ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

バレンタインにホワイトデー、そしてクリスマスに最近ではハロウィン・・・日本人が外国文化をすんなり取り入れる柔軟性は凄いと思いますが、その多くは商業ベースに踊らされていると言えましょう。

それにいちいち目くじらを立てるつもりはありませんが、だからと言って日本の伝統儀式や風習をないがしろにすべきではない、と思います。

 

今日・10月17日が、我が国に古来から伝わる大祭のひとつ、

 

   かん   なめ     さい
 神 嘗 祭

を執り行う日であることを、今どれだけの日本人が知っているのでしょうか?
伊勢神宮では、15日から今日にかけて執り行われます。)

※大祭とは神社の主要な祭祀であり、宮中祭祀のうち天皇陛下自らが執り行う祭祀のこと。  

しかし日本国憲法・現行法では宮中祭祀に関して明文化されておらず、天皇陛下が私的に執り行う儀式と解釈されています。 

それ故に、社会的に広く認知されていないと言えるかも・・・。

〝神嘗祭〟とは、日本神話において天照大御神 (あまてらすおおみかみ) が天上の高天原 (たかまがはら) で初穂(※その年の最初に収穫した稲穂)を食されたことに由来し、毎年の初穂を伊勢神宮にお祀りされている天照大御神にお供えし感謝する祭祀・・・つまり五穀豊穣の感謝祭にあたり、西暦721年から1,300年近く連綿と続く伊勢神宮と宮中での伝統行事。

     

 

元々は宮中が勅使に御酒と神饌を授けて伊勢神宮に遣わし、それを旧暦の9月11日に奉納する儀式として執り行われていましたが、1872(明治5)年以降は新暦の9月17日に変更。

しかしその時期だと稲穂の生育が不十分なため、1879(明治12)年からは1ヶ月ずらして10月17日となりました。


※伊勢神宮の新嘗祭の様子を、こちらでご覧いただけます。

 

 

この儀式自体は知らずとも、天皇陛下が奉納する稲穂を皇居内の水田で刈り取られる様子を、ニュースでご覧になった方も多いはず。

       

       先月19日に稲刈りをされた天皇陛下のご様子

 

拙ブログでも以前記事にしましたが、皇后陛下は以前 「皇室は祈りでありたい」 と仰られたことがありました。

そのお言葉通り、来月23日に執り行われる大祭 『新嘗祭』 で、天皇陛下は長時間にわたり正座して自ら栽培し刈り取られた稲を供えて収穫に感謝し、国家安泰や国民の繁栄を祈られます。

 

日本人は農耕民族であり、毎年様々な祈りや感謝を神々に捧げてきました。

しかし終戦後、そういった伝統儀式が(GHQの施策等により)軽んじられてきたように思います。

国家の安寧や子々孫々の繁栄を願うなら、1,000年以上続く伝統行事を疎かにすべきではないでしょう。

天皇陛下や伊勢神宮だけでなく、神嘗祭が執り行われる今日と新嘗祭が執り行われる来月23日は、日本人として自然の恵みに感謝する一日にしたいものです。扇子

 

 

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今日・10月17日は、〝ビアノの詩人〟フレデリック・ショパンの命日・没後170周年にあたります。

ショパンに関しては、こちらの過去記事をお読みいただくとして・・・。



今日は、彼の代表作と言っていい、ポロネーズ第6番変イ長調 作品53・・・俗に

 英雄ポロネーズ

と呼ばれている名曲について触れてみます。


〝ポロネーズ〟とは、フランス語で〝ポーランド風〟という意味。

マズルカと並び、ショパンの故郷ポーランドを発祥とするダンスやそれに用いられる舞曲のこと。

その殆どは4分の3拍子で、第1拍が16分音符で細分されているのが特徴。

ただしショパンの作品は舞曲というよりはよりドラマチックで、彼の作品の中でも長く壮大なもの。


彼は生涯で18曲のポロネーズを作曲し、ピアノ独奏用としては16曲。


そのうち彼の生存中に出版された番号付きの作品は7曲。

その中で最も有名かつよくコンサートで演奏されるのが、第7番『幻想ポロネーズ』と、1842年に作曲されたこの第6番・英雄ポロネーズ。

非常に難易度が高く、特に中間部の左手オクターヴの連打は、そう簡単に弾けません。


私自身、初めてこの曲を聴いた時はオクターヴだとは思わず、楽譜を見てビックリしたことを憶えています。

 

