ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

今日は、あるアメリカ人実業家の命日にあたります。

 

 ウィル・キース・ケロッグ

     Will Keith Kellogg 

 

名前から、彼がどんな会社を経営していたのか・・・意外とお母さんやお子さんの方が、ピンとくるかもしれませなんネ。

 

そう、コーンフレークなどシリアル食品の世界的大企業・ケロッグ社の創業者なのです。

 
      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

1860年生まれのケロッグは、化学者であった8歳年上の兄・ジョン・ハーベイ・ケロッグと共に栄養豊富な菜食主義に合致した食品の開発をしていました。

 

そして1894年のある日、うっかりパン生地をそのまま放置してしまい乾燥させてしまいます。

 

生活が裕福でなかった二人はそれを捨てずにローラーで引き延ばし、フレーク状になったものを病院患者に食べさせたところ、これが大好評。

 

ケロッグ兄弟は同年5月31日に、これを『グラノース』という名前でこの食品の製造特許を取得します。

 

その後の研究で、トウモロコシが原料として最適であることを発見したケロッグは、兄と共に会社を設立。

 

ところがその後、口当たりを良くするために砂糖を添加したい弟と、あくまで健康食品としてそのままで販売すべきと主張する兄が対立・・・何と絶交状態になってしまったとか。😰

 

結局会社は弟が経営することになり、兄はサナトリウム(保養所)のスタッフとして生涯を終えたのだそうです。

 

純粋な化学者の兄と、ビジネス感覚が鋭い弟・・・袂を分かつことになったのは、必然だったのかもしれません。

 

彼は1922年に社名を『ケロッグ社』と改め、その後カナダ・オーストラリア・イギリスを始め世界中に拠点を拡大、各国の朝食スタイルに大きな変革をもたらすまでに成長したのです。

 

現在は180ヶ国以上の人々に朝食シリアルを提供している同社・・・私も中学生の食べ盛りの頃は、ドンブリ3杯のごはんを食べた後、そのドンブリにコーンフレークと牛乳を目一杯入れて食べてたものです。


      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-コーンフレーク

 

当時は砂糖をまぶしたもの1種類くらいだったのですが、今では実に様々な味や素材の商品が並んでますょネ。

 

シリアルは低カロリーでビタミン豊富、繊維質も含む優良食品。

 

私も社会人になって一時期毎朝コーンフレークと牛乳だけの朝食を続けたことがあり、それだけで結構減量できました。

 

食べてダイエットしたい方には、オススメかも。

 

1951年10月6日に亡くなったケロッグが91歳の長寿を全うできたのも、自らが発明したコーンフレークを食べていたおかげかもしれませんネ。


 

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「才は沈才たるべし、勇は沈勇たるべし、
        孝は至孝たるべし、忠は至忠たるべし」

自らこう語った通り決して表舞台に立つことはありませんでしたが、日本近代史において影響力が少なからずあった大物・・・といえば、

 
頭 山  満  翁

 

今日は、『大アジア主義』を掲げ自ら行動を起こし続けたこの思想家・活動家の命日・没後80周年にあたります。

 

     

教科書に登場しないため一般的にはあまり知られていない方であり、ともすると〝右翼の巨頭〟などと言われてもいますが、実際にはそんな一言で片づけられるべきでない傑人だった、と私は思います。

 

1855(安政2)年に福岡藩士の三男として生まれた満少年は、幼い頃から腕白だった反面記憶力抜群の切れ者・・・しかし家が貧しかったためサツマイモを売り歩くなど苦労をしていたとか。

 

母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の〝満〟から名前を授かって頭山満と名乗るようになった彼は、16歳の時に勤王派の女医が主宰していた興志塾に入門。

 

そこで徹底した実践主義を学んだ頭山青年は、1876(明治9)年に勃発した秋月・萩の乱に呼応し福岡藩士の蜂起を画策して投獄・・・釈放されたのは尊敬する西郷隆盛が自刃した当日のことでした。

 

