ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

案内された席に着くなり、一番上のお義兄様が口を開きました。

 

「アンタ、どういうつもりでそんな葬式にしようってんだい? 

ウチらの田舎じゃ、必ず坊さん呼んでお経あげてもらうんだょ。 

導師がいなくっちゃあ、弟も浮かばれないだろうが!」

 

と、いきなりの先制パンチ!・・・と言いたいところですが、実はこう言われた瞬間、私は


(ははぁ、もしかしたら・・・。)


と逆にちょっと安心したのです。

 

「お義兄様のおっしゃることも、もっともだと思います。では何故こういう形になったのか、最初からご説明させてください。」


と、私からこれまでの経緯をお話しました。

 

◆亡くなられた弟さんが生前からキリスト教信者で、無宗教葬は 

 ご本人の遺志であること。

 

◆無宗教葬という形式は東京近郊では一定の割合で行われており

 決して仏式葬に比べ見劣りするものではないこと。

 

◆ご自宅でも、綺麗な生花祭壇でしっかりとしたお別れができる

 こと。

 

等々ご説明させていただきました。

 

後で判ったのですが、私が推測した通りこの日の午前中、奥様が 「お寺さんは呼ばず、無宗教葬で・・・」と言った時点で義兄姉様たちが怒り出し、もう事情説明ができる状態ではなくなってしまったのだそうです。


「なぁんだ、そうなのかい。 

 本人がそう言ってるんじゃ、しょうがねえなァ。」

 

とお義兄様3人が口々に仰ったことで、何とか打ち合わせを始めることができました。

 

      

 

その後約2時間程の説明の中で、〝強硬派〟はお義姉様1人だけ

・・・お義兄様たちは、どちらかというと彼女に引っ張られている感じであることも分かりました。

(兄弟の中でも、いろいろ力関係はありますものネ。)😅

 

「では、ご葬儀の内容につきましては、ご理解いただいたということでよろしいですか?」

と私。 しかしホッとしたのも束の間、それまで比較的(?)静かだったお義姉様が

「ちょっと待って! 葬儀屋さん、中身はわかったワ。

    それで、その見積金額からいくら値引きしてくれるの?」

 

「エッ?」

 

「ウチの地元じゃ、2割や3割値引きするの当たり前よ! 

 アンタの方からそういう話を出すの、常識じゃなくって?」

 

・・・意表を突かれた私でしたが、とりあえず気を落ち着けてこうお答えしました。

 

「申し訳ございませんが、お義姉様。

弊社ではそういった何割値引きとか、お客様と駆け引きするつもりはないんですょ。


当初のお見積の時から、弊社としてギリギリの金額で提示させていただいていますから。」

 

その後何度か押し問答が続いたのですが、最後にお義姉様からは


「何ょソレ。 値引きしない葬儀屋なんて、信じらんないワ!」

 

あまりのケンカ腰な言い様に、私の頭の中で〝ブチッ〟と音がしまして・・・。

 

「信じられないとまで仰るのでしたら、私としてもこれ以上お手伝いさせていただく事は出来ません。 

 

お義姉様の方で、意に沿うような値引きOKの葬儀社さんをお探しになって下さい。

弊社でお取りした火葬場の予約は、そのままお使いいただけるように手配しますので。」

 

と申し上げてしまいました。


広げた書類を鞄にしまい始めた私の横で、喪主の奥様はオロオロするばかり・・・。

 

 

        ・・・・・To be continued

 

 

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今から121年前の今日・1905(明治38)年5月27日から2日間にわたり、日本の将来を大きく左右した戦闘が行なわれました。 

 

それは司馬遼太郎さんの名作・『坂の上の雲』の主人公の一人、秋山真之が参謀として大活躍した


 日本海海戦

 

南下政策を進めるロシア帝国を相手に、これを阻止せんとする日本が朝鮮半島・満州地域を主戦場として1904(明治37)年2月から開戦した日露戦争は、陸・海軍とも一進一退。

