ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

『開運!なんでも鑑定団』に出品されるたびに高値がつく〝古伊万里〟。

 

その中で、私のような陶芸の素人でも知っているのが〝柿右衛門様式〟。

 

白い磁器に鮮やかな赤色の焼き付けに成功したことで、その名を後世に残す事となったのが、

 

 初代・酒井田柿右衛門

 

今日・6月19日は、この初代の命日・没後360周年にあたります。

 

      

 

1596年生まれの喜三右衛門は、父親と共に肥前・白石郷から現在の佐賀県・有田町に移住して陶磁器の製作に励み、それまでになかった赤絵の焼き付けに成功して柿右衛門を名乗りました。

 

(ただし、私が小学校時代に習った「夕日に映える柿の実を見て赤色を焼き付けることを思いついた」という逸話は、後世の創作だそうですが・・・。)

 

乳白色(濁手)の地肌に赤色系の上絵を焼き付ける柿右衛門様式は、“KAKIEMON” としてヨーロッパに輸出されて高い評価を受け

マイセンや中国・景徳鎮にまでその影響を及ぼしました。

 

柔らかくて温かみのある乳白色の素地の上に余白を十分に残しつつ、暖色系で明るく繊細な構図を特徴とする柿右衛門様式の色絵磁器は、いかにも高級感が漂います。

              

     

 

とても庶民には手が出せないような高級陶器ですが・・・私は製品そのものより、〝柿右衛門〟の名が約400年近く連綿と世襲によって受け継がれていることに驚きを覚えます。

 

確かに技量不足で藩から注文を止められた5代目や、方向性を巡って自らが設立に関わった会社側とぶつかった12代目のような方もいたようですが、それは一部の例外。

 

バッハやシュトラウスなど世界的な大作曲家一族でも、せいぜい2、3代止まり・・・なのに、柿右衛門は現在人間国宝に指定された14代目を父に持つ15代目(↓)が次いでおられ、子々孫々がその芸術性や技術を維持・発展させているのですから。

 

 

 

ただ、子供が家業を継ぐのは当たり前だった昭和までと違い、現在は「オレはオレ」という個人主義の時代。

 

しかも代を重ねるほどに、伝統を受け継ぎ発展させるプレッシャーは重くなる一方のはず・・・これからも子孫が柿右衛門の名を引き継いでいくのは大変なのでは? と、他人事ながら心配してしまいます。 

 

政治家の世襲は大反対ですが、柿右衛門のような伝統工芸の世界は別の話。

 

1666(寛文6)年6月19日に69歳で他界した初代のご冥福と、今後の柿右衛門一族の更なる繁栄をお祈り致します。🙏

 

 

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関西最大の都市とは?・・・なんてのはクイズにならないですょネ。 もちろん、それは

 

 大 阪


ですが・・・昔は〝大〟でした。

例えば日本史で習った豊臣と徳川の決戦は〝大冬の陣・夏の陣〟でしたし、関西のシンボルともいえる大阪城も昔は大城。

 

では、いつから 坂 → 阪 に変わったのか?

 

公式的には、今から160年近く前の今日・1868(明治2)年6月18日に、明治政府が布告により表記を〝大阪〟に統一してからのことだそうな。

             

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

古くは〝浪速〟や〝難波〟などと称されていたこの地域でしたが

初めて〝大坂〟と呼ばれた資料としては、1496年に浄土真宗中興の祖・蓮如が記した御文の中に見られるそうです。

 

そしてその蓮如以前は「ヲサカ」と短く読んでいたといい、それ以後は「おおざか」と読んでいたとも。


ではなぜ現在のように「おおさか」と読むようになったのか?


それは従来「おさか」と読んでいたのを大坂駅の駅員が 「お~さか」と延ばして言うようになったから、という説があるそうですが・・・ホント?😅


では話を元に戻して、何故漢字表記が変わったのか?


これには、


◆『坂』を分解すると「土に返る」と読めて縁起が悪いから。


とか、


◆『坂』は「士が反する」つまり武士が叛くとも読めることから明治政府が嫌って『阪』にした。

あるいは、

 

◆ 単に役人が書き間違えた。

 

なんてものまで、諸説紛々。

 

大阪在住の方々は、この辺の経緯をどうお聞きになられているでしょうか?