24歳の時、薩摩にある西郷の旧宅を「西郷先生に会いに来ました」と突然訪ね、「西郷はもう亡くなったよ」と家人に言われた彼は、

 

「いえ、西郷先生の身体は死んでもその精神は死にません。

 私は西郷先生の精神に会いに来たのです。」

 

と答えたそうですから、若くしてその高い精神性と西郷に対する深い尊敬の念を持っていたことが伺えます。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

            24歳頃の頭山青年

 

その後大久保利通暗殺を受けて蜂起を促すために会った板垣退助から、逆に

 

「近代国家を歩み出したばかりの日本は、憲法制定や責任内閣制を実現させることを何よりも優先すべし」

 

と諭された彼は、武力闘争から一転して自由民権運動への参画を決め、地元福岡で向陽社を、更に同社を改名する形で1881(明治14)年に『玄洋社』を結成。

 

  第一条  皇室を敬戴す可(べ)し
  第二条  本国(日本)を愛重す可し
  第三条  人民の権利を固守す可し

 

を憲則として掲げた同社には、西郷隆盛を信奉する者が60名以上も結集。

 

また向陽社から派生して設立された向揚義塾は、後に現在福岡の進学校として名高い修猷館の源流であり、川上音二郎・緒方竹虎・中村天風・広田弘毅など、多くの人材を輩出しています。

 

しかし玄洋社旗揚げと同時期に政府が国会開設の詔を発布。

 

板垣退助が自由党を結成して政党政治の時代に入ると、彼は党利党略に明け暮れる政治家に嫌気し、農業に精を出すように。


そして1892年の第2回衆院選で政府側が敗北すると、約束を違えた松方正義首相に幻滅した彼は国内政治に見切りをつけると同時に、視線を世界に向けるように。

そして嘗て西郷隆盛が目指した『大アジア主義』(アジア諸民族の連帯・団結によって西洋列強国の侵略に対抗し、新しいアジア構築を目指す思想)に傾倒していきます。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

            30歳代後半

 

その思想に基づき、1904(明治37)年に日露戦争が勃発すると、玄洋社は満州義軍を結成して当地で馬賊を組織しロシア軍を撹乱するなどしました。

 

また亡命した孫文の支援や、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ホースをかくまうなど独自の活動も展開。

 

しかし朝鮮併合に反対し、満州事変・日華事変にも心底憤っていたという頭山翁にとって、自ら掲げた大アジア主義が軍部を中心としてその後のアジア支配を目論む大東亜共栄圏の構築に利用されたことは、許し難いことだったでしょう。


               

                『人ありて 頭山満と玄洋社』 (海鳥社・刊)

 

晩年は御殿場の山荘で静かに暮らした彼は、終戦まで1年を切った1944(昭和19)年10月5日に89歳で大往生を遂げました。

「オレの一生は大風の吹いた後のようなもの・・・何も残らん」

 

と生前語っていた如く、持ち得た資産は他の政治家の支援などに悉く使い切り、遺産は殆ど残らなかったとか。

 

      

            晩年の頭山夫妻


(どこぞの政治家のように)口先だけでなく、自ら行動を起こし信念の赴くままに行動し他人をも助けた、真に天晴れな思想家であったと言えましょう。

 

現在の日本は、戦後アメリカによる占領政策や教育により精神的な背骨を見事に抜かれてしまった感があります。

玄洋社の憲則に掲げられた三文を、日本人は今一度かみしめるべき・・・と私は思いますが、いかがでしょうか?

親交のあった中江兆民(↓)をして、

 

 

「大人長者の風あり、かつ今の世、古(いにしへ)の武士道を存して全(まった)き者は、独り君有るのみ」

 

と言わしめた〝国士〟 頭山翁のご冥福をお祈り致します。🙏

 

 

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拙ブログでは、教科書には取り上げられない優れた軍人を何人も取り上げてきました。

上は総理大臣も務めた大将クラスから、下は中尉クラスまで階級は様々ですが、いずれも猛将・智将として名を馳せた方々ばかり。

ですが、今回ご紹介するのはちょっと毛色が違うというか、武勇伝ではなくその道徳心溢れる言動で〝聖将〟と謳われた、


 今村 均 陸軍大将

 

