ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

この珍しい苗字の人物を、皆さんはご存知でしょうか?

 

    い ふ く べ    あきら

 伊福部 昭 

 

名前だけでお分かりになる方は、かなりの音楽通か映画ファンだと思いますが・・・実はあの『ゴジラ』のテーマを創った、日本有数の作曲家なのです。

 

そして今日は、彼の命日・没後20周年にあたります。

 

       

 

1914(大正3)年に北海道釧路町で生まれた伊福部氏は、9歳の頃から村長を務めていた父親に連れられてアイヌ集落に出入りし、彼らの独特な文化に大きく触発されたとか。

 

13歳から音楽を勉強し始めた彼は、札幌第二中学在学中に将来音楽評論家になる友人・三浦淳史氏から「音楽をやるなら作曲をしなきゃ意味がない。」と唆され、独学で勉強を始めます。

 

驚くべきは、伊福部氏が進学したのが音楽大学ではなく、北海道帝国大学・農学部林学実科だったということ。😲

 

1935(昭和10)年に同大卒業後、林野管理局森林官史となり、地方林務官として厚岸の森林事務所へ調査造林係補助・作業助手として配属された伊福部氏は、同じ年にアメリカ人指揮者の依頼で作曲した『日本狂詩曲』が、パリで開催されたチェレプニン作曲コンクールにおいて満場一致の得票で第1位入賞という快挙を成し遂げます。

 

その後も林野局勤務を続けながら作曲を続けましたが・・・敗戦の年、仕事中に浴びた放射線障害により体調を崩したことで音楽で身を立てることを決意し上京。

 

そして理系大学卒でありながら、なんと東京音楽学校(※現在の東京藝術大学)の学長に請われて同大の作曲科講師に。

 

そこで後に日本音楽界で活躍する芥川也寸志・黛敏郎両氏ら多数の教え子を育て、1947(昭和22)年に『銀嶺の果て』という映画の音楽を担当。

 

この時伊福部氏は映画監督と音楽観について激論を交わし、遂には当時脚本を担当していた黒澤明氏が仲裁に入った・・・という逸話を残しています。

 

その後1995年まで『ビルマの竪琴』・『座頭市シリーズ』等々

実に300作品以上の作品の音楽を手掛けることになるのですが

、何といっても有名なのは40歳の時に手掛けた『ゴジラ』。

 

実は伊福部氏、学生時代にストラヴィンスキーの代表作『春の祭典』を聴いて大いに刺激を受けたそうな。

 

この曲の中に〝春の兆しと乙女たちの踊り〟という独特なリズムの楽章があるんですが、この曲想とゴジラのテーマが似ていると私は思うのです。 

 

ちょっと聴き比べてみてください。  

 

まずは、ご存知 『ゴジラ』 のテーマ。(↓)

 

 

続いて、『春の祭典』。(冒頭部分↓)

 

 

・・・いかがでしょうか?

 

ピアノの弦を直接バチで叩いたり100円玉でこすったりするなど、常識に囚われない様々な実験を行い後世に大きな影響を残した伊福部氏は、62歳で東京音楽大学の学長も務めた後、2006(平成18)年2月8日に91歳で逝去されました。

 

音楽界に多大な貢献をした彼の名は、もっと広く世に知られるべきでしょう。

 

あらためて〝異色の理系作曲家〟のご冥福をお祈り致します。🙏

 

 

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3日前の拙ブログ・特別増刊号で触れた竹島や尖閣諸島問題を踏まえ、私たち日本国民は〝領土〟についてしっかりとした認識を持つ必要があるでしょう。

 

その意味で、今日・2月7日は重要・・・なぜなら、

 

 北方領土の日

 

だからです。

 

これは北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め、全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るため、今から45年前の1981(昭和56)年に閣議了解によって制定されました。

 

日本と帝政ロシアとの間で最初に国境の取り決めが行われた日露(魯)和親条約の締結日が安政元年12月21日であり、これが新暦だと1855年2月7日であることに由来しています。

 

さて、その北方領土とはどこに位置し何という島々のことを指すのか?・・・皆さんは、すぐに答えられるでしょうか?

