ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

今日は、私の葬儀屋時代の経験の中で〝最も残念な思ひ出話〟をご披露致します。
 

以前弊社で葬儀のご相談をお受けした、Aさんという男性のお客様がいらっしゃいました。

 

医師から余命を告げられた方がいらっしゃるとの事でしたが、その方の奥様がとても葬儀の打ち合わせができる状態ではない・・・ということで、Aさんが代わって連絡をよこされたのです。

 

ご対象者の男性は、今は既に引退されているとはいえ当時某業界において中堅クラスに位置する会社の創業者であった由。

Aさんは血縁関係はないものの、その創業者の後を継いだ社長さんでした。

 

社葬となれば数多くの会葬者がお見えになるとのことで、それなりの規模になることが予想され、ご希望に沿って見積書をご提示すると同時に、万一の際の段取りもご説明させていただきました。

 

A社長からは、「よく分かりました。万一の時はよろしくお願いします。」とご納得をいただけたのですが・・・。

 

それから約2ヶ月後の早朝、そのA社長から電話が。

 

「あの~、実は今朝未明に亡くなったんですが・・・。」

 

ところが、どことなく様子がおかしいのです。

 

「そうですか、誠にご愁傷様です。 

A社長、何かあったのですか?」

 

とお尋ねしたところ、彼の口から出た言葉は全く予想外の事態でした。

 

深夜に容態が急変して亡くなられた時、枕元にいらしたのは奥様一人だけだったとのこと。

 

事前の打ち合わせでは、まず弊社に一報を入れていただくようお願いしていたのですが、突然の事態を一人で迎えてしまった奥様はパニック状態に陥ってしまい、ただご主人にすがりついて泣き叫ぶばかりだったそうな。

 

A社長にご逝去の連絡を入れたのは、奥様の様子を見かねた病院の当直看護士さんだったそうで・・・亡くなられてから2時間以上経ってA社長が病院に到着したところ、ナント奥様は病院の提携葬儀社の執拗な勧誘(?)に遭い、混乱の中ご遺体の搬送をその葬儀社に依頼してしまっており、もう出発寸前の状態だったというのです。 

 

Aさんが 「なんで違う葬儀社に依頼したんですか?」 と聞いても、
半ば錯乱状態の奥様は、

 

「もう、どうでもいいのょ。 私の好きにさせて!」

 

と、取り付く島も無かったとのこと。

 

「すみませんネ、渡辺さん。 いろいろ教えていただいたのに・・・。」

 

と電話口で申し訳なさそうに謝ってくださるA社長に、私は

 

「いいえ、こちらこそお役に立てなくてすみませんでした。 もし今後何か不明の点などありましたら、ご遠慮なくご相談下さい。」

 

と申し上げて電話を切ったのですが・・・私が驚いたのは、その日の夕方でした。

 

「ちょっと渡辺さん、聞いて下さいョ!」

と、再びAさんから電話があったのです。

 

その日の午後、病院で搬送依頼を取り付けた葬儀社が提示してきた見積金額は、弊社の提示金額の役2倍、差額にして・・・ナント約500万円以上!も高かったと言うのです。

 

落ち着きを取り戻した奥様があらためて見積書を見比べ、愕然としたそうですが・・・既にその葬儀社の手により納棺も済ませてしまっており、今更キャンセル出来なかったとのこと。 😰

 

事前の打ち合わせ通り、奥様が弊社に電話をかけてくれてさえいれば・・・と思うと、やり切れない思いでした。

 

失敗・後悔しない葬儀を執り行うためには、

 

◆ 見積書を取り付けるなどして、事前に信頼できる葬儀社・担当者を決めておくこと

 

が必須条件。 そしてもうひとつ・・・

 

◆ 万一の事態を迎えても絶対に慌てず、落ち着いて行動すること

 

が大切なのです。

 

どうか皆様、くれぐれもお気をつけ下さい。

 

※念のため申し上げますが、病院と提携している葬儀社が全て今回のような(営業)手法を用いるわけではありません。

 

 

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野球少年だったのに通った中学校には何故か野球部がなく、仕方なく来るべき高校野球に向けて体力をつけようと、一番練習がハードだったバスケット部に籍を置いた私。

