ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

〝可憐な花々に囲まれた心温まるお葬式〟をモットーに、日々お客様のために頑張っております葬儀社ウォームハート・・・の社長、人呼んで「葬儀屋ナベちゃん」です。 毎日の仕事や、人・映画・書籍等との出会いの中で感じたことなどを徒然なるままに綴ってまいります。

弊社HPには、オリジナル・デザイン生花祭壇の画像を種々掲載しております。

 

    


           是非ご覧下さい! 


     URL : http://www.warmheart.jp


  生前相談・見積依頼・葬儀に関するお問い合わせは 

 

      TEL : 03-5399-7123


  まで。 いずれも無料ですので、お気軽にどうぞ!


            バラ 必 見 バラ


     “オリジナル生花祭壇 Episode Series


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             ダウン     ダウン     ダウン


  1.〝オ-ストラリア〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080131.html
  2.〝 電  話  機 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080208.html

  3.〝 美  術  館 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080216.html

  4.〝 外  洋  船 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080305.html
  5.〝 波      涛 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080623.html

  6.〝 White Light 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20090129.html

  7.〝 別 れ の 曲 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11159923479.html

  8.〝ゴルフコース〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11795745868.html


 



NEW !
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1987~90年にかけて、本社や阪神支局など朝日新聞社の社屋・社員を襲撃した一連の『赤報隊事件』 が終息した後のことだっただけに、今から25年前の今日、新右翼活動家・論客として名を馳せていた

 

野村 秋介 

が、朝日新聞東京本社・役員応接室で拳銃自殺を遂げた事件は衝撃的でした。

 

       

 

野村氏は1935(昭和10)年に東京で生まれ、横浜で育ちました。

1961年に憂国道志会を結成し 『大悲会』 会長に就任後、河野一郎邸焼き討ち事件(1963年)や経団連襲撃事件(1977年)を起こし服役する一方、1986年にはフィリピンでモロ民族解放戦線に拉致された日本人カメラマンの救出に成功。

その野村氏が1992年の第16回参院選に際し、日本青年社等が組織した 『たたかい国民連合・風の会』 から漫才師・横山やすしさんらと共に比例区で立候補。

それを当時週刊朝日に連載されていた風刺イラスト『ブラックアングル』で、山藤章二さんが〝虱(しらみ)の会〟と揶揄した作品を掲載したのです。

これに激怒した野村氏は、山藤さんに抗議文を送り、山藤さんはすぐに詫び状を返送したとか。

 

       

(すぐに詫びるくらいなら、最初から掲載しなきゃいいのに・・・)

と私は思うのですが、とりあえずこの詫び状を以って野村氏と山藤さんとの間では手打ちとなりました。 しかしかねてより

 

 「戦争中に多数の若者を戦地に送ったのに、戦後はそれを忘れたかのように振る舞うのが許せない」

 

朝日新聞の報道姿勢に憤っていた野村氏は、更に同社に対する抗議を強めます。

同社に対し公開討論会を要求するなどの交渉を約1年間続けた野村氏は、1993(平成5)年10月20日、同志3人と共に同社東京本社を訪れ、中江利忠社長や週刊朝日編集長らと会談に臨みました。

本来ならこの場で朝日新聞社側の謝罪を受け入れる最終会談となるはずだったようですが・・・それまで冗談を交えながら穏やかに朝日新聞幹部らと話していた野村氏が突如拳銃を取り出し、
「皇尊弥栄」 を三唱した後に自らを撃って自殺を遂げたのです。

 

       

なぜ拳銃2丁を持ち込みながら、
(赤報隊事件のように)中江社長らを撃つのではなく自ら命を絶ったのか?・・・その理由は、私には分かりません。

もしかしたら、自らを撃つことでより深く朝日新聞に反省を促したかったのかも。

しかし残念ながら、野村氏の思いは朝日新聞社には届かなかったようです。

それまで1989年の 『サンゴ礁KY事件』 や1991年からの 『従軍慰安婦捏造記事』 連載などをやらかした同社は、野村氏自決後も捏造・誤報を繰り返していますから・・・。