 

正解は、こちら。(

 

 ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-北方領土

 

               エトロフ    クナシリ            シコタン    ハボマイ

我が国は古来より北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航すると同時に統治を行っていました。

 

そして上記の日露(魯)通好条約によって、両国の国境を択捉島とウルップ島の間であることを確認したのです。(※上図右上の赤斜線)

 

以降、北方四島が他国の領土となったことはなかったのですが、大東亜戦争末期の1945(昭和20)年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して突如日本に攻撃を開始。

 

そして日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から数日間で北方四島の全てを占領してしまったのです。

 

当時四島にソ連(ロシア)人は誰一人おらず、日本人は四島全体で約17,000人も住んでいましたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に編入し、1949年までに全ての日本人を強制退去させたのです。

 

ちなみに第二次大戦中の1943年に出されたカイロ宣言では、

 

『暴力及び強欲により日本国が略取した地域等から日本は追い出されなければならない』

 

とされましたが、北方四島が当該地域に当たらないことは、上記の歴史的経緯に照らしても明らか。

 

にも関わらず、今日に至るまでソ連~ロシアによる不法占拠が続いているのです。

 

分かりやすく言えば、隣人がある日突然塀を乗り越えて我が家の〝離れ〟を占拠し住みついて出て行かない状態が、80年以上続いているということ。

 

これは、どう考えても違法かつ異常事態でしょう。

 

そして2010年には、史上初めてロシアの大統領が北方領土に上陸し、翌年には国防相が来訪するという由々しき事態がありました。

 

その遠因として、当時の民主党政権の領土問題に対する認識・施策の甘さがあったことは否めません。

 

戦後半世紀以上も平和を享受してきた私たち日本国民一人ひとりがあらためて領土問題に強い関心を持ち、自らの権益を守る意識を高めて政治家や外務省の尻を叩かなければ、これからも諸外国からの遠慮会釈ない侵略行為を許してしまいます。

同時に、たとえ違法であっても一度盗られた領土・領海は簡単に取り戻せないことを、強く認識しなければなりません。

 

竹島と合わせ自国の領土と宣言していながら他国の実効支配を2地域も許し、更に沖縄などで外国人による違法な政治活動を許しているお人好しの国なんて、日本以外に存在するのでしょうか?

最後に学校では教えない『蛍の光』の4番を皆で歌いつつ、北方領土の返還と尖閣諸島の死守を願い・・・いや、誓いましょう。
 

       千島の奥も  沖繩も      

      八洲(やしま)の内の  護りなり  

      至らん國に  勲(いさを)しく  

      努めよ我が背  恙(つつが)無く

 

 

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人間誰しも命は惜しいですから、高所作業をする鳶職人とかサーカスの空中ブランコ、またロッククライミングや綱渡りをする人は通常命綱をつけますょネ。

でも、中には命綱なしでそれらを行う勇気ある方もいらっしゃいます。


その中でも極め付けの〝命綱なしパフォーマンス〟が行なわれたのが、今から40年余り前の今日・1984年2月7日のことでした。 それは、

 

  宇宙遊泳

   spacewalk


スペースシャトル・チャレンジャー号の搭乗員ブルース・マキャンドレスとロバート・スチュワート両飛行士が、人類初の命綱を装着しない船外作業を行ったのです。

 

私は以前から、一度でいいから眼下に青い地球を眺めながら無重力の宇宙空間をフワリフワリと漂ってみたいと思ってはいます。

 

でも映画 『007 ムーンレイカー』や『エイリアン』などで人が船外に吸い出されて宇宙空間の遥か彼方にスッ飛んでいくシーンを観ると、とてもじゃないですが命綱なしでは怖くて無理。😰


人類初の宇宙遊泳をしたのは、1965年にボスポート2号から約10分間船外に出た旧ソ連のアレクセイ・レオーノフ飛行士。

それから3ヶ月遅れてアメリカ人で初めて宇宙遊泳を行ったのがジェミニ4号に乗ったエドワード・ホワイト飛行士。(しかし彼は、1年半後にアポロ1号の火災事故で非業の死を遂げます。)


それから20年近く経過して、この快挙が達成されたわけです。
 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

          ブルース・マキャンドレス飛行士

 

この時彼らはMMU(Manned Maneuvering Unit = 有人機動ユニット)を装着して船外活動を行い、マキャンドレス飛行士は軌道から実に92mも離れたとか。

しかも彼らの船外活動時間は5時間55分。

 

3日後には再び命綱なしの船外活動を6時間以上にわたって行ったというのですから、その勇気に敬服するばかり。

 