 

しかし腰掛けのつもりがだんだん熱が入ってきて、いつしか〝中学生活≒バスケット部〟に。

上級生を差し置いて唯一2年生でスタメンに選ばれ、そしてキャプテンになった3年生の時はもう少しで全国大会出場というところまで行ったんですョ。

 

その時の雄姿(?)が下の写真ですが・・・いや~、痩せてました。😅

 

       中学バスケ

 

まぁ、それはともかく・・・写真で注目していただきたいのは、履いているデカいバスケット・シューズなんです。

 

当時はキャンバス(布)製のシューズが当たり前の時代。

 

しかし〝幅広・甲高〟の私には、コンバースなどの外国製シューズは欧米人向きの細長い形状で全く合わず。

 

また目立ちたがりだった故に地味なシューズはイヤ・・・おまけにサイズは29cm(!)という、当時は地元実業団でもいないような〝バ○の大足〟。

 

満足のいくシューズがなくて困っていたのですが、ちょうどその頃に〝ファブレ〟というブランド名で皮革製の国産バスケットシューズが発売になったのです。

 

私の足型にピッタリの履きやすそうなシューズで、たちまち気に入りスポーツ用品店で購入。

 

以来、メーカーの 『オニツカ・タイガー』 には、トレーニングシューズや野球のスパイク等、現在もゴルフシューズでお世話になりっ放し。

 

このシューズ・メーカー(現・アシックス)を一代にして築き上げたのが、

 

 鬼塚 喜八郎 

 

今日は、スポーツ界に多大な貢献をされた、この創業社長の命日・十七回忌にあたります。

 

     

 

鬼塚(旧姓・坂口)氏は1918(大正7)年、現在の鳥取市で農家の5人兄弟の末っ子として生まれました。 

 

中学卒業後は徴兵で陸軍に配属され、大東亜戦争ではビルマへ。

そして大本営守備隊として長野県松代で終戦を迎えます。

 

里帰りした後、軍隊時代に尊敬していた上官から頼まれて世話をした鬼塚夫妻と養子縁組し、鬼塚姓を名乗ることに。

 

そして移り住んだ神戸の惨状を目の当たりして、

「戦友たちは子供のために命を投げうったのに、なんてザマだ。
オレは日本の
将来を担う青少年のために一生を尽くす。」

 

そう決心した鬼塚氏は、戦友だった兵庫県教委・堀保健体育課長から 「青少年がスポーツに打ち込める良い靴を作って欲しい」 と依頼されて一念発起。

 

運動靴作りに関して全くの素人だった彼は靴職人に弟子入りして猛特訓を受け、1949年に社員4人の 『鬼塚株式会社』 を設立。

 

最初に手がけたのが、私がお世話になったバスケットシューズでした。

 

日々体育館に通ってボール拾いを手伝いながら選手の要望を聞き出し、1951年にタコの足からヒントを得た吸盤型の靴底を開発。 

 

当初は無名ながら全国の競技大会に売り込むなど積極的な営業活動を展開し、徐々に知名度を上げていきます。

 

そしてシューズのブランドを、強さと俊敏性をイメージさせる 〝虎〟 とあわせて 『オニツカ・タイガー』 と命名。

 

一時肺結核を患いながらも病床から部下に指示を出し続け、1956年にはメルボルン五輪・日本選手団のトレーニングシューズに採用され、更にはマラソンのアベベ選手にシューズを提供するなど、日本のトップブランドとして認知されるように。

 

1977年には国際競争力をつけるため同業2社と合併して 『アシックス』 と改称。

 

2007(平成19)年9月29日に心不全で89歳の生涯に幕を閉じるまで会長として陣頭指揮を取り、同社を総合スポーツ用品の世界トップメーカーへと成長させました。

 

      
      自著・『転んだら起きればいい!』 (PHP研究所・刊)

自分の持ち株の70%を全社員に分け与え、社員の仲人も積極的に引き受けるなど徹底した家族主義経営を貫いた鬼塚氏の経営の原点は〝私心なき素直な心〟だったといいます。

 

「自分だけ儲かればいい」 かの如きドライな欧米型経営が持て囃される昨今の財界・経営者は、再度注目すべき理念だと私には思えるのですが、いかがでしょうか?

