野球少年だったのに通った中学校には何故か野球部がなく、仕方なく来るべき高校野球に向けて体力をつけようと、一番練習がハードだったバスケット部に籍を置いた私。
しかし腰掛けのつもりがだんだん熱が入ってきて、いつしか〝中学生活≒バスケット部〟に。
上級生を差し置いて唯一2年生でスタメンに選ばれ、そしてキャプテンになった3年生の時はもう少しで全国大会出場というところまで行ったんですョ。
その時の雄姿(?)が下の写真ですが・・・いや~、痩せてました。😅
まぁ、それはともかく・・・写真で注目していただきたいのは、履いているデカいバスケット・シューズなんです。
当時はキャンバス(布)製のシューズが当たり前の時代。
しかし〝幅広・甲高〟の私には、コンバースなどの外国製シューズは欧米人向きの細長い形状で全く合わず。
また目立ちたがりだった故に地味なシューズはイヤ・・・おまけにサイズは29cm(!)という、当時は地元実業団でもいないような〝バ○の大足〟。
満足のいくシューズがなくて困っていたのですが、ちょうどその頃に〝ファブレ〟というブランド名で皮革製の国産バスケットシューズが発売になったのです。
私の足型にピッタリの履きやすそうなシューズで、たちまち気に入りスポーツ用品店で購入。
以来、メーカーの 『オニツカ・タイガー』 には、トレーニングシューズや野球のスパイク等、現在もゴルフシューズでお世話になりっ放し。
このシューズ・メーカー(現・アシックス)を一代にして築き上げたのが、
鬼塚 喜八郎 氏
今日は、スポーツ界に多大な貢献をされた、この創業社長の命日・十七回忌にあたります。
鬼塚(旧姓・坂口)氏は1918(大正7)年、現在の鳥取市で農家の5人兄弟の末っ子として生まれました。
中学卒業後は徴兵で陸軍に配属され、大東亜戦争ではビルマへ。
そして大本営守備隊として長野県松代で終戦を迎えます。
里帰りした後、軍隊時代に尊敬していた上官から頼まれて世話をした鬼塚夫妻と養子縁組し、鬼塚姓を名乗ることに。
そして移り住んだ神戸の惨状を目の当たりして、
「戦友たちは子供のために命を投げうったのに、なんてザマだ。
オレは日本の将来を担う青少年のために一生を尽くす。」
そう決心した鬼塚氏は、戦友だった兵庫県教委・堀保健体育課長から 「青少年がスポーツに打ち込める良い靴を作って欲しい」 と依頼されて一念発起。
運動靴作りに関して全くの素人だった彼は靴職人に弟子入りして猛特訓を受け、1949年に社員4人の 『鬼塚株式会社』 を設立。
最初に手がけたのが、私がお世話になったバスケットシューズでした。
日々体育館に通ってボール拾いを手伝いながら選手の要望を聞き出し、1951年にタコの足からヒントを得た吸盤型の靴底を開発。
当初は無名ながら全国の競技大会に売り込むなど積極的な営業活動を展開し、徐々に知名度を上げていきます。
そしてシューズのブランドを、強さと俊敏性をイメージさせる 〝虎〟 とあわせて 『オニツカ・タイガー』 と命名。
一時肺結核を患いながらも病床から部下に指示を出し続け、1956年にはメルボルン五輪・日本選手団のトレーニングシューズに採用され、更にはマラソンのアベベ選手にシューズを提供するなど、日本のトップブランドとして認知されるように。
1977年には国際競争力をつけるため同業2社と合併して 『アシックス』 と改称。
2007(平成19)年9月29日に心不全で89歳の生涯に幕を閉じるまで会長として陣頭指揮を取り、同社を総合スポーツ用品の世界トップメーカーへと成長させました。
自著・『転んだら起きればいい!』 (PHP研究所・刊)
自分の持ち株の70%を全社員に分け与え、社員の仲人も積極的に引き受けるなど徹底した家族主義経営を貫いた鬼塚氏の経営の原点は〝私心なき素直な心〟だったといいます。
「自分だけ儲かればいい」 かの如きドライな欧米型経営が持て囃される昨今の財界・経営者は、再度注目すべき理念だと私には思えるのですが、いかがでしょうか?
葬儀にはイチロー選手や高橋尚子さんなど数多くのアスリートが参列した程、スポーツを通した青少年育成のために生涯を捧げた大経営者のご冥福を、あらためてお祈り致します。