ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

今日は、日本人には〝ご飯のお供〟としてお馴染みの、

 

 佃煮の日


なのだそうです。

発祥地である東京佃島の氏神・住吉神社が今からちょうど380年前の今日・1646(正保3)年6月29日に造営されたことに因んで制定されたとのこと。


江戸時代、徳川家康の命により、摂津国・佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師が江戸に呼び寄せられて墨田川の河口埋立地・・・現在の東京都中央区佃島に住まわされました。

彼らは悪天候時の保存食を自宅で小魚や貝類を塩・醤油で煮詰めて作っていましたが、雑魚類が大量に獲れるとそれを売り物にするようになり、保存性の良さと安価なことから庶民に普及。

更に参勤交代により江戸名物として地方に持ち帰られたことで、各地でも様々な食材を用いて作られるようになりました。

その地方で獲れる小魚やアサリなどの貝類をはじめ、昆布などの海藻類、また牛肉の佃煮もありますが・・・我が故郷・信州には

こんなのがあるんですョ。(


     

 

そう、原材料は田畑でピョンビョン跳ねているバッタです。

 

見かけはグロテスクですけどビタミンA・E、カルシウム、更にはオレイン酸などの不飽和脂肪酸を多く含んだ健康食品であり、海がなく雪深い信州では貴重な栄養源だったのです。

美味しいですから、是非一度食べてみてください。

・・・と言っても、我が家の女王様は都会育ち。

 

足が6本以上ある虫は、触るのはおろか見るだけでも悲鳴を上げますから、イナゴの佃煮が食卓に登場することは絶対にあり得ません。ダメだぁ顔

 

でもその代わりというわけではないですが、ウチでは毎週昆布の佃煮を作っています。

北海道出身の先輩から分けてもらった昆布で1週間分の出汁を取っているんですが、捨てるにはもったいないほど良質なので、それを千切りにして煮詰めているんです。

 

     

醤油・みりん・酒で味付けし、最後に自家製の煮山椒を入れて仕上げると、オリジナル佃煮の出来上がり。(

     

添加物・保存料ゼロで原材料は間違いなく良質ですから、多少味は市販品に劣るとも十分に食せる一品。

朝食では納豆ご飯にコレをたっぷりかけて食しておりますが、調味料は適当に入れているので毎回微妙な味の違いも楽しめます。

意外に簡単ですから、皆さんも是非自家製佃煮にチャレンジしてみてください。

 

 

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「事前の相談なんですけど・・・本人の意向で本葬を田舎でやりたんですが、火葬だけ東京でお願いすることはできますでしょうか?」


戸惑ったような声で、女性から弊社に問い合わせの電話が入ってきました。

 

「全く問題ありません。 

 火葬だけでもお手伝いさせていただけますョ。」

 

そうお答えすると、その女性はホッとされたご様子。

 

「それでは、ちょっとご相談したいことがありますので、こちらまでお越しいただけますか?」

 

ということで早速自宅にお伺いすると、ご挨拶もそこそこに1枚の紙を机の上に置かれました。

 

「これ、主人から預かったんです。 

 まず読んでいただけますか?」

 

手にとってみると、そこにはこう書かれていました。

 

  『葬儀についての遺言』 

 

遺言者○○○○は、自らの葬儀に関し次のように遺言する。

 

この書き出しで始まる文章には、事細かにご自分の葬儀の段取りが記載されていたのです。

 

◇ 火葬は東京で行い、立会いは妻子のみ。


◇ 火葬場は○○斎場で執り行うこと。また自宅のスペースの都合

 上、遺体は直接火葬場霊安室に搬送のこと。


◇ 死亡の通知は葬儀後に行うこと。 

 連絡先は、下記の通り。 

 A(会社関係)・B(親族)・C(友人・知人)


他にも細かい段取りが指定されており、葬儀社として私から別途奥様にご説明する事項は殆どない程。


それまで事前相談は数多くお受けしましたし、出来るだけご本人の意向に沿う形でのご提案をさせていただいてきた私ですが、これ程までに完璧な遺志を明らかにされた例はありませんでした。

            

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-夕焼け

 