自らの命を以て抗議した野村氏、きっとあの世で激怒していることでしょう。
怒

 

 

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野球好きの私にとって、忘れられないプロ野球の試合はいくつもありますが、ことパ・リーグに関しては〝あの試合〟に尽きます。


中高年世代のプロ野球ファンならば、〝10.19〟と聞いただけで、〝あの試合〟を思い起こされる方が多いはず。


それは、今からちょうど30年前の今日・1988(昭和63)年10月19日・・・昭和時代最後の名勝負といわれた、


 ロッテ-近鉄


の〝伝説のダブルヘッダー〟。


この年から仰木彬氏を監督に迎えた近鉄は、シーズン途中に中日から金銭トレードで獲得したブライアントの大活躍などにより2位で首位西武を追走。


一時8ゲーム差をつけられながらもジリジリと追い詰め、遂にこの日行われる対ロッテ戦のダブルヘッダーに連勝すれば奇跡の逆転優勝・・・というところまで漕ぎ着けたのです。


それまで12日で13連戦をこなしてきた近鉄ナインの疲労はピークに達していましたが、第1試合から壮絶な戦いが繰り広げられました。


ダブルヘッダーだったため、第1試合は延長なしという規定で始まったこのゲーム・・・8回に追いつき、9回に1点勝ち越した近鉄は、しかしその裏に2死満塁という大ピンチ。


ここで1点取られた時点で優勝を逃すという土壇場で、阿波野投手はバッターを3球三振に仕留め、第2試合に望みを繋ぎます。

       


常に閑古鳥の鳴いていた川崎球場は、この日に限って大入り満員・・・第1試合途中から、異様な雰囲気に包まれる中、運命の第2試合が午後6時44分にプレーボール。


2回に1点を先制されたものの6回に追いついて更に7回に2点勝ち越した近鉄に対し、ロッテも粘ってその裏にすぐさま追いつき、更に8回にも両軍1点ずつ取って4-4の同点・・・という、まさに息詰まる攻防。


但しこの試合は、当時の規定によって開始から4時間経過した時点で次の回に入れないことになっていました。


9回に判定を巡ってロッテ・有藤監督が9分間の抗議を行い、球場内はますます殺気だった雰囲気となる中、4-4の同点のまま試合は延長戦に突入。


そして時間との兼ね合いで近鉄最後の攻撃となる10回表。


先頭ランナーを出したものの、ダブルブレーに討ち取られた時点で試合時間は3時間57分・・・近鉄は万事休しました。

    


優勝を逃しても10回裏の守備につかなければならなかった近鉄ナイン・ベンチの選手たちの心中は、いかばかりだったか・・・。


当時殆ど人気のなかったパ・リーグの試合を、何故これ程はっきりと記憶しているかというと・・・この日テレビ朝日が全国の野球ファンからの要望に応え、通常の番組を延期して急遽午後9時から第2試合を中継したから。


しかも民放でありながら、「スポンサーのご好意により」 CMをカットするという異例の放送でした。 (スポンサーがどこだったのかは記憶にありませんが、おそらくその後の売り上げは伸びたでしょうネ。)


当時人気だった報道番組 『ニュースステーション』 もこの野球中継に振り替えられ、おかげでゲーム終盤の行き詰まる攻防戦を全国の野球ファンが楽しむことができたのです。


この時の視聴率は関東地区で30.9%という驚異的な数字を記録。


皮肉にも、18年に渡って放送された『ニュースステーション』の歴代最高視聴率だったとか。


この死闘が放映されたことで、私を含めた多くの野球ファンがパ・リーグ(の試合)に注目するようになったことが、現在のパ・リーグ人気の導火線になったといえましょう。


さて、我が家の本棚に一冊の文庫本があります。


 『1998年 10・19の真実』 (主婦の友社・刊)


       10.19


著者は、近鉄ファンが高じて近鉄百貨店に入社したという、元・東京近鉄応援団長の佐野正幸さん。


テレビで観戦された方がこれを読めば、あの死闘を思い起こせるばかりか、TV中継からは分かり得なかった川崎球場の混乱ぶりや観客席の様子などを、まるでその場にいたかのように体感できることでしょう。