さて、〝英雄〟の名に相応しい華麗な作品ですが、これはショパン自身が名付けたものではありません。

では誰がどういう経緯で名付けたのか? というと、実は諸説あってはっきりしていないのです。

ただその中の有力な説として、こんな話が・・・。

ショパンが亡くなる前年の1848年、フランスでは2月革命が勃発。

かつてショパンの恋人で会ったジョルジュ・サンドは、当時小さな新聞を発行しており、そこに自らのエッセイを掲載し、政治的なメッセージを精力的に発信していました。

次々と銃弾に倒れていく労働者たちを目にした彼女は、この曲を聴きながらショパンにこんな手紙を書いたとか。

『霊感! 武力! 活力! これらの精神は疑いなくフランス革命に宿る! これより、ポロネーズは英雄たちの象徴となる!』

以後、この曲は以後〝英雄ポロネーズ〟と呼ばれるようになった・・・というのです。

曲想同様ドラマチックなエピソードですが、何となく後で作られたような話にも思えますょネ。
あせあせ

今となっては事の真偽は分かりませんが、その名曲をお聴きいただきましょう。

まずは2005年に行われた第15回ショパンコンクールの優勝者でショパンと同じポーランド出身の若手ピアニスト、ラファウ・ブレハッチ(1985~)の演奏を、どうぞ。




若さ溢れる、歯切れの良い演奏ですょネ。

続きましては、我が敬愛する20世最高のピアニスト、ヴラディミール・ホロヴィッツ(1903-1989)が1987年3月、83歳の時に行ったウィーンでのコンサートの演奏をお聴きください。



如何でしょうか? ブレハッチの演奏とはだいぶ違いますょネ。


ホロヴィッツも若い時の演奏はもっとテンポが速く、ブレハッチ以上にエネルギッシュでしたが、これは年齢相応の枯れた感じ。

明らかなミスタッチを何箇所かしていますが・・・私は何度も繰り返し聴きたいと思うのは、ブレハッチや若い頃のホロヴィッツの録音ではなく、この録画の方なんです。

確かに現在の若手ピアニストのテクニックは高度ですし、ミスタッチも殆どないほぼ完璧な演奏をしますが、ホロヴィッツのような感動がないんですょネ。

やはり聴衆の心を動かす演奏には、人生経験が必要不可欠なのかもしれません。

な~んて、単に私が歳を取ったからそう思うだけかもしれませんが。
うー


 


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80年以上の歴史がある日本プロ野球には、これまで何人もの名選手が活躍してきましたが、何人か歴史に名を残す名審判も。

今日は中でも〝プロ野球史上に燦然と輝く名(?)セリフ〟を残した、

 

  二出川 延明 さん

 

の命日・没後30周年にあたります。

 

        

 

・・・と言われても、若い方は殆どご存知ないと思います。 

 

それもそのはず、彼が審判として活躍していたのは1963年まで。

私も彼の現役時代を直に見たことはありませんから。

 

1901(明治34)年、兵庫県に生まれた二出川さんは明治大学で現在の東京六大学の前身・五大学リーグで活躍。

当時は選手が審判を務めていたそうですが、その技術は当然のことながら未熟。

それに不満を感じた二出川選手は、後輩にルールの問題を出すなどしてレベルアップの向上に務めたそうですから、元々審判になる素地を持っていたようです。

 

大学卒業後、大阪のクラブチームを経て和歌山県の海草中学(現・県立向陽高等学校)の監督に就任し、チームを甲子園大会の決勝まで導きます。

そして1934年に日米野球の代表メンバーに選出され渡米すると、その翌年に大日本東京野球倶楽部(巨人の前身)に入団。 

初代背番号1をつけてプレーし、翌年のアメリカ遠征では副将を務めました。

 

        

                 左が二出川選手

 

そしてプロ野球史上初の金銭トレードによって名古屋金鯱軍に監督兼任プレーヤーとして移籍。

※この時、金鯱軍に勧誘したのが7年後輩で後に審判となり、あの天覧試合の主審を務めた島秀之助さん。(↓)