 

葬儀にはイチロー選手や高橋尚子さんなど数多くのアスリートが参列した程、スポーツを通した青少年育成のために生涯を捧げた大経営者のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3

 

 

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100年以上に及ぶオリンピックの歴史の中で、日本が獲得した金メダルは夏・冬合わせて186個。 

 

1人で複数獲得した方もいらっしゃいますが、チームで獲得したものを含めると、優に100名以上の日本人が金メダリストとして脚光を浴びたわけです。

 

既に何人かは鬼籍に入られていますが、この方ほど悲劇的な最期を遂げた金メダリストはいない、と私は思っています。

 

それは1964(昭和39)年に開催された東京五輪において、柔道・重量級で優勝した

 

 猪 熊  功  さん

 

今日は、〝昭和の三四郎〟といわれたこの名選手の命日・二十三回忌にあたります。

 

猪熊さんは1938(昭和13)年に、神奈川県横須賀市で生まれのました。

東京教育大(現・筑波大)在学中の1959年に全日本選手権で優勝し、史上初めて学生の柔道日本一に。

 

その後も好敵手・神永昭夫選手とともに日本柔道界を牽引。

東京五輪では173cm・86kgという小兵ながら、決勝で自分より30kgも重いカナダ選手を一本背負いで投げ飛ばし、日本国民の期待に応えて見事金メダルを獲得。

 

     猪熊功

 

翌1965年の世界選手権・無差別級で優勝後に引退した後は、世界柔道連盟の会長となった東海大・松前総長の秘書を務めたり東海大学教授となって山下泰裕選手を指導するなど、柔道界に多大な貢献をされました。

人気柔道漫画 『YAWARA!』 の主人公・猪熊柔の祖父・猪熊滋悟郎のモデルでもあった彼の運命を大きく変えたのは、28歳の時に東海大学の系列会社・東海建設に常務として入社したこと。

 

柔道の人脈を生かして大手ゼネコンとの資本関係を築き、入社時年商15億だった同社を200億円の中堅ゼネコンに育て上げた猪熊さんは、1993年同社社長に就任。

 

しかしバブル崩壊後、業績は急速に悪化・・・そして銀行からの融資も打ち切られ、万策尽きた猪熊社長は、会社整理直前に残る資金で社員の給料を支払った後、2001(平成13)年9月28日に自らの命を絶ったのです。

 

63歳・・・まだまだこれから、と思われる年齢なのに。

 

私が猪熊社長の死に関して特別の想いを抱くのは、その2ヶ月程後に出た雑誌に彼の最期の様子が手記として公開されたからでした。

 

     猪熊功

 

〝遺書公開 猪熊功 「自刃までの2週間」〟と題されたこの手記の著者は、同社社長室長として猪熊さんに最後まで仕えた人物。

 

そして猪熊社長の自刃の現場に立ち会い、最期を見届けた本人なのです。

 

倒産を免れないと分かった時から、猪熊社長は 「会社を託してくださった松前総長に申し訳が立たない」 と自決を覚悟。


それから約2週間にわたり〝自決を確実に行うための合宿〟を行い、松前総長の遺影写真を飾った社長室で、海軍軍人だったお父上から遺贈された刃渡り40cmの脇差しを自らの首に突き刺し失血死に至る過程は、壮絶の一語に尽きます。

 

またその間に猪熊さん本人が残した日誌(遺書)は、社長としての無念や苦しさ、死に向かう潔さが連綿と記されており、今読み返してみても胸が苦しくなります。

 

猪熊さんは金メダリスト・経営者である前に、柔道家・・・いや、恥を恐れ義を重んじる〝武士〟だったのでしょう。

 

元経営者同士として、また同じ男性としての生き様を考えさせられる、猪熊さんの身の処し方・・・あらためて悲劇の金メダリスト・〝昭和の三四郎〟のご冥福を、心よりお祈り致します。笑3


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今から78年前の今日・1945(昭和20)年9月27日、日本の将来を決定づけたと言っても過言ではない会見が行われました。

