ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

日本時間・昨日朝まで4日間に渡り米ノースカロライナ州で開催されていた、世界№1のゴルファーを決める全米オープン。

ゴルフ好きの私は初日から連日午前1時前後から6時間前後のゴルフ専門チャンネルのライブ中継を観戦していました。

6人出場した日本人選手の応援もしましたが、結局予選を通過したのは松山英樹選手ただ一人。

その松山選手は他の日本人選手が全員撃沈した超難コース・パインハースト№2を粘りに粘って通算2アンダーで回り6位・・・図抜けた実力を見せつけてくれました。

そして優勝したのは、ゴルファーなら殆どの方がご存じであろうプロゴルフ界№1の飛ばし屋、アメリカのブライソン・デシャンボー選手でした。

最終ホールで見せたバンカーショットはお見事と言うしかありませんが、実は私は彼のプレーぶりだけでなく、あるアメリカ人プロゴルファーと彼の奇縁に驚かされたのです。

そのプロゴルファーとは、以前拙ブログでご紹介した、ペイン・スチュワート選手。(↓)

 

 
(↑)にも書きましたが、彼は今から25年前、今回と同じパインハースト№2コースで開催された全米オープンで優勝を飾ったものの、その僅か4ヶ月後に飛行機の墜落事故に遭遇し非業の死を遂げました。

彼を偲んで、(過去記事に添付した)優勝を決めた瞬間の有名なガッツボーズの写真を基に作られた銅像が同コースに置かれています。

      

実はデシャンボー選手、子供の頃このカッコいい銅像を見てプロゴルファーになると決心したそうな。

そして奨学金を得て南メゾジスト大学に進学したのですが、スチュワート選手も同大のOBだったのです。

デシャンボー選手が同大への進学を考えた時点ではその事実を知らなかったそうですが、これは偶然というよりスチュワート選手のお導きだったのかも。
 
その後デシャンボー選手はスチュワート先輩に敬意を表し、プロ入り後も彼が愛用していたハンチング帽をかぶってプレーを続けます。

※2年前にPGAツアーからLIVゴルフに移籍した後は、今大会を含め同団体の指定キャップをかぶっていますが。
 
そして2人のプロ初勝利が同じトーナメント、更に今回先輩が全米オープンを制した同じコースでデシャンボー選手が優勝、それも2人にとって共に同オープン2勝目・・・これって単なる偶然だったのでしょうか?

今大会中、選手全員が苦しめられたワイヤーグラスが生えるウェイストエリアにデシャンボー選手も何度か打ち込みましたが、悉くラッキーなライに恵まれていたのはスチュワート先輩のご加護があったようにしか思えませんでした。

   

また最後まで彼と競り合っていたマキロイ選手が最後に80cmのパーパットを外したのも、天国から試合を見つめていたスチュワート選手のイタズラだった?😅
 
デシャンボー選手自身、優勝を決めた直後に天を仰ぎ、スチュワート先輩に優勝の報告と感謝の気持ちを伝えていたように見えました。

   

こういう奇縁というか因縁を、皆さんは信じますか?

私は信じます。
だから人のご縁は大切にしたい、と・・・。
 
 
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東京都心部にクモの巣の如く広がる、首都高速道路。

モータリゼーションの普及・発達に伴い道路整備を総合的に計画・実施によって 「日本の政治・経済・文化等の中心としてふさわしい首都圏の建設とその秩序ある発展を図る」ことを目的として1956(昭和31)年に制定されたのが、『首都圏整備法』。

これに基づき、慢性的な交通渋滞を緩和すべく現在東京都心部をクモの巣のように走る首都高速道路を建設・管理・整備するために、今から65年前の今日・1959(昭和35)年6月17日に設立されたのが、


 首都高速道路公団

でした。 2005年に民営化された、現在の首都高速道路株式会社の前身ですネ。

1964年の東京五輪開催を睨んで建設工事は急ピッチで進み、首都高速初の開通は1962年12月20日の都心環状線・京橋~1号羽田線・芝浦間。

  

    緑部分が開通区間          開通時の京橋料金所

その後、建設は急ピッチで進められたものの、立つ並ぶビルの谷間や河川を縫うようにして走る高速道路の建設は、大変な作業だったようです。

 