 

1936年に日本職業野球連盟が結成されると同時に、審判に。

1950年のリーグ分裂に伴いパ・リーグの審判となり、1960年審判部長に就任、その3年後に引退。

 

そして1970年に野球殿堂入りし、1989(平成元)年10月16日に88歳でこの世を去りました。。

 

この二出川さん・・・選手時代の成績は地味ながら、審判としては様々なエピソードを残しています。

 

彼は日本プロ野球史上、初の退場を宣告 (※東京セネタース・苅田久徳選手 因みにこの苅田氏も現役引退後審判となり、二出川氏と同僚に) した審判としても知られていますが、誤審をした翌日の新聞にその証拠写真が掲載された時も、呼び出したリーグ会長に向かって

 

「それは写真が間違っています。」

 

と言い放ったこともあるそうで・・・。驚き顔 ス、スゴイ!

 

そして、〝不滅の名セリフ〟が飛び出したのは、今からちょうど60年前の1959年7月19日に行われた、大毎オリオンズ対西鉄ライオンズの一戦。

 

微妙なクロスプレーでセーフの判定を下した塁審に納得できない三原監督が、審判控室にいた二出川氏に 「ルールブックを見せろ」 と抗議した際に発せられたのが、

 

「俺がルールブックだ!」 怒

 

さすがの名将・三原監督も、10歳年上の二出川さんにはそれ以上食い下がることができなかったとか。
 

しかし実は彼、この時に限って自宅にルールブックを忘れていて、出すに出せなかった・・・という裏事情があったそうですから、何とも微笑ましいです。

 

    

       水原監督・長島選手のアピールを受ける二出川審判

 

またある時、ド真ん中のストライクをボールと判定し、抗議した投手を

 

「気持ちが入っていないから、ボールだ!」

 

と一喝。 ところが言われた投手は怒るどころかその言葉に感銘して、以後手抜きをしないようにした・・・という、感動的なエピソードも。

 

プロ野球界では審判の権威低下が言われて久しいですが、昔はこんな毅然とした方がいたんですネ。

ベンチから二出川審判をヤジろうとした野村克也選手が、鶴岡監督から 「やめておけ」 と叱られたそうですから。

今、監督にそこまで言わせる審判が、果たしているかどうか・・・。

 

古き良き時代だったと言ってしまえばそれまでですが、ビデオ判定にはない人間臭さが良いですょネ。

 

一時、〝好プレー・珍プレー特集〟 の常連、〝ム・ラ・タ・だ!〟でお馴染みだった村田康一さんのような名物審判もいましたが、現在では残念ながらそういう個性的な方は見当たりません。

 

スター選手だけでなく、気骨のある審判が何人か出てくれば、プロ野球の面白さも幅が出ると思うんですが・・・果たして二出川さんは、草場の影でどう思っているんでしょうか?

 

 

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タイトルの漢字、実物を見たことがない若者の多くは読めないかもしれませんネ。 

今日は、その


 ぞうりの日

なのだそうです。

 

語呂合わせとか歴史的な出来事があったわけではなく、単に七五三や正月などこれを履く行事の多い時期が近いことからっていうのが、制定の理由なんですって。

草履とは、鼻緒がついた日本の伝統的な履物。
明治時代以降、洋靴が普及するまでは広く使用されていました。

 

       

昔は藁などの天然素材で作られていましたが、最近ではコルクやウレタン・ゴムなどのソールを皮革・布・ビニールなどで覆うものが主流。

とは言え、女性が和服を着る時以外、この草履を履く機会は殆どないかもしれません。

 

しかしこの草履・・・健康に良いってご存知ですか?

鼻緒を親指と人差し指で挟んで踏ん張ることで足の筋肉が鍛えられ、土踏まずの形成や外反母趾の防止に効果的なんですって。。

そして裸足で履くため蒸れず、水虫予防にも。

また靴底が厚いスニーカーなどに比べて安定性が高く、X脚やО脚になりにくく、美脚に効果的なのだそうな。

してみると、良いことづくめ・・・ご自宅でサンダルを利用されている方が多いと思いますが、是非草履に変えてみてはいかがでしょうか?