 

長期戦を嫌気した日本がアメリカ・ルーズベルト大統領に依頼した和平交渉も、当時世界一といわれたバルチック艦隊を有するロシア側が拒否。

 

遂に(対馬沖を中心とした)日本海で、我が聨合艦隊とバルチック艦隊の全面対決が不可避となりました。

 

前年8月に起こった黄海開戦で自国の太平洋艦隊が日本に敗れたロシアは、その2ヵ月後にバルチック艦隊の主力を極東に派遣することを決定。

 

バルト海沿岸の軍港を出航し、大西洋から南アフリカの喜望峰・インド洋を回る7ヶ月もの大航海を経て日本海に到達。

   

 

迎え撃つ我が国連合艦隊は、東郷平八郎司令長官指揮の下、

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」

を意味するZ旗を旗艦・三笠(↓)に掲げ士気を鼓舞。

 

2倍の兵力を持つバルチック艦隊に対し、当時常識外とされた敵艦の鼻先で舵を切ってターンする〝丁字戦法 (トーゴー・ターン)〟を敢行して一気に優勢に立つと、翌日の昼前にはロシア側が降伏。

       

 

バルチック艦隊は被撃沈16隻(戦艦6・他10)、自沈5隻、被拿捕6隻という、艦隊の大半を失う大損害を被り、一方連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ。

 

大艦隊同士の決戦としては、世界史上稀に見る圧倒的勝利を収めました。扇子

 

この決戦の大勝利によって戦局は大きく日本側に傾き、ポーツマス講和会議での和平交渉成功に至ります。

 

当時世界最強といわれたバルチック艦隊を東洋の島国艦隊が撃破したことは、世界中から驚異の目で見られました。

 

何故なら、史上初めて非白人小国が白人大国に勝利したから!

 

当時ロシアの圧政に苦しんでいたトルコはこの一報に狂喜乱舞。

 

東郷元帥は国民的英雄となり、子供に〝トーゴー〟と名づける親が続出。


また 道路にも〝トーゴー通り〟が現存しています。

      

 

そして私が誇りに思うのは、同海戦で6,000名以上出たロシア人捕虜に対し、我が国は当時の戦時国際法を忠実に遵守し手厚く保護したこと。

この行為は世界各国から賞賛されたのですが、現在の学校教育における歴史の授業では、こういった功績を殆ど教えていません。

 

先人の立派な行為を子供たちに教えないどころか、いつまでもお詫びを繰り返す現代のヘタレ政治家・官僚たち。

私はおかしいと思うのですが、皆さんは如何?

因みに大東亜戦争後GHQによって廃止させられましたが、5月27日はこの海戦の勝利を祝う『海軍記念日』でした。


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その奥様からお電話をいただいたのは、ご主人様が末期がんの宣告を医師から受けた直後のこと。

 

後日お会いしてご葬儀の事前相談をお受けし、ご希望などをお伺いしながら見積の提示などをさせていただいておりました。

 

それから約2ヵ月後に、奥様からご主人様がご逝去されたというご連絡が・・・。

 

深夜ご自宅にご主人様を安置させていただいたところで、奥様からは

「すみません。主人の兄姉が明朝こちらに来ますので、葬儀の打ち合わせは明日の昼からでよろしいでしょうか?」

とのこと。

 

「わかりました。では明日午後1時に再度お伺いします。」

 

と申し上げ、東の空が明るくなる時間に一旦ご自宅から引き上げた私ですが、ご主人を亡くされた直後とはいえ、どことなく沈んだ奥様の表情に何となく胸騒ぎが・・・。

 

       

 

さて翌日、お約束の時間にご自宅に伺い玄関のチャイムを押したところ、奥様がサッと出てこられて

「ちょ、ちょっとこっちに・・・」

と私を玄関から向かいの道路の方へと手を引っ張るのです。

 

「どうしたんですか?」

 

と聞く私に、奥様は顔をしかめながら小声でこう仰るのです。

 

