ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

日本人なら、おそらく1度はコレを食べたことがあるはず。

       

今日・5月17日は、この


 お茶漬けの日

なのだそうな。

今からちょうど10年前の2012年に、(当然のことながら)永谷園さんが制定したとのこと。

その根拠は、永谷園の先祖である永谷宗七郎義弘の命日だから。

1681(延宝9)年生まれの宗七郎(後に入道して宗円)は、山城国宇治田原郷湯屋谷村(現・京都府綴喜郡宇治田原町湯屋谷)で製茶業を営んでいました。

       
                
永谷宗七郎義弘

当時よく飲まれていたのは〝煎じ茶〟という、色が赤黒く香りも味も薄い、決して美味しいとはいえない代物だったとか。

一方、抹茶は一部の茶師(茶の生産・販売をなりわいとする者)によって厳しく管理・販売されており、庶民にとっては高嶺の花でした。

そこで宗七郎は、「もっと安くて美味しい茶を庶民に飲んでもらいたい」と新しい茶の製法開発を決意。

〝煎じ茶〟は、若葉・古葉を残らず摘み取り、灰汁で煮た後よく絞って粗く揉み、日乾や風乾で仕上げられていました。

 

それを宗七郎は15年の歳月をかけ、その年の新しい葉だけを摘み取って蒸した後に指で揉みながらホイロ(乾燥炉)の上で乾燥させる・・・つまり、加熱して酵素の働きを殺すことにより褐色化を抑え、茶葉を緑色のまま加工することに成功。

 

この『青製煎茶製法』が、その後日本緑茶製法の主流となりました。

そして自ら開発した煎茶を売り込むべく、宗七郎は江戸へ。

従来の煎じ茶と違うことから殆どの茶商が興味を示さない中、日本橋の茶商・山本嘉兵衛がその味を認め〝天下一〟と命名して販売し、たちまち江戸中の評判に。

※この山本嘉兵衛こそ、『山本山』 の始祖。

1778(安永7)年5月17日に98歳で大往生を遂げた宗七郎は、その偉業を称えられ地元・宇治湯屋谷では茶宗明神として祀られています。

そして彼から数えて10代目となる永谷嘉男氏が今からちょうど70年前の1952年に販売開始したのが、お茶漬け海苔。(↓)

       

その翌年、彼の手によって株式会社永谷園本舗が設立されました。

つまり63歳の私が生まれる前から、お茶づけ海苔はあったわけです。

ここ数年は炭水化物を控えるためあまりお米は食べないようにしている私ですが、今日はこの記念日に敬意を表して、久しぶりにお茶づけ海苔を小さな茶碗でいただくつもりです。



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2014年8月、朝日新聞が32年間にわたって日本を貶め続けたいわゆる従軍慰安婦問題の記事に関し、その根拠となった吉田証言の虚偽を認め記事を取り消したことを、多くの方はご記憶のはず。

その直後にも福島第一原発事故の吉田調書に関して虚偽報道を行なったことで当時の木村社長が釈明会見を行いましたが、この新聞社が捏造記事を乱発していることは最早〝国民の常識〟。

それを最も象徴しているのが、


 珊瑚記事捏造事件

 

といっていいでしょう。

1989年4月20日付の朝日新聞夕刊に、世界最大級のアザミサンゴとしてギネスブックにも記載されたことがある沖縄県西表島の珊瑚に〝KY〟と落書きされた6段抜きの大きな写真が掲載されました。

それに添えられた 『地球は何色?』 という記事は、以下の通り。
 


【これは一体なんのつもりだろう。 沖縄・八重山群島西表島の西端、崎山湾へ、直径8メートルという巨大なアザミサンゴを撮影に行った私たちの同僚は、この「K・Y」のイニシャルを見つけたとき、しばし言葉を失った。


巨大サンゴの発見は、7年前。 水深15メートルのなだらかな斜面に、おわんを伏せたような形。高さ4メートル、周囲は20メートルもあって、 世界最大とギネスブックも認め、環境庁はその翌年、周辺を人の手を加えてはならない海洋初の「自然環境保全地域」と「海中特別地区」に指定した。