プロ野球を愛する方には、是非ご一読をお勧めします。


優勝のかかった最終戦・ダブルヘッダー・シーソーゲーム・迫りくる制限時間との戦い・・・様々な要因が重なったとはいえ、やはり好勝負はファンの心を惹きつけますネ。

以下に、この〝伝説のダブルヘッダー〟をまとめた2本の動画をご紹介します。


壮絶なる激闘の模様を、是非ご覧ください。







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今やどのご家庭でも利用され、冷蔵庫の中に常時ストックされている物・・・今日は、その

 

 冷凍食品の日

 

 なのだそうです。

 

冷凍の〝凍〟(とお→10)と、標準管理温度であるマイナス18℃に因んで制定されたそうな。

 

食品を冷やすことで保存する方法は、遙か紀元前2500年前に気化熱を利用して行われていたことが分かっています。

 

現在のような冷凍食品の元祖は、1905年にアメリカでジャム加工用イチゴを運搬用に凍らせたことが始まりだとか。

 

そして1970年以降、冷凍冷蔵庫や電子レンジの普及と共に一般家庭でも冷凍食品が利用されるようになりました。

 

       冷凍食品

 

当初は 「冷凍だと味が落ちる」 などといわれていましたが、産地での急速冷凍技術の進歩などで、現在では殆どそういった話は聞かれなくなりました。

 

主婦(夫?)の皆様ならご存知のことでしょうが・・・一口に冷凍食品といっても、その調理法は様々。

 

肉や魚などは、もどし処理が必要で、表面が軟らかく芯が硬い〝半解凍〟状態にするのがコツ。

 

一方野菜などはそのまま一気に調理した方が品質が落ちないのですが、加熱し過ぎに注意が必要。

 

またフライやコロッケなどパン粉を使った加工食品などは、温度が落ちないように多めの油で冷凍状態のまま揚げるのがいいんですって。

 

何でも電子レンジでチンすればOKってものではないようです。

 

更にスーパーで冷凍食品を買う時の注意点を少々。

 

まず、コッチコチに固まっている商品を買うのが第一のポイント。

 

開封した時に、食品の一部が白っぽくなっていたり、内側に霜がたくさん付着して食品が雪をまぶしたような状態になっているものは、保存状態が良くない証拠。

 

そんな不良商品を買わないためのポイントを、ひとつご紹介します。

 

皆さんは〝ロードライン〟ってご存知でしょうか?

 

例えば下の写真中央、矢印の先にある赤と黒のシールがソレ。

 

              

 

これは冷凍食品の販売ケース内側に表示されているものなんですが、この線よりも下に置いてあれば温度調整が万全。

 

しかしそのラインより上に積んであるものは、保存温度が上がって品質が落ちる可能性があるとのこと。

 

ってことは、写真左に積んであるブルーベリーは、ギリギリってことでしょうネ。冷や汗

 

今度お買い物に行かれた際には、この表示に注目してみて下さい。

それからもうひとつ心配なのが、食材の原産地でしょう。

以前は冷凍食品(を含む加工食品)については表示義務がなく、消費者には(殆どが支那産じゃないか)という不安がありました。

しかし現在はJAS法が改正され、表示・公開が義務化されています。

とはいえ、調理加工された冷凍食品だと、食材の品数が多くて表示しきれない商品も。 

でも、ちょっと裏面(の右下)を見てください。
こんな表示がありませんか? (↓)

    

電話もしくはメーカーHPで確認できるんです。

頻繁に利用する冷凍食品については、一度調べてみて下さい。

 

しかし、冷凍食品はおろか冷蔵庫などなかった私の子供時代・・・お母さん達は日々どうやって食材を衛生的に保存していたんでしょう?