では、ここでクイズです。

 

【草履と草鞋(わらじ)の違いは?】

 

改まってそう聞かれると、ちょっと面食らいますょネ。

草履が鼻緒でひっかけるように履くのに対し、草鞋は全部から長い〝緒〟が出ており、それを側面の〝乳(ち)〟と呼ばれる小さな輪と、踵から出ている〝かえし〟と呼ばれる輪に通し、足首に巻いて縛るもの。

草履より長距離を歩きやすいため、昔の旅人は皆これを履いていたのです。

 

       

 

※余談ですが、私は草履と聞くとすぐに豊臣秀吉が信長に仕官した直後に草履取りを務めていた時、草履を懐で温めて信長の覚えがめでたくなった、という逸話を思い出します。

が、この話が初めて登場するのは江戸中期以降の 『絵本太閤記』 で、後日の創作である可能性が極めて高いとか。

私も作り話だと思ってますが・・・気配り上手の秀吉なら、本当にやりそうですょネ

 

 

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皆さんの中には、この役員をやらされて苦労した方が少なくないかも。

戦後アメリカの占領下で、同国の第一次教育使節団の報告書に基づき、日本独自要素を加えて


 日本PTA

が誕生したのが、67年前の今日のことでした。

 

1952(昭和27)年10月14~16日にかけて、東京で 『日本父母と先生の会 全国団体結成大会』 が開催され、ここでPTAの全国団体が結成されたのです。

 

     

 

2013年4月には公益社団法人となった 『日本PTA Parent-Teacher Association ) 全国評議会』 は、健全な青少年の育成と福祉の増進をはかり、もって社会の発展に寄与することを目的として設立されました。

まぁ理念は高邁ではありますが、実際学校に通うお子さんをお持ちの保護者にとって、現在この組織の存在にメリットを感じている方はどれくらいいるんでしょうネ?

むしろ冒頭申し上げた通り、役員を押し付けられたり運悪く(?)くじ引きで就任したおかげで随分時間を取られたり苦労した経験のある方、あるいは現在している方が少なくないかも。

私の場合、この団体名を聞いてまず思い浮かべるのは、毎年実施していた 『テレビ番組に関する小中学生と親の意識調査』 の中から発表されていた〝子供に見せたくない番組ランキング〟。

私の子供の頃は、自分が好きで観ていた 『8時だヨ! 全員集合』 などの番組が、軒並み上位を占めていました。

何であんな面白い番組が有害なのか私には理解できませんでしたし、両親も見るなとは一言も言いませんでしたが・・・あの集計、果たして意味があったのやら?

※ちなみにこの調査は、2013年から取り止めになっています。

 

またPTAは本来保護者と教職員双方が子供の利益となるよう協力して支援活動を行う組織のはずですが、いつしか〝学校・教師に対する圧力団体〟のような存在になってしまった感も。

 

それはとりもなおさず、親と学校・教師の相互信頼関係低下の表れだといえましょうか。

 

       教室

 

悪さをするたび 「組み手(※ボクシングでいうスパーリング)をするゾ」 と空手初段の担任教師に廊下へ連れ出されてはお仕置きされていたガキ大将の私。

 

今だったら体罰だと大騒ぎになるのでしょうが・・・私以外にも厳しい指導をするこの黒帯先生に関して疑問視する保護者がいたらしく、PTAの会議で問題になったことがありました。

 

私自身は組み手をさせられていることを親には言わなかったのですが、会議の席上で私が廊下で組み手の相手をさせられていることを他の親から教えられたオフクロは、それを非難するどころか、

 

「先生、遠慮はご無用です。 

私の息子は、ビシビシ厳しく指導してください。」

 

と頭を下げたそうな。

 

この発言で、保護者側はすっかり意気消沈。 

おかげで先生は無罪放免(?)・・・その後も廊下での組み手は続きました。

 

もっとも6年生になってすぐの頃、反撃した私の回し蹴りが先生の太ももに炸裂すると、

「今日はここまで」

と言いながら足を引きずって教室に戻って以来、その〝特訓〟はパッタリと行われなくなりましたが。

 