ご主人は元一流商社マンで海外への単身赴任が長く、いわゆるモーレツ・サラリーマン世代。

 

奥様は息子さんと2人暮らしが長く、現役時代はあまりご主人と一緒に暮らしたことはなかったそうですが、家族のために一生懸命働いたご主人を誇りに思っていたそうです。

 

「せっかく定年退職して一緒に暮らせると思ったら、すぐに病気になってしまって・・・すまんな。」

 

何度もそう口にされていたというご主人は、病気の状況を聞いて覚悟されたのでしょう・・・この遺言は半年以上前に作成し、奥様に手渡されたとか。

 

きっと、先立つ自分がこれ以上家族に要らぬ迷惑をかけたくない一心だったのでしょう。

 

「いかにも主人らしい心配りなんですが、もらった方とすればねェ・・・。」

 

複雑な表情を浮かべていた奥様からご逝去の一報が入ったのは、それから1ヶ月経った日の早朝4時過ぎ。

 

かねて打ち合わせさせていただいた段取り通り、ご主人の亡骸を霊安室に安置し、翌日夕刻に荼毘に付させていただきました。

 

「いろいろありがとうございました。お世話になりました。」

 

そうおっしゃって、ご子息と共に火葬場を後にした奥様でしたが・・・実はひとつだけ、ご主人の指示になかったことをされたんです。

 

それは病院から火葬場に向かう際、わざわざ遠回りしてご自宅マンションの周囲を2周したこと。

 

「だって、長い入院生活で自宅に帰れなかったんですもの。

せめて家族のために手に入れた住まい、見せてあげたいじゃないですか。」

 

お互いを想うベテラン夫婦の深い愛情を感じた私は・・・ただただ合掌。 🙏

 

 

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我が国における20世紀の外交史を語る時、この人物を外すわけにはいきません。

今日はその
     

     ようすけ        

    松岡 洋右 元外務大臣

 

の命日・没後80周年にあたります。

 

     

 

松岡氏は1880(明治13)年、廻船問屋 『今五』 の四男として現在の山口県光市で生まれました。

10歳の時に警察署長と掛け合って中止と決まった祭りを復活させたという逸話を残す彼は、幼少時から頭脳明晰かつ能弁で大人からも一目置かれていたとのこと。

しかし11歳の頃兄たちの遊蕩によって家業が傾いたため、彼はアメリカで成功を収めた親戚を頼って12歳の時に渡米・留学。

(その留学費用を、母親と共に親戚の家を借り回るという辛酸を舐めています。)

 

幸いにも心優しいペパリッジ夫人の世話になることができ、アメリカ人の影響を受けキリスト教に入信しましたが、一方で人種差別も受けた経験から、

「アメリカ人には、たとえ脅されても自分が正しい場合は道を譲ってはならない。 力には力で対抗する事によって、はじめて真の親友となれる。」

という対米意識を醸成しました。

1900年にオレゴン大学を卒業し、母親が病気になったため帰国すると独学で外交官試験を目指し、見事首席で合格。

 

外務省入省後は、上海や関東都督府などに赴任。

 

ロシア・アメリカ勤務を経て、寺内内閣時に総理大臣秘書官兼外務秘書官となり、シベリア出兵に深く関与。

更に1919年のパリ講和会議に随員として派遣された際には得意の英語で日本政府のスポークスマンとして西園寺全権をも唸らせる活躍をすると同時に、後に深く関わることとなる近衛文麿と出会いました。

しかし自らの意志で世の中を動かしてみたいと願う彼は官僚主義が蔓延る外務省に嫌気がさし、政治家を目指し41歳で退官。

彼の能力を高く買っていた早川千吉郎社長に請われて満鉄の理事に転じ、副総裁に就任した後1930年に満鉄を退職すると、同年2月の衆院選に山口2区から立候補し当選、念願の代議士に。

そして翌1931年に勃発した満州事変を受け、国際連盟が派遣したリットン調査団が満州を国際管理下に置くことを求める報告書を提出したことに反発した日本政府は、満州事情を熟知し英語が闊達かつ能弁な彼に白羽の矢を立て、日本首席全権として派遣します。