 

今考えると、不思議ですょねぇ。

 

 

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バレンタインにホワイトデー、そしてクリスマスに最近ではハロウィン・・・日本人が外国文化をすんなり取り入れる柔軟性は凄いと思いますが、その多くは商業ベースに踊らされていると言えましょう。

それにいちいち目くじらを立てるつもりはありませんが、だからと言って日本の伝統儀式や風習をないがしろにすべきではない、と思います。

 

今日・10月17日が、我が国に古来から伝わる大祭のひとつ、

 

   かん   なめ     さい
 神 嘗 祭

を執り行う日であることを、今どれだけの日本人が知っているのでしょうか?
伊勢神宮では、15日から今日にかけて執り行われます。)

 

※大祭とは神社の主要な祭祀であり、宮中祭祀のうち天皇陛下自らが執り行う祭祀のこと。  

しかし日本国憲法・現行法では宮中祭祀に関して明文化されておらず、天皇陛下が私的に執り行う儀式と解釈されています。 

それ故に、社会的に広く認知されていないと言えるかも・・・。

〝神嘗祭〟とは、日本神話において天照大御神 (あまてらすおおみかみ) が天上の高天原 (たかまがはら) で初穂(※その年の最初に収穫した稲穂)を食されたことに由来し、毎年の初穂を伊勢神宮にお祀りされている天照大御神にお供えし感謝する祭祀・・・つまり五穀豊穣の感謝祭にあたり、西暦721年から1,300年近く連綿と続く伊勢神宮と宮中での伝統行事。

     

 

元々は宮中が勅使に御酒と神饌を授けて伊勢神宮に遣わし、それを旧暦の9月11日に奉納する儀式として執り行われていましたが、1872(明治5)年以降は新暦の9月17日に変更。

しかしその時期だと稲穂の生育が不十分なため、1879(明治12)年からは1ヶ月ずらして10月17日となりました。


※伊勢神宮の新嘗祭の様子を、こちらでご覧いただけます。

 

 

この儀式自体は知らずとも、天皇陛下が奉納する稲穂を皇居内の水田で刈り取られる様子を、ニュースでご覧になった方も多いはず。

 

                    

           先月稲刈りをされた天皇陛下

 

拙ブログでも以前記事にしましたが、皇后陛下は以前 「皇室は祈りでありたい」 と仰られたことがありました。

そのお言葉通り、来月23日に執り行われる大祭 『新嘗祭』 で、天皇陛下は長時間にわたり正座して自ら栽培し刈り取られた稲を供えて収穫に感謝し、国家安泰や国民の繁栄を祈られます。

 

日本人は農耕民族であり、毎年様々な祈りや感謝を神々に捧げてきました。

しかし終戦後、そういった伝統儀式が(GHQの施策等により)軽んじられてきたように思います。

国家の安寧や子々孫々の繁栄を願うなら、1,000年以上続く伝統行事を疎かにすべきではないでしょう。

天皇陛下や伊勢神宮だけでなく、神嘗祭が執り行われる今日と新嘗祭が執り行われる来月23日は、日本人として自然の恵みに感謝する一日にしたいものです。扇子

 

 

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かなり昔のことですが・・・10月のある夜、サラリーマン時代の私が友人と2人で酒を飲んだ時のこと。

 

その友人はアメリカに留学経験があり、一時期ニューヨークで働いていたこともあって英語はベラベラ。

 

当時まだ若かった私は英語に若干興味を持っていて、趣味でアメリカ映画の台本(対訳本)を買い込み、映画を観ながらヒアリング等を勉強していた頃でした。

 

友人はその事を知っていましたので、だんだん酔いが回るにつれ、

 

「お前、○○○○って、どういう意味か分かるか? 

えっ、分からない? なんだょ、そんなの初級コースの言い回しだぜ。

ったく、勉強が足りないんじゃないのォ?」

 

・・・ってな感じで、私をからかい始めました。

 

普段はいい奴なんですが、彼は酒が入るとネチッこくなるのが玉にキズ。あせあせ

 

かく言う私も、質問に答えられないのがだんだんシャクに触ってきて、

 

「じゃあ、オマエ。 Freezeって分かるかョ?」

 

と逆質問。 すると彼は、

 

「なんだぁ、ソレ。 『凍れ!』 ってか? 意味が分かんねぇ~ョ。」

 

「エッ、知らないの? 『動くな!』 って意味だョ。

アメリカじゃ警官とかに銃を向けられてそう言われたら、動くと撃たれるんだゼ。 映画なんかによく出てくるゾ。」 

 

「ケッ、オレはお前と違って品行方正ですからネ~。

アメリカのポリスに銃なんか向けられた事ないから知りませ~ん!