※(↓)で彼ら2人の船外作業をご覧いただけます。 

 

 

さて、この一見優雅で気持ち良さそうなスペースウォーク・・・実は大変危険なのだとか。


当然真空状態ですし気温の変化が激しいですから、有害な紫外線から身体を守る生命維持装置付きの頑丈な宇宙服の着用が必要。

ちょっとでも破れたりしたら、即命取り。


そして怖いのは、宇宙ゴミ(スペースデブリ)。

地上約300kmにある軌道上を動く宇宙船の速度は毎秒7.7km(時速27,720km)という、ピストルの弾丸の約10倍という猛烈な速度。😱

ですから極小の岩石や他の宇宙船の部品などのカケラにぶつかっただけで、致命的な事故になり得るのです。

 

たとえ命綱をつけていても、 命懸けなんですネ。

 

その恐怖感を味わえるのが、2013年に公開された映画『ゼロ・グラビティ(原題:Gravity )』といえますが・・・皆さんは(命綱なしでの)宇宙遊泳、やってみたいと思いますか?

 


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かつて大河ドラマ 『江 ~姫たちの戦国~』 で人気子役の芦田愛菜ちゃんが幼少期を演じたことをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。

今日はその戦国時代に運命を翻弄された女性、


 千 姫

の命日・没後360周年にあたります。

     


1597(慶長2)年に徳川家康の三男・秀忠と、彼の正室で浅井長政の三女・江との間に生まれた彼女は、何と7歳で11歳の豊臣秀頼と結婚させられます。

幼な妻というより、完全なる子供・・・しかし、この2人は大変仲睦まじい夫婦だったとか。

しかし歴史は彼女に過酷な運命を強います。

1615(慶長20)年には大坂・夏の陣で夫・秀頼(↓)は母・淀殿と共に自害。

 

 

この時は祖父・家康の命により、彼女は炎上する大坂城から救出され一命を取り止めました。

 

そしてその翌年、今度は桑名藩主・本多忠政の嫡男・忠刻と結婚

・・・しかしそのお輿入れの行列を襲撃するというテロ未遂事件が発覚。

襲撃を計画したのは、津和野藩主・坂崎直盛。
なぜ彼がこんな大それたことを画策したのか?

 

実は大坂城から千姫を救出させる際、家康が「助けた者に千姫を与える」という成功報酬を公言。

豊臣方の武将・堀内氏久が彼女を直盛の陣まで届けた後、直盛が秀忠の元に送り届けたことで、直久は美人の誉れ高い千姫を嫁に出来る・・・と思いきや、本多忠刻との縁談が決まってしまったのです。

救出の際に直盛が負った火傷を見て千姫が輿入れを嫌がったという説もありますが、ともあれ直盛にすれば「話が違う!」と怒るのも無理ない話。


しかし映画 『卒業』 のように花嫁奪還はうまく行かず・・・計画は事前に幕府に漏れ、直盛は家臣に殺され坂崎家は改易に。

一方、忠刻の妻となった千姫の幸せも長くは続きませんでした。

1619(元和5)年に生まれた長男・幸千代が3歳で夭折。

 

更に1626(寛永3)年には夫・忠刻、姑・熊姫、更には母・江が次々とこの世を去り、千姫はまたもや29歳で未亡人に。

 

本多家を出た千姫は江戸城に戻ると出家し、天樹院と号して娘の勝姫と共に竹橋の屋敷で過ごしましたが、後に弟・家光の三男・綱重と共に暮らすように。

これにより千姫は大奥で権力を持つようになったそうですが、1666(寛文6)年2月6日に70歳で天寿を全うしました。

 

激動の前半生を最期に振り返った時、彼女自身は幸せな生涯だったと思ったのかどうか・・・?

