ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

皆さんは、幕末期にアメリカ初の総領事として来日し、日米修好通商条約を締結したタウンゼント・ハリスの名をご存知だと思います。

そのハリスの通弁官(通訳)として共に来日し黒子役として活躍しながら、今からちょうど160年前の今日刺客に襲撃されたのが

 

  ヘンリー・ヒュースケン
 Henry Conrad Joannes Heusken

 

でした。

       

ヒュースケンは1832年にアムステルダムで生まれたオランダ人。

石鹸職人だった父親が亡くなったため、一旗揚げようと渡米。

しかし現実は厳しく、ニューヨークのオランダ人コミュニティーの中で低賃金の仕事を転々・・・そんな彼の運命を変えたのが、ある求人情報でした。

前述のハリスが、日本に連れて行くオランダ語・英語ができる通訳兼秘書を募集していたのです。

当時の日本が通商していて通じる言葉がオランダ語だからだったのですが、これを知った23歳のヒュースケンは飛びつき、見事採用。

1856年、ハリス共々日本・下田の地を踏んだのです。

若いヒュースケンは明るい性格で好奇心旺盛・・・混浴場に通うなど積極的に異国の地・日本の文化を吸収し、日本人妻(月極めの妾)との間に子供ももうけました。

       
                  妻・お鶴と子

 

そして1858年に前述の日米修好通商条約が締結されてハリスは初代駐日公使となり、公使館を江戸・麻布の善福寺に置きました。

しかしこの条約を大老・井伊直弼が朝廷の勅許なしで締結したことに尊王攘夷派の志士が反発し、外国人を襲撃する事件が続発。

そんな状況の中、ヒュースケンはイギリスとの日英修好通商条約やプロシアとの修好通商条約締結に協力したことで、彼らの標的に。

そして1861(万延元)年12月4日、プロシア代表団の宿舎から善福寺への帰路・中の橋付近で薩摩藩士の伊牟田向平・樋渡八兵衛らに襲撃されたのです。

 

    

           善福寺と襲撃現場(×印)の位置


腹部を深く刺された彼は馬に乗ったまま逃げますが、180mほど走ったところで落馬。

そのまま善福寺に運び込まれ治療を受けたものの、残念ながら翌5日に亡くなりました。

まだ28歳の若さで・・・。

 

        

                ヒュースケンの遺体

 

日本在住わずか4年余りでしたが、彼は来日前年から亡くなる1861年までの日記(一時中断あり)を残しています。

 『ヒュースケンの日本日記』 (岩波文庫・刊)

 

       

 

これは以前ご紹介した、英公使ハリー・パークスの通訳だったアーネスト・サトウ(↓)の著書 『一外交官の見た明治維新』 と共に、幕末の貴重な資料と評価されています。
 


この日記の中で、彼は日本に対しこういう思いを吐露しています。

今や私がいとおしさを覚え始めている国よ、この進歩は本当に進歩なのか? この文明は本当にお前のための文明なのか?

 

この国の人々の質撲な習俗とともに、その飾り気の無さを私は賛美する。

 

この国の豊かさを見、至る所にに満ちている子供達の愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼等の重大な悪徳を持ち込もうとしているように思えてならないのである』 (※一部平仮名を漢字変換)

 

このヒュースケンの危惧・・・残念ながら当たってしまったようですネ。
 

 

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早いもので、2021年も残り30日を切りました。 

 

ご家庭や職場でも、年末年始を迎える準備を考えていらっしゃることでしょう。

 

今日は、その準備品としてこの時期に手に入れるもの・・・そう、

 

 カレンダーの日

 

なのだそうです。

 

明治5年12月3日を太陽暦の採用に伴い明治6(1873)年1月1日としたことを記念し、全国団扇扇子カレンダー協議会が制定したそうですが・・・いやはや、日本には色々な団体がありますネ。😅

 

このカレンダー(Calender ) は、ラテン語の “Kalendae ” = 「毎月の最初の日」 が語源とか。

 

カレンダーを毎月初日にめくる・・・という意味ではピッタリですネ。

 

日めくり、月めくり、そして1年分が大きな紙一枚に書き込まれたものなど、実に様々なカレンダーが出回っていますが、私が今までに見た中で最も印象的だったのは、コレ。

 

       

 

何と2001年から1世紀分が記載されている、その名も

 

〝21世紀 100年カレンダー〟

 

これ、10年以上前に某社のオフィスで目にしたんですが・・・縦が1mらいあって、なかなか迫力がありましたねェ。

 

(へぇ~、○○年後のゴールデンウィークは○連休なんだァ。)

 

なんて、最初は珍しげに眺めていたんですが、2030年を過ぎたあたりから、

 

(オレって、どのあたりで死ぬんだろう?)