そんなスラングばかり覚えてないで、ビジネス英語も勉強しろョ。」

 

「フンッ! 言ってろ、酔っ払い!」

 

・・・なんともしょ~もない、子供の言い合いみたいな会話でした。

 

しかし未だにこの会話を忘れられないのには、ワケがあるんです。

 

その悲劇は今から26年前の今日・1992年10月17日、アメリカ南部ルイジアナ州の州都・バトンルージュで起こりました。

       

 

当時16歳の高校生だった服部剛丈(よしひろ)君が、留学先の友人とハロウィン・パーティーに出かけたのですが、間違えて別の家を訪問。 

 

出てきた家人のロドニー・ピアーズに拳銃を突きつけられFreeze警告されたものの、服部君はその意味を知らず。

 

ハロウィンの仮装をしたままで更にピアーズに近づいたため、射殺されてしまったのです。

 

        

 

刑事裁判ではピアーズ被告は無罪。

しかしその後の民事裁判では、彼がガンマニアであり普段から粗暴であったこと、そして当日は酒に酔っており、わざわざ殺傷力の強いS&W社製の44マグナム(写真下)を取り出し妻の制止を振り切って家から出て発砲したことが明らかになったことから、遺族が勝訴するという特異な経過を辿りました。

       

 

またピアーズ夫妻が強硬な人種差別主義者であったことなど、銃規制問題と合わせてアメリカの暗部を浮き彫りにした事件でした。

 

前述の友人との会話・・・実は、この僅か数日前の夜だったんです。

 

事件が報道された翌日、その友人から

 

「この前飲み屋でオマエが言ってたこと、ホントだったんだな。 
オレはラッキーだったょ。 

もし同じ状況に遭遇してたら、オレも撃たれてたかもしれない。」

 

と神妙な口調で電話があったことも、はっきり憶えています。

 

今でもアメリカ映画やTVドラマで、 Freeze! を耳にするたび、この事件を思い出してしまう私。
 

※ハロウィンの悲劇と言えば、今から6年前の2012年にも、自分の母親から 「庭にスカンクがいるから駆除して」 と頼まれた男性が、たまたまこの家で開かれていたハロウィーンパーティーに出席するため黒と白の衣装を着て訪れていた女の子をスカンクと見間違えて銃撃し重傷を負わせるという、日本では考えられない事故もありました。

 

こんな痛ましい事故が何度もありながらも、アメリカという国からは銃がなくなることはないのでしょうネ。うー

 

あらためて、今日二十七回忌を迎える服部剛丈君のご冥福をお祈り致します。

 

 

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私たち中高年世代のゴルフ愛好家にとって、〝AON〟・・・すなわち青木・尾崎・中島の3選手は忘れることの出来ぬ存在。

日本のゴルフ・ブームを支えたビッグ3ですょネ。

その中でも、最初に世界に目を向け積極的に海外の試合に参戦したのが

 

青木 功 選手

 

       

 

 戦時中の1942(昭和17)年に千葉県我孫子市の農家に4人兄弟の末っ子として生まれた青木選手は、当初プロ野球選手に憧れていたそうな。

しかし我孫子中学時代にあと1勝すれば県大会に出場できるという大事な試合にリリーフ投手としてマウンドに上がったもののサヨナラ負けを喫し、あまりの悔しさに野球をやめてしまいます。

部活をしなくなって時間を持て余した彼が始めたのが、我孫子ゴルフ倶楽部でのキャディー。

 

そこですっかりゴルフの魅力に憑りつかれた彼は、中学卒業と同時に東京都民ゴルフ場に就職し、林由郎プロに弟子入り。

22歳の時に2度目の挑戦でプロテストに合格した彼は、一時予選落ちの連続で低迷したものの、プロボクサーの猛練習に触発されて肉体改造を行い、1971年に関東ブロゴルフ選手権で初勝利。