今日はこの多くの部下に尊敬され慕われただけでなく、占領地の住民や敵国からも高く評価された日本軍人の命日にあたります。

 

      
 

1886(明治19)年に宮城県仙台区で生まれた今村少年は、新潟県の新発田中学を首席で卒業した秀才で、一高・東大も夢ではありませんでした。

しかし判事だった父親が亡くなったため進路を変え、授業料のかからない陸軍士官学校に進学、更に
陸軍大学校も首席で卒業し恩賜の軍刀を賜っています。


順調に昇進を重ねた彼は大東亜戦争開戦後、第16軍司令官として蘭印作戦を指揮。

敵失もあったもののたった9日間で約10万人のオランダ軍を始めとする連合国軍を無条件降伏させ、バレンバンの油田地帯を制圧。

オランダ統治時代に政治犯として捕らわれていたスカルノらを開放、資金・物資を与えて独立を支援すると同時に各地で学校を建設。

 

一方で捕虜に対しても待遇に気を使い、反日機運を抑えることに成功。

特筆すべきは、1942年11月に第8方面司令官としてラバウルに赴くと、補給の途絶に備えて兵士たちに島の土地を開墾させて自給自足体制を整備するよう指示したこと。

自らも農具を手にして率先垂範で畑を耕したといいます。

これが功を奏し、その後アメリカ軍がラバウルの孤立化に成功しても、同島の日本兵たちは殆ど飢えることがありませんでした。


敗戦後、戦犯として連合国軍により軍法会議にかけられるも、現地人の有利な証言により死刑を免れ禁固10年の刑に、そして第16軍司令官としては降伏させたオランダ軍の裁判で無罪を言い渡されました。


そして驚くべきは、その判決に基づき巣鴨拘置所に収監された彼が 「自分だけ東京にはいられない」 と、かつての部下が劣悪な環境で服役している南方の刑務所での服役を志願したこと。

若い部下を特攻で死なせ、「オレも後から行く」 と言いながらのうのうと生き延びたり、部下を見捨てて我先にと戦地から日本に逃げ帰る上官も多い中、自ら部下たちと同じ環境に身を置こうとしたのです。

この配転の直訴を受けたマッカーサーGHQ司令長官は

「私は今村将軍が嘗ての部下達と共に服役するためマヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。」


と感嘆し、彼の希望を聞き入れました。


彼が赴いたニューギニア近くのマヌス島収容所は高温多湿の劣悪な環境で、収容されていた旧日本兵は睡眠すらまともに取れない状況だったそうですが、今村大将が穏やかな口調で要求した様々な提案をオーストラリア軍は素直に聞き入れ、収容環境はかなり改善されたといいます。

多くの部下を救うことに心を砕いた彼は、刑期満了で帰国後軍人恩給のみで質素に暮らしつつ戦死した部下の慰霊祭にこまめに顔を出し、遺児の就職の世話をするなど遺族の援助に心を砕きました。

出版した回顧録の印税は全てそれらの資金に充てたといいます。

1968(昭和43)年10月4日、82歳で天に召された今村大将・・・戦後は終生、戦争責任者として自らを責め続けていたのかもしれません。


そんな今村大将の生涯を描いたのが、この一冊。

 『責 任 ラバウルの将軍 今村 均 

                  (角田房子・著 ちくま文庫・刊) 

 

     

決して礼賛するだけでなく、数々の証言から今村大将の人間像や苦悩を浮き彫りにした秀作です。

武士道・道徳を重んじる日本人の規範として、皆さんにも是非今村大将の生き様に触れていただきたいと思います。

 

大将にまで登り詰めた秀才が、実は子供の頃夜尿症で苦しんだり登校拒否したり、また生涯短気な性格が治せなかった・・・などというエピソードを知ると、凡人の私は少しホッとしたりしますが。

あらためて〝聖将〟のご冥福をお祈り致します。笑3



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「アメリカのシンボルって、何?」 と問われれば、きっと多くの方は

 

 自由の女神

 

と答えることでしょう。 

 

地上からトーチまで約93m、正式名称を

 

Liberty Enlighening the World (世界を照らす自由) 

 

というこの像がフランスからアメリカに寄贈されたことは皆さんもご存知のことでしょうが・・・では、ここで問題です。

この巨大な銅像を作ったのは、誰?