ちなみに私にとってこの組み手は単に懐かしい思い出であり、担任教師を恨んだりイジメられたという意識は全くありません。

だって、悪さをしたのは自分だって分かってますから。

 

私の母親がなぜ組み手を容認したのかは定かでありません(※おそらくは手に負えなかった?)が、親と教師の間にそういう信頼関係がなければ学校が子供にとって有益な教育現場になり得ないのは、今も昔も変わらぬ真理でしょう。

 

まして教師や親が互いを訴えるなどして啀み合えば、一番傷つき辛い思いをするのは子供本人。

また教師を軽視する親の姿を毎日見ていれば、子供が同じように教師をナメてかかるのは必至。

 

どちらが悪いかを争うのではなく、双方が子供のために歩み寄ってお互いの信頼を取り戻す努力をしないと、学校はますます荒れてしまうのではないでしょうか?

 

卒業式で〝仰げば尊し〟が歌われることがなくなり、「尊敬する人物は誰か?」 と問われて教師と答える子供が他国に比べて圧倒的に少ないという現実を、保護者も教員も真摯に受け止めるべきでしょう。

 

 

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10月第2月曜日は、〝スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう〟祝日、

 

 体育の日

 

今日は午後から天気が崩れる地域が多いようです。

ラグビー日本代表初のW杯決勝トーナメント進出を祝いつつ国旗を掲揚し、午前中に身体を爽快に動かしましょう!

 

 

 

 

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私が住む東京・練馬区では、昨夜日付の変わる頃には台風19号の風雨とも収まり、幸いにもさしたる被害もなく静かな朝を迎えることが出ましたが、皆さんはご無事でしたでしょうか?

さて、昨日が青木昆陽の命日だから・・・と言うわけではないですが、今日は


 さつまいもの日

 

なのだそうです。  

    

制定したのは、川越いも友の会。  


10月が旬であり、江戸からさつまいもの産地として知られた川越までの距離が約13里なので、さつまいもが 「栗(九里)より((四里)うまい十三里」 と言われていたことから。あせあせ


さつまいもの原産地は、中南米なのだとか。

 

そこからスペインもしくはポルトガル人によって東南アジアにもたらされ、やがて支那に。

 

日本では1604年、琉球王国の役人が明から苗を持ち帰ったのが起源。

 

そして1705年頃、薩摩の前田利右衛門なる人物が琉球より苗を分けてもらい、これを薩摩藩が栽培。

(※彼の名を冠した焼酎が、鹿児島県で製造・販売されています。)

 

支那から伝来したということで、沖縄・九州では〝唐芋〟とも呼ぶそうな。


そして全国に広まるきっかけとなったのは、1732年の 『享保の大飢饉』。

 

時の将軍・8代吉宗が痩せた土地でも育つさつまいもの栽培を決意し青木昆陽に命じて栽培させた経緯は、昨日の拙ブログでご紹介しました。

 

収穫量は、支那がダントツで約7,216万トン。
世界総生産量の約65%という寡占状態。

 

日本の年間生産量は約87万トンで、世界第14位。
その4割を鹿児島県で占めています。

さすが、薩摩の面目躍如ですネ。 (※統計数字は2016年現在)

 

さて今は食欲の秋・・・女性にとっては嬉しい石焼き芋の季節。

 

都心でもピ~~ッという笛の音と共に 「い~しや~き芋~、焼~きたてェ~!」 という客寄せの声が、東京でもオフィスビルの谷間に響く時がありますょネ。

       

 

しかし仕事中にそうそう買いに行くこともままならず。

また通販では家庭用の石焼き芋鍋が販売されていますが、そこまでする手間が面倒・・・という方のために、今日は簡単にできる蒸かし芋の作り方をご紹介しましょう。

 

まずさつまいもを水洗いして汚れを落とし、次にそれを濡らした新聞紙(またはクッキングぺーパー)で包みます。

 

更にそれをラップでしっかり包み、電子レンジでチン。

 

約5~6分を目安として、芋の大きさによって調整してください。
 

これで充分美味しく食べられますょ!笑2
(あまり太くて大きいサイズのものはオススメしませんが・・・。)

 

ただ、さつまいもは100gにつき、約130kcal。 

つまり大きめ1本で約400kcalと、結構高カロリー。

 

また食物繊維や加熱しても壊れないビタミンCを多く含む反面、タンパク質が少なく決してバランスが良い食品とは言えません。

 

いくら美味しいからってさつまいもばかり食べ過ぎないよう、女性の方はくれぐれもご注意を!