それにしても、美人には男性の運命を狂わせる魔力があるようですネ。

幸か不幸か、私には全く関係ありませんが。😅

 

 

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今日は、私のような昭和世代の方には懐かしいアメリカの俳優

 

 カーク・ダグラス

   Kirk Douglas

 

の命日・七回忌にあたります。

 

      

 

ダグラスは1916年、帝政ロシアからの移民の両親の間にニューヨーク州アムステルダムで生まれました。

 

貧民街育ちだった彼は、家計を助けるべく新聞配達から露天商、庭師など多くの職を転々。

 

学費を借金で賄いセントローレンス大学へ進み、その返済のためにアルバイトの他ボクシングの試合に出てファイトマネーを稼いだりナイトクラブ等で歌って生計を立てたという苦労人でした。

そして高校生の時に役者になろうと思った彼は、その夢を果たすべくアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに入学すると、そこで特別奨学生に。

 

1941年海軍に徴兵されるも負傷で1944年に除隊、2年後に『呪いの血』で銀幕デビュー。

 

その後数本の映画に出演していますが、私が彼を始めて映画で観たのは、おそらく同期デビューの親友バート・ランカスターと組んだ『ОK牧場の決斗』(1957年公開 ↓)。

 

 
そして1960年に自らが製作総指揮・主役も演じた超大作『スパルタカス』は、ケネディ大統領が予告なしで劇場を訪れて鑑賞し好意的なコメントをしたことから大ヒット。
 
その後も『ファイナル・カウント・ダウン』など様々な作品に登場した彼の長男が、やはり俳優として成功したマイケル・ダグラス(下写真・左)であることは皆さんもご存じの通り。
 
     
 
99歳の誕生祝いとして、映画・テレビ基金に1,500万ドルも寄付した彼が103歳で大往生を遂げたのは、2020年2月5日のことでした。
 
あらためて名優のご冥福をお祈り致します。🙏

・・・えっ、ブログタイトルの大魔神は何なんだって?
 
大変失礼致しました。

実はこれも昭和世代には懐かしい日本のドラマ『大魔神』に登場するのが、こちらの武人像(↓)。
 
       
 
彼の顎が2つに割れているんですが、実はこれがカーク・ダグラスの顎からインスパイアされたものだそうな。😯 ヘェ~
 
果たしてそれをダグラス自身が知っていたのかどうか?
 
 
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数年前からの尖閣諸島問題などで、日本国民が領土問題に関心と危機感を持つようになったのは良いことだ、と私は思います。

しかしもうひとつの領土問題・・・〝竹島〟を実効支配し続け、二言目には〝歴史認識〟という単語を持ち出して執拗に謝罪を要求してくる韓国にその言葉をそっくり彼らに返したいところ。

 

そう主張するならば、今から73年前の今日韓国が引き起こした


 第一大邦丸事件

について彼等の見解を是非問い質したいと思うから。

 

日本の〝汚鮮〟メディアはまず取り上げないでしょうが、同事件は韓国の国家体質・民族性を如実に示していると言えましょう。

 

当該事件が起きた伏線は、その前月18日に時の韓国の初代大統領・李承晩が突如一方的に設定した、下地図の赤線・・・いわゆる〝李承晩ライン〟にありました。


   

その直後の1月22日に福岡を出港した第一・第二大邦丸(各乗員22名)は1953(昭和28)年2月4日、済州島沖20マイル(約32km)の公海上で操業を開始。

 

すると韓国漁船が2隻近づいてきて 「魚は取れますか?」 と日本語で話しかけ、そのまま通り過ぎました。

ところが第一大邦丸が網を揚げ始めた時、約30m離れたところにいた韓国船から警告もないまま突如自動小銃の銃撃を受けたのです。


それは漁船と見せかけてはいたものの、実質的には憲兵・特務隊員らが乗船していた軍用船。


慌てて逃走したものの程なく2隻とも拿捕され、激しい銃撃を受けた第一大邦丸の漁労長・瀬戸重次郎さん(当時34)が頭部に銃弾を受け重傷を負いました。

(※拿捕現場は、上地図・済州島左の×地点)


済州島に連行された船員たちは警察に引き渡され、船内の装備品や漁獲物、船員の私物は全て没収。

重傷を負った漁労長の治療を要求したものの結局ロクな治療を施されることなく、彼は2日後に死亡。

火葬を警察に依頼しても黙殺され、結局船員たちが手持ちの私物を売却した金で葬儀を手配し、松の枝などをかき集めて火葬したそうな。

その船員たちも4畳ほどの狭い部屋に18人が監禁され、しかも食事は一切支給されなかったとか。

船員達は船中に残っていた僅かな食糧で飢えを凌いだといいます。

そして韓国側は、取り調べで船員に対し領海侵犯をしたというハングル語で書かれた嘘の調書に捺印させましたが、定規とタバコ

・マッチの箱で適当に作図した調書の矛盾を日本側に指摘され、結局公海上での操業だったことが判明。

 

アメリカの朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が乗り出し会見を求めると李承晩大統領は遺憾の意を示し、釈放に同意。

 

2月15日に済州島を離れた船員たちは米軍のフリゲート艦に護衛され17日に佐世保港に到着。 

 

母港・福岡に戻れたのは事件から18日後の2月22日でした。

 

民間船に対する予告なしの銃撃、物品の没収、拘束時に食事を与えないなどのジュネーブ条約違反・・・これらの行為に関して、韓国側はどう釈明・保障するのでしょう?