 

     

正解は、


フレデリック・オーギュスト・バルトルディ

      Frédéric Auguste Bartholdi

という、フランス人彫刻家・・・そして今日は、彼の命日・没後120周年にあたります。

 

     

バルトルディは1834年、アンザス地域圏のコルマールで生まれました。

 

家系は裕福でイタリア系の父親は弁護士を務めており、多くの芸術家が貧困や複雑な家庭環境に育ったのに反して生活の心配をすることはなく、故郷コンマールとパリで彫刻を学んだ彼は多くの作品を無償で制作したといいます。

とはいえ、彼は生まれた直後に父親と死別するという悲惨な体験をしていますが・・・。

 

『自由の女神』制作の端緒は、アメリカ建国100周年を祝うため法学者ランヴイエが〝自由を謳う像〟の贈呈を提案したこと。

制作費は、これに賛同するフランス国民の寄付で賄われました。

そしてその大役が1874年、ランヴイエの指名によりバルトルディに決定。

確かな造形力と豊かな表現力で評価されていたとはいえ、彼は当時まだ31歳。

 

おそらく相当なプレッシャーだったと思いますが、彼はスエズ運河々口に建設を計画していた灯台のスケッチを出発点に試行錯誤を重ね、ドラクロワの傑作『民衆を導く自由の女神』をモチーフにして、女神像を作り上げていきました。

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-ドラクロワ

 

右手に松明を持ち、左手にはアメリカ独立記念日(1776年7月4日)とフランス革命が勃発した日付(1789年7月14日)が刻まれた独立宣言書が。


そして足元には引きちぎられた鎖と足枷があり、それを踏みつけることで一切の弾圧・抑圧からの解放を表現し、人が自由であることを象徴するデザインに。


そして最も重要な顔のモデルは、何と彼自身の母親だったとか。

女神像の顔の右側に立つ女性が、その母親だそうですが・・・どうでしょう、似てますか?


     

小さくてよく分かりませんが・・・女神も、顔だけだと結構怖そう。😅

 

像の骨格はエッフェル塔を作ったキュスターブ・エッフェルが担当し、10年の歳月をかけて作られた女神像は一旦分解されてフランスの軍用輸送船・イゼール号でアメリカへ。

台座部分の建設は、新聞社主・ピューリッツァー(↓)の「あなたの25セントを!」という募金キャンペーンによりアメリカ国民から集まった10万ドルの資金で進められ、厚さ2ミリの銅板で作られた女神像は再度組み立てられ、見事リバティ島に建ち上がりました。

 

 

1886年10月28日に行われた除幕式には、生憎の雨模様にも関わらず当時のクリーヴランド大統領をはじめ何と100万人以上の観衆が集まり、顔に掛けられたフランス国旗をバルトルディ自身が除幕したといいます。

まさに一世一代の晴れ舞台だったでしょうネ。

その後も彫刻に生涯を捧げ、1904年10月4日に70歳でこの世を去ったバルトルディ・・その作品の多くは故郷コンマールのバルトルディ美術館に所蔵されているそうな。

パリにはもう行き飽きたという方は、次回是非訪れてみてください。

またフランスに行かずとも、アメリカの象徴を作った彫刻家の名前を憶えていただければ、何よりの供養になるかと・・・。🙏

 

 

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毎年3月末から4月初旬にかけて、お堀端が綺麗なピンク色に染まる桜の名所・千鳥が淵。

 

私がサラリーマンになりたての頃から、東京で勤務していた時は必ず花見に訪れた大好きな場所です。

 

その桜並木の向こう側に、なだらかな曲線を描く屋根のてっぺんに乗っかった大きな葱坊主(?)が見えるのですが・・・これが 

 