「今朝到着した主人の兄姉たちに葬儀の段取りを説明したら、『そんな葬式のやり方があるか! 我々は認めないぞ!』って、エラい剣幕なのょ。 あの・・・どうしたらいいですか?」

 

と、今にも泣き出さんばかり。

 

奥様を宥めながらお話を伺うと・・・亡くなったご主人は5人兄弟の末っ子で、自宅に来られたのは3人のお兄様と1人のお姉様なのだとか。

 

東北地方にあるご主人の実家には菩提寺があるものの、末っ子のご主人はそこのお墓に入るつもりはなく、1人だけ上京して会社勤めされていた時に自分のお墓を東京に建てておられました。

 

また、かねてから教会に通われていたキリスト教信者でいらっしゃったのですが、洗礼はお受けになっていなかったので、ご本人は奥様に

「万一の時は自宅で無宗教葬で弔ってほしい。」

と託されていたのです。

 

事前相談の際には、ご主人のご要望に沿ってご提案をさせていただき、見積金額についても納得していただいていたのですが、奥様はそのことを義兄姉に一切話していなかったとのこと。

 

「お願いです! 何とか義兄姉たちを説得してくれませんか?」

 

そ、そんな。 しかしここまで来て「帰ります」なんて言えないし・・・。

 

仕方なく、敵地に1人乗り込むガンマンの気分で再び玄関へ。

 

「すみませ~ん。 お、お邪魔しま~す。・・・」

 

奥様に案内されたリビングルームには、3人の男性が腕組みをして、そして1人の女性が射るような目つきで私を睨んでいます。

 

「おう、待ってたょ葬儀屋さん。 こっちに座っとくれ。」

 

 ・・・か、帰りたい。うー 

 

 

           ・・・・・To be continued.

 

 

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「日本の俳優で、最も総理大臣に適役なのは?」 と問われたら、皆さんは誰の名を挙げられるでしょうか?

 

年代によって答えは様々でしょうが、個人的にはこの方が №1。

 

         そう

  山村 聰  さん

 

今日は、この昭和世代にはお馴染みの名優の命日・二十七回忌にあたります。

 

1910年に奈良県天理市に生まれた山村(本名:古賀寛定)さんは、一高 → 東京帝国大学文学部という秀才コースを歩みましたが、大学卒業後はなぜか研究劇団に入団して役者の道に。

 

戦後1946年に映画に初出演し、1950年には小津安二郎監督作品『宗方姉妹』に主演、第1回ブルーリボン賞・主演男優賞を受賞。 

 

また自らプロダクションを立ち上げて映画監督も務めました。

 

私が山村さんを初めて画面で見たのは、おそらくTVドラマ『ただいま11人』だったと思います。

 

さすがにストーリーは憶えていませんが、(現在では殆ど見られないような)大家族の中で悠然と構えた家長たる父親役・・・という姿がうっすらと脳裏に残っています。

 

そして山村さんは父親役もさることながら、大物役も板についていました。

 

中でも印象的なのは、日米合作映画 『 トラ ・トラ・ トラ!』 における山本五十六元帥役。(

 

   山村聡

 ※同作に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 

その知性と威厳溢れる立ち居振る舞いは大将役の風格十分、本物の山本元帥もかくあらん・・・という名演でした。

 

また時代劇では『あゝ忠臣蔵』(1969年)の大石内蔵助役、『必殺仕掛人』(1972~73年)での元締・音羽屋役や『柳生一族の陰謀』(1978~79年)での柳生宗矩役が見事にハマッてましたネ。

 

また映画・ドラマで通算4度も総理大臣役を演じ、トヨタ・クラウンのCMにも長く起用されたのも頷ける風格ある俳優でした。

 

 

まもなく70歳にならんとする私ですが、今でもああいう威厳のある男になりたい・・・そう思わせる山村さんが急性心筋梗塞で90歳の生涯に幕を閉じたのは、2000(平成12)年5月26日のこと。

 