   1962年頃の工事現場 (左:環状線・日本橋 右*2号線・宝町)

東京五輪が開催された1964年の開通状況は、こんな感じ。

    

羽田と都心、それに国立競技場付近だけの開通に留まっているのが分かります。

一番内側の都心環状線が開通したのは、1967年7月。

 

3号渋谷線が東名高速と接続したのが、その4年後の1971年12月で、4号新宿線が中央自動車道と接続したのが1976年5月。

私が就職して銀座営業所に配属され、無料のKK線・西銀座→京橋間を数え切れないほど利用した1981年にはこんな開通状況。


    

 

 ※KK線に関する1週間前の記事は、こちら。(↓)

 

 

1日の交通量が100万台を突破したのが、ちょうどバブル景気が始まった1986年。

 

確かにこれ以降、首都高の渋滞は慢性的だった記憶があります。

そして現在普及しているETCの導入が始まった2001年時点の開通状況は・・・。

    

 

そして放射状に延びる高速道路を結ぶ環状線が徐々に接続された現在の状況は、こちら。

   

 

年代毎に見比べると、着実に路線が拡充されていることがよく分かりますょネ。

おかげで、バブル期に比べ現在は大幅に渋滞は緩和された・・・というのが、よく利用している私の実感。


実際走っていても、箱崎ジャンクションなんてよくもまぁこんな複雑怪奇かつ立体的な道路が建設できたものだ、と感心してしまいます。

 

     


また料金面では、1962年開通時に普通車50円均一だったものが、1963年には倍額の100円に。

その翌年には150円、1970年には200円、その後数年おきに50~100円ずつ値上がりして1994年には700円に。

これには、短距離利用者から大きな不満の声が上がりましたが、それは当然のことでしょうネ。

ただ現在ではETC利用者に関しては距離に応じて料金が変わるため、その不満も多少は和らぎましたが・・・。

さて現在も交通・輸送の大動脈である首都高ですが、建設してから半世紀近く経過する路線が徐々に
増えてきて、その補修や再工事問題が深刻な課題となっています。

一部では日本橋付近を再工事で地下化するという計画も出ていますが、その建設費用は莫大な金額になるはず。

ただでさえ高いと思われている料金が更に引き上げられるようなことのないようにしていただきたいもの。

もう建設・管理は民営会社が行っているんですから、無茶なことはできませんし・・・。
😰

 

それでは最後に、「首都高速は走ったことがない」という方に都心の夜景共々ドライブ映像をお楽しみいただきたくし・・・。

 

 

 

 

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古い時代の猛獣訓練は人間の威厳を示すムチで彼らを畏服させるようにしたというが、現代では愛情をもとにして彼らがなつくように仕向けるのだそうである。

動物訓練にして然りである。

ましてや我々が他人を導く場合には、この愛情による効果がいかに大きいか計り知れないものがあるといえよう。

私がまだ5,6歳の頃だったろうか。
深川の養家にいた時分の話である。

深川は木場どころで掘割には材木が浮かべて有り、私たちはよくその丸太から丸太へ、飛び移っては遊んだものである。

ひとつ足を滑らせると泳げないのだから、命にもかかわるので養家の父から「寄席寄席」と何度も止められていたのであるが、つい面白いままその遊びを続けていた。

ところがある日、通りかかった父親に現場を見つかってしまった。

すると父はいきなり縄で私の両手を縛り、ザブンと掘割の中に突き落としたのである。

泳げないところへ両手が利かないものだからアップ、アップと僅かに両足を動かすだけであった。

やがて私を引き上げた父は濡れた着物を絞ってくれながら、泣いている私に掘割に落ちた時の危険を改めて滾々と諭してくれた。

それ以後私はプッツリと掘割での遊びを止めたのであった。

私はこの一見酷い仕打ちのような養父の躾の中に、私の生命の危険を案じてくれた大きな愛情というものを、後になって理解することが出来たのである。

不用意に感情に左右されたムチであった時、猛獣ではないが機をみて牙を剥くことも有り得る。

それは畏服させることは出来ても、導くことにおいては完全な敗北と言えよう。

躾とは、愛情のこもった美しい心が現れたものでありたい。


          ◆     ◆     ◆     ◆


厳しさの中に愛情が無ければ、躾とは言えない・・・人の親として、心がけたいものです。

今日は6月第3日曜日、『父の日』 です。

       シャープ創業者・早川徳次氏の著書『私の生き方』より一部編集にて

 