 日本武道館

 

我が国を代表するこの建物が開館したのは、今からちょうど60年前の今日・1964(昭和39)年10月3日・・・東京オリンピックの開会式1週間前のことでした。

 

1961年に柔道がオリンピックの正式種目となったことを受け、同年6月に武道会館建設議員連盟が結成され、翌年1月に 『財団法人 日本武道館』が発足。

 

天皇陛下よりいただいた御下賜金をはじめ、国庫補助金や企業・個人からの寄付金で約20億円の建設資金が賄われ、約1年の工期で竹中工務店が建設。

 

富士山をイメージした屋根、法隆寺の夢殿を摸した八角形の独特なフォルムは、〝武道の聖地〟たる威厳と、日本の美を感じさせます。


    

 

あっ、冒頭に葱坊主なんて失礼なことを書きましたが、これは伝統的な建築物の装飾で神社・寺院の階段や橋の欄干などに乗っている『擬宝珠(ぎぼし)』という飾りです。

 

今ではマンモス大学の入学・卒業式やプロレス・ボクシングの興行にも使用され、また音楽界ではここでコンサートを開催する事が一流アーティストとしてのステータスとなっていますが、最初にクラシック以外のコンサートで使用したビートルズ公演では、その開催を巡って大騒動になりました。

 

1966年、読売新聞社・中部日本放送主催でビートルズの初来日公演が企画されましたが、当の読売新聞社々主で日本武道館の館長だった正力松太郎氏が、

「ペートルなんとかというのは一体何者だ? 

  そんな連中に武道館を使わせてたまるか!」

と激怒。 
時の佐藤総理など同様の発言をする要人がいて、一時期は後楽園などに会場を変更することも検討されたのだとか。

 

最終的には武道館で開催の運びとなりましたが、当日はパニック状態も憂慮されたため1階席は全て警官と関係者で埋め尽くされ、一般の観客は全て2・3階席で歴史的公演を楽しむことに・・・いかにも時代を感じさせるエピソードです。

 

しかし武道館と名のつく以上、現在でもスケジュールは武道関係での利用を優先しているとのこと。

 

ところで皆さんは、武道館の天井から巨大な日章旗が吊り下げられていることをご存知でしょうか?

 

      

 

これ、いかなる場合でも外さないそうです。

 

日本武道の聖地として当然の事のように感じますが、以前韓流スターの公演が行われた際、そのビデオで映像を加工し日章旗を消したことが問題視されました。

そんな不届き者は出禁にすべきですし、努々これが外されるような時代がやってこないことを、私は願うばかりです。扇子

 


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今日・10月2日が 『望遠鏡の日』 であることは、過去記事にしました。(↓)

 

さて私にとって望遠鏡といえば、やはり〝天体望遠鏡〟。

 

殆どの男子は、ある一時期天体に興味を持つと思うのですが、私もご多分に漏れず・・・小学校高学年の頃、アポロ11号が月面着陸したことに触発されたのか急に

(土星の輪っかをこの目で見たい!)

 

と思うようになり、親父を拝み倒してビクセンの天体望遠鏡を買ってもらいました。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-望遠鏡

 

今では倍率すら忘れましたが、月面のクレーターが大きく見えたことにビックリしたものです。

 

その時、一生懸命アポロの乗組員が立てた星条旗を探したんですが・・・その場所は地球から見えない月のウラ側。😅

 

そんなことすら知らないド素人ですから、憧れの土星を探すのは大変でした。

 

『月刊天文ガイド』を本屋で立ち読みして土星の大まかな場所を特定。

 

そこをひたすら望遠鏡を覗きながら探すこと数日・・・微かに輪っかがはまった豆粒のような土星を見つけた時の感激は、ひとしおでした。

 

   

 

でも目的を達した私はその後急速に天体望遠鏡を覗く気持ちが薄れ、いつしかビクセンは物置の奥へ・・・その後日の目を見ることはありませんでした。😞

 

だからといって、天体に興味がなくなったワケではないんです。

 

私には、一度は是非覗いてみたい天体望遠鏡があるんですから・・・それは、こちら。(

 

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

知る人ぞ知る・・・『すばる』

 

1999年にハワイ島のマウナ・ケア山々頂に400億円の巨費を投じ、日本の最先端技術を結集して造られた世界有数の大型光学赤外線望遠鏡です。

 

富士山頂より宇宙に近い、標高4,205mに位置するこの天文台から見る星々は、一体どんな風なんだろう?