その期待に応え、松岡全権は国連総会において原稿なしで1時間20分の大演説を行い、各国代表から喝采を浴びます。

しかしその喝采はあくまで彼の英語力に対してのみ・・・採決では賛成42・反対1(日本)・棄権1の圧倒的多数で報告書は採決され、松岡全権は最後の演説を行った後、そのまま席に戻らず代表団と共に退場。

 

       

                 議場を退席する松岡全権
 

国連での演説は国民に好評だったものの、これ以降日本は国際社会での孤立を深めていきました。

 

彼はその後議員を辞職し、再び満鉄に入り総裁に就任。

〝弐キ参スケ〟の一人として権力をふるいましたが、1940年に指名されて近衛内閣の外務大臣に。

 

「私が外相を引き受ける以上、軍人等に口出しはさせません」

 

と大見得を切り、イギリス特命全権大使の重光葵(↓)以外の主要外交官40数名を更迭するという大ナタを振るいました。

 

 

そして元々ドイツ人嫌いだったにもかかわらず、軍部の説得工作を受けた彼は、吉田茂らの反対を押し切って1940年9月に日独伊三国同盟を締結。

更に1941年3月には日ソ中立条約の電撃的成立に尽力。

 

※しかしこの条約締結は、英チャーチルからもたらされた「ヒトラーは近いうちに必ずソ連と開戦する」という情報を無視してのもの。 もしその忠告を受け入れていれば、歴史は大きく変わったかも・・・。😔

 

       

             ドイツ外相と車上で談笑する松岡外相

 

ソ連との中立条約をまとめ意気揚々と帰国した彼でしたが、自分の外遊中に日米交渉が進められていたことに激怒。

その交渉に外相として関わり始めますが、彼は元々イギリスとの戦争は不可避でもアメリカとの開戦は望んでおらず、また開戦するはずがないと考えていたようです。

そして近衛首相との関係は急速に冷え、1941年7月に近衛内閣が(松岡外相を外すために)総辞職し、松岡抜きの第3次近衛内閣が発足。

 

直後アメリカとの関係は急速に悪化し、その5ヶ月後に日米は開戦に至りますが、その際周囲に

「三国同盟は僕一生の不覚。死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」

と号泣したと伝えられていますが、同時に真珠湾攻撃成功の報を聞き、〝欣喜雀躍〟したとも。

その後結核を患い別人のように痩せ細った彼は、敗戦後GHQにA級戦犯として逮捕され1回は法廷に立ったものの症状が悪化。

 

巣鴨プリズンから駐留アメリカ病院、そして東大病院に移された後、1946(昭和21)年6月27日に66歳でこの世を去りました。

意見に相違はあったものの吉田茂氏とは親交があったそうですが

、その一方で昭和天皇には大変嫌われたそうな。

「僕は誰にも議論で負けたことがない」と自負し、「ヒトラーに臆することなく対談できたのはソ連のモロトフ外相と東洋の使者マツオカだけだった」と通訳に言わしめた彼の饒舌ぶりが、却って昭和天皇の癇に障ったのかもしれません。

明時代末期の碩学・呂新吾は人間の魅力について

  深沈厚重ナルハ是レ第一等ノ美質。 

  磊落豪雄ナルハ是レ第ニ等ノ美質。 

  聡明才弁ナルハ是レ第三等ノ美質。

と述べており、どんなに聡明でもおしゃべりは第三等に位置付けていることを、松岡氏が証明しているのかも。

 

彼の外交手腕と決断に関しては、こちらの書籍でじっくりと再検証していただきたいと思います。

 『松岡洋右 悲劇の外交官 (豊田譲・著 新潮社・刊)

 

結果論でいろいろ批判は出来ますが、ヒトラー・ムッソリーニ・スターリンら錚々たる相手と直接互角に渡り合った外相としての能力・力量は、遺憾砲しか撃てない前首相や前外相とは比較にならないでしょう。

良くも悪くも日本の命運を決した外交家であったことだけは、確かだと思います。

 

 

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もう一人、皆さんに知っていただきたい人物・・・それは、島田知事と共に多くの沖縄県民救出に尽力し、彼と同じく81年前の今日消息を絶った