 

この事件以降、1965年に日韓漁業協定が成立し李承晩ラインが撤廃されるまでに韓国側が拿捕した日本漁船は328隻、拘留された日本人は3,929名に上り内44人が死傷しています。

 

そして同ライン撤廃後も韓国に実効支配されているのが、竹島。

 

  

   韓国に拿捕された日本漁船  暴行を受けたとされる日本人漁師

 

しかも日本政府は、この妥結に際し日本人抑留者の釈放と引き換えに常習的犯罪者・重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を釈放したばかりでなく、彼らに在留特別許可まで与えたのです。

 

敗戦直後の出来事とはいえ、こんな理不尽な要求を呑むこと自体信じ難いことですが、そもそもそれを要求してきたのは韓国側。

 

盗人猛々しいとは、まさにこのこと。

 

一方的に他国民を公海上で拿捕しておきながら、その釈放の条件に犯罪者の放免を要求する・・・これでは北朝鮮の日本人拉致と本質は同じですし、その民族性は現在に至るまで全く変わっていないと言わざるを得ません。

 

竹島問題の裏にはこういう歴史があることを知ったうえ上で、私たちは領土問題を考えるべきです。

またこの史実を次世代にしっかり伝えなければ、被害に遭った日本人漁師が浮かばれませんし彼らに申し訳が立ちません。

 

 

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今日は、あの赤穂浪士たちが黄泉の国へと旅立った命日。

ということで、昨年はその中で最年長の堀部弥兵衛金丸について記事にしました。(↓)

 

ならばということで、今回は逆に弱冠15歳という最年少の志士だった、大石内蔵助の長男

 

 おおいし ちから よしかね

 大石主悦良金

 

にスポットを当ててみます。

1688(元禄元)年に赤穂で城代家老・大石内蔵助の嫡男として生まれ、幼名を松之丞とつけられた主税は大変聡明で、子供がいなかった主君・浅野長矩に大変可愛がられたといいます。

その浅野長矩が江戸城・松の廊下で吉良上野介に斬りつけるという刃傷事件を起こした時はまだ元服前の13歳。

しかし内蔵助から明科で仇討の心中を聞かされ、「まだ部屋住(家督相続前の嫡子)の身ゆえ、好きにせい」と言われた彼は、共に行動する決意を父に伝えます。

それを聞いた内蔵助は彼を元服させ名を主税良金とし、討ち入りの同志に加えました。

 

ともすると彼は内蔵助の息子ということでしか注目されませんが

、実は討ち入りに関して大きな役割を果たしています。

映画・ドラマでは(時間的制約もあってか)浪士たちは大石内蔵助の意志に沿って団結していたかのように描かれがちですが、実際には一枚岩ではなかったとか。

少しでも早く仇討をといきり立つ堀部安兵衛ら急進派を抑えるべく、彼は人質(というか内蔵助江戸入りの保証人)として父よりも先に江戸入り。

更に討ち入り当日に十文字槍を手にした彼は、若手剣豪が集まり主戦場となった吉良邸裏門隊の大将を務めると、抜け穴を発見して真っ先に飛び込むなど内蔵助を上回る活躍をし、見事上野介を討ち本懐を遂げたのです。


       

 

上野介の首を持って主君・浅野長矩の眠る泉岳寺に仇討の報告に参った浪士たちは4つの大名家に分かれて預かりの身に。

この時内蔵助は熊本藩主・細川家、主税は伊予松山藩主・松平家と別々に預けられましたが、主税の待遇は罪人というよりもVIP扱い。

 