 

と変な現実感に襲われて、眼を背けてしまいましたが・・・。😨

 

でも未来が無限に広がる若者には、〝夢に日付を入れる〟ために良いカレンダーかもしれません。

最近は、生まれた年からの100年カレンダーが販売されていますから、赤ちゃんが生まれたご家庭には良いプレゼントになるかも。

 

さて私が嘗て在籍した葬儀業界では、普通のカレンダーにはない特色がありました。

 

下の写真は、取引業者さんからいただいて使っていたものなんですが、どこが普通と違うのか・・・お分かりになりますか?

 

 

 

友引の日がはっきり分かるよう、黄色く色分けされているんですョ。

 

(一部例外はありますが) 首都圏では「友を引くから」 という迷信(?)で、火葬場がお休みなんです。

 

故に多くの葬儀社が、友引を中心として社員の休日ローテーションを組むんです。

 

葬儀屋にとっては、日曜日よりも友引の方が気になるってワケです。

 

この他にも、世の中には業種によって珍しいカレンダーがあるはず。

 

「私はこんな変わったカレンダーを知って(使って)いる」・・・という方、いらっしゃいましたら後学のために是非教えてください!

 

 

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1枚、2枚、3枚・・・何枚? まるで番町皿屋敷のようですが、怪談話ではありません。

 

今日は多くの男性が毎日お世話になっているであろう、〝安全カミソリの日〟なのだそうです。

 

今からちょうど120年前の今日・1901年12月2日に、

 

 キング・キャンプ・ジレット

      King Camp Gillette

 

が、T字型替刃式安全カミソリの特許を取得したことに因んでのことだとか。

 

       

 

1855年にウィスコンシン州で生まれたジレットは、火災で全財産を失った父に代わり、一家の生計を立てるべくセールスマンになりました。

 

もともと発明好きだったようで、お客さんから 「こんな物作れない?」 と頼まれると、器用にその要望に応えていたそうな。

 

そんな中、切れ味の悪い西洋カミソリにイライラしていた彼は、当時勤めていた会社のオーナーが言った、

「使い捨て製品を作れば売れる。」

という言葉をヒントに、安全に使えて刃を取り替えることができるカミソリを、1895年に考案したのです。

 

             

 

試作品はできたものの、残念ながら彼に資金提供する者は現れず。

以後6年間コツコツと製品改良に取り組んだ末に機械技師リカーソンと共同出資で 『アメリカン・セーフティー・レーザー・カンパニー』 (後のザ・ジレット・カンパニー、現在は
P&Gの子会社を設立。

 

特許申請後に発売を開始しましたが、初年度の売上は本体(ホルダー)が僅か51個、替え刃(ブレード)168枚でした。

 

そこで元セールスマンだった彼は、ヒゲソリにナイフのおまけをつけるという奇策に打って出ます。

 

刃物に刃物のオマケ?・・・しかし何故かこれが大当たり。

 

1905年には25万個ものレーザーセットが売れたとか。

 

そしてジレットのカミソリがナショナルブランドとしてその地位を確立するキッカケとなったのは、戦争でした。

 

1917年、アメリカが第一次大戦に参戦した時のこと。

 

フランス兵たちが、既にヨーロッパで販売されていたジレット社製のカミソリできれいにヒゲを剃っているのを見た前線の兵士たちから上層部に配給の要望があがり、政府から350万個のレーザーセットと3,600万個のブレードを受注したのです。

 

安全カミソリを世界的に普及させたのは、兵士たちだったんですネ。

 

私は子供の頃、父親がこのT字型カミソリを使っていたのを憶えています。

 

柄の末端をクルクル回すとヘッドがパカッと観音開きになるのが面白くて、よくイジッてはオヤジに 「危ないっ!」 と叱られたものです。

 

自分がヒゲを剃るようになった時は、既にプラスチック製の本体ごと使い捨てるタイプに変わっていましたが、装着しているカミソリ刃が1枚、2枚・・・時代と共に徐々に増え、最近では5枚刃なんて製品も出現していますが、一体何枚刃までいくのやら。

 

かく言う私が今使っているのは4枚刃なんですが、皆さんは何枚刃をお使いですか?

そう言えば、女性用のカミソリって何枚刃なんだろう?