        

 

 

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映画やドラマにおいて、なくてはならないのが悪役。

この悪役が憎々しいほど、主役が引き立つのですが・・・今日は、そういう意味において日本有数の名悪役と言える
 

 室田 日出男 さん

 

の命日・二十三回忌にあたります。

 

     

 

室田(本名同じ)さんは、1937(昭和12)年に北海道・小樽市に生まれました。

札幌東高等学校卒業後、1957年にニューフェイス第4期生として佐久間良子さん・山口洋子さん・山城新伍さんら共々、東映に入社。

しかし1961年に千葉真一さん主演の映画クランクイン前日に酒に酔ってホテルのガラスを割るなど大暴れし、激怒した深作欣二監督に3年間出入り禁止を言い渡されてしまいます。

それでも、その深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズでの悪役ぶりで注目されましたが、組合活動で会社から睨まれたり撮影現場で喧嘩沙汰を起こすなど、問題児ぶりを発揮。

 

     

 

そんな彼の転機となったのは、1975年に川谷拓三さん・志賀勝さんらと共に 『ピラニア軍団』 を結成し、そのリーダー役になったことでしょうか。

1977年に覚せい剤不法所持で謹慎処分を受けたものの、1980年以降は『影武者』・『野獣死すべし』・『魔界転生』に出演して高い評価を受け、1992年には『修羅の伝説』でブルーリボン賞の助演男優賞を獲得。

個人的には『キイハンター』や『Gメン’75』などの刑事ドラマでの悪役ぶりが印象に残っていますが、一方『難波金融伝 ミナミの帝王6 欲望の街』で、悪役とは正反対のヒゲを伸ばした気のいいストリップ劇場の支配人役も忘れられません。

しかし役柄では強面だった室田さんも、役者人生の後半は病との闘いの日々だったとか。

 

     

酒豪で知られた彼は、1992年に北海道で撮影中に倒れ緊急入院。

飲み過ぎで腎臓を傷め10時間に及ぶ手術を受け、その際に肝臓肥大も見つかり3週間の入院生活。

更に1995年には大量吐血で緊急入院。

にも拘わらず、彼は医者から止められても酒を飲み続け、節制をしなかったそうな。

その一方で仕事に対する思い入れは人一倍強く、病床でも「いい作品があれば、オレはまだ仕事をするんだ」と意欲満々だったとか。

しかし、その願いは叶わず・・・2002(平成14)年6月15日、肺がんにより64歳で天に召されてしまいました。

役者として、まだまだ活躍できる年齢だっただけに、残念です。

葬儀の際、同期の山城新伍さんが語った、

「彼は僕らと違ってバラエティー番組に出ない、本当の役者」

という言葉が、彼のプロ根性を如実に示していますネ。

生涯で700本以上の作品に出演した名悪役のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3

※室田さんが川谷拓三さんと組んだ、こんなCМ・・・ご覧になった記憶、ありますか?

 

 

 

 

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来月26日に開会式が行われる、第33回夏季オリンピック・パリ大会。

その時メイン会場等ではためくであろう、オリンピックの象徴とも言うべき5つの輪によって描かれている

 

 オリンピック・シンボル

 

が正式に採用されたのは、今からちょうど110年前の今日・1914年6月14日のことでした。

   

 

発表されたのは、当時開催されていたIOC(国際オリンピック委員会)設立20周年記念式典での席上。

これを考案したのは、近代オリンピックの創始者・クーベルタン男爵でした。

その基となったのは、古代オリンピック開催地のひとつであり、古代ギリシァのポーキス地方の一都市・デルポイ(Delphoi )の祭壇に刻まれていた紋章。(

     