・・・とご紹介しておきながら、激辛党かつダイエット中の私は食べません。 (昨日は昆陽先生に敬意を表して小さいのを食べましたけど。)

しかし味噌汁の具としては、時々利用してます。

味噌の塩味とさつまいもの甘味のバランスが、妙に好きなんですョネ。

 

 

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食欲の秋・・・特に女性が大好きな石焼き芋が美味しい季節ですが、今日はそのサツマイモの栽培で飢饉から多くの人々を救い、『甘藷先生』とか 『芋神』 と言われ崇められた

 青木 昆陽

の命日・没後250周年にあたります。

       

昆陽は1698(元禄11)年に、現在の東京都中央区日本橋で魚屋を営む佃屋半右衛門の一人息子として生まれました。

幼少時より神童と言われ学問好きだった彼は、21歳の時に京都に行き伊藤東涯が開く古義堂に入門し、2年間儒学と本草学を学びます。

本草学とは薬用作物の栽培研究のことですが、この頃に彼はサツマイモの存在を知ったと思われます。

江戸に戻った彼に目をかけたのが、加藤枝直(えなお)という町奉行与力。

両親を続けて亡くした後の敬虔な態度や学問に取り組む昆陽の真摯な姿勢に好意を持った枝直は、300坪あった自宅の敷地内に昆陽の私塾を開かせただけでなく、上司の大岡忠相に彼の存在を紹介・推挙したのです。

 

それにより幕府の所有する書物の閲覧を許された彼は、学者としての道が大きく開けました。


折しも、1731年から数年間にわたって人々を苦しめた享保の大飢饉で、最大の凶作に陥った瀬戸内海にあって今治藩・大三島だけはサツマイモ栽培によって餓死者が出なかったことから、第8代将軍・徳川吉宗は関東でのサツマイモ栽培を決断、それを昆陽に託します。

命を受けた昆陽は小石川薬園(現・小石川植物園)、現在の千葉県幕張、九十九里町の3ヶ所で栽培を開始。

 

取り寄せた種イモの多くが霜によって腐るなどの苦難を乗り越え、3年後栽培に成功。

これが後に起きた天明の大飢饉で、多くの人々を飢えから救うことに。

 

このサツマイモ(甘藷)の栽培法などを記した 『蕃薯(ばんしょ)考』 を1735年にまとめた彼は、翌年薩摩芋御用掛を拝命し晴れて幕臣に。

その後1739年に
御書物御用達を拝命した彼は、寺社奉行となった大岡忠相の配下に加わって甲斐・信濃・三河など徳川家旧領の古文書を調査し、それらを分類して 『諸州古文書』 を作成。

また評定所儒者となった彼は、1740年に吉宗の命により蘭語の学習を命じられ、長崎に遊学するなどして 『和蘭文訳』 『和蘭文字略考』 などの入門書や辞書を残し、弟子として後に杉田玄白らと 『解体新書』 を翻訳した前野良沢を育てました。

決してサツマイモ栽培だけでなく、学者としても多くの功績を残した昆陽について興味のある方には、こちらのご一読をお勧めします。


 『芋奉行 青木昆陽』 (羽太雄平・著 光文社・刊)

 

        

 

今日は久しぶりに石焼き芋を食べつつ、流行性感冒により1769(明和6)年10月12日に72歳でこの世を去った芋神様の冥福を祈りたいと存じます。

 

 

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今日は、ぜひ皆さん・・・特に若者に知っていただきたい人物をご紹介致します。 それは

 山口 良忠 判事

名前は知らずとも、この方の逸話を聞けば 「あぁ、あの!」 と思い出す中高年の方は多いと思うのですが・・・今日は、この方の命日にあたります。

 

     

              山口判事(左)とそのご家族

 

山口氏は1913(大正2)年、佐賀県の生まれ。

 