 

書き間違いといえば・・・もし試験で「大阪夏の陣」と書いたら

やはり不正解なんですかねェ。😨


 

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今日は、開国など激動の時代に若くして老中首座の地位に就き、江戸幕府末期を支えた

 阿部 正弘

の命日・没後170周年にあたります。

彼は1819(文政2)年、備後福山藩(現在の広島県南部)第5代藩主・阿部正精の五男として江戸・西の丸屋敷で生まれました。

彼が6歳の時に父が死去し兄・正寧が家督を継ぎましたが、その兄が病弱だったため、それから10年後・18歳になったばかりの正弘が家督を引き継いで第7代藩主に。

10歳の頃より儒学を学び、馬術・槍術で身体を鍛えた文武両道の正弘は、第12代将軍・家慶に目をかけられ、(城中における礼式を管理する)奏者番、寺社奉行と出世し、1843(天保9)年には弱冠25歳で老中に抜擢。

天保の改革を行った水野忠邦が外交問題の紛糾により老中首座に復帰すると、正弘はそれに異を唱え、彼の取り巻きを処分した上で忠邦を罷免させ、1845(弘化2)年に自らが老中首座に就任。
 

しかし時代はそれまでにないほど激しく揺れ動きだします。

 

     

翌1846年にはアメリカ艦隊司令官ビドルが相模湾に、更に7年後の1853年にはペリーがフィメモア大統領の親書を携えて浦賀に来航。

更に露のプチャーチンも長崎にやって来て、開国・通商を要求。

正弘は時間をかけて朝廷や諸藩の意見に耳を傾けた上で、1854(嘉永7)年に再来日したペリーと日米和親条約を締結し、約200年に渡った鎖国政策に終止符を打ちました。
 

しかし将軍・斉昭の圧力により開国派の老中2名を罷免したことで井伊直弼と衝突した正弘は、開国派の堀田正睦を老中に起用して首座を譲ります。

そして1857(安政4)年6月17日・・・正弘は老中職のまま、37歳の若さで急死。

死因については肝臓がん説、過労死説、暗殺説など複数囁かれているものの、はっきりしたことは分かっていません。

個人的には、激務による過労死説を取りたいですが・・・。

自らの領地には生涯で僅か1度しか入らず、人生の殆どを幕政に捧げた正弘ですが、その評価としては優柔不断とか八方美人という指摘もあります。

それは正弘が自分の意見を述べることが殆ど無かった故のものですが、彼自身も

「自分の意見を述べてもし失言したら、それを言質に取られてしまう。 だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い悪しきを捨てようと心がけている。」

と述べているように、聞く姿勢に徹したから。

もし開国か攘夷かの国策大事の時に、イケイケで突き進む信長タイプのリーダーだったら、大きく方針を間違える危険性が大きかったはず。

開国を推し進めながら、その一方で江戸を守るべくお台場(↓)の建設を伊豆韮山代官・江川英龍に命じたのも、彼でした。

 

 

むしろ調整熟慮型・慎重居士の正弘だったからこそ、ソフトランディングできたのでは・・・と私は思います。

だからこそ、彼のストレスは相当のものだったはずであり、私が過労死説を取るのもそれが理由なんです。

そんな正弘の生涯を知りたい方には、この本がお勧め。


『阿部正弘  日本を救った幕末の大政治家
         (祖父江一郎・著 PHP文庫・刊)

 

     

現代の政治にも十分通用する政策・人事の駆け引きが、実に面白い歴史読本です。

 

開国という政策の大転換を実現し、日の丸を日本国共通の船舶旗(日本惣船印)に決定。

 

一方で勝海舟を登用して長崎海軍伝習所を作り富国強兵の道筋を作り、また『遠山の金さん』のモデルとなった北町(後に南町)奉行・遠山景元やあの二宮尊徳を重用した、若き政治家の手腕をお確かめください。

 

 

