謀本部)の意向を無視して暴走。

満州国の承認を渋った犬養毅首相が同年に起きた五・一五事件で暗殺されると、次の斎藤実内閣が満州国を承認。

 

これによって日本は国際社会から非難を浴び、1933年には国際連盟を脱退し孤立化を深めます。

その非難を無視するかのように、関東軍は1934年に本部を満州国の首都・新京(現・長春)に移転。

  

      長春の位置                 関東軍本部

関東軍は満州国軍と共に満州の防衛にあたりましたが、1937年の支那事変以降続々と兵力を増強。

しかし1939年に起きたノモンハン事件で大損害を被り、ソ連軍の脅威を悟った陸軍は北進論から南方進出へと方針を変更。

それでも戦力増強は続き、一時兵力も74万人以上に。

〝泣く子も黙る関東軍〟なとど言われたようですが、1941年に日ソ中立条約締結されて以降は、兵力を南方戦線に割かれ、徐々に勢力は縮小。


そして1945年8月にソ連が中立条約を破棄して攻め込むと、関東軍は後退。

 

その際満州各地で一般人が取り残され、様々な悲劇が起きました。

停戦後、関東軍将兵の多くはソ連の捕虜となってシベリアに抑留され、過酷な強制労働に従事させられて多数の死者を出すことに。

総司令官の山田乙三陸軍大将や参謀の瀬島隆三陸軍中佐ら幹部は11年間の長きに渡り抑留されましたが、それでも帰国できただけまだ幸運だったでしょう。

関東軍の暴走を内閣が止められず、更に陸軍本部がそれを追認したことが、日本の悲劇を招いた・・・〝泣く子も黙る〟ではなく、〝日本を泣かせた〟関東軍と言えましょうか。
うー

 

 

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