座敷牢どころか邸内を自由に歩き回ることが出来、食事も寝酒まで出される厚遇で彼自身が辟易とするほどだったとか。

逆に彼が風邪で高熱を発した時は、逆に松平家が焦ったそうな。

(※もっとも、毛利家・水野家に預けられた浪士たちは、それほど厚遇ではなかったそうですが・・・。)

しかし2月4日当日は他の浪士に先んじて最初に腹を切り、その態度は検死役人が感じ入って泣いたほど堂々としたものだったといいます。

 

当時の日本人男性の平均身長は150cmなかったそうですが、主税の五尺七寸(約172cm)と大柄でかつ美男子。

頭脳も明晰で、将来は小柄だった父・内蔵助を凌ぐ城代家老になったであろうと言われた逸材は、現代で言えば中学3年生で儚く世を去りました。

しかしその15年余の人生は義と情に捧げた悔いなきものだった、と信じたいところ。

 

少なくとも凡庸に60年以上生きている我が人生より、遥かに濃密なものだったでしょう。

 

最後に、映画などの脚色された忠臣蔵でなく討ち入りの真相を知りたい方に、一冊の本をご紹介致します。 表題はズバリ、

 『これが本当の「忠臣蔵」』 

          (山本博文・著  小学館新書・刊)

      


同書には、

 

◆ 実は、ほとんどの浪士は切腹していない。
◆ この日絶命したのは〝四十七士〟なのに46人、でも泉岳寺には墓が48ある。


等々、興味深い史実がいくつも書かれています。

 

これを読み返しつつ、他の義士達と共に散った若武者の冥福をお祈り致します。🙏

 

 

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昨年7月に、拙ブログでは戦前に支那で起きた凄惨な日本人虐殺事件・『通州事件』について記事にしました。(↓)

 

同事件は民間日本人の有志により世界遺産登録申請がなされましたが、今日は同事件と共に是非とも子々孫々にその史実を伝えていただきたい、今からちょうど80年前の今日・・・つまり戦前

・戦中ではなく、日本軍が降伏した後に起きた

 

 通化事件

 

について触れたいと思います。

通化とは旧・満州国通化省通化市(現・吉林省通化市)のことであり、北朝鮮との国境近くに位置している都市。(地図中央

 

   

 

1945年8月の終戦当時は中華民国政府の統治下に置かれており、元々約17,000人の日本人が居住していました。

 

そこに満州その他の地域から10万人以上の避難民が逃げ込んできたのです。

在留邦人が衣服や住居を提供したものの、終戦直後は当局から強制的に家屋や資産を摂取されており、殆どの日本人は困窮に瀕していました。

 

終戦直後の同年8月20日には2人のソ連兵がやってきて女学校に乱入し、1人の生徒を連れ去った上に翌日金品を要求。

 

怒ってそのうちの一人を切り殺した日本兵が逆に銃殺されるという事件も起きました。

 

更に同月24日にはソ連軍が同市に進駐、彼らの命令により日本人婦女子は慰安婦として拠出されたといいます。

 

そして同年11月にソ連軍が撤退した後、同市の支配を移譲されたのが、中国共産党軍(八路軍)と先に進駐していた朝鮮人民義勇軍(新八路軍)でした。


彼らはそれまで統治していた同じ民族である中華民国の省長・市長ら幹部全員を逮捕・拘束し、拷問・(形だけの)人民裁判の末に全員を処刑。

 

同軍は11月に遼東日本人民解放同盟を設立し、全員に対し全財産の供出と共産党教育を強制。

 

一連の弾圧に不満を持った日本人は12月に居留民大会を開くなどしましたが、そこで最後に挨拶した、〝髭の大佐〟と呼ばれ邦人に人気のあった元関東軍第125師団参謀長・藤田実彦大佐ら140人の解放同盟幹部や日本人遺留民会の指導者らが、翌1946年1月に拘留されてしまいます。

 

※作家・司馬遼太郎さんは、かつて藤田大佐の部下だったとか。


      

            藤田 実彦 大佐

 

これに対し大佐を奪還し中華民国の国民党員と関東軍が結託・蜂起する計画が練られ、1946(昭和21)年2月3日に決行。

ところが事前にその情報を察知していた共産党軍は各所で重火器を装備して待ち構えており、反攻は失敗に終わります。

 

しかも共産党軍は、蜂起した元日本兵を拘束するだけに留まりませんでした。

 

16歳以上の日本人男性を全員拘束、また事件に関与したと見做した女性をも連行。

 