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今度の日曜日は『父の日』ですネ。
 

お子さんたちから、ネクタイ等のプレゼントをもらう方もいらっしゃることでしょう。

 

モノではありませんが、私からも世のお父さん方に少々辛口のプレゼントをこの記念日に差し上げたいと思います。 それは、

 

 『親父の小言』

 

これは江戸時代の相馬藩・・・つまり東日本大震災で原発事故被害を受けた福島県相馬市にあった大聖寺にいらっしゃった暁仙という傑僧が書き記したものだとか。

 

これを額縁に入れて飾っている飲食店もありますから、目にした方もいらっしゃると思いますが・・・以下に列記致しましょう。

 

     ◆     ◆     ◆     ◆

 

  朝はきげんよくしろ        人には腹を立てるな

 

  恩には遠くから返せ        人には馬鹿にされていろ

  年忌法事はしろ          家業には精を出せ

  

  働いて儲けて使え         人には貸してやれ

      

  女房は早くもて          ばくちは決して打つな

      

  大めしは食うな          自らに過信するな

 

  大事覚悟しておけ         戸締りに気をつけろ

 

  拾わば届け身につけるな      何事も身分相応に

 

  泣きごとは言うな         神仏はよく拝ませ
      

  人の苦労は助けてやれ       親に心配かけるな

 

  火は粗末にするな         風吹きに遠出するな

      

  年寄はいたわれ          子のいうこと八、九きくな
      

  初心は忘れるな          借りては使うな

      

  不吉は言うべからず        難渋な人には施せ

      

  義理は欠かすな          大酒は飲むな

      

  判事(ハンゴト)はきつく断れ   貧乏は苦にするな

  (※保証人にはなるな)    

 

  水は絶やさぬようにしろ      怪我と災いは恥と思え 

      

  小商(コアキナイ)もの値切るな   産前産後大切にしろ

 

  万事に気を配れ       病気は仰山にしろ

  家内は笑って暮らせ         病と禍は口から

 

    ◆     ◆     ◆     ◆

 

いかがでしょう? 当たり前のこと・・・といえばそれまでですが、結構ズシンと腹に響く言葉が多いと思いませんか? 

 

私も耳が痛いです。

いろいろ書き連ねてありますが、私が特に若いお父さん方に心してもらいたいのは、

 

「子供の言うこと八、九きくな」

 

子供に嫌われたくなくて何でもハイハイ言うことを聞けば、子供にナメられますからネ。

娘の要求を何でも聞いてあげている、そこのお父さん・・・今こそ、逆にこれを宣言するってのは如何でしょう?

 

って、無理か。😣

 

 

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とある日、お通夜の真っ最中だった午後6時30分頃、斎場にいる私の携帯に会社から連絡が入りました。

 

供花の件で至急連絡が欲しいという電話がA社から入ったとのこと。

 

折り返し担当者さんに電話を入れたところ、その女性社員は開口一番こう仰いました。

 

「ちょっと確認させてください。 今日そちらで通夜をされている○○家にウチの会社から供花を注文したはずなんですが、式場に出してもらってますでしょうか?」

 

少し怒ったような口調で、あたかも弊社にミスがあったと言わんばかり。

 

しかし私は、即座にこう申し上げました。

 

「いえ、貴社から供花のお申し込みは頂いておりませんが。」

 

なぜ断言できたのか?・・・それは、同社が誰でも知っているような大企業であり、もし受注していたらはっきり私自身の記憶に残る社名だったから。

 

即座に否定されて気勢を削がれたのか、その女性は

 

「えっ、あっ、そうですか・・・ちょっとお待ちください。」

 

そう言って暫し電話を保留。 
おそらく上司に相談していたのでしょう。 程なくして

 

「では、今から注文できますか?」 

 

「はい、大丈夫ですョ。 但し現在は式の最中ですので飾るのは式後になりますが、それでよろしいですか?」

 

「仕方ないですネ。 それでお願いします。」

 

最後の言い方まで、こちらの落ち度にしたい気持ちが滲み出るような口ぶりでした。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-供花

 

お通夜が無事終了した後、喪主様にA社から供花の追加注文があったことを申し上げたところ、一連のやり取りを私が報告する前に

 