たちまち有名になったことが、巨大サンゴを無残な姿にした。

島を訪れるダイバーは年間3,000人にも膨れあがって、よく見るとサンゴは、空気ボンベがぶつかった跡やらで、もはや満身傷だらけ。それもたやすく消えない傷なのだ。

 

日本人は、落書きにかけては今や世界に冠たる民族かもしれない。

だけどこれは、将来の人たちが見たら、八〇年代日本人の記念碑になるに違いない。

百年単位で育ってきたものを、瞬時に傷つけて恥じない、精神の貧しさの、すさんだ心の・・・。  

にしても、一体「K・Y」ってだれだ。】


        

 

太字部分が、日本人を卑下し貶める文章なのが良く分かります。
まさに反日プロパガンダ広報紙の面目躍如。

 

しかしこの記事を読んだ沖縄のダイバーから、

 

「この記事が出される直前までこのような落書きはなかった」

 

という不審の声が上がったのです。

 

また偶然にも西表島にイニシャルがK・Yだったダイバーがおり、彼が憤慨して調査を始めた結果、記事を書いた朝日新聞記者自らが落書きをした自作自演の捏造記事であることが判明。

そして33年前の今日・・・同年5月16日付の朝日新聞朝刊にそれを認める謝罪記事を掲載したのです。


しかしその文面は、

【西表島崎山湾沖にあるアザミサンゴの周辺一帯に、いくつかの落書きがありました。

この取材に当たったカメラマン二人のうち一人が、そのうちの「KY」という落書きについて、撮影効果を上げるため、うっすらと残っていた部分を水中ストロボの柄でこすり、白い石灰質をさらに露出させたものです。】(↓)

 

       


という、〝おわび〟といいながら実質的には姑息な言い訳・・・往生際の悪さが際立ちます。


そして、4日後の5月20日付朝刊で、


【4月20日付の本紙夕刊一面に掲載された 「サンゴ汚したK・Yって誰だ」 の写真撮影について、朝日新聞社はあらためて真相調査を続けてきましたが、「KY」 とサンゴに彫りこんだ場所に以前から人為的な損傷があったという事実は認められず、地元ダイバーの方々が指摘されるように、該当カメラマンが無傷の状態にあった沖縄・西表島のアザミサンゴに文字を刻みつけたとの判断に達しました。】(↓)

       


と、ようやく全面降伏。 

当時の社長が引責辞任する結果となり、記事を書いた記者は〝退社処分〟に。

この退社処分というのは、「いわゆる懲戒解雇に当たる、もっとも厳しい処分です」とわざわざ記事に注釈が。

だったら懲戒解雇とすればいいのに・・・この辺にも同社のつまらぬプライドを感じるのは、私だけでしょうか?

 

結局、〝年単位で育ってきたものを、瞬時に傷つけて恥じない、精神の貧しさの、すさんだ心の持ち主〟は、朝日新聞とその記者だったということ。

 

余談ですが、記事を書いて退社処分になった記者のイニシヤルはH・Y。

彼は自然環境保全法違反で書類送検されたものの、当時の法律にはサンゴを傷つけるだけでは法に抵触しなかったため不起訴処分に。

 

刑事処分を受けなかった彼はその後もカメラマンを続け、写真集も発刊しています。

他人の不祥事は執拗に批判するくせに、自分の過ちはなかなか認めず、決して反省も謝罪もしない・・・これが支那・朝鮮人と同様、未来永劫変わらない〝朝日体質〟と言っていいでしょう。😠


    


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今日・5月15日は、数々の日本の歴史上大きな出来事があった日といえるかもしれません。

 

今からちょうど90年前の1932(昭和7)年には『五・一五事件』 (↓)が勃発、軍国主義台頭のきっかけとなり、また1993年には日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)が開幕した日でもあります。

 

そしてこれらの影に隠れている感がありますが、我が日本に於いて歴史上非常に大きな転換点となった出来事も、今からちょうど50年前の今日ありました。 それは、

 

 沖縄本土復帰

 