1974年から海外のトーナメントに本格参戦するようになった彼は、1976年には初の賞金王に輝き、日本ゴルフ界のトップ選手に成長しました。

そして今からちょうど40年前の今日・1978(昭和53)年10月16日・・・ロンドン郊外のウェントワースで開催された世界マッチプレー選手権の決勝でニュージーランドのサイモン・オーウェンを3アンド2で下し、見事に優勝。

これが日本人男性選手による海外試合の初制覇でした。

※ただしこの時の優勝賞金30万ポンド(約1,100万円)は、イギリスの高い税金と為替差損により、殆ど手元には残らなかったとか。
ダメだぁ顔

 

その年から1981年まで4年連続の日本ツアー賞金王に輝き、その間翌年の同大会では準優勝、1980年には全米オープンでJ・ニクラウスと4日間の死闘を演じ2位に。

1982年には日本人で初めて米ツアーのシード選手となり、そして翌1983年にはハワイアン・オープンで米ツアー初優勝。

 

※このハワイアン・オープン優勝に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 

 

彼のゴルフ人生の中で全盛期を迎えたのです。

 

そして実は、この快進撃の陰に1人の女性がいました。

 

それは、青木チエ夫人。

 

実は彼女、青木選手が初優勝した関東ブロゴルフ選手権の観戦に行っていて、足元に彼が投げたウィニングボールが転がってきたという、〝運命の人〟だったんです。

普通は赤い糸で結ばれているんですが、ご両人の場合は白いボールが縁結びに。


しかし青木選手には前妻がおり、チエ夫人にもアメリカ人の夫がいました。

その2人がひょんなことから付き合い始め、このマッチプレー選手権優勝時には二人はバツイチ同士で同棲中でした。

彼らが抱き合う写真が新聞に載り、初めて関係が公になったのです。

 

       


その後2人は1980年に入籍しましたから、彼の全盛期と2人の交際が見事にリンクしていたってわけ。

やはり男が頑張るのは、愛する女性がいるからってことでしょうネ。

 

私は、この交際が明るみに出たことで、ひとつ納得したことがありました。

それはそれまでの青木選手は最初の写真のようにスポーツ刈りでウェアの色彩やデザインも頓着ない、正直街のアンチャンみたいな風体だったのに、この世界マッチプレー優勝前後から髪の毛が伸びウェアのセンスが良くなったこと。

       

           『イサオそして私』 (誠文堂新光社・刊

チエさんの自著にも記されていますが、ファッションアドバイスを彼女がするようになって劇的に変わったんです。

その後青木選手がアメリカのシニアツアーに参戦し9勝できたのも、英語ペラペラのチエ夫人が帯同したからこそでしょう。


チエさんは、青木選手にとってまさに〝あげまん〟ですょネ。


私も女王様じゃなくてアゲマンがいいなァ・・・。うー

 

 

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基本的に私は早朝にブログ記事を書いているんですが、その際テレビをクラシック音楽専門チャンネルにして、BGM代わりに聴いています。

先日いつものように聴いていたら、大好きなマーラーの交響曲第1番『巨人』 が流れてきました。

なかなか良い演奏だったので、誰が? とテレビ画面を見たら、指揮しているのは、サー・サイモン・ラトル。

       

今年6月まで世界最高峰のオーケストラ、ベルリンフィルハーモニーの首席指揮者兼音楽監督だった超一流ですから、良い響きになるのは当然。

じゃあオケもベルリン・フィル・・・かと思ったら、画面に映ったのは何と子供たち!

    

 

    

ビックリして番組表を見たら、演奏しているのは8~13歳の子供たちによって構成されたベネズエラ国立子供交響楽団。

知らずに聴いていた時はブロの交響楽団による演奏だと思っていた私は、本当にたまげました。

調べてみると、何でも彼らは1975年にベネズエラの経済学者で音楽家だったホセ・アントニオアブレウ博士が音楽の社会運動と犯罪防止を目的として設立した


 エル・システマ


という国民的育成プログラムに参加している子供たち。

首にかけているのは、ベネズエラ国旗の3色を表しているのでしょう。

 