「あぁ、そうですか・・・。 さっき、そのA社の幹部社員さんが参列されてましたから、ライバルのB社が供花を出しているのを見て慌てて会社に電話したんでしょう。」

 

と苦笑いしながらおっしゃったのです。

まるで「またか・・・。」と言わんばかりに。

 

A・B両社とも、喪主様の勤務先から大口の仕事を受注しているとのこと・・・普段から双方の対応の違いを認識されているご様子でした。

 

式前に供花も出され、幹部はおろか若手社員まで大勢参列されたB社。

 

片や、ライバル社の動きを見て慌てて供花を発注、しかもその手落ちを葬儀社になすりつけようとするかのようなA社。

 

喪主様は既にお見通しのようでしたが、私にとっては双方の会社それぞれの社風を見せつけられた感がありました。

 

一流・有名企業にお勤めの皆さん・・・どんなに会社が莫大な広告費を投下してイメージアップを図っても、皆さんの電話対応ひとつで台無しにすることもあるのです。

 

どうか、くれぐれもご注意を!

少なくとも、私はそれ以降A社の製品を買う気は失せました。

 


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この方の作った映画音楽を耳にしたことのない人は、まずいないのではないでしょうか? 

 

今日は、その

 

 ヘンリー・マンシーニ 

   Henry Mancini 

 

の命日・・・仏教でいうなら三十三回忌にあたります。 

 

マンシーニは1924年、オハイオ州クリーヴランド生まれ。 

 

フルート奏者の父親からフルートとピッコロの手ほどきを受けた彼は、高校から名門ジュリアード音楽院に進学して作曲を学びます。 

 

第二次世界大戦中に空軍のマーチングバンドで演奏活動をした後

、グレン・ミラー楽団でアレンジャー兼ピアニストとして活躍。 

 

そして1952年にユニバーサル映画に入社し音楽監督ジョセフ

・ガーチェンソンの助手を務めたことが、彼を映画音楽の世界へと誘うことに。

 

        

 

彼の名を一躍有名にしたのは、オードリー・ヘプバーン主演の『ティファニーで朝食を』(1961年)。 

 

この作品でいきなりアカデミー賞の歌曲賞と劇・喜劇映画音楽賞を獲得し、 彼女が歌った〝ムーン・リバー〟は彼の出世作となりました。

 

そして同年に公開された『ハタリ!』や翌年の『酒とバラの日々

』(※アカデミー賞・歌曲賞受賞)、1963年公開の『シャレード』 とヒット曲を連発。 

 

同じく1963年に公開された『ピンクの豹』は、その後ピンクパンサー・シリーズとして長年ファンに愛され続けました。 

 

またTVドラマの人気シリーズ『刑事コロンボ』(1968~)の有名なテーマ曲も、彼の作品なんです。 

 

更にはアニメ映画『トムとジェリーの大冒険』(1993年)の音楽も担当していますから、実に幅広い活躍をしていたことが伺えます。

 

そして作曲だけでなく、ロンドン響やイスラエル響、ロサンゼルス響やボストン・ポップス・オーケストラなど数多くの楽団を指揮したり、奨学金の支援をするなど後進を熱心に指導し大学から名誉博士号を授与される程、音楽界の発展に大きく貢献。 

 

非常に温厚な紳士であり人格者だったという彼が肝臓がんにより70歳でこの世を去ったのは、1994年6月14日でした。 

 

今宵はアカデミー賞3回、ゴールデングローブ賞も受賞した彼が遺した懐かしい作品を聴きつつ、映画音楽界の巨匠の冥福を祈りたいと思います。🙏

 

 

 

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「お前には、黙秘権がある!」

よくアメリカ映画やドラマで警官や刑事が逮捕した犯人に言ってますょネ。

 

判で押したようにこの決まり文句が発せられてますが・・・実はコレ、必ず被疑者に宣言しなければならないと法律で定められているものなんだそうです。 それは

 

   ミランダ警告

 Miranda warning 

 