 荒井 退造 沖縄県警察部長

     

 

荒井部長も島田知事と同じく沖縄出身ではなく、1900(明治33)年、現在の宇都宮にある農家の次男として生まれた栃木県人。

父親は農業を継がせたかったようですが、小学校での成績が常時1,2番と頭脳明晰だったため、進学を許可。

名門・県立宇都宮中学校を経て上京、巡査をしながら明治大学夜間部を卒業した苦学生の彼は、1927年に当時最難関と言われた高等文官試験に見事合格し、同年内務省に入省。

麻布六本木や万世橋の警察署長を務めた後、満州に渡り新京の警察部長等を経て、福岡県警察部特高課長や福井県官房長を歴任。

そして戦時中の1943年7月に沖縄県警察部長・・・つまり現在の沖縄県警本部長として現地に赴任しました。


そして戦況が悪化した翌年7月、閣議で沖縄県民10万人を県外に疎開させることが決定。

 

しかし当時の県知事(後に何度も東京出張を繰り返した挙句、出張中に香川県知事への辞令が出され赴任・・・というより逃げ出した、島田知事の前任者)や県の有力者は軍部の宣伝を信じて日本の勝利を疑わず、疎開に理解を示そうとはしませんでした。

そこで荒井部長は、

「我々警察官は常に最悪の状況を念頭に置いて対処しなければならない。 あらゆる機会を捉えて疎開の意義を周知して欲しい」

と訴え、警察部を総動員して講演会や住民集会などを積極的に開催し、説得に奔走。

そして7月17日には県庁職員や警察官の家族752人を率先して疎開させ、県民に範を示しました。

県議会から「警察部長の独断専行だ」と非難されても怯まず毅然とした態度を貫く彼の姿を見て協力者・理解者が増え、9月末までに約3万5千人、翌年3月までに約7万3千人の疎開を実現。

そして翌1945年4月に米軍が上陸してからも、彼は島田知事と共に住民を安全な場所に保護すべく県職員や警察官を指揮。

同年5月25日に本土の内務省に

「六十万県民ただ暗黒なる壕内に生く。この決戦に敗れて皇國の安泰以って望むべきもなしと信じ、この部民と相ともに敢闘す」

という悲痛な電文を送信。

 

そして日本軍が首里から撤退した2週間後の6月9日に警察警備隊の解散を命じた後も県民の救助に奔走。

そして6月26日・・・赤痢の症状が重くなった荒井部長は、島田知事に抱えられるようにして島南端の摩文仁(まぶに)の軍医部壕を出て森に入っていく姿を目撃されたのを最後に、2人の消息は途絶えました。

 

      


残念ながら、島田知事同様荒井部長の遺体も発見されていませんが、現在摩文仁の丘には約20万人の沖縄県民の命を救った2人の碑が建てられています。

      

沖縄県民なら知らぬ人のないこの本土からやってきた〝役人の鑑〟2人に関して詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。

 『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり 

(田村洋三・著 中央公論新社・刊)

 

      

 

公務員や、公務員を志望する若者に是非読んでいただきたい秀作です。

沖縄県民のために命懸けで働いたお二方の冥福を、お祈り致しましょう。🙏

 

 

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とかく〝シロアリ〟などと揶揄され国民から非難を浴びる官僚。

 

しかし世界一優秀・有能な役人ともいわれる日本の官僚の中には、確固たる信念をもって国家・国民のために仕えた方もいる(いた?)のです。

 

拙ブログでは、国民の命を守るべく奮闘しながら今から81年前の今日・6月26日に命を落とされた2人の官僚を特別増刊号にてご紹介致します。 

まず1人目は、

 

          あきら

 島 田 叡  氏

 

本土の方にはあまり馴染みのない名前だと思いますが、沖縄県民ならおそらく知らぬ人はいないはず。

 

終戦間際、アメリカ軍上陸時の沖縄県知事を務めた方でした。

 

島田氏は沖縄の出身ではなく、1901(明治34)年に神戸市の開業医の長男として生まれました。

 

東京帝大法科に進んだ秀才であり、また野球部・ラグビー部を掛け持ちで活躍したという、まさに文武両道の見本たる人物。

 