しばらくテレビ画面を見つつ演奏を聴き入りましたが、本当に大人のオケと変わらぬ音色。

この演奏が行われたのが有名なザルツブルグ音楽祭だったとのことで二度ビックリしましたが、耳の肥えた聴衆から終了後割れんばかりの拍手が鳴り止まなかったことが、その演奏のクオリティーの高さを証明しています。

 

    

 

ラトルはかねてよりこのカル・システマを支援してきたそうですから、彼の優れた指導法に100人を超えるオケ・メンバーが見事に応え成長したという事なのでしょう。

2013年に行われた素晴らしいその演奏の一部を、こちらでご覧いただけます。

 

 

こんな画期的な育成プログラム、日本にはないのか? と思って調べたら、ちゃんとありました。

その名も一般社団法人エル・システマジャパン。


東日本大震災が起きた後、被災地の子供たちを支援するため2012年年3月に設立され、地方自治体との協力のもと、音楽を通して生きる力を育む事業を実施しているとのこと。

資金は募金・寄付・相馬市や駒ケ根市へのふるさと納税などで賄われているようですので、是非HPをご覧いただいた上でご協力いただきたく・・・。

 

     http://www.elsistemajapan.org/

 

でも出来ればベネズエラのように、国立の子供交響楽団を作ってもらいたいですけどネ。扇子

 

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「記録は破られるためにある」 と言いますが・・・数ある世界記録の中でも、最も人類の進化を象徴するのは、陸上の男子100mでしょう。


過去何人もの選手がこの競技で記録を更新してきましたが、その中でも大きな節目である〝10秒の壁〟を、アメリカの

 

   ジム・ハインズ  選手
       James Ray "Jim" Hines

 

が人類史上初めて破る9秒95をマークしたのが、今からちょうど50年前の今日・1968年10月14日・・・メキシコ五輪の決勝レースでのことでした。

 

           

 

1946年にアーカンソー州で生まれたハインズは、元々野球選手。

 

しかしその走力をコーチに見出され、また東京五輪金メダリストのボブ・ヘイズ選手に憧れていた彼は陸上競技に転向。

 ※ヘイズ選手に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 

1868年6月に行われた五輪予選を兼ねた全米陸上選手権では手動計時で史上初めて10秒を切る9秒9をマーク。

 

そして世界中が歴史的瞬間を待ち望む中、全員が黒人選手というオリンピック史上初の決勝レースで見事新記録を樹立したのです。

 

※その歴史的レースの模様は、こちら。(

 

   

元々この大会は標高2,240mという高地のメキシコシティーで開催され、短距離種目には有利と言われていました。

実際走り幅跳びでは、アメリカのビーモン選手が8m90という、それまでの記録を一気に55cmも上回る〝オバケ〟記録を叩き出しました。

 

この記録はM・パウエル選手に5cm破られるまで23年も要し、現在でも世界歴代2位の記録として残っています。

 

そしてこの夢の記録9秒95も、1983年にC・スミスが0.02秒上回る9秒93を記録するまで15年間も世界記録であり続けました。

 

400mリレーでも金メダルを獲得した彼は、その後ヘイズ選手同様アメリカン・フットボールのプロ選手になりましたが、1シーズン・11試合に出場しただけで引退。

ただスピードがあるだけでは通用しないことを証明する結果に。

この辺り、やはり日本の代表的スプリンターだった飯島秀雄選手が代走専門としてプロ野球・ロッテオリオンズに入団したもののパッとしなかったことと似ています。

 

さて、よく 「人類史上、最速の男は誰か?」 という話題が出ます。

 

もちろん記録から見れば、現代の選手の方が早いのは事実ですが、距離は同じ100mでも時代によってトラックやシューズなど用具は昔とかなり違います。

 

例えば東京五輪で手動計時10秒0の世界タイ記録で優勝したボブ・ヘイズ選手はレンガを砕いたアンツーカー・トラックの、それも他の種目で多くの選手が走る荒れた第1コースでした。

 

またハインズ選手の走ったメキシコ五輪のトラックは全天候型。

 

そしてカール・ルイス選手やウサイン・ボルト選手の履くシューズは100g台の超軽量で、ヘイズ・ハインズ両選手らの時代とは比較になりません。

 

果たして最新技術を駆使した現在のトラックで同じシューズを履いて走らせたら、誰が一番速いのか?