と呼ばれ、アメリカ合衆国憲法修正第5条の自己負罪拒否権に基づきアメリカ連邦最高裁が確立した法手続きであり、もしこの警告をしないまま得られた供述は公判において証拠として採用いされない、という厳しいもの。

 

同法令の元となった〝ミランダ対アリゾナ州事件〟において、この警告が為されなかったことで被疑者ミランダが無罪となったことからこの警告を逮捕 (または取り調べ) 時に義務付ける判決が出されたのが、今からちょうど60年前の今日・1966年6月13日のことでした。

 

1963年に強盗・強姦罪で逮捕・起訴されたアーネスト・ミランダは下級審で有罪とされ20~30年の禁固刑を言い渡されましたが、最高裁判所は彼が自ら有する権利を知らされ、かつそれを放棄上での自白でなければ採用されない、として無罪を言い渡したのです。

 

(※この判決を下した首席判事は、後にケネディ大統領暗殺事件の調査委員会の委員長も務めたアール・ウォーレン。
 

一方せっかく釈放となったミランダは、執念を燃やす検察側が目撃者を探し出して再審に持ち込み、結局有罪となって収監。 

 

その後仮釈放されたものの、1976年に酒場で喧嘩に巻き込まれ刺殺されてしまいました。)


 ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草 ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

     Eanesto Miranda            Earl Warren 

この判決後、アメリカの警官・取調官は被疑者を逮捕した際に 『ミランダ警告』 の告知を常に要求され、それを記した携帯型カードも作られました。

 

映画などで出てくるシーンで皆が殆ど同じ文言を口にするのは、その文言が定型化されているからなんですネ。

 

その警告文は、以下の通り。

(※警告の順番・文言は若干変わる場合があります。)

 

1. You have a right to remain silent.
  お前には黙秘権がある。

2. Anything you say can and will be used against you in a

 court of law.
  お前の証言は法廷で不利に使われる可能性がある。

 

3. You have the right to talk to a lawyer and have him       

    present with you while you are being questioned.
  取り調べ中は弁護士の立ち合いを求める権利がある。

 

4. If you cannot afford to hire a lawyer, one will be  

   appointed to represent you before any questioning, 

   if you wish.
 弁護士を雇う資力がなければ公選弁護人を付ける権利がある。 

 

5. You can dicide at any time to exercise these rights and

 not answer any questions or make any statements.
 いつでもこの権利を行使し、質問に答えなくても供述をしなく

 ても良い。
 

そんなことはあってはなりませんが、万一トラブルに巻き込まれて警官と関わる事態になった場合この警告を受けるかもしれませんから、アメリカに渡航する(予定のある)方は、


 “Freeze!


と警官などに言われた時の対処法同様、事前に知っておいた方がよろしいかと・・・。(↓)

 

 

 

また万が一逮捕・拘留された時は、外にかけられる電話の回数も制限されますから、くれぐれもご注意ください。


そういえば、日本の刑事ドラマでは被疑者の逮捕時にこういうセリフは口にしませんし、警察の特集番組で放送される逮捕の瞬間でも 「〇時○○分、逮捕。」 としか言っていませんが・・・それでいいのかナ? 😨


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特攻・・・〝神風特攻隊〟を代表とする、日本兵が搭乗し爆弾を搭載した飛行機や潜水艇等もろとも敵艦に突っ込む、十死零生の悲劇的作戦。

この特攻に関しては、過去拙ブログでも記事にしました。(

 

 

 

この作戦によって、学徒出陣した学生ら20歳前後の若者たち約5,800名が(表向きは志願したとされているものの実態は殆ど命令・強制によって)散華されました。

(※一方で 「俺も後から行く」 と言って彼らを送り出した将校の多くは生き延びていますが。)

軍隊である以上、上官の命令は絶対・・・なのですが、その特攻命令を敢然と拒否した軍人も実在したのです。 その人の名は


 美濃部 正 少佐

今日は、この気骨ある軍人の命日にあたります。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

1915年に愛知県で生まれた彼は、1937年に海軍兵学校を卒業。

 