卒業後内務省に入省したエリート・・・だったのですが、己の信念を曲げず世渡り上手ではなかったため、同期の中では出世が一番遅かったとか。

 

主に警察畑を歩んだ彼が大阪府内務部長だった1945(昭和20)年、当時の沖縄県知事が盛んに東京出張を繰り返した挙句、出張中に香川県知事への辞令が。

その後任として、島田氏に白羽の矢が立ったのです。

 

要は逃げ出した前任者の後釜として、アメリカ軍上陸間近の沖縄の責任ポストを押し付けられた形。

 

誰が考えても貧乏クジの辞令・・・奥様はじめ周囲が猛反対する中、島田氏は

 

「オレが行かなんだら、誰かが行かなきゃならんだろうが。

断ったらオレは卑怯者として外も歩けなくなる。

沖縄軍司令官の牛島さんから赴任を望まれた・・・男として、名指しされて断るわけにはいかん。」

 

そう言って、再び本土の土を踏まぬ覚悟を決め、日本刀と青酸カリを手に単身沖縄へ。
            

   

 

前任の県知事ばかりか内政部長や那覇市長・学校長・県職員らが次々と逃げ出す中、島田知事は同年1月31日に赴任するや、分散していた職員を県庁に集めて活動を開始。

 

県民を島北部や県外に疎開させると同時に、酒・たばこの配給を増やし村芝居を復活させるなど、県民の気持ちを和ませるよう心を砕きました。

 

また自らアメリカ空軍の網の目をかいくぐって台湾に飛び米を買い付けるなど、食料の確保に東奔西走。

 

こういった献身的な行動に、沖縄県民も県外者だった島田知事に深い信頼を置くようになったといいます。

 

同年3月に空襲が始まると県庁を那覇から首里に移転。

 

以後転々と場所を替えて地下壕で指揮を執り、陸軍が首里撤退を決定した時は、「軍がここで玉砕しなければ、北部に疎開した住民が戦闘の巻き添えになる」と反対したとか。

 

しかし戦局悪化は如何ともし難く、6月9日県職員・警察官に 「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、解散を命令。

 

6月23日には牛島満軍司令官・長勇(ちょういさむ)参謀長が自刃。


同行していた新聞記者から投降を勧められた島田知事は、

「君、一県の長官として僕が生きて帰るわけにいくかね。
沖縄の人がどれだけ死んでいるか知っているだろう。」

 

と敢然と言い放ったといいます。

 

そして6月26日に地下壕を出た後、消息不明に。

 

翌27日ピストルで自決した亡骸を見たという証言もありますが、未だに島田知事の遺体は確認されていません。

 

現在でも、夏の高校野球・沖縄県大会の優勝校には『島田杯』が授与されているとのこと。

 

県民のために死を覚悟して最期まで職責を全うした〝官僚の鑑〟のご冥福をお祈りすると共に、現在霞が関に務める官僚が島田知事の生き様を見習うことを切に願う次第です。


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拙ブログではたびたびマスコミ批判をしていますが、決して全てのマスコミ関係者がダメだと言っているわけではありません。

私の知人にも優秀なテレビマンがいますが、今日はそんな中でも特筆すべき記者魂で巨大犯罪組織に立ち向かったジャーナリストをご紹介しましょう。 その人の名は

 

 ヴェロニカ・ゲリン 記者

  Veronica Guerin 

 

今日は、このアイルランド出身の女性記者の命日・没後30周年にあたります。


     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

ゲリン記者は私よりひとつ年下の1959年生まれ。

ダブリンで会計事務所を経営する父親の4番目の子供だった彼女は、バスケットボールではヨーロピアンバスケットボーラーに選出されたり、サッカーでも活躍したスポーツ万能選手でした。

高校を卒業後父親の会計事務所を手伝った後、独立してPR会社を設立。

 

1985年に結婚し一児をもうけた後、地元紙『サンデー・インディペンデント』の記者に。

 

当初報道記者として活躍していた彼女は、やがて犯罪組織の特集記事を手掛けるようになります。

 