話し合ったのは、昭和天皇とマッカーサー元帥のお二人。

この会見の約1ヶ月前の8月30日に、マッカーサーが来日。


その3日後・9月2日に戦艦ミズーリの甲板で降伏文書に調印(↓)が行われると、GHQは本部を横浜から皇居脇に移転。

 

そして9月11日、事前通告なしに東条英機元首相ら37名を戦争犯罪人として逮捕・拘留しました。

 

時を同じくしてアメリカでは天皇を戦犯として裁く決議案が議会に提出され、連合国の中にも天皇に対して厳罰を要求する空気が存在する中、何としてもそれを避けたい日本側は緊張に包まれます。

 

そんな中で昭和天皇が極秘で赤坂のアメリカ大使館に出向き、マッカーサーと通訳1人(外務省の奥村勝蔵・御用掛)を介して2人だけで37分間話し合ったのです。

 

その中身については、当初両国とも公表せず。

 

天皇陛下も 「マッカーサー司令官と、これはどこにも言わないと約束を交わしたことですから。 男子の一言の如きは、守らなければならない。」 と後日記者会見で述べられ、内容を明かされていません。

 

しかしマッカーサーは、後の回想記で次のように述べています。

 

『天皇は、「私は国民が戦争遂行するにあたって、政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」 とおっしゃった。

 

私はこの瞬間、私の前にいる天皇が日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである。』

 

会見終了後、マッカーサーの天皇陛下に対する態度は一変。

 

予定になかったにもかかわらず、彼は自ら天皇陛下を玄関までお見送りして最大の敬意を表わしたといいます。

 

そしてこの約2ヵ月後、アメリカ本国からの天皇の戦争責任に関する調査要請に対し、マッカーサー 「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」 と回答。

 

結果、翌年公布された日本国憲法・第一条には 「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって・・・」 と起草されるに至りました。


そしてこの2日後・29日の朝刊全紙に、会見に先立って撮影された1枚の写真が掲載されました。

 

    ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-昭和天皇とマッカーサー

 

それまで〝現人神(あらひとがみ)〟であった天皇が新聞紙上に写真で姿をお見せになったことはもちろん、陛下がモーニングの正装で直立されているのに対し戦勝国のトップが軍服姿でしかも両手を脇にあてているラフな姿勢はあまりに対照的であり、これを見た当時の国民にとっては衝撃的な1枚であったはず。
(※撮影された写真は全部で3枚。)

 

ではなぜこの写真が翌日の朝刊ではなく2日後になったのか?

実は翌日の新聞各紙は、会見の事実を報道したものの 「不敬にあたる」 という政府の指示で写真を掲載しなかったのです。

 

これにGHQが激怒、掲載命令を下し翌日の新聞一面を飾ることに。

 

日本が敗戦国になったことを、あらためて国民に知らしめる視覚効果を狙ったことは確かでしょうネ。

 

それはともかく、国家の将来を慮って我が身を差し出す決意で自ら会見に赴かれた昭和天皇・・・岸田総理ら現代の政治家に、これ程の覚悟と行動力があるや、なしや?

 

 

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我が愛読誌・月刊『致知』10月号に、WBCで侍ジャパンを優勝に導いた栗山英樹監督と臨済宗円覚寺派・横田南嶺管長の異色(?)対談が掲載されていました。

その中で、今日は栗山監督が私が野球界で最も尊敬する王貞治氏とのふれあいについて記された部分をご紹介致します。

   

            表紙写真・栗山監督

     ◆     ◆     ◆     ◆
 

僕はWBCで89という背番号をつけさせてもらいました。

これは第1回大会の監督を務められた王貞治さんがつけていた番号なんです。

これまで歴代の代表監督は全員違う背番号をつけていましたが、僕にとって神様のような存在である王さんの番号、しかも〝野球〟の〝89〟なので、この原点の背番号をぜひ使わせてもらいたいと、王さんに連絡させてもらったら快諾して下さったのです。

     

 