着のみ着のままで零下数十度の戸外を針金でつなぎ合わせて市内を引き回し、途中倒れた者を容赦なく射殺。


その後彼らを8畳程の小さな部屋に120人も詰め込み、5日間も立たせたまま。

 

大小便垂れ流しのままで、中には精神異常を来たして奇声を発する者も出ましたが、その都度窓から銃撃。

死者は立った姿勢のままか、下に崩れ落ちても生存者の踏板状態で足元は血の海だったとか。

 

5日後に部屋から引き出された日本人は、朝鮮人民義勇軍の兵士たちに棍棒で殴りつけられて多くが撲殺されました。

 

生き残った人々も共産党軍による拷問・尋問を経て凍りついた川の上に引き出され、一人ずつ銃殺されたといいます。

 

また男性が連行され女子供しかいなくなった日本人住宅に共産党軍兵士がやってきて強姦・略奪を行った、という証言も。

 

一方藤田大佐は3階の監禁室から布団を切り裂いて作ったロープを伝って脱出したものの、2月5日に再逮捕。

市内の百貨店で開かれた共産党軍主催による 『2・3事件展示会』 に見せしめとして引き出され、3日間立ちっぱなしで謝罪させられた挙句その僅か数日後に獄中で肺炎により死亡。

 

その亡骸は市内の広場で風雪の中3週間も晒されたのです。

 

しかし実際は名前を利用されただけで、大佐は首謀者ではありませんでした。

 

反乱が決行されることすら知らず、潜伏していただけでしたから・・・。


日本政府はでっち上げられた南京事件や朝鮮人慰安婦問題で隣国の執拗な謝罪要求を撥ねつけられない一方で、殆どが一般市民だった3,000名以上の日本人が終戦後、支那・朝鮮人によって惨殺されたこの史実を教科書に記載すらしていないのです。


私たちは、(現在我が国固有の領土を実効支配したり脅かしている) ロシアや特亜各国が引き起こした残虐行為を歴史上から抹殺させることなく、後世に語り継がなくてはなりません。

 

     
      
『通化事件』 (松原一枝・著 チクマ秀版社・刊)

 

ちなみに現在この通化市には、日本を標的とする核ミサイル基地(第51基地・第816導弾旅)が存在しています。

 

 

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先月の初詣・・・皆さんはどちらに行かれたでしょうか?

多くの方が神社にお参りされたと思いますが、この神社は言うまでもなく神道の祭祀を執り行う施設。

神道とは、古代日本で生まれ延々と信仰されてきた我が国独自の宗教。

仏教・キリスト教・イスラム教などと違ってその教えを示した経典がなく、『古事記』・『日本書紀』などの複数の古い文献を〝神典〟としています。


また一神教ではなく八百万の神・・・すなわちあらゆる物に神が宿るという観念のもと、それぞれの地域やそこに住む人々の安寧を祈願し、祭祀・儀礼を重んじます。

それらの神々と交流する場合、昔は神が降りるとされた大木の近くや大きな岩などで祈願をしましたが、やがて飛鳥時代(7世紀頃)に大規模な神殿が建てらせるようになり、これが現在の神社へと発展してきました。


しかし大東亜戦争敗戦後の1945年12月、GHQが信教の自由と軍国主義の排除を目的とし、国教化していた(日本人の道徳的・精神的支柱たる)神道を廃止することを目的とした『神道指令』を発令。

あわや神道は風前の灯・・・そこで全国の神社が危機感を持ち、皇典講究所・大日本神祇会(じんぎかい)・神宮奉斎会(じんぐうほうさいかい)の3団体が神道の存続のために結束。 


内務省の外局・神祇院の業務を引き継ぐ新たな組織として

 

 神社本庁

 

を設立したのが、今からちょうど80年前の今日・1946(昭和21)年2月3日のことでした。

 

       

      渋谷区代々木・明治神宮に隣接する神社本庁  

 

この神社本庁は伊勢神宮を本宗とし、全国各地の約8万もの神社を包括する宗教法人。

とはいえ全ての神社が同庁の傘下にあるわけではなく、靖國神社や日光東照宮など有名な神社でも単立宗教法人として運営されていたり、また同庁以外に他の包括宗教法人も存在しています。

 