そして彼女は市民の間に蔓延しつつあった麻薬撲滅を目指し、地元の麻薬犯罪組織について取材を開始。

ボスのジョン・ギリガンにインタビューを申し込むなど積極的な活動を行いますが、当然のことながら組織は彼女を脅迫し取材を止めさせようとします。

 

しかし彼女は暴行を受けながらも怯むことなく記事を書き続け、やがて世間に注目されるようになるのですが・・・1996年6月26日、自動車運転中に交差点で停止したところをヒットマンに狙撃され、6発の銃弾を浴びて絶命。

数日後に37歳の誕生日を迎えるところでした。

 

しかし彼女の死は世論を大きく動かし、警察は大規模な捜査を敢行して150人以上を逮捕・送検。

アイルランド議会は憲法を改正して組織や主要メンバーの資産を没収するに至りました。

1人の女性ジャーナリストの執念が、国をも動かしたのです。

 

その彼女を主人公にした映画があります。 

題名はズバリ、『ヴェロニカ・ゲリン』
 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

『CSI』シリーズや『パイレーツ・オブ・カリビアン』などを手掛けた大物プロデューサーのジェリー・ブラッカイマーが製作したこの作品は、あくまで実話に基づいているため映画らしい脚色も少なく、あたかもドキュメンタリーのように淡々と、かつ不気味にストーリーが展開されていきます。

それ故に、犯罪組織と立ち向かう彼女の姿が非常にリアルであり

、不気味さが漂うのですが・・・。


日本でもそうですが、いくら報道が過熱しても犠牲者が出ない限りなかなか行政や立法府は動きません。

そういう意味で、彼女が結果的に命を引き替えに国を動かしたことには心より敬意を表したいと思います。

記者クラブなる既得権益のぬるま湯に浸かって大本営発表をそのまま垂れ流したり、偏向・反日記事を書きまくる記者には、到底できない芸当でしょうネ。


しかし一方、もし私が彼女の夫だったら家族に危害が及ぶ可能性が高まる中、果たして妻に取材を続けさせられたかどうか?

まァそれが今の女房だったら、私が何を言っても耳は貸さないでしょうけど。😣 

ジャーナリストの鑑・ゲリン記者の冥福をお祈り致します。🙏

 

 

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〝盲目の天才音楽家〟といえば、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人初の優勝を果たした辻井伸行さんが有名ですが、今から半世紀以上前・・・大正~昭和初期にかけて活躍した盲目の日本人音楽家がいたことをご存じでしょうか? 


今日は、皆さんが毎年正月に耳にする、琴の音色・・・名曲『春の海』を作曲した、その


 宮城 道雄  さん


の命日・没後70周年にあたります。


宮城 [本名:菅(すが)道雄] 氏は日清戦争が勃発した1894(明治27)年に神戸で生まれましたが、4歳の頃に生母と生き別れ、祖母に育てられます。

 

また生後200日で目の病気を患い、8歳の時に失明を宣告された宮城さんは生田流二代目・中島検校に入門。

 

そして僅か11歳で免許皆伝を受け、中菅道雄を名乗ります。

 

家庭の事情で13歳の時に朝鮮に渡った宮城さんは筝や尺八を教えて生計を支える傍ら、14歳で処女作 『水の変態』 を作曲。

 

これを時の韓国統監・伊藤博文が高く評価し宮城氏の帰国・後援を約束しましたが、その直後に伊藤統監が暗殺されたため実現はしませんでした。

 

その後結婚して宮城姓を名乗った彼は精進を重ね、22歳で大検校という最高の地位に就き、凱旋帰国。

 

ところがその後まもなくして妻が病死。

 

翌年再婚を果たすと、葛原しげる等の後援を受け本郷春木町の中央公会堂で第1回目の作品発表会を開催し、宮城さんは25歳にして本格的なデビューを果たします。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

古くから伝わる筝曲を自らの卓越した演奏で世に広めるとともに、「十七絃」、「八十絃」、「大胡弓(だいこきゅう)」 等の新しい楽器を考案。

 

また西洋音楽を取り入れることによって、邦楽界に新風を吹き込みました。

 

特に冒頭ご紹介した『春の海』を、1932年にフランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと共演。 