1969(昭和44)年11月、当時の佐藤栄作首相はハワイで米ニクソン大統領と会談、日米安保条約の延長と引き換えに沖縄返還を約束しました。

 

 

    

 

1945年4~6月にかけ米軍が上陸し、凄惨な地上戦を経て終戦後もアメリカの施政権下におかれていた沖縄。

 

1969年当時のアメリカは泥沼のベトナム戦争に苦しめられ財政的に逼迫していたため、巨額の特別拠出金(3億2,000万ドル)と引き換えに日本への返還を認めることに。

 

1970年に国内での猛烈な安保反対闘争を経て、翌1971年6月17日沖縄返還協定に両国が調印。

これに基づき1972(昭和47)年5月15日午前0時を以って沖縄は〝沖縄県〟として日本に返還されたのです。

 

佐藤首相は、戦勝国から交渉で領土を返還させた “世界史上稀にみる” 功績と、非核三原則の提唱を評価され、1974年にノーベル平和賞を授与されています。

 

がしかし、当初〝核抜き・本土並み〟での返還という謳い文句であったものの、その後当時の外交官僚の証言やアメリカ政府公文書の公開等により、本来アメリカ側が負担すべき土地復元費用400万ドルを日本側が肩代わりしたこと、また有事の際の核持込を容認する密約があったこと等が発覚。(※日本政府はこれらを完全否定)

これが現在に至る〝思いやり予算〟に繋がっていると指摘されています。


また本土並みと言っても、本土と同じく自動車の左側通行が実施されたのは、6年後のことでしたが。(↓)

 

 

しかしせっかく日本に返還された沖縄も、現在は尖閣諸島を含め支那の脅威に晒されています。

日本の領土・領海の橋頭堡といえる沖縄を実質的に守っているのが米軍であることは、皆さんもご承知の通り。

しかし肝心の沖縄県知事は反日媚中であり、地元メディアは反日極左の新聞2紙に牛耳られているのも現実。

それらに洗脳されている県民が覚醒し、県外や海外から入り込んでいる左翼活動家を排除しない限り、沖縄が真の本土復帰を果たしたとは言えないでしょう。

 

 

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私のような昭和世代の方なら、1960~1970年代初頭にかけて巻き起こった学生運動や左翼テロ事件において、活動家が

 火炎瓶

を投げていた光景をニュース等で見た記憶があると思います。

その中でも際たる例が、東大紛争における『安田講堂事件』ではないでしょうか。(↓)


投げつけられる火炎瓶により、警察車両や機動隊員が炎にくるまれ光景を見た私は、何でこんなことをするのか理解できませんでしたが・・・その卑劣な行為は、パッタリと途絶えることに。

それは今からちょうど50年前の今日・1972(昭和47)年5月14日に『火炎瓶処罰法(正式名称:火炎びんの使用等の処罰に関する法律)』 が施行されたから。

火炎瓶は戦後から使用されるようになりましたが、信じられないことに1956年6月の最高裁判決では

「爆発物取締罰則上、火炎瓶は爆発物に含まれない」

という判断が出され、火炎瓶そのものを取り締まることが出来ませんでした。

 

そのため活動家らは大手を振って火炎瓶を投げつけていたわけですが、さすがにこの状況を放置するわけには行かない・・・ということで、同法が議員立法によって可決・成立したわけ。

この法律によって、火炎瓶の製造・所持した者は3年以下の懲役または10万円以下の罰金、使用した場合は7年以下の懲役刑に処すことが定められました。

施行前の1972年1月1日から5月13日まで火炎瓶の使用は372本もありましたが、5月14日の施行後から同年12月31日までは34本に激減。

抑止効果は十分あったと言えましょうか。

しかし翌年以降全く無くなったわけではありませんでした。

その最も有名というか許しがたい火炎瓶を使用した犯罪と言えるのが、1975(昭和50)年に起きた『ひめゆりの塔事件』

 

同年7月17日、当時皇太子明仁親王ご夫妻(現・上皇陛下ご夫妻)が大東亜戦争後初めての皇族による沖縄訪問を行われ、同県糸満市にあるひめゆりの塔に献花するため訪問された際、これに反対し地下壕に潜んでいた地元左翼活動家がご夫妻に向け火炎瓶を投げつけたのです。