今宵は久々に映画 『 トラ ・トラ ・トラ!』を観つつ、日本を代表する大物俳優のご冥福をお祈りしたいと存じます。🙏

 

 

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卓越した能力を持ちながら、天の時・地の利に恵まれず本懐を遂げられなかった人物は歴史上何人もいましたが、今日はその一人といえる
 

 楠木 正成

 

の命日・没後690周年にあたります。
 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

夜中に大量の松明を焚いて敵に心理的圧迫を与えるなど、少ない兵力で大軍の敵を苦しめた史上稀にみる策士と伝えられている正成ですが、実は彼の出生を含めた前半生は謎に包まれています。


鎌倉幕府の統治が及ばない河内国(現在の大阪府南河内郡)一帯で、水銀などの流通を生業にしていた豪族(悪党?)だったといわれている彼が歴史の表舞台に立つのは、亡くなるまでの数年間だけ。

 

そんな出自不詳の人物だった正成が、鎌倉幕府打倒を目論む後醍醐天皇に呼応して下赤坂城で挙兵したのは1331年。

僅か500の軍勢ながらゲリラ戦法や糞尿攻撃(!)を駆使して

数万の鎌倉幕府軍を苦しめます。

 

この抵抗に触発され各地で倒幕機運が高まり足利尊氏・新田義貞らが次々挙兵(元弘の乱)したことで、鎌倉幕府は1333年に倒されます。

 

そして後醍醐天皇が流島先の壱岐から入京する際、正成は兵庫まで出迎え、道中警護につきました。

 

後醍醐天皇の信任を得た正成は、〝建武の新政〟が始まると河内

・和泉の守護に。

 

その後新政に背いた足利尊氏を新田義貞と共に駆逐し九州に追いやりますが、その時多くの武将が尊氏につき従って九州に流れたのを目撃し、公家政治の限界と武家社会の再興を感じ取ります。


そして九州で軍勢を整え再び京に上らんとする尊氏との和睦を後醍醐天皇に進言しますが、勝利に酔った朝廷は聞く耳を持たず。

 

揚句に自ら練った策略をも戦の素人である公家に退けられた正成は1336(建武5)年5月25日、死を覚悟して足利軍と対決

。(湊川の戦い)


稀代の策士も圧倒的な兵力の差は如何ともし難く、最期は弟・正季と刺し違えて自害したと伝えられています。


結果的に南朝方についたことで正成は賊軍扱いされましたが、その力量は確かなものだったはず。


撥ねられた彼の首を故郷の親族へ丁重に送り届けさせた敵将・足利尊氏が、

「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」


と最大級の賛辞をもって評価しているのですから。


(また水戸光圀公は、それまで湊川の畑の中で荒れ果てていた正成の小さな塚に自ら筆をとって『嗚呼忠臣楠子之墓』と記した墓石を建立し、主君に忠誠を尽くした正成の精神を高く評価しました。)

 

男子たるもの、正成の如く命懸けで戦った敵から一目置かれる人物になりたいものですネ。

〝男には、負けると分かっていても戦わねばならぬ時がある〟

 

・・・そんな名文句がその生きざまに重なる、稀代の策士の冥福を祈りたいと思います。🙏

ところでこの楠木正成、明治時代は小学生が模範とする人物第1位であり
戦前は日本最大の英雄だったのに、戦後は軍国主義の象徴として批判され教科書から消されていたのだそうな。

確かに私も学校で彼の名を見聞きした記憶がありません。

そんな正成の実像を追った著書が数年前に刊行されています。

 『教科書が教えない楠木正成』 

                   (産経新聞出版・刊)

 

     

 

現在は文庫版もありますので、興味のある方は是非ご一読を。


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3日前の拙ブログ記事にご登場いただいた、〝鬼コーチ〟の至言です。
 

 

 

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表題だけで今日の主人公が誰かは、もうお分かりですょネ。

 

安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した戦国武将にして、初代仙台藩主

 

 伊達藤次郎政宗

 