 

日本・アメリカ・フランスでそのレコードが同時発売され、国際的に高い評価を得ました。

 

その後も東京音楽大学(現・東京藝大音楽部)の教授を務めるなど後進の指導にも注力し、数々の協奏曲を作曲。

 

また海外を含めた演奏活動を積極的に行った宮城氏の突然の訃報が世間を驚かせたのは、1956(昭和31)年6月25日。

 

同日未明、大阪での演奏会に向かう途中の夜行列車から転落死してしまったのです。 

62歳という、音楽家として円熟期を迎えるところでした。

 

警察は自殺と公表しましたが事故の可能性も否定できず、真相は藪の中・・・いずれにせよ、まことに残念な最期でありました。

 

生前に残した随筆も文学性の高さに定評がある宮城氏の芸術性は、もっと日本国内で評価されて然るべきと思うのですが、残念ながら彼の作品を正月以外に耳にすることは殆どありません。

 

彼自身の演奏CDは現在でも発売されていますしYouTubeでいくつかの作品がアップされていますので、是非一度お聴き下さい。

 

その中から、宮城さん自演の『春の海』 をどうぞ。(

 

 

正月でなくても、これを聴くと何となく心が落ち着きませんか?

奇しくもマイケル・ジャクソンと同じ命日となった〝和の巨人〟のご冥福を、心からお祈り致します。🙏



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メンバーシップのゴルフ場と違って、リゾート・コースには様々なお客さんが来られます。

過去には前の組にとんでもないプレーヤーが入ったことを子紹介しました。(↓)

 

 

 

そして今年訪れた別のリゾート・コースでは、(↑)とはちょっと毛色の変わった親子連れが前の組に・・・。

そこは2人乗りカートでコース内に入れるゴルフ場。

 

     

午前中トップスタートですいすいラウンドし、昼食後後半のスタート時間少し前に女房とカートに乗って10番ホールのティーングエリアに行くと、午前の最終組がスタートするところでした。

2台のカートの1台目には父親と小学校低学年と思しき男の子、そして後ろのカートには母親1人が乗っていたのですが・・・なぜかゴルフバッグは1台目のカートに1つだけ積んであり、母親のカートにはなし。

過去には男性だけがラウンドして奥さん(恋人)は見学だけ、というカップルを見たことはありましたが、子供までよくついてくるな~・・・と思っていたら、その父親はティーショットもせずにカートを発進させたんです。

(えっ?)と驚いて見ていると、彼等は前のレディース・ティーで停止。

すると男の子がバッグからドライバ―を取り出し、ボールを打つではありませんか。

それも立て続けに3球も。

そして彼等はコース内にカートを乗り入れてセカンドショット地点で子供が1発打つと、父親がボールを同じ地点に置いて計3球続けてショット。

母親はその間、カートで他の(失敗した)ティーショットのボールを拾いに行った後に父子と合流。

それを見て私はこう理解しました。

おそらく彼らは3人分のプレーフィーを支払い、全部息子に打たせているんだと。

それは10番ホールから18番ホールまで、ティーショットからパターまで変わらず繰り返されましたが、時々3球以上(最高6発!😡)打っていたし、打つ合間に父親がコーチしていましたから、実質大人が3人プレーするより時間が遥かにかかり、彼等の前の4人組とは1ホール以上間隔が開いてしまう始末。

そして最も呆れたのは、ショート・ホールでのこと。

私らがティーング・エリアに到着した時、彼等はちょうどグリーンに向かってカートを進めていたのですが、グリーン脇に到着するや、子供が駆け足でグリーンに駆け上がり、万歳しながら狂喜乱舞。

どうもベタピンについたことを喜んでいたらしいのですが、両親も追いかけて来て3人でバンザイすると母親が抱き合う父子をグリーン上で写真撮影。

その後3人はカートに戻ったので、私は珍しく早く終わって良かった・・・とティーング・エリアに上がったのですが、何と息子はクラブを持って再びグリーンに近づくと、今度はワンオンしなかったボールでアブローチ練習。