その際、敢えて競争率の低い水上偵察機搭乗を希望し、首尾よく水上偵察機操縦専修を命じられるなど、当時から策略家の本領(?)を発揮しています。

そして1941年に美濃部貞功・海軍少将のお嬢さんと結婚・婿養子となり、太田姓から美濃部姓になりました。

大東亜戦争開戦後、第983海軍航空隊の飛行隊長に着任し、自らの戦闘体験から夜間攻撃部隊の構想を持つに至ります。

源田実中佐にその構想を認められ夜襲部隊の編成を許されたものの、理解のない上司と衝突して隊長を解任され、部隊もその後の迎撃戦で壊滅。

しかし転属先の第302海軍航空隊で第二飛行機隊々長に命じられた彼は、1945年1月にそれまで複雑な構造ゆえに敬遠され各所に放置されていた水冷エンジン搭載の艦上爆撃機『彗星』を主力機としてかき集め、優秀な水上機搭乗員・整備工を選抜して 『芙蓉部隊』 を編成。

同年2月に同部隊が特攻攻撃に組み込まれる寸前だったのですが

・・・ここで敢然と立ちはだかったのが、美濃部少佐だったのです。

彼の編成した扶養部隊の活躍を描いた、

 
『彗星夜襲隊』 (渡辺洋二・著 光文社・NF文庫)

 

から、その様子を抜粋・転記しますと・・・。


     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

前年10月にフィリピンで特攻攻撃か始まった際、その立案者といわれている大西瀧治郎中将に夜戦を主張し特攻不参加を容認させたという美濃部少佐は、軍上層部が「全機特攻化せよ」という命令を下したその会議中、末席に座っていながら毅然として意見を述べます。

「フィリピンでは敵は300機の直衛戦闘機を配備しました。 今度も同じでしょう。 劣速の練習機まで駆り出しても、十重二十重のグラマンの防御陣を突破することは不可能です。


特攻のかけ声ばかりでは勝てるとは思えません。

 

今の若い搭乗員の中に、死を恐れる者は誰もおりません。 

 

ただ一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義が要ります。

 

しかも、死に甲斐のある戦功を立てたいのは当然です。 

 

精神力一点張りの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。

 

同じ死ぬなら、確算のある手段を講じていただきたい。

 

ここに居合わす方々は指揮官・幕僚であって、自ら突入する人がいません。
 

必死尽忠と言葉は勇ましいことをおっしゃるが、敵の弾幕をどれだけくぐったというのです? 


失礼ながら私は、回数だけでも皆さんの誰よりも多く突入してきました。 

 

今の戦局にあなた方指揮官自らが死を賭しておいでなのか!?

 

劣速の練習機が昼間に何千機進撃しようと、グラマンにかかってはバッタのごとく落とされます。


2,000機の練習機を特攻に駆り出す前に、赤トンボ(※九三式中間練習機)まで出して成算があるというのなら、ここにいらっしゃる方々がそれに乗って攻撃してみるといいでしょう。


私が零戦一機で全部、撃ち落としてみせます!」

 

まさしく〝特攻拒否〟・・・会社の役員会議でこれだけの発言をすれば左遷・降格は必至。

 

まして上官命令絶対の軍隊では処刑も有り得ます。

実際この時、美濃部少佐は死を覚悟したそうですが・・・彼の理論・実績を知る出席者達はただ沈黙するばかりだったとか。

更に少佐は彼らに訓練を見学させるなどしたことで結局芙蓉部隊は特攻を免れ、これに奮起した隊員の士気は大いに高揚。

 

2月~8月15日までの夜襲出撃回数81、延べ出撃機数786で、敵戦艦・巡洋艦・大型輸送船撃破各1、飛行場大火災6(※内1回は伊江島飛行場の艦載機600機をほぼ壊滅)などの戦果を上げます。

未帰還機43・戦死者89名を出しましたが、それでも終戦時には50機以上も残存戦力を残しましたから、殆どの飛行機を目標到達前に撃ち落とされた特攻隊と比べれば、その違いは明らか。


しかし、美濃部少佐は単なる特攻隊反対論者ではありませんでした。 彼は、戦後自らこう語っています。

 

「戦後よく特攻戦法を批判する人があるが、しかしそれは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。

 

当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばならぬ。 

 

私は不可能を可能とすべき代案なき限り、特攻また止むを得ず、と今でも考えている。

 

戦いの厳しさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない。」


実際に最前線で戦った少佐の言葉は、重く受け止めねばならないでしょう。

あくまで勝算を探り、最大効果を発揮する作戦を立案し実行する

・・・一見当たり前のことですが、戦争末期に精神論と面子だけで多くの若者の命を散らせた軍幹部の中に、美濃部少佐のような冷静な判断力と実行力のある将校があと数名でもいてくれたなら

、戦争の結末・戦死者数は少なからず違っていたのではないでしょうか?