今日は、この東北が生んだ名将の命日・没後390周年にあたります。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-独眼竜
 

伊達政宗というと、私は39年前の1987(昭和62)年に放映されたNHK大河ドラマ 『独眼竜正宗』で熱演した若き渡辺謙さんのイメージが強烈。

 

映画『ラスト・サムライ』は明治維新の時代設定なのに、彼の演じる勝元は伊達政宗にダブッて見えました。

 

政宗は、藤原鎌足を家系のルーツに持つ伊達家第16代当主・伊達輝宗の嫡男として1567(永禄10)年に生まれましたが、幼少時に天然痘を患ったために右目を失明してしまいます。

 

戦国武将として、秀吉・家康らと互角に渡り合う器量・教養は、幼少時より禅僧・虎哉宗乙に師事したことが大きかったそうな。

 

(その幼少時、養母・喜多に不動明王について教えられた政宗が、「梵天丸(※幼名)もかくありたい。」と言うシーンが『独眼流政宗』で流され、その年の流行語になりました。)

 

早くも15歳で初陣を飾った政宗の器量を見抜いた父・輝宗は、自身がまだ41歳だったにも関わらず家督を譲り、政宗は18歳で第17代伊達家当主に。

 

父の代までは他国から領地を守るのが精一杯でしたが、政宗は積極的に戦を仕掛けて領地を拡大、秀吉の傘下にあった蘆名氏とも交戦(摺上原の戦い)し、これを撃破。

会津地方を制覇し仙台を中心に東北一帯を押さえたものの、秀吉と対立することとなります。

 

先代から同盟関係にあった北条氏を攻める秀吉に、どう対処するか?・・・迷った末に政宗は秀吉に恭順することを決定。 

小田原に出立する前日に自分を毒殺しようとした母親を追放し、実弟・小次郎を斬殺。

 

その後朝鮮出兵に参加するなどしましたが、謀反の嫌疑をかけられるなど幾度かあった存亡の危機を巧みにかわし生き残ります。

 

そして秀吉の死後は家康に接近し、家光には父親代わりのように慕われたようですが、内心では常に天下盗りを画策していたともいわれています。

徳川幕府打倒を画策して支倉常長をローマに派遣するなどしましたが、もし彼に〝地と時の利〟が有りせば、それを実現できるだけの器を持っていたのではないでしょうか?

 

正室の他に側室が7人、14人もの子をもうけ、和歌を始め茶道

・書道・能、さらには戦国武将としては珍しく料理をも嗜んだという、実に濃密かつ波乱万丈の人生を送った政宗が亡くなったのは、1636(寛永13)年5月24日、70歳の時でした。

 

派手な振る舞いで〝伊達男〟という言葉を残したばかりか、映画 『スターウォーズ』のダース・ベイダーのマスクは、彼が用いた〝黒漆五枚胴具足〟の兜をモチーフにしたものだとか。

 

  

 

没後400年近く経った今でも多方面に影響を及ぼす独眼竜

・・・恐るべし!?



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朝っぱらから色っぽいお題で失礼しますが、今日は

 

 キスの日


なのだそうです。

 

その由来は、今からちょうど80年前の今日・・・終戦直後の1946年5月23日に、日本で初めてのキスシーンが描かれた邦画・『はたちの青春』が封切られたことから。

(※しかし厳密に言うと、日本初のキスシーン映画はこの作品より4ヶ月前に公開された 『ニコニコ大会 追ひつ追はれつ』 。

ただしこの映画は22分の短編映画でした。 

ちなみに『はたちの青春 』は72分。)

 

実際には、ほんの少し唇を触れ合わせた程度のキスだったそうですが、当時の観客には衝撃的!