    

幸いご夫妻にケガはなかったものの、この事件は日本全国に大きな衝撃を与えました。

前述の安田講堂事件の鎮圧を指揮し、この時も警備を担当した警察庁・佐々淳行警備局警備課長は、事前に地下壕の安全確認をしようとしたものの屋良沖縄県知事と沖縄県警察に反対され実行できず、それがために犯行を許すことに。

同局長は責任を取って辞表を提出したものの受け取りを拒否され、三重県警本部長に転任しました。

 ※佐々氏に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 
その後日本国内で火炎瓶が使用された事件は殆ど見られなくなり、それはそれで結構なことですが、この 『ひめゆりの塔事件』 の実行犯が2010年以降名護市議会議員に3期連続で当選していることが、私には信じられません。

地元有権者は、この事実を知っていて投票しているのかどうか・・・。

因みにこの男性を推薦しているのは、社民党です。


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かつてジャイアント馬場選手と共に全日本プロレスを支え、〝若大将〟・〝怪物〟といわれたプロレスラー、

 

 ジャンボ鶴田 選手

 

今日は、彼の命日・二十三回忌にあたります。

 

       

 

1951(昭和26)年に現在の山梨県山梨市で生まれた彼の本名は、鶴田友美。

 

生まれた当初は身体が小さくて女の子のようだったのでカワイイ名前をつけられたのに・・・身長196cm・全盛期の体重は125kgにまで成長。😨

 

この日本人離れした体格で運動能力も超一流だった鶴田さんは

中央大学1年までバスケットボール選手でしたが、当時プロリーグもなくオリンピック出場の可能性が殆どなかったことから退部。

 

出場できる可能性が高いレスリングに転向を決意し、自衛隊の道場に通い始めて僅か1年半足らずで全日本選手権2連覇を達成。

グレコローマン100㎏超級の日本代表として見事1972年のミュンヘン五輪に出場しました。

 

その活躍がジィアント馬場さん(↓)の目に留まりスカウトされた彼は、「全日本プロレスが就職するのに一番いい」 と言って入団。

 

 

アメリカ修行を経て、鳴り物入りでデビュー・・・当時日本航空に就航したボーイング747にあやかって、リングネームは〝ジャンボ鶴田〟となりました。

 

だからというわけではないでしょうが、1984年に結婚した保子夫人は元日航のスチュワーデス。

 

全日本プロレスの看板レスラーとして脂の乗り切った鶴田選手の実力は外人レスラーも高く評価・・・1989年にはインターナショナル・PWF・UNのヘビー級タイトルを独占、3冠王に輝きました。

 

対戦相手によって、得意技・バックドロップの落とす角度を変えたとまで言われるほど卓越したテクニックを持っていた鶴田選手でしたが、一方で生真面目なインタビューの受け答えなどから、完全なエンターテイナーになり切れない印象が私にはありましたが・・・それもそのはず、彼はかなりのインテリだったのです。

 

1994年には筑波大学大学院修士課程に合格して体育研究科コーチ学を修め、1996年には慶應義塾大学・桐蔭横浜大学の講師、更に翌年には母校・中央大学の講師をも務める、まさに文武両道レスラーでした。

 

しかし、そんな逸材の命を縮めたのは、B型肝炎ウィルス。

 

元々キャリアであったことは分かっていたそうですが、インターフェロン療法がうまくいかず1992年に長期入院を余儀なくされた鶴田さんが、その直後から勉学の道をプロレスと並行して歩もうとしたのは、自らの命の限界を悟ったからなのかもしれません。

師匠・ジャイアント馬場さんが逝去した直後の1999年2月に引退を発表。

       
            
引退後アメリカで講演する鶴田さん

 

その後肝臓ガンへと病気が進行したため肝臓移植を決断するも、国内で手術が認められる身内の適合ドナーが見つからず。

そしてドナーが見つかったフィリピンで移植手術中にショック症状を起こして大量出血・・・2000(平成12)年5月13日に、まだ49歳の若さで帰らぬ人となりました。

 