さすがに頭にきた私が「早ょ行かんかいっ!💢」と怒鳴っても、彼らは馬耳東風。

その後父親は何回かこちらを振り返りましたが、プレースピードは全く変わらず、ハーフをたっぷり3時間かけてくれました。

おそらく両親は「3人分支払っているんだから何やってもいいだろ」とばかり、子供のためにできるだけ多く練習させたかったのでしょう。

しかし他人の迷惑を顧みずベストボールだけ何度も打たせ、挙句その他のボールを母親に拾わせる・・・これでその子がまともなゴルファー(というか大人)になるんでしょうかねェ。

私には到底思えませんが。



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ル・マン(Le Mans )市・・・フランス中部に位置する人口15万人弱のサルト県々都。

 

ここの一般道を利用した全長約13kmのサルト・サーキットを使って行われる年に1度のカーレースこそ、FIのモナコ・グランプリやアメリカ・インディ500と並び〝世界三大レース〟といわれる

 

 ル・マン24時間耐久レース

 

103年前の1923年から始まった由緒あるこの大会で、マツダが日本勢悲願の初優勝を成し遂げたのが、今から35年前の今日・1991(平成3)年6月23日のことでした。🎉

 

1970年代から他の日本メーカーに先駆けてル・マンに参戦していた同社が、マツダ757、767に改良を加えた末開発した787(※777は、日本語で言いにくいため飛ばしたとか)を同大会に持ち込んだのは、1990年。 

 

しかしこの時は殆どぶっつけ本番だったこともあり、残念ながら途中リタイア。 

 

捲土重来を期して更に直線よりコーナリング・スピード重視の改造を施し、翌年コースに送り込んだのが〝787B〟でした。

 

     

 

レナウンの社長の指示でド派手なペインティングを施されたマツダ787B・55号車は、フォルカー・バイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーという3人のドライバーが交代でハンドルを握り、レース終盤まで首位を走っていたメルセデス・ベンツのリタイアという幸運にも恵まれ、見事逆転優勝。 

 

(同じマツダ787Bの18号車が6位、56号車も8位にランク・イン) 

 

最後に長時間ハンドルを握ったハーバードがゴール後に脱水症状を引き起こし、表彰台に上がれなかったという程の過酷なレースを制した、日本勢初、ロータリーエンジン(※レシプロ以外のエンジンとしても)初、おまけにカーボンブレーキ装着車として初の総合優勝という、初めて尽くしの快挙でした。 

 

※ちなみに、優勝車は毎年このコースを350周前後(マツダ車は362周)しているそうです。  

 

レース後、チームのスーパーバイザーを務めたベルギー出身の名ドライバー、ジャッキー・イクスにマツダ社がボーナスの支払いを申し出たところ、 

 

「私はマツダを優勝させるために契約したのだから、優勝したからといってボーナスを貰う理由はない。」 

 

と固辞したとか。 実にカッコいいじゃありませんか !       

 

           

  左2人目から右に F ・バイドラー B ・ガショー J・イクス J ・ハーバート

 

この当時、損保マンだった私はマツダ社のディーラーを担当しており、レース後は大変な盛り上がりだったことを憶えています。 

 

ただ、それが即新車販売増に繋がったかどうかは疑問ですが。😅

 

そして日本がオリンピックや世界選手権で優勝するとルールを変えるスポーツ界と同様、主催者側が翌年レギュレーションを変更しロータリーエンジンの搭載を禁止。 

 

それにもメゲずマツダは1992年の大会もレシプロ・エンジンで参戦し見事4位に入りましたが、翌年には会社の業績不振により撤退。 

 

その1993年から、再びロータリー・エンジンの搭載が認められたというのですから、これは日本イジメと捉えられても仕方ないでしょう。😡

 

その後一旦は撤退した日本車ワークスも、最近ではトヨタが2018~2021年まで4連覇し気を吐いています・・・が、個人的にはもう一度マツダに頑張ってもらいたいところ。

 

そんな期待をしつつ、東日本大震災の被害者救済のためマツダが地元中・高校生10名をコースに招待し、2011年の大会直前に787Bをコースに持ち込んでJ・ハーバートがデモンストレーション走行をした車載カメラ映像をお楽しみください。

 

             

 

 

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