その時、「思うとおりにやりなさい」と励まして下さったんですけど、王さんの言葉で感動したことが2つありました。

ひとつは、ダイエーの監督に就任した初年、不振続きでファンが暴徒化し、監督や選手の乗るバスに生卵をぶつける事件が起きました。

その時に王さんは怒るんじゃなくて、

「これを見ろ、プロは勝たなきゃいけないんだ」って選手を諭したと伝え聞いたんですけど、それが本当か確かめたくて質問したんです。

すると王さんは首を縦に振って、

「文句を言いたいくらい真剣に応援してくれる人たちがいないと、我々プロ野球は成り立たないんだ。
そういう人たちに喜んでもらうために野球をやるんだ。
それを忘れちゃいけない。」

と。 もうひとつ聞いたのは

「もしもう1回人生があるとしたら、王選手になりたいか、王監督になりたいか、どっちですか?」

868本もホームランを打っているので、僕は選手って答えると思っていました。 そうしたら

「いや、ホームランを打つのもいいけどネ、監督はたくさんの選手のためになれるんだょ。」

と仰ったんです。

僕はこの2つの言葉がすごく響いて、プロとして監督として責任をしっかり果たさなきゃと思いましたネ。


     ◆     ◆     ◆     ◆

栗山監督は現役時代(ご自身が言う通り)大した実績を残せませんでしたが、引退後は進んで人間学を学ぶ努力をしたそうな。

だからこそ王監督の言葉に感動し、また同じように侍ジャパンを優勝に導いた・・・私にはそう思えてなりません。

 

 

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9月25日と10円・・・これだけでピンッ!ときた方は、かなりのカレー通でしょう。

 

そうです。 今日は、日比谷松本楼の〝10円カレーチャリティ〟が午前11時から行われるのです。

 

1,000名様限定の毎年恒例イベントですネ。
 

日比谷松本楼は、1903(明治36)年の日比谷公園と同時に開店した、超老舗のレストラン。

今年は開業120周年にあたります。

※ということで、今年は120円以上の寄付金をお願いするそうですが・・・。

 

当時は、松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲むのが、銀座を闊歩する「モボ・モガ」(って、若い人にはわからないか?😅)にとって最先端の流行だったそうな・・・。

 

しかし1971年に、沖縄返還協定に反対する暴動学生により放火され、松本楼は全焼。

 

それから約2年後、即ち今からちょうど50年前の1973(昭和48)年9月25日に新生・松本楼が営業を再開。

その時の感謝の気持ちを込めて、以来毎年この日に10円カレーチャリティセールを行うこととなったのです。

 

   

 

この松本楼は、中国の〝国父〟と言われる孫文と関わりが深いことで知られています。

 

現在松本楼の代表取締役社長を務める小阪文乃氏の曽祖父であり、日活の創始者である梅屋庄吉氏が27歳の時、香港で29歳の孫文と初めて出会い「アジアは独立自尊の道を確保すべき」という思想で意気投合、「君は兵を挙げよ、我は財を以って支援す」と盟約を結びます。

 

以来梅屋氏は、映画産業で得た莫大な私財を投じて孫文の革命活動を生涯を通じて支援し続けたのです。

   
          梅屋夫妻と孫文(中央)

 

孫文自身も松本楼を利用し、また梅屋氏も彼を紹介するために幾度となく各界名士を松本楼に招待して宴会を催したとか・・・。

 

松本楼〝復活の日〟と言える今日が、孫文の誕生日でもあるのは、単なる偶然だったのでしょうか?

 

孫文に対して惜しみない支援を行いながら、彼に対しては何も見返りを求めなかった梅屋氏。

 

そんな彼の口癖は「己を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」。

 

そして座右の銘は「犠牲」であったといいます。

 

今日10円カレーを口に出来る人も、そして私を含めて食べられない人も、この梅屋氏の精神を噛みしめたいものです。

 


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戦後の自虐教育のおかげか、古き良き日本人の民族性を知らない若者が多いように感じます。

今日は、そんな若者に是非読んでいただきたい良書・・・Jリーグを創設した川淵三郎キャプテンが読んで感涙にむせんだ、という一冊をご紹介致します。

 

 『逝きし世の面影』 

           (渡辺京二・著 平凡社ライブラリー・刊)