そんな興味のある方に、本を一冊ご紹介しましょう。 書名はズバリ、

 

 『10秒の壁』 (小川 勝・著  集英社新書・刊)

 

        

 

この本には、世界最速の男が誰かを推し量る上で面白いデータが示されています。


今まで9秒台の記録を出した選手は、カール・ルイス選手 (188cm) の43.0歩からモーリス・グリーン選手 (176cm) の45.6歩まで、全員が100mを43~46歩未満で走っているとのこと。

 

ちなみにヘイズ選手は180.3cm、ハインズ選手が183cm。


ところがボルト選手(196cm)の走りをVTRで見ると、なんと彼はたった41歩 (※単純計算で歩幅が2.44m、即ちトップスピード時はタタミ1.5畳弱をひと跨ぎ) で駆け抜けているのです。

ということは、史上最速ランナーはボルトということになりますか。


昨年日本人で初めて10秒を切った桐生祥秀選手は身長175cm。

 

彼はこのストライド理論を打ち破る例外となって、東京五輪でメダルを獲得できるかどうか?

9秒79の記録を持つアメリカのモーリス・グリーン選手が彼と同じ175cmですから、可能性はゼロではないと思うのですが・・・果たして?

 

 

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決して美人ではない・・・なんて言ったらご本人に叱られるかもしれませんが、その色香は独特のものかありました。

今日は、中高年世代には懐かしいその女優


  た い ち  き  わ  こ
 太地 喜和子 さん

の命日・二十七回忌にあたります。

 

        

 

太地(本名の読み方は〝たいじ〟)さんは、1943(昭和18)年に東京都中野区に生まれました。

松陰高等学校在学中だった1959年に東映ニューフェース第6期に合格(同期には千葉真一さんら)すると、東映と専属契約を結び、当初は志村妙子の芸名で端役で出演。

高校を卒業した翌年に東映を離れて前田吟さん・村井邦夫さんらと同期で俳優座養成所に入団。

更にその4年後、『欲望という名の電車』 での杉村春子さんの演技に衝撃を受けた彼女は文学座へ。

翌1968年に日活の『花を喰う蟲』に主演したところを新藤兼人監督に認められ、同年の『藪の中の黒猫』 の主役に抜擢されると、全裸をもいとわぬ体当たりの演技で一躍注目を浴びました。

       

デビューしたての頃、俳優の三國連太郎さんと不倫関係になり半年ほど同棲したそうですが、
三國さんが彼女の魅力に溺れることを恐れて逃げたそうな。

 

俳優の秋野大作さんと1974年に結婚するも、長続きせず離婚。

その後は18代目・中村勘三郎や7代目・尾上菊五郎、更には志村けんさんとも浮名を流しjましたが、

「本当に愛した人は、三國さんだけ。」

と公言していた彼女は、その後再婚することはありませんでした。

そして業界では名うての酒豪として知られていた彼女が文学座の劇団員2人とスナックのママと4人で深酒をした挙句に

「海を見に行きたい。」

と言い出し、皆で自動車に同乗して伊東市の海岸に出掛けたのは、1992年10月13日の夜。

 

その車がバックして海に転落し、他の3人は助かったものの泳げなかった太地さんだけが水死してしまったのです。

まだ48歳の若さで・・・。

しかし太地さんにはもがいた後は何もなく、その死の真相は謎のまま。

ただこの時は『唐人お吉』の公演期間中・・・そのきちさんが酒におぼれた挙句水死したことと重なっているのは、彼女にきちさんが乗り移ったからなのか、それとも単なる偶然だったのか?

※唐人お吉に関する過去記事は、こちら。(



太地さんの在りし日の姿を、懐かしい日本酒CMでご覧ください。
(2分10秒過ぎから)

 

 

〝妖艶〟という言葉がピッタリだった女優さんのご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3

天国で、また三國さんと再会していることを願いつつ・・・。

 

 

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