ここから着想を得たと伝えられています・・・が、私の目にはそのままパクッたとしか思えませんけどネ。
😅


これに左から青・黄・黒・緑・赤の5色をつけ、5大陸相互の結合・連帯をイメージしています。

 青 → オセアニア

 黄 → アジア

 黒 → アフリカ

 緑 → ヨーロッパ

 赤 → アメリカ

を指す・・・とする意見もありますが、IOCの正式見解では具体的に色と大陸をマッチングしてはいません。 

それにこのマークは単色で使われることもありますから。

ただクーベルタン男爵は、

「この5色に地の白色を加えれば、参加国全ての国旗を描ける」

と書き残しているそうですから、世界融和を念頭に置いていたことは間違いないでしょう。

またその形が〝W〟型なのは、“World ” の頭文字だとする説もありますが、これも明確ではありません。

デルポイの紋章が同じ構図ですし・・・。


今ではすっかり定着しているこの五輪マークですが、これが染め抜かれた五輪旗が実際に競技場ではためいたのは、発表から6年後の1920年に開催されたベルギー・アントワープ大会から。


あれ、1916年は? と思ったら、その年に開催が予定されていたドイツ・ベルリン大会は第一次世界大戦のため中止されていたんですネ。

1940年に開催されるはずだった東京大会(冬季は札幌)、また1944年開催予定だったロンドン大会(冬季はコルツィナ・ダンペッツォ)も戦争のため中止・・・平和の祭典も、戦争には勝てないのが現実。

今後2度と戦争によってオリンピックが中止にならない事を、また2020年の東京五輪のようにウィルス蔓延によって延期にならないことを切に願うばかりです。



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今でこそ、新着映画の宣伝は主としてPV(ブロモーション・ビデオ)。

 

しかし昭和時代は、ポスターや看板の出来が入場者数を左右していました。

 

そのポスター制作にかけて、当代随一といわれたのが

 

 野口 久光 さん


今日は、この画家・グラフィックデザイナーであり、またジャズ・ミュージカル評論家として活躍したマルチタレントの命日・没後30周年にあたります。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-野口久光

野口さんは1909(明治42)年に栃木県宇都宮市で生まれました。

 

1933年に東京美術学校(現・東京藝術大学)工芸部図案科を卒業しますが、その時に卒業制作々品7点が学校買い上げになる程高い才能の持ち主でした。

 

しかし芸術よりも商業美術の道が手っ取り早く食えると判断した彼は、幼少時からこっそりと映画館通いをしていた程の映画ファンだったために、当時洋画ファンの憧れの的であったヨーロッパ映画の輸入配給会社・東和商事合資会社映画部・図案部に入社。

 

当時流行していた仏映画を中心に、ポスター制作を担当します。

 

しかし大東亜戦争突入により臨戦態勢となって映画部が解散したため、野口さんは中華電影に転出し上海へ。

 

そこで映画ポスター制作の傍らジャズ評論や李香蘭のリサイタル・プロデュースを手がけ、活動の幅を広げます。

 

そして終戦翌年に上海から引き上げると新東宝に入社。

 

プロデューサーとして6本の映画を世に出した後、1951年に東和映画に入社し再び映画ポスターを制作します。

 

『天井桟敷の人々』・『第三の男』・『禁じられた遊び』など、様々な名作のポスターを手掛けた野口さんのポスターは、その深い洞察力と確かな腕前でたった一枚でその映画の雰囲気・核心を見事に捉えた芸術作品の域に達していました。

 

それが証拠に、1960年に公開された『大人は判ってくれない』の名監督フランソワ・トリュフォーは野口さんが制作したポスターを見て大感激。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-野口久光  

後に来日した際に野口さん自身から手渡された原画を持ち帰り、1962年に制作した『二十歳の恋』の中に小道具としてこのポスターを使い、亡くなるまで自身のプロダクション事務所に大切に飾っていたとか。

 

1970年に東和映画社を退社するまで、実に1,000点以上もの映画ポスターを残した野口さんは、その後映画だけでなくジャズやミュージカルの解説・批評家として活躍。

 

1983年に勲四等旭日小綬章を授与され、またジャズ普及に貢献したことでニューオリンズ及びルイジアナ州クローリーの名誉市民にも選ばれました。

 

1994(平成5)年6月13日に84歳で逝去されましたが、今でも時々彼の作品展覧会が開催されていますので、機会があれば是非ご覧ください。

 

そこに展示されているのは単なるポスターに非ず、立派な芸術作品・・・それを見た中高年の映画ファンは、きっと様々な昔懐かしいシーンが蘇ることでしょう。😊

また展示会に行けずとも(少々お高いですが)画集を購入してお楽しみいただくことも出来ますョ。

 