今頃は天国のマット上で師匠・ジャイアント馬場さんが見守る中、弟子の三沢光晴さんとバックドロップ合戦に汗を流しているのかも。

 

2m近い大男だったのに毛虫が大嫌いだったという、非凡なインテリ・プロレスラーのご冥福を、かつての雄姿(↓)を観ながら心からお祈り致します。笑3

 

 

 

 

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今日は、日本における〝中華料理の父〟ともいうべき名料理人の命日・三十三回忌にあたります。 その人の名は、

 

 陳 建民 さん

 

言わずと知れた、料理の鉄人でお馴染み・・・陳建一さんのお父上ですネ。

 

    

                 陳 父 子 

 

建民さんは1919年に四川省・宜賓で生まれました。 

 

10歳の時に地元の 『海清園』 というソバ料理店に勤め始めて以来、雲南省・重慶・武漢・南京・上海、そして台湾・香港と修業を続け、1952年に観光ビザで来日。

 

居候先の陳海倫から依頼を受けて外務次官・奥村勝蔵に宴席料理を出したのがきっかけとなり、外務省への出張料理を始めた彼は、勤め先の『東文基園』で日中両国語を話せる女性として採用された洋子さんと知り合い、僅か2ヶ月で結婚。

 

1958(昭和33)年に独立し、『四川飯店』 を新橋に開業。 

 

以後六本木や赤坂に店舗を出店・拡大していきますが、その人気の秘訣は宮廷料理から庶民料理に至るまで、日本人向けの味付けにアレンジしたことでした。

 

回鍋肉にキャベツを入れたり、エビチリにトマトケチャップを入れたり・・・また坦々麺をラーメン風にしたのも彼のアイデアとされていますが、何といっても極め付きは和風 『麻婆豆腐』 でしょう。

 

        

               赤坂四川飯店の麻婆豆腐

 

そして彼の素晴らしいところは、それらのレシピを惜しげもなく公開したこと。

 

1966(昭和41)年には中華料理学院を設立。 

 

閉校するまでの24年間で15,000名以上の卒業生を輩出するなど、日本における中華料理の普及に大きく貢献しましたが、1990(平成2)年5月12日、惜しまれつつ70歳でこの世を去りました。

       

 

「料理は愛情! 愛情のない料理はダメよ。」

 

プロの料理人はもちろんのこと、各家庭でも決して忘れてはいけない建民さんの言葉・・・これを心に刻みつつ、今夜は豆板醤をガッツリ焦がした〝激辛〟麻婆豆腐でも拵えようかしらん? 

 

 

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今から83年前の今日、学校では教えないであろう大東亜戦争の序章ともいうべき

 ノモンハン事件

が勃発しました。

〝事件〟とは言うものの、実際にはモンゴル国境地域で起きた、日本軍(関東軍)と(モンゴル軍を支援する)ソ連軍の歴とした戦闘・紛争でしたが・・・。

 

    

 

もともとモンゴルと中華民国との間で国境線は協定されていたのですが、1932年に成立させた満州国は、そのノモンハン地域の国境線を従来より10~20km程南方のハルハ河にする旨を主張。

 

   

 ・・・モンゴルが主張する国境線  ・・・日本軍が主張する国境線


※満州国に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 

日ソ間ではそれ以前から国境紛争が起きており、1938年7月には、張鼓峰で両軍の大規模な衝突が発生していました。

そしてこのノモンハンでの国境問題に、モンゴルと1934年に同国と軍事同盟を結んでいたソ連軍が口も手も出す形になったのです。

1939年5月11日、係争地でパトロールを行っていた満州国軍とモンゴル軍が交戦となり、その後日本軍(関東軍)とソ連軍双方が集結して、代理戦争が勃発。

5月11~31日と8月20日から停戦合意に至る9月15日まで、誰も住んでいない大草原で2度に渡り大規模な戦闘が行われたのです。

広大な草原を戦場とした陸軍機甲部隊同士の対戦となりましたが、戦車など近代的な装備を整え、兵力でも日本軍を圧倒していたソ連軍に、日本軍は大苦戦。

 