 

 

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ブログ・タイトルの英語がどんなモノを指すのかは、何となくお分かりいただけると思います。

今日・12月1日は、その

 
カイロの日

なのだそうな。 カイロの需要が増す時期の12月の最初の日・・・ということで、今からちょうど30年前の1991(平成3)年にカイロ同業会(現・日本カイロ工業会)が制定しました。


実はこのカイロ(懐炉)、日本独自の保温器具なんです。

 

ルーツは、江戸時代に石を温めて懐に入れた〝温石(おんじゃく)〟。

明治時代に入ると、麻殻や殿炭粉を袋に詰めたりして燃やす〝懐炉炭〟が使われ、更に大正時代に入るとベンジンの気化ガスと白金の触媒作用を利用した〝ベンジンカイロ〟が登場。

私が子供の頃に大人が使っていた懐炉は、そのベンジンを注入する一見ライターのような『ハクキンカイロ』でした。(↓)


        

現在でも販売されており、愛用している中高年の方がいらっしゃるはず。


しかし今や一般的にカイロと言われるのは、いわゆる〝使い捨て〟タイプ。


空気に触れると酸化・発熱する鉄粉の化学反応を利用した使い捨てカイロは、1950年の朝鮮戦争時にアメリカ兵が寒冷地で水筒のような容器に鉄粉と食塩を入れて温まっていたことをヒントに、旭化成工業(現・旭化成)が1975(昭和50)年に 『アッタカサン』 という商品名で発売。

しかしこれはあくまで九州限定。

これをプロトタイプとして、日本純水素(現・日本バイオニクス)社がパッケージを開くと温まるタイプのカイロを開発し、ロッテ電子工業(現・ロッテ健康産業)社が大々的にテレビCMを打って販売したのが、皆さんもよくご存知の 『ホカロン』。

 

当時1個100円程度という低価格だったこともあり、アッという間に人気商品となった使い捨てカイロは、その後1988年に貼るタイプが登場するなど様々なニーズに答える形で進化しています。

    

寒がりなウチの女王様は真冬はお腹と背中に貼ってますが、私も冬場にゴルフする際はポケットに小さなカイロを入れて手を温めています。

しかし使い捨てカイロにも使用上の注意が・・・それは、低温ヤケド。


ちょうど心地よい暖かさを感じる60℃くらいでも、1分間圧迫し続けるとヤケドするそうで、更に低い50度でも3分が限度とか。

この低温ヤケドを防止するためには、

 ◆ カイロを直接肌にあてない。
 ◆ カイロのあたっている箇所を圧迫しない。
 ◆ 同じ場所に長時間あてない。
 ◆ 就寝時に使用しない。


ことが大事。

更にもう一つ、注意事項が。 それは、カイロの捨て方。

いくら鉄を燃やす商品とはいえ、東京都条例では 『燃えないゴミ』 に分別しなければならないとされています。

ただこの分別に関しては各自治体によって扱いが違うそうですので、お住まいの地域ごとに確認が必要。

正しい使い方と捨て方をマスターして、これからの寒い冬を凌ぎましょう!笑2


 

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今月17日の拙ブログでは、アメリカの銃規制が中々進まない元凶とともいえる全米ライフル協会について触れました。


しかし今から28年前の今日・1993年11月30日、当時のビル・クリントン大統領がある意味画期的な法案に署名・成立しました。 俗に


     ブレイディ法案

 Brady Handgun Violence Prevention Act 
 

と呼ばれ、翌年2月28日に発効したこの法案は、


「全ての短銃購入に際して5日間の保留期間を設け、この間に購入希望者の犯罪歴・精神障害歴の調査を義務付ける」


という、同国においてライセンス取得を義務付けた1968年の規制以来、初めて成立した本格的な銃規制法でした。


同法に名前が冠せられのが、この方、


 ジェームズ・ブレイディ 

  James Scott “Jim” Brady 


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

彼は嘗てレーガン大統領(↓)の補佐官を務めた人物。

 

 

そして在任中だった1981年3月30日、レーガン大統領がワシントンD.C.のホテルを出たところで拳銃による銃撃を受けた際、流れ弾を頭部に受け左半身不随という重い後遺症を被りました。

 

犯人は26歳のテキサス工科大学の学生ジョン・ヒンクリー。       


彼は13の罪で起訴されましたが、精神異常が認められ翌年無罪になっています。

 

    ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

レーガン大統領の厚意により、身体が不自由ながらも任期満了まで補佐官を務めたブレイディ氏は、事件後議員らに銃規制を呼びかけ銃による犯罪・暴力防止運動・〝ブレイディ・キャンペーン〟を主導。