      


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特攻・・・〝神風特攻隊〟を代表とする、日本兵が搭乗し爆弾を搭載した飛行機や潜水艇等もろとも敵艦に突っ込む、十死零生の悲劇的作戦。

この特攻に関しては、過去拙ブログでも記事にしました。(

 

 

 

この作戦によって、学徒出陣した学生ら20歳前後の若者たち約5,800名が(表向きは志願したとされているものの実態は殆ど命令・強制によって)散華されました。

(※一方で 「俺も後から行く」 と言って彼らを送り出した将校の多くは生き延びていますが。)

軍隊である以上、上官の命令は絶対・・・なのですが、その特攻命令を敢然と拒否した軍人も実在したのです。 その人の名は


 美濃部 正 少佐

今日は、この気骨ある軍人の命日にあたります。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

1915年に愛知県で生まれた彼は、1937年に海軍兵学校を卒業。

 

その際、敢えて競争率の低い水上偵察機搭乗を希望し、首尾よく水上偵察機操縦専修を命じられるなど、当時から策略家の本領(?)を発揮しています。

そして1941年に美濃部貞功・海軍少将のお嬢さんと結婚・婿養子となり、太田姓から美濃部姓になりました。

大東亜戦争開戦後、第983海軍航空隊の飛行隊長に着任し、自らの戦闘体験から夜間攻撃部隊の構想を持つに至ります。

源田実中佐にその構想を認められ夜襲部隊の編成を許されたものの、理解のない上司と衝突して隊長を解任され、部隊もその後の迎撃戦で壊滅。

しかし転属先の第302海軍航空隊で第二飛行機隊々長に命じられた彼は、1945年1月にそれまで複雑な構造ゆえに敬遠され各所に放置されていた水冷エンジン搭載の艦上爆撃機『彗星』を主力機としてかき集め、優秀な水上機搭乗員・整備工を選抜して 『芙蓉部隊』 を編成。

同年2月に同部隊が特攻攻撃に組み込まれる寸前だったのですが・・・ここで敢然と立ちはだかったのが、美濃部少佐だったのです。

彼の編成した扶養部隊の活躍を描いた、

 
『彗星夜襲隊』 (渡辺洋二・著 光文社・NF文庫)

 

から、その様子を抜粋・転記しますと・・・。


     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

前年10月にフィリピンで特攻攻撃か始まった際、その立案者といわれている大西瀧治郎中将に夜戦を主張し特攻不参加を容認させたという美濃部少佐は、軍上層部が「全機特攻化せよ」という命令を下したその会議中、末席に座っていながら毅然として意見を述べます。

「フィリピンでは敵は300機の直衛戦闘機を配備しました。 今度も同じでしょう。 劣速の練習機まで駆り出しても、十重二十重のグラマンの防御陣を突破することは不可能です。


特攻のかけ声ばかりでは勝てるとは思えません。

 

今の若い搭乗員の中に、死を恐れる者は誰もおりません。 

 

ただ一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義が要ります。

 

しかも、死に甲斐のある戦功を立てたいのは当然です。 

 

精神力一点張りの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。

 

同じ死ぬなら、確算のある手段を講じていただきたい。

 

ここに居合わす方々は指揮官・幕僚であって、自ら突入する人がいません。
 

必死尽忠と言葉は勇ましいことをおっしゃるが、敵の弾幕をどれだけくぐったというのです? 


失礼ながら私は、回数だけでも皆さんの誰よりも多く突入してきました。 

 

今の戦局にあなた方指揮官自らが死を賭しておいでなのか!?