     

                 ソ連軍の戦車


停戦に至ったのは、ナチス・ドイツとの密約によってポーランド侵攻を目論んでいたソ連がノモンハンとの二局戦を嫌ったから・・・と戦後長年言われてきました。

その後も関東軍は再びソ連軍と戦うことを目論んでいたようですが、
実際には停戦直前の9月1日にドイツがポーランド侵攻を開始して第二次世界大戦が始まったことで国際情勢が緊迫したため、参謀本部からの強い中止命令によってノモンハン再戦は(幸いにも)実現しませんでした。


しかし1990年のソ連崩壊以降に同国の機密文書が公開されると、戦後日本軍大敗と言われてきたこの事件について、事実は大分違っていたことが判明。

確かに装備はソ連軍の方が上であり、総兵力も日本軍約58,000名に対し約69,000名(これに加えてモンゴル軍8,500名)のソ連軍が優位。

弾薬もソ連軍が豊富なのに対し日本軍は常時不足する中、無駄弾は撃たず一発必中を心がけ、夜襲をかけるなど銃剣を用いた接近戦で相手を倒すという前時代的な作戦ながら、戦死者は日本軍8,440名に対し、ソ連軍はそれを上回る9,703名。

 

ソ連軍の戦車に対し、日本兵はすぐ近くまで接近して火炎瓶を投げつけて燃やしたというのですから、勇猛果敢というか無謀というか・・・。

 

    

            ソ連軍に対峙する日本軍の兵士たち


喪失した戦車は日本軍が92輌中40輌に対しソ連軍は戦車・装甲車823輌中約400輌、失った航空機は日本軍約160機に対しソ連軍約360機と、むしろ損害はソ連軍の方が大きかったとも言えます。

しかしだからと言って、日本軍が勝利したわけではありません。
国境線は、モンゴル側が主張するラインに押し戻されましたから。


この戦闘で、日本軍は装備・兵器近代化の必要性を痛感したはず・・・なのですが、残念ながらその体質は変わらず。

事件を隠蔽し現場責任者を左遷させ、その後も(物資不足もあるとはいえ)兵器の開発を怠り、戦法は相変わらずの肉弾戦と精神論に終始して大東亜戦争へと突き進んだのは、ご存知の通り。

同事件について詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。


 『はじめてのノモンハン事件』 

                  (森山康平・著 PHP新書・刊)
 

       

 

左翼的 (日本軍に批判的) な記述が若干鼻につきますが、この事件について分かりやすく説明・分析されています。

 

さて、最後にこの戦闘における指揮官をご紹介します。 それは、

 辻 政信 少佐

 

1902(明治35)年に石川県に生まれた彼は、陸軍幼年学校・陸軍士官学校とも主席で卒業した秀才。

大東亜戦争中はマレー作戦・ガダルカナル島戦などの参謀を務め、最終的に大佐まで昇進し〝作戦の神様〟と言われました。

 

       
 

しかし一方で(自信過剰から)指揮系統を無視して独善的に指揮を執った参謀としても有名。

参謀本部が圧倒的な兵力・軍事力を有するソ連軍と正面衝突を避けようと再三自重を促したにもかかわらず、報復を名目に独断で戦闘を継続したのも頷けます。

そればかりか、失敗の責任を部下に擦り付け自決を強要したことでも知られる人物。

このノモンハン事件の時もご同様でしたが、彼自身は作戦失敗の責任を取らされて左遷されたものの終戦まで生き残ります。

そして戦後は数年間隠遁生活を続けた後、突然戦記を上梓するとそれがベストセラーに。

有名になったことから政治家に転身し、衆議院議員4期・参議院議員1期を務めます。


しかしその参議院議員在任中に視察先のラオスで失踪し、1968年に死亡宣告を出されるという数奇な人生を歩みました。

もしかしたら、彼に自決させられた部下たちの怨念が・・・。😨


ただし、そんな彼が自らのノモンハン戦記の中で記しているこの部分に、私は共感します。

『(敵の)不拡大を欲せば、侵犯の初動に於いて徹底的に殲滅することが必要であり、我が譲歩で満足するような良心的な相手ではない。
 

日英会談を効果的ならしめる方法は寧ろ、不言実行の威力である。

 

万一ノモンハンで明瞭な敵の挑戦を黙視せば、必ずや第二・第三のノモンハン事件が(中略)続発し、遂に全面戦争に至る虞(おそれ)なしとしない。』

敵をソ連だけではなく支那・朝鮮に、そして関東軍を外務省に置き換えれば、彼の警告はウクライナ危機が勃発している現代にも通用すると思いませんか?