「日本初のキスシーン登場」と宣伝され、映画館は連日超満員。

 

演じたのは大坂志郎さんと幾野道子さん。 

 

2人ともそのシーンの直前までガーゼで口をガードし、決死の覚悟で演じたそうな。

 

     

 

ただ個人的には、大坂志郎さんというとTVドラマシリーズ・『大岡越前』の同心役が印象強く・・・彼が日本初のキスシーンを演じたと聞くと、どうしてもちょんまげ姿の彼が接吻しているシーンが頭に浮かんでしまいます。😅

 

      

 

ところで、このキスシーン・・・実はGHQが関わっていたんですって。

 

というのも、この映画の前に公開された作品では恋人同士のキスシーンを傘で隠して撮影したのですが、

 

「キスを見せないのは不自然だ」

 

とGHQが映画会社にクレームをつけたために、本作品では晴れて(?)オープンになったというのです。

 

まぁ、アメリカ文化導入の一端を垣間見る思いがしますネ。

 

ちなみに、そのアメリカで初めてキスシーンが公開されたのは1896(明治29)年・・・映画の題名もズバリ、『The Kiss 』。

 

ところが面白い事に、いざキスシーンが銀幕に映し出されると映画館内はざわめき、口笛を吹く者も。 

 

新聞等で 「公序良俗に反する」と批判され、結局映画史上初の検閲映画として上映禁止になったとか。 😲ヘェ~

 

キスの本場(?)アメリカにも、そんな黎明期があったとは。

 

ところで皆さんは、恋人や奥様・ご主人との初キスを憶えていますか?

 

えっ、私?

 

そりゃあ、もう・・・我が女房との初キスは甘酸っぱいとかそういうものではなく、あの衝撃的な一瞬は忘れられません。

 

あれは、とあるレストランで食事をした後の・・・・っと、危ない危ない。

 

うっかりバラしたら女王様に殺されますので、ここから先は皆さんの想像にお任せしますネ。😅

 

 

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『太閤記』 などに、豊臣秀吉の家臣としてその名が出てくる

 

 蜂須賀 小六(正勝)

 

彼は歴とした実在の人物であり、今日が彼の命日・没後440周年にあたります。

 

秀吉が生まれる11年前の1526(大永6)年に蜂須賀正利の長男として生まれた小六は、時代小説などで野盗や野武士のように描かれ、とかく秀吉とは偶然に出会ったような設定になっています。

 

しかし実際は尾張の蜂須賀郷を拠点とした領主の子孫であり、1553年に父が亡くなった後は齋藤道三に、その後織田家に仕えたことがあるものの、基本的には木曽川中洲を本拠地にしていた武装集団・川波衆を束ねる独立系の武将だったとか。

また秀吉の父・木下弥右衛門が蜂須賀正利に仕えていたとされ、その縁で秀吉は幼少期から小六とも面識があったと思われます。
 

そして彼は〝顔中髭だらけの荒くれ男〟というイメージで時代劇に登場しがちですが、実際にはこんなスッキリした顔立ちの方だったようです。(↓)

 

         

 

小六の名が一躍表舞台に躍り出たのは、木下藤吉郎(秀吉)が信長の命を受け、佐久間信盛・柴田勝家が果たせなかった 〝墨俣一夜城〟 の築城に大きく貢献してからのこと。

 

齋藤道三の攻撃を凌ぎつつ軟弱な土壌に短期間で築城することは

、地元の人脈・地理・河川事情に通じた川並衆を差配できた彼の存在なくしては成し得なかったといわれています。

 

その後も秀吉の毛利征伐に同道するなどして軍功を挙げましたが

、その恩賞として与えられた阿波一国を息子・家政に譲り、更に自分よりも後から秀吉に仕えた武将を立てて、ひたすら年下の主君・秀吉のそばに仕え続け、

 

「秀吉の動くところ正勝のあらざるなく」

 

とまで言われたという蜂須賀小六。

 

こんな腹心が1人でもいてくれたら・・・そう思う経営トップも多いのではないでしょうか?