京都帝大を卒業後、高等文官司法科試験に合格すると刑事事件を担当する裁判官となり、1942(昭和17)年から経済事犯担当として東京地方裁判所に勤務していました。

 

折からの大東亜戦争下、政府は食糧管理法を制定。 

 

強制的に食料を供出させ、一定量を国民に配給したものの、食糧不足は目に見えて深刻化。

 

敗戦後の配給米は、ひとり1日2合1勺・・・すなわち380cc、牛乳1ℓパック1/3分しかなく、時々米以外の穀類で代用されることもあり、おまけに遅配は日常茶飯事だったとか。

 

山口氏が住んでいた世田谷区では、1946(昭和21)年5月の時点で遅配が11日以上・・・即ちそのままでは11日間何も食べられないという、過酷な状況でした。

 

当然のことながら国民は〝ヤミ物資〟に手を出す事となりますが、山口判事はそのヤミ行為に加担した者を処罰する立場にありました。

 

「ヤミ物資を取り締まる立場の者が、ヤミ米を食べるわけにはいかない。」

 

という信念を曲げず、育ち盛りの子供2人に僅かな配給米を食べさせ、妻と共に殆ど汁だけの粥をすすって耐えた山口判事。

 

あまりの窮状を見かねた義父や親戚が差し入れようとした食料をも受け取ろうとはせず、遂に裁判所内で倒れてしまいます。

 

郷里・佐賀に帰り静養したものの体調は回復せず、今から72年前の今日・1947(昭和22)年10月11日に極度の栄養失調と肺浸潤のため、子供達が無邪気に階下で遊ぶ自宅二階にて33歳の若さで絶命。

実質的には、餓死でありました。

 

自ら法の矛盾に気づきながらも、職務に忠実であり続けた山口判事。

 

その立場ゆえ自らの命を捨てる一方で、逮捕された被告たちには同情し情状酌量を加えた判決が多かったといいます。

ここで、山口氏の没後60年を記念して出版された、

 

『殉法判事 山口良忠 遺文』 (宮村多樫・著 密書房・刊) 

 

        

 

から、矩子夫人の回想を以下にご紹介します。(※一部抜粋・編集)

 

           ◆     ◆     ◆     ◆

 

・・・一昨年の10月、主人は東京区裁判所の第十四刑事係を拝命いたしました。 これは経済事件係で、事件の審理から判決までを一人で担当する役目でございます。

 

その夜、主人は私に申しました。

 

「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。

私は良い仕事をしたい。 判事として正しい裁判をしたいのだ。 

経済犯を裁くのに、ヤミはできない。

 

ヤミにかかわっている曇りが、少しでも自分にあったならば、

自信が持てないだろう。

 

これから私の食事は必ず配給量だけで賄ってくれ。

倒れるかもしれない。 死ぬかもしれない。

しかし、良心をごまかして生きていくよりは良い。」

 

その時、主人は既に死を覚悟していたものと思います。 

私は驚いて主人の顔を見つめました。 すると主人は、

 

「人間は孤独だ。 お前がこれについて何と考えようと自由である。

私はお前や子供たちまで、絶対配給生活を強いはしない。

それはお前たちの好きなようにしなさい。」

 

と、何か淋しげにもらしました。 

配給量だけなら死ぬことは目に見えております。 

それを承知で云い出した夫。

 

人間、誰が自分の命を惜しまぬ者がありましょうか。 

しかし、主人は命以上に、正しい裁判官であることを選んだのでございます。

 

「人間である以上、生きてはいたい。

美味しいものを食べたいと思う。

しかし、正しいことはしなくてはならない。」

 

と、常日頃申していたおりました主人は、ひと様に何と云われようとも、自分の信念に徹し切っていた人なのでございます。

 

          ◆     ◆     ◆     ◆

 

・・・このような生き方には、異論もあるかもしれません。 

 

しかし昨今官民問わずに起きる不祥事の数々を見るにつけ、官僚・政治家はもちろん私たち国民も今一度、彼のような〝日本人の、いや人間としての良心〟を思い起こすべきではないでしょうか。

 

法に殉じた山口判事の信念に敬意を表しつつ、あらためてご冥福をお祈りしたいと存じます。笑3

 

 

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