 

 

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当時、そのニュースは世界中の人々を驚かせました。 
 

それは今から25年前の今日、IBM社が開発したスーパーコンビューター、

 ディーブ・ブルー
    Deep Blue

が、当時チェスの世界チャンピオンだったガルリ・キーモヴィチ・カスパロフに勝利した・・・というもの。

       
            
ディープ・ブルー(ラックの一部)

1963年にアゼルバイジャンで生まれたカスパロフは、史上最年少の22歳で世界チャンピオンの座を奪取し、以降15年間に渡って世界チャンピオンの座を保持し続けた、まさに世界最高・最強のチェス・プレーヤー。

※彼がいかに強かったかは、現役引退して10年後の2014年に来日した際、当時チェスの日本ランキング1位だった将棋の羽生善治名人と対戦し、2戦2勝したことからも窺えます。

   

彼自身、早くから局面分析にコンピューターを利用していたそうですが、1989年にカーネギーメロン大学が開発したディープ・ソートというコンピューターと対戦し、2戦2勝。

「コンピューターには負けない」

と豪語する彼に勝つべくIBM社がディーブ・ソートを引き継ぐ形で開発したのが、ディープ・ブルーでした。

過去のカスパロフの棋譜を元にした評価関数(指し手がどのぐらい有効かを導く数式)をインプットして、1秒間に2億手の先読みを行い効果があると考えられる手筋全てを洗い出す・・・というこのスーパーコンピューターとの第1回目の対戦は1996年に行われ、その時はカスパロフが3勝1敗2引き分けで勝利。

しかし更にデータを蓄積して雪辱戦に挑んだディープ・ブルーは、1997年5月11日に行われた第6戦に勝利し、通算成績2勝1敗3引き分けで勝ち越したのです。

    

「コンビューター(の知能)が人間を越えた」

と大きく報じられたことを、私も記憶しています。

 

とは言えカスパロフが再戦を望んだもの、IBM社がプロジェクトを終了させてしまい以後再戦は行われず、また2年間の通算成績はほぼ互角でしたから、必ずしもコンピューターが勝ったとは言えない状況でした。

※後にディープ・ブルーの設計に携わったエンジニアは、「ディープ・ブルーがカスパロフに勝てたのは、実はバグのせいで意表を突く手を指したから」 と公表しています。

また当時「チェスはともかく相手から取った駒を自分の駒として使える将棋は遥かに複雑だから、人間には勝てない」とも言われました。

しかしコンピューターの進化は目覚ましく、現代ではプロ棋士もPCに勝てなくなっています。

確かに過去の膨大なデータを蓄積し、それを圧倒的なスピードで処理できるコンピューターには、もう人間の頭脳では勝てないでしょう。

将棋界の若きスター・藤井聡太五冠は

「人間と比べるとコンピューターの進化は限度がないです。
そういう意味では人間とコンピューターが勝負する時代ではなくなったのかなと思います。」

とコメントしていますが、彼の言う通り研究のためにコンピューターを利用しても、対戦をする必要はないと私も思います。

AI(人工知能)は今後も進化し続けるでしょうが、
願わくば映画 『ターミネーター』 シリーズのようにコンピューターが人間社会を支配する時代が来ませんように・・・少なくとも私が生きている間は。😨


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今からちょうど70年前の今日、当時世間を震撼させた

 

 荒川放水路バラバラ殺人事件

が発覚しました。

 