 

劣速の練習機が昼間に何千機進撃しようと、グラマンにかかってはバッタのごとく落とされます。


2,000機の練習機を特攻に駆り出す前に、赤トンボ(※九三式中間練習機)まで出して成算があるというのなら、ここにいらっしゃる方々がそれに乗って攻撃してみるといいでしょう。


私が零戦一機で全部、撃ち落としてみせます!」

 

まさしく〝特攻拒否〟・・・会社の役員会議でこれだけの発言をすれば左遷・降格は必至。

 

まして上官命令絶対の軍隊では処刑も有り得ます。

実際この時、美濃部少佐は死を覚悟したそうですが・・・彼の理論・実績を知る出席者達はただ沈黙するばかりだったとか。

更に少佐は彼らに訓練を見学させるなどしたことで結局芙蓉部隊は特攻を免れ、これに奮起した隊員の士気は大いに高揚。

 

2月~8月15日までの夜襲出撃回数81、延べ出撃機数786で、敵戦艦・巡洋艦・大型輸送船撃破各1、飛行場大火災6(※内1回は伊江島飛行場の艦載機600機をほぼ壊滅)などの戦果を上げます。

未帰還機43・戦死者89名を出しましたが、それでも終戦時には50機以上も残存戦力を残しましたから、殆どの飛行機を目標到達前に撃ち落とされた特攻隊と比べれば、その違いは明らか。


しかし、美濃部少佐は単なる特攻隊反対論者ではありませんでした。 彼は、戦後自らこう語っています。

 

「戦後よく特攻戦法を批判する人があるが、しかしそれは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。

 

当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばならぬ。 

 

私は不可能を可能とすべき代案なき限り、特攻また止むを得ず、と今でも考えている。

 

戦いの厳しさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない。」


実際に最前線で戦った少佐の言葉は、重く受け止めねばならないでしょう。

あくまで勝算を探り、最大効果を発揮する作戦を立案し実行する・・・一見当たり前のことですが、戦争末期に精神論と面子だけで多くの若者の命を散らせた軍幹部の中に、美濃部少佐のような冷静な判断力と実行力のある将校があと数名でもいてくれたなら、戦争の結末・戦死者数は少なからず違っていたのではないでしょうか?

 

戦後航空自衛隊空将となり、幹部候補生学校長も務めた美濃部氏の教えが、現在の航空自衛隊に根付いていることを願うばかり。

当然の如く、元軍人だった美濃部少佐の名は教科書には出てきません。

 

しかし、こういう気鋭の日本人がいたことを子々孫々に伝えることは、私たち大人の義務でもあります。

そんな思いを込めつつ、1997(平成9)年6月12日に81歳で病没された英傑のご冥福をお祈り致します。🙏



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私が彼の存在を初めて知ったのは、映画館でした。

 

高校生の時に、大好きだったS・マックィーンとP・ニューマンが共演した大作 『タワーリング・インフェルノ』 を観た時、長身かつ均整の取れた肉体と端正なマスクをした黒人の警備主任役で出演していたのが、

 

  O.J.シンプソン

  Orenthal James Simpson 

   

 

観たことのない俳優だなァ・・・と思ったのですが、映画のパンフを見て彼がアメリカン・フットボールのスーパー・スターであることを知り、以後俄然NFLに興味を持つキッカケになったものです。

 

彼は1947年カリフォルニア州生まれ。 

 

アフリカ系アメリカ人を両親に持ち、極貧の中で育った彼はアメリカンフットボールの選手として頭角を現し、地元南カリフォルニア大学で大活躍。

 

ハイズマン・トロフィー獲得を引っ下げ、1969年に当時弱小球団だったバッファロー・ビルズに全体ドラフト1位で入団。

 

当初はコーチとの確執もあってくすぶりましたが、1972年にコーチが代わってからはランニングバックとして大活躍。 

 

翌年にはNFL史上初のシーズン2,000ヤードのラッシング記録を達成。

 

『タワーリング・インフェルノ』 は、まさしく彼の絶調時に撮影されたわけです。

 

この年からNFLのゲームをテレビで観戦するようになった私は、彼のスピード感溢れる突進を、(嗚呼、世の中には二物を与えられた人物がいるもんだなァ。) と溜息交じりに見ていたのですが・・・。

 

しかし、1980年に現役を引退したこのスーパー・スターの名が再び大注目を浴びたのは、今からちょうど30年前の今日・1994年6月12日・・・彼の元妻ニコール・ブラウンさんと彼女の友人が、元妻の自宅前で殺されているのが発見されたこと。

 

嘗て国民的ヒーローだった黒人が、白人の元妻を殺害か?