さて一口に神社といっても様々な呼称があることは皆さんもご承知の通りですが・・・意外とその由来・意味合いをご存じない方が多いかも。

ということで、以下にその違いを列記させていただきます。

 

       

◆ 神 宮


古来から皇室と縁の深い由緒ある神社、あるいは天皇を祭神とする神社。
(例) 伊勢神宮、(明治天皇を祀った)明治神宮、鹿島神宮


◆  宮


格式は高く、親王を祭神としたり特別の由緒を持つ神社

(例)鎌倉宮、日光東照宮、水天宮、天満宮

◆ 大 社


各地域振興の中核となっている大きな神社
(例)出雲大社、春日大社、富士山本宮浅間大社


◆  社


大きな神社から御祭神を勧請した、比較的規模の小さい神社。
(例) 神明社、天神社

 

また、お祭りする神様によっても呼称が違います。


◆ 稲 荷


主として宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)を祀る神社。

稲荷の語源はイネナリ(稲成)で、稲の生育を司る農業の神様。

 

◆ 八 幡


応神天皇(第15代天皇)・神功皇后をはじめとする神様たちをお祭りする神社。

 

◆ 天 神 (天満宮)


菅原道真公をお祀りする神社。

その他、伊邪那岐命が禊を行った際に生まれた底筒之男命(そこつつのおのみこと)・中筒之男命(なかつつのおのみこと)・表筒之男命(うわつつのおのみこと)をお祀りする住吉神社や、建御名方神(たけみなかたのかみ)をお祀りする諏訪神社等々。

 

今後初詣などで参拝される方は、その神社の由来や祀られている神様を調べてから行くと、気持ちが一段と入ることでしょう。

それに祀られている神様を知らずに頼み事をしても、願いを叶えてくれないかも。😅

 

しかし、結婚式は教会式、葬式は仏式、クリスマスで騒いだ一週間後には初詣、それに子供が生まれれば神社でお宮参り・・・一神教の外国人には、この日本人の節操のない(?)というか柔軟な行動は理解できないでしょうネ。

 

 

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子供の頃、オフクロが作る味噌汁には毎日のように入っていましたが、最近はめっきり目にしなくなりました。

今は自分で毎朝味噌汁を作ってますが、使ったことが殆どありません。

今日は、その

 お麩の日

なのだそうです。 まぁ、2月2日ですからねェ。😅

今日だけでなく毎月2日を記念日にしている製造業者もあるそうですから、それだけ普及に苦戦しているといえる言えるのかも。

で、そもそもお麩って、何から出来ているのか?

調べてみたら意外とシンプル・・・小麦粉に食塩水を加え良く練り、それを布製の袋に入れて更に水中で揉み、でんぷんが流出して残ったグルテンを蒸すと、生麩の出来上がり。

(※おでん種の竹輪麩は、この生麩の一種。)

私が味噌汁のお椀の中で見慣れたお麩は、棒状のものを輪切りにした、こんな感じのもの。

     

これは生麩を乾燥させた乾燥麩だそうですが、生麩を油で揚げると揚げ麩に、更に焙り焼した焼き麩もあるとのこと。

そもそも麩は、室町時代に明から伝来したといわれています。

 

現地に修業に行った僧侶が持ち帰ったと考えられているそうな。

 

その肉に代わる栄養素である蛋白質を大豆や小麦に求め、大豆は豆腐や湯葉に、そして小麦から麩を作って珍重されていたとか。

ただ江戸時代までは小麦は高価であり、庶民の口には中々入らない貴重品でした。

明治維新直前に海外から〝精白小麦粉〟が入るようになり、更に鉄板上で作る〝やき麩〟が開発されたことで広まったようです。

このお麩は、ふわふわした頼りない感じのする食品ですが、栄養価は非常に高いそうで、たんぱく質の他ナトリウム・カリウム・カルシウム・マグネシウム等々のミネラルを多く含み、しかも低カロリーという健康食品。

私も今まで軽く(?)見ていた麩を、料理に利用したいと考え直しました。

 

調べてみると、全国には約100種類もの麩があるのだそうな。

中にはドーナツのように真ん中に穴が開いた形のものも。

・・・ということは、当然地域ごとに様々な調理法があるのでしょう。

皆様の中に、簡単で美味しいお麩のレシピをご存知の方がいらっしゃしましたら、是非教えていただきたく。🙏

 


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