 

   

同書は、幕末から明治維新後にかけて来日した外国人が残した自身の日本における目撃・経験談をまとめたもの。

西洋人が見た極東の異文化は驚きの連続だったようですが、それは決してオリエンタリズムに感化され色眼鏡で見たものではなく率直な感想・実感が語られたものであり、ある意味当時の日本人を生き生きと描いているといえましょう。

非常に多くの文献が引用されていますが、例えばこんな記述が・・・。

◆彼ら(日本人)は私に不信を抱いたりあつかましくふるまうことは一度もなく、時には道案内のために、世話好きではあるが控えめな態度でかなりの道のりをついて来たり、あるいは子供たちにそれを命じたりした。
子供たちは外国人とばったりと出会うと叫び声をあげて逃げ去ったが、知り合いになるとすぐに打ち解け、群れをなして 「おはよう」 と挨拶した。

◆その日の旅程を終えて宿に着いた時、馬の革帯がひとつなくなっていた。 もう暗くなっていたのに、宿の男はそれを探しに1里(4km)も引き返し、私が何銭か与えようとしてのを「目的地まで全ての物をきちんと届けるのが自分の責任だと言って拒んだ。

 

◆みっともない格好の女は、休息した場所で普通2,3銭を断固として受け取らなかった。 私がお茶ではなく水を飲んだからだと言うのだ。 私が無理に金を渡すと、彼女はそれを同行の通訳に返した。

 

◆これ以上幸せそうな人々は、どこを探しても見当たらない。 喋り笑いながら彼らは行く。 遠くでも近くでも 「おはよう」、「おはようございます」 とか、「さよなら」 というきれいな挨拶が空気を満たす。 夜なら 「おやすみなさい」 という挨拶が。 この小さい人々が街頭でお互いに交わす深いお辞儀は、優雅さと明白な善意を示していて魅力的だ。

貧しくても、礼儀正しく快活で笑いが絶えない当時の日本人の姿を、多くの外国人がそこかしこで見かけ証言しています。

そして〝お・も・て・な・し〟の精神も、無意識に発揮されていることも・・・。

 

    

            外国人が描いた〝口上を述べる〟の図

また、隣国との比較で、こんなことを書き残した方もいました。

◆支那に長らく住んで、その背景の単調、その沿岸の不毛、ピエル・ロッティが『黄金の地獄』と言った、ヨーロッパ人がひどく嫌う恐ろしく醜い人間の群れが、汚い暮しをしているあの支那の部落の不潔を見慣れた者にとって、この日本との対照は全く驚異に値するものだった。

かつて 〝黄金の国・ジパング〟 といわれた日本と支那とでは、当時月とスッポン以上の差があったのかもしれません。

かし日本人の文化水準・精神性の高さに驚く一方で、こんなことを〝予言〟した外国人もいます。

アメリカの総領事として来日したハリスは、日本に上陸後わずか2週間にして

「厳粛な反省・・・変化の前兆・・・疑いもなく新しい時代が始まる。
 
敢えて問う。 日本の真の幸福となるだろうか?」

と自問し、そしてその2年後には日本人への温かい心からの賛辞を漏らすとともに

「衣食住に関する限り完璧ともいえるひとつの共存システムを、ヨーロッパ文明とその異質な信条が破壊し、初めのうちはそれに替わるものを提供しない場合、悲惨と革命の長い過程が間違いなく続くだろう」

 

・・・と述べています。 またハリスの通訳だったヒュースケンも

「今や私がいとしさを覚え始めているこの国よ。 
この進歩は本当にお前のための文明なのか? この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾り気のなさを私は称賛する。


この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見ることが出来なかった私は、おお神よ、この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない。」

と。 2人とも西洋文明が日本を蝕むと予言していたのです。

おそらくそれは他のアジア諸国のように近い将来日本も植民地化されることを見越してのことでしょうが、幸いにも我が国は明治維新前後に植民地化されることなく、西洋文明を取り入れ富国強兵に成功し、独立を堅持しました。

 