 

そんな〝天体ロマン〟・・・何歳になっても心から消えることはありません。

 

還暦を過ぎた私がもしハワイに行けたら・・・その時の楽しみは、サーフィンでもショッピングでもなく、壮大な天体ショーを見ること(とゴルフ)だけ。

 

一般見学も予約で受け付けていますから、ハワイにお出かけの方は、是非!


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戦後70年の節目に当たる2015(平成27)年4月に天皇・皇后両陛下が訪問されたことで、この国の存在を知った日本人も少なくなかったと思います。

今日は、その


 パラオ共和国

  Republic of Palau

 

の独立記念日にあたります。

 

     

パラオは東京から飛行機で約5時間半、フィリピン諸島東の太平洋上に浮かぶサンゴ礁に囲まれた大小300の島々で構成されています。

全島の総面積は488㎢で、日本の屋久島とほぼ同じ。
人口約21,000人の小国。

 

  

この年間平均気温28℃という〝常夏の楽園〟は観光地として有名ですが、その歴史は苦難の連続でした。

不幸の始まりは、1500年代にスペイン人に発見されてしまったこと。

彼らが行った猛烈な搾取と持ち込んだ天然痘によって原住民は疲弊し、人口は従来の10%にまで落ち込んだとか。

 

そして1899年、米西戦争に敗れたスペインはドイツに売却。
 

同国はココナッツ・タピオカの栽培やリン鉱石の採掘などの産業振興には熱心だったものの、インフラ整備や現地人の教育などは全く行なわず。

そして第一次世界大戦が始まると、参戦した日本がパラオを含む南洋諸島を占領。

戦後1920年に、国際連盟からそのまま委任統治が認められた日本の統治は、ドイツと違いました。

殖産興業だけでなく原住民の教育にも熱心に取り組み、インフラ整備だけでなく多くの学校や病院を建設したのです。

そのおかげでパラオの経済は発展し、人口も2万人から5万人に増加・・・現地の人々は、日本に大きな恩義を感じるに至りました。

ですから第二次世界大戦末期にパラオが日米の戦場となった時、パラオの人々は「日本と共に戦う」と志願。

しかし日本軍はパラオの人々を疎開させるなどして、パラオの民間人を一人も死なせなかったといいます。

そして圧倒的な火力を有する米軍に果敢に立ち向かう日本兵の姿に感銘を受けたそうな。

しかし終戦後、パラオはアメリカの統治下に。

 

そのアメリカはパラオを単なる軍事基地と位置付け、日本が築いた建造物を徹底的に破壊し、放置されたパラオの畑はジャングルに逆戻り。

そして住民を島に閉じ込める〝動物園政策〟を執って徹底的な反日教育をしたそうですが、パラオの人々には全く効果なし。

彼らは日本兵の遺体を手厚く葬り、現在に至るまでその墓を大切に守ってくれました。

ですから天皇皇后両陛下が戦没者慰霊のため訪問された際、今でも日本の歌を歌い、子供に日本人の名をつけ、教科書に日本統治時代の様子を大きく割いて教えるパラオの人々が熱烈に歓迎してくれたのです。

     

パラオの人々が親日である証拠・・・それは、同国の国旗を見れば分かります。

     

日の丸と同じデザイン・・・黄色の円は、日の丸の太陽に対して月を現わし、日本との友好を示しているのです。 (青は海を表現。)

 

そのパラオがアメリカから独立したのが、今からちょうど30年前の今日・1994年10月1日(国連加盟は同年12月)でした。

ベルリンの壁が壊されて東西冷戦が終結し、パラオに軍事施設を置く必要がなくなった・・・これがアメリカが独立を許した主たる要因。

その時の大統領は、日系人のクニオ・ナカムラ(中村國雄)氏でした。

 