 

秀吉が世を去る12年前・1586(天正14)年5月22日に彼は60歳の生涯を閉じますが、息子・家政も秀吉に仕えて小田原征伐や文禄・慶長の役に従軍し、徳島城主として君臨。

 

その家政の子・至鎮は家康の養女を妻に迎えたことから東軍に属し、以後蜂須賀氏は徳川大名として明治維新まで家を継いだ由。

 

秀吉の〝腹心〟は豪放磊落というより、あたかも〝ミニ家康〟。
 

己の分を弁え、年下でも有能な上司・秀吉に尽くして一族を守った、深慮遠謀の智将だったようです。

 

さて、この蜂須賀小六の子孫が芸能界で活躍しているのをご存知でしょうか?

それは、この方・・・。

      

そう、女優・タレントの釈由美子さん。

彼女の本姓は〝釋〟であり、これは蜂須賀小六の末裔が出家して四国に渡った際に改名したものだとか。

もっとも、これは釈さん本人が仰っていることなんですけどネ。

信じるか信じないかは、貴方次第ですが・・・。

 

 

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我が愛読誌・月刊『致知』6月号に、アーティスティックスイミング(旧シンクロナイズドスイミング)の井村雅代氏とサッカーの岡田武史氏、元日本代表コーチと元代表監督ご両人の対談が掲載されていました。

今日はこの実績を積み上げた両指導者のコーチ論を抜粋してご紹介致します。

お二人の自ら語った経歴を拝見すると、当然ながら若い頃にはいろいろな苦労をされた由。

井村コーチは、大学を卒業して最初に赴任したのが大変に荒れた中学校だったそうな。

(ちなみにそれは岡田氏の出身中学で、彼が卒業した翌年に井村氏が赴任した由。)😅

窓ガラスが割られたり、黒板にナイフが突き刺さるような荒れ方で、中にはビビッて見て見ぬふりをする教師もいた中、井村氏は「殺すぞ」と脅されながらも蒜まず生徒と正面から向き合い、髪の毛にカールをかけた女子生徒にタオルを貸して無理やり洗髪させてストレートに直させるなどしたそうな。

まるで竹刀を手に生徒を追いかけ回したスクールウォーズ・泣き虫先生の女性版・・・でもそこまでして生徒と向き合わなければ

厳しいことを言っても生徒はついてこないと。

また岡田氏も35歳の時に社会人チームのコーチに就任し、選手たちの意向を尊重し彼らのやりたいように練習させたものの勝てなくなり、2年で行き詰った末にドイツ語が全く出来ないにもかかわらずドイツ留学を決意し家族を連れて2年間未知の地に身を置いたそうな。

そこで学んだのは、監督と選手は立場が違う、選手の嫌がることをやらせなきゃダメだということ。

     

最近は「褒めて伸ばす」のが流行り(?)のようですが、私は常々(褒めるだけじゃ精神的に脆くなってダメだろ)と思っていました。

お二人とも同じ考え方のようで、𠮟ることも大事だと仰っていますが、問題はその叱り方。

井村氏は、叱るコツは3つあると。

① 間髪入れずにオンタイムで。
② (ただ叱るだけでなく)直す方法を教えること。
③ それでОKなのかNGなのかをはっきり伝えること。


岡田氏も同意見で、例えば試合中にミスがあったらその場で声をかけないとダメ、ハーフタイムや試合後のミーティングで叱っても意味がないと仰っています。

例えが悪いかもしれませんが、犬だって何か粗相をやらかしたらその場で叱らないと、時間をおいてから頭を叩いても何で叱られたのか分からないっていいますからネ。😰

でもこれって、監督・コーチと選手の話だけでなく、親子関係にも通じる話だと思いませんか?

 

褒める時は褒める、でも叱るべき時は本気で叱る・・・お二人が仰る通り「人間誰しも〝いい人〟でいたい、でも指導者は時に鬼とならねばならない」と、選手も子供も伸びないでしょう。

最近は甘いというか子供と友人関係になろうとしたがる親が多いそうですが、それは結界的に子供のためにならないと私は思うんですが、いかがなもんでしょうか?

 

 

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