同月17日には、逮捕状が出され逃げる彼と警察のカーチェイスが全米に生中継されました。

 

 

また手配書のような写真を 「TIME」 誌が掲載し物議を醸すなど、刑事裁判は人種問題も絡んで全米注目の的となりました。

 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-Orenthal James Simpson

 

しかし金にモノを言わせ、〝ドリームチーム〟と揶揄されるほどの腕利き弁護士でチームを組んだシンプソン被告は、刑事裁判では無罪を勝ち取ります。

 

ところがその後に行われた民事裁判では一転有罪となり、遺族側に約8億円の賠償を命じられました。

 

これで一件落着、静かにしていればいいものを・・・彼はまたまたやってくれました。

 

莫大な裁判費用捻出のため自ら手放した記念品などを取り戻そうと、2007年に仲間と共謀・武装してラスベガスのホテルに侵入したところを逮捕され、懲役33年の刑を言い渡されて収監され服役。

 

アメリカン・ドリームのシンボルから一転して囚人に・・・天国から地獄とは、まさにこのこと。

 

     

 

もし再び彼がヒーローになるとしたら、映画『ロンゲスト・ヤード』そのままに、刑務所内でアメフトの囚人チームを結成し、看守チームをやっつけることしかなさそう・・・って、彼はQBじゃないから、所詮主役にはなれなかった?😅

刑務所の中からツイッターで発信を続けていた彼は2017年に仮釈放されましたが、2ヶ月前の4月10日、癌により76歳でこの世を去りました。

果たして彼は、あの世で元妻とまともに再会できるやら・・・?

 

 

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諸行無常、人の世は常に移ろうが如く・・・葬儀の様相も時代と共に変化していきます。

 

近所付き合いが濃密だった昔の葬儀は組内等近隣住民が協力して執り行われ、親族も近場に固まって居住していましたから、ほぼ全員が参列。

 

交通機関が発達し、若者がこぞって大都市に移り住むようになった高度成長期を迎えてからは、核家族化が進むと同時に近所付き合いが希薄化。

 

また平均寿命が伸びたために、ご子息である喪主様が職場を既にリタイアされているケースが多くなり、更に最近では武漢肺炎のおかげで親族だけで執り行う 〝家族葬〟 が急増しているようです。

 

しかし、かつてお手伝いさせていただいた家族葬で、こんなことが・・・。

             
     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-祭壇

 

喪主様からは、「今回は身内以外に一切知らせていないし、勤め先にも参列ご無用って伝えてあるから」と言われていました。

 

ご親族様のみ約30名がご参列されたお通夜が閉式となって1時間以上経った午後8時過ぎ、1人の若者が息を切らせて駆け込んでこられたのです。

 

お見受けしたところ20歳代前半、ラフな私服でバックパックを背負った彼の姿からは、取る物も取り敢えず勤務先から飛んで来られたことが伺えましたが・・・聞けば、故人様をお世話された介護施設の担当者さんとのこと。

 

式場へとご案内して線香を上げていただきましたが、ご本人から 「故人様のお顔を見せていただけますか?」とのご希望がありました。

 

「えぇ、もちろんですょ。」

とお棺の窓を開けて差し上げると、窓越しに対面されてしばし合掌をされた彼の目尻らは、一筋の涙が・・・。

 

(こういう若者が介護の仕事で頑張ってくれている。 

 まだまだ日本も捨てたもんじゃないなぁ。)

 

私が思ったまさにその時・・・壁ひとつ隔てた控室から、十数年ぶりでお会いになったというご親戚の甲高い笑い声が聞こえてきました。

 

若い担当者さんの弔問をお伝えすると、まさかお越しいただけると思っていなかった喪主様は、ご親族と歓談していた控室から飛び出してきて深々とお辞儀しつつ、丁重に会葬のお礼を述べていらっしゃいました。 

 

お酒も入り、式場にまで響き渡る程の大声で笑いながら話し込んでいたご親族が「仕事があるから」と欠席された翌日の告別式。

前夜駆け込んでこられた若い担当者さんはしっかりと礼服に身を包み、午前中の仕事を休んで最期のお見送りをされていました。

 

〝遠くの親戚より近くの他人〟

 

この言葉を複雑な想いでかみしめる私。 

 

でも果たして彼は、故人様やご遺族にとって〝他人〟だったのでしょうか?


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