私たち日本国民は、近くの反日大国より遠くの親日小国を気にかけ、もっと大事にすべきでしょう。扇子

 

 

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日本プロ野球には、これまで累計1,000人を超える外国人選手が登録されてきたそうですが、その中でも活躍度・貢献度においてトップクラスと言えるのが、

 グレゴリー・ドウェイン・ウェルズ 選手
    Gregory DeWayne Wells

 

「えっ、そんな選手いたっけ?」 と首をひねる方もいらっしゃるでしょうが、彼の登録名が〝ブーマー・ウェルズ〟だったと聞けば、「あぁ、あの・・・」 と思い出す昭和世代の野球ファンは多いはず。

彼が外国人選手として初めて三冠王を獲得したのが、今からちょうど40年前の今日・1984(昭和59)年9月30日のことでした。

(※阪神のランディ・バース選手が三冠王を獲得したのは、翌1985年から2年連続。)

1954年にアラバマ州で生まれた彼は元々アメフト選手として活躍し、1975年にはNFLのドラフトでニューヨーク・ジェッツから指名された程でしたが、結局入団はせず。

その後は一転して野球選手としてプロの道に入り、1981年にトロント・ブルージェイズ、翌年ミネソタ・ツインズでプレーした後阪急ブレーブスと契約。

来日前に近鉄のマニエルから日本野球事情を仕入れそうですが、元々練習好きだった彼は日本の長い練習時間にも対応し、初年度も打率.307とそこそこの成績を残します。

 

そして環境に慣れた翌1984年に大爆発。

482打数171安打、打率.355・37本塁打・130打点で見事三冠王を達成してチームのリーグ優勝に貢献し、MVPも獲得。

〝ブームを呼ぶ男〟という意味合いでつけられたブーマーという登録名に相応しい活躍をしたわけです。

      

ベンチで奇声を上げることや、身長200cm・体重100kgの巨漢から〝怪人〟とも言われた彼ですが、豪快な見かけと違い実は非常に器用かつ心優しい選手だったとか。

イメージからすると、豪快なホームラン王という感じですが、実は柔らかなスイングが持ち味のアベレージ・ヒッター。

確かに推定飛距離162mの特大ホームランを打ったこともあるパワーの持ち主ですが、選球眼が良く三振が少ないのが特徴。

しかも通算打率では、4,000打数以上の歴代ランキングだと

第1位  レロン・リー  .320 

第2位  若松 勉      .31918  
第3位  張本 勲    .31915
第4位  ブーマー    .317

なのですが、1~3位までは全て左バッター。
右打者としては、あの落合選手よりも上なんです。  

同僚の山田投手は、  

「彼はタイトルには全く固執しない、フォア・ザ・チームの選手だった。

ホームランを狙えばもっと打てたけど、チャンスではライト方向に軽くヒットを打つことが多かった。」

と証言していますし、また死球を巡って投手めがけて突進して退場処分を食らった直後は、対戦相手の梨田捕手に謝罪し握手してベンチに帰ったという微笑ましいエピソードも。


一方で大変な恐妻家で、毎日の小遣いを2,000円しかもらえず、うどんやフライドチキンばかり食べているのを見かねた上田監督が、何度もステーキを御馳走したそうな。

また球場へはマイカーではなく電車で通勤。

 

頭をぶつけないように身体をかがめて阪急電車に乗るシーンをプロ野球ニュースで見たことが忘れられません。

しかしそんな彼に関して、非常に残念なことがひとつ。

間違いなく日本プロ野球史に残る名選手なのに、引退から20年となる2012年までの有資格期間中に、野球殿堂入りができなかったこと。

本人も非常に残念がっていたそうですが、三冠王を獲得した選手を落選させるとは・・・。

日本球界の閉鎖性、外人選手に対する敬意の足りなさを感じるのは、私だけでしょうか?😔

 

 

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