とは言え、大東亜戦争に敗れアメリカ主導の戦後教育を素直に受け入れてしまったがために、結果的に彼らの予言は的中・・・日本人の道徳性は破壊され、狩猟民族の自己主張・権利偏重主義が浸透したと言えましょう。

しかし私は、日本人のDNAには、150~200年前に私たちの先祖が持っていた倫理観・道徳観がしっかり刷り込まれていると信じています。

この本は、その眠れる良き民族性を覚醒させるスイッチの役割を果たしてくれる・・・だから川淵キャプテンも涙したのではないか? と、私は推察します。 

少々分厚い本ですが、一読の価値はありますョ。

まずはしっかりと挨拶が出来る人間作りから始めましょう!扇子

でもそのためには、まず自分がそうならなければ。



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お待たせ致しました。 早速、昨日出題した四桁問題の回答を発表します。

 

  【1199】 ・・・・・ (1+1÷9)×9

  【3478】 ・・・・・ (3-7÷4)×8

 

聡明な読者の皆さんには、少々簡単過ぎましたか? 😅

 

閑話休題。

 

ピンキーでもドンキーコングでもない・・・

 

 トンキー

 

皆さんは、この名前に聞き覚えがありませんか?


実は、今日が彼女の命日・没後80周年にあたります。

・・・と言っても人間ではなく、インド象なのですが。


日本では支那事変勃発後の1939年頃から、空襲時における猛獣脱走対策が本格的に検討されていました。

 

そして大東亜戦争の戦況が不利になり、本土空襲が現実を帯びてきた中、1943(昭和18)年8月16日に大達茂雄東京都長官が全国に先駆けて上野動物園などに対して猛獣の処分・・・いわゆる 『戦時猛獣処分』 を発令。

 

その日以降順次ライオン・トラ・ヒョウなどの猛獣14種27頭が餌に毒を混ぜて食べさせるなどして処分されました。


その中で、特に悲劇的だったのがインド象のケース。


当時の上野動物園にはオスのジョン、メスのトンキーとワンリー計3頭のインド象が飼育されていました。

 

関係者は殺すことが忍びなく、地方の動物園に譲渡するなど延命策を講じますが、結局頓挫。


やむなく殺処分を決定しましたが、インド象は賢くまた繊細な神経を持っており毒入りの餌を食べず、また皮が厚いため薬物注射もダメ。


最終的には、餌を与えず餓死させるしかありませんでした。


その結果ジョンは同年8月29日、ワイリーは9月11日に死亡。

そして最後に残ったトンキーも、9月23日に絶命。

 

餌を与えられなくなってから実に30日も苦しんだ末のこと。

その間の飼育員の心中は察するに余りあります。


結局ゾウ舎は後の東京空襲で焼夷弾の直撃を受け破壊されたそうですが・・・。

 

この悲劇を取り上げた書籍や映画はいくつかありますが、その中で特に有名なのが金の星社から刊行されている絵本、

 

 『かわいそうなぞう』

 

    

 

おそらく多くの方がこの絵本を読んだり、また子供に読み聞かせた中で、トンキーの名を目にしたのではないでしょうか。


今まで軽く100万部以上売れた大ベストセラーであるこの絵本は、現在でも販売されています。


子供たちに戦争の悲惨さや食べ物の大切さを教える時、戦争の映像を直接見せるのもいいですが、小さい子にはこういう絵本を読ませることが平和教育として一番良いのではないでしょうか。


まだ読んでいない方は、是非子供さんやお孫さんと一緒に読んで、涙して欲しいと思います。


そして上野動物園には、この時に殺処分された動物の慰霊碑が建立され、毎年慰霊祭が執り行われているとのこと。

 

同園にお越しの際には、是非この慰霊碑に手を合わせていただければ、トンキーたちも喜んでくれることでしょう。笑3



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今日・9月23日は、祝日・秋分の日。
 

「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」日です。

秋分の日は、昼と夜の長さが同じ日・・・と教わった方が多いと思いますが、実は昼が約14分長いんですって。

それはともかく今日はお彼岸の中日でもありますから、国旗を掲揚するだけでなくお墓参りをしたり仏壇に手を合わせご先祖様に感謝の意を捧げましょう。

   

   

 


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