 

戦後航空自衛隊空将となり、幹部候補生学校長も務めた美濃部氏の教えが、現在の航空自衛隊に根付いていることを願うばかり。

当然の如く、元軍人だった美濃部少佐の名は教科書には出てきません。

 

しかし、こういう気鋭の日本人がいたことを子々孫々に伝えることは、私たち大人の義務でもあります。

そんな思いを込めつつ、1997(平成9)年6月12日に81歳で病没された英傑のご冥福をお祈り致します。🙏



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グレートブリテン島とアイルランド島の間に位置する、東京都の約1/4の面積(572㎢)しかない英王室属領のマン島。

   

同島は1907年から開催されている世界最古の公道レース

    マン島TTレース
 The Isle of Man Tourist Trophy Race


の開催地として知られていますが、このレースで日本勢として初めてホンダが優勝したのが、今から65年前の今日でした。

同社の創業者・本田宗一郎氏(1906-1991)は、

「レースをしなけりゃマシンの性能は良くならん。
 観衆の目前で鎬を削るレースこそ世界一になる道だ。」

という強烈な信念を持っていたとか。

   

朝鮮戦争特需が去り倒産の危機にありながら、彼はその信念に基づき
自らの目で世界最高峰の2輪レースであるマン島TTレースを視察すべく1954(昭和29)年に渡欧。

そして世界トップのマシンに自らの想定より遥かに強烈なパワーを見せつけられてショックを受けるや、すぐさま同レースへの参加をすべくチームを結成。

そのリーダーを任されたのが、当時まだ30歳前のエンジン設計課長だった河島喜好氏でした。

メンバー9人の殆どが20代という若いチームは、いい意味で怖いもの知らず。

1959年5月、125ccクラスのみに絞って出場することとなったホンダチームは、レース1ヶ月前にマン島一番乗り。

それまで浅間などダートコースばかりでレースをしていたメンバーは、初めて舗装されたコースを見て度肝を抜かれたそうですが

、それでも出場した4台が6・7・8・11位と全て完走。

それまで全く無名だった HONDA の名が初めて世界に知られるように。

当時イギリスの2輪専門誌にホンダ・ベンリイ号の写真が掲載されましたが、右下の文字が逆さま・・・いかにそれまで無名だったかを示しています。

   

 

河島氏は、この時本田社長に

 

「私たちは初めて世の中に出た、井の中のカエルでした。
でも、ただのカエルでは終わりません。 きっと3年先には、大海を知るカエルに成長することをお約束します。」

という手紙を現地から送ったそうですが、その約束は前倒しで見事果たされることに。

1961年6月12日に行われた同レースの250cc・125cc 両クラスに、世界に先駆けて開発した4バルブエンジンを引っ提げて出場したホンダチームは、大会史上初めて両クラスとも1~5位までを独占。

更に同年の世界GP レースでも両クラスのメーカーチャンピオンを獲得し、世界の頂点に立ったのです。

まさに、モノづくり日本の面目躍如と言えましょう。

チームリーダーを務めた河島氏は後に同社の社長も務めましたが

、この偉業について知りたい方には彼自身も出演されたこちらのご視聴をオススメします。

『プロジェクトX 挑戦者たち 制覇せよ 世界最高峰レース
         ~マン島・オートバイにかけた若者たち


   


この頃のNHKは、今と違って日本のためになる良い番組を作っていました。

ご覧になった方の心に、きっと熱い思いとやる気が漲ってくると思いますョ。

頑張れ、ニッポン!! 


 

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