1952(昭和27)年5月10日、東京都足立区本木町にある荒川放水路の入り江で新聞紙にくるまれた男性の胴体を付近で遊んでいた少女が発見。

その5日後に同じ放水路で頭部が、翌日に両腕も見つかりました。

頭部の損傷が激しかったため警察はモンタージュ写真を作成しましたが、その捜査線上に浮かんだのは、何と数日前から行方不明になっていた板橋警察署の警察官(当時27歳)でした。

発見された両腕の指紋から遺体がその警官であることが判明し、警察が自宅の家宅捜索を行った結果、室内から血痕が発見されたため、板橋区内で小学校の教師をしていた警官の内妻(当時26歳)を殺人容疑で緊急逮捕。

       

                  逮捕された内妻

当初は犯行を否認していたものの、やがて犯行を自供。

その供述から、内妻の母親も死体損壊に関わったとして逮捕されました。

警察官を教師が殺害しバラバラにして捨てるという猟奇事件に人々は驚き、メディアも食いついたのは当然のこと。

       

              事件を報じるサンデー毎日

しかしその犯行動機は、むしろ内妻が同情されるべきものでした。

 

大阪市生まれの彼女は、会社を経営する父親の元で比較的裕福な家庭に育ち成績も優秀。

疎開先だった山形県内の高等女学校を卒業後、小学校訓導に免許を取得した彼女は、大阪に戻って小学校の教師として勤務。

職場で知り合った年下の男性と親しくなり彼女からプロポーズしたものの、その男性から 「親に決められたフィアンセがいる」 と断られたことが、彼女の運命を大きく変えることに。

傷心の彼女が文通を始めたのが、後に殺すこととなる警官でした。

実は彼女の母親と警官の継母は、実の姉妹・・・つまり2人は義理とは言え従兄妹同士。

山形県生まれの彼は、召集され大陸に出征し復員後山形に戻った際に、彼女と知り合いました。

彼女が大阪に戻って一旦は疎遠になったものの、失恋した彼女が手紙を出したことから交際に発展。

板橋警察・志村署の警ら係として勤務していた彼を追う形で彼女も上京し、板橋区内の小学校に勤め始めました。

彼女自身は真面目で子供達にも慕われていたそうですが、問題だったのは男性の方。

安定した収入がある警官でありながら酒好きだったため、いくつもの飲み屋のツケがたまって借金まみれ。

おまけに暴力団との交際も疑われ、拳銃を紛失するなど勤務態度も良くなかった彼は上司から監視される始末。

寮暮らしだった彼は、彼女が上京して借りた部屋に転がり込んできましたが、同居しながらも決して入籍しようとせず。

母や弟が上京してきたため面倒をみなければならなくなった彼女は、彼に別れ話を持ち掛けましたが、

「男の面目にかけて絶対に別れない。
どうしても別れると言うなら、警察を辞めて一生つきまとってやるぞ」

と脅される始末。

仕方なく同居生活を続けましたが、事件発覚の3日前に泥酔して帰宅した彼に

「どこで飲んできたのョ、私に苦労ばかりかけて!」

と詰問したところ逆上し、彼女を引き倒したのです。

柔道3段の屈強な男性に暴力を振るわれた女性の恐怖は、かなりのものだったはず。

身の危険を感じた彼女は翌朝、寝ていた彼の首を紐で絞めて殺害。

 

気配を察して起きてきた母親が 「遺体をバラバラにして捨てよう」 と提案。

2人はタライで血を受けながら切断、手分けして放水路に投棄したのです。 取り調べ中、

「世間の人は私のことを異常性格というかもしれませんが、私は彼に対して心から詫びるつもりはありません。

あのまま生活を続ければ、どちらかが殺していたでしょう。
私は夫を殺した瞬間、ホッとした気持ちでした。

長い間私を脅かしてきた邪魔者がいなくなって、もう大丈夫という安心感で一杯でした。」

と供述した彼女に対し、東京地裁は懲役12年、母親に同4年を言い渡し、2人共栃木刑務所に収監されました。

翌年母親は病死しましたが、刑務所の恩情により母親の看病が出来最期を看取ることができたことが、男運がなかった彼女にとって唯一の救いだったのかもしれません。



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