 

強力な圧力団体である全米ライフル協会の抵抗を受けながらも、その間に起きた銃乱射事件等の影響もあり、実に6年の歳月をかけて成立の運びとなったのです。

 

しかし残念なことに、同法は5年間の時限立法〟

 

1999年には更新されたものの、銃規制に否定的な共和党のブッシュ氏が大統領となった2004年には失効・・・現在同法は存在していません。

 

日本人には理解し難い銃社会のアメリカでは、これから何度乱射事件が起きても完全な銃規制が実現することはなさそうです。😰

 

お時間がある方は、2014年に73歳で亡くなったブレイディ氏の無念を慮りつつ、暗殺未遂事件の映像をご覧ください。(

 

 
 
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今日は、アテレコ黎明期から活躍した声優、

 井上 真樹夫  さん

の命日・三回忌にあたります。

       

井上(本名:孝夫)さんは、1938(昭和13)年に山梨県甲府市で生まれました。

中学生の時に移動劇団 『チルチルミチル』 を観て芝居を志し、16歳でTVドラマに出演すると、高校在学中に東京アナウンス・アカデミーに入学。

同時期に友人とアングラ劇団を立ち上げました。

しかし舞台だけでは生活できなかったため、知人に誘われて 『トビーの青春』 の吹き替えオーデションに参加し、主役に抜擢されたことをキッカケに、声優の道へ。

 

当初は同時期の声優さん同様、舞台俳優のアルバイト的な感覚があったそうですが、青二プロダクションに所属してアニメ作品にも多数出演し第一次声優ブームが起きると、富山敬さん・神谷明さんと共に声優御三家の一人に数えられるように。

 ※富山敬さんに関する過去記事は、こちら。(↓)

 

主人公から悪役まで数多くのキャラをこなされましたが、二枚目やちょっとキザな役が多かったような気が。

そう感じてしまうのは、子供の頃に観た 『巨人の星』 ・花形満のイメージが強いのかも。 

 

       

 

ご本人は、

「半分大人っぽいような、半分子どもっぽいような不安定な年齢層の役、言いかえれば少年あがりの青年役が多い。」

「僕の中に演技的な流れがあるとすれば、少年風なものとニヒルでクールなものの二つの流れだと思う。」

と仰っていますが、そのニヒルな役の代表例は、やはりルパン三世の
十三代目・石川 五ェ門役でしょうか。

       

あと、キャプテン・ハーロックもそんな感じでしたネ。

役者になる前は詩人を志し、日本作詩家協会に所属。

芸名の真樹夫は、詩人・添田邦裕さんに弟子入りした際に名付けられた筆名・真樹
岑(まきお)を読みやすく変えたものだったそうな。

また晩年は禅宗の僧となり、慈孝という僧名を授かり千葉県内の寺で住職をも務めていたという井上さんが持病の狭心症を悪化させてこの世を去ったのは、81歳の誕生日を迎える前日の2019(平成31)年11月29日のことでした。

それでは私が社会人になった1981年頃に流されたCMに出演していた若き日の井上さんの姿をご覧いただきつつ、ご冥福を祈りたいと存じます。

 

 

 

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99歳にして現役のエッセイストであり、

今月11日の拙ブログで取り上げた澁澤栄一氏のご令孫・鮫島純子さんの至言です。



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数あるピアノ協奏曲の中でも最高峰に位置する作品といわれ、私にとってもラフマニノフ共々最高にお気に入りの、ベートーヴェン作曲

 

 ピアノ協奏曲第5番 『皇帝』 変ホ長調 作品73

 

この名曲が初演されたのが、今からちょうど210年前の今日・1811年11月28日のことでした。

 

会場はライプチヒのゲヴァントハウス。

    

             当時の初代コンサートホール

 

同劇場のオーケストラとJ・F・シュナイダーのピアノによる協演でした。

 

この作品はベートーヴェンの作曲活動の中期・・・交響曲 『英雄』・『運命』・『田園』、弦楽四重奏曲 『ラズモフスキー』、さらにはピアノ・ソナタ 『熱情』・『ワルトシュタイン』 など蒼々たる傑作を生み出した、脂の乗り切った頃の作品。

 

まさに 『皇帝』 の名に相応しい大曲です。

 

もっとも、このネーミングはベートーヴェン自身によるものではなく、楽譜を出版したJ・B・クラマーが命名したといわれていますが、由来については諸説あってはっきりしていません。

 

3ヶ月後には教則本で知られるツェルニー(↓)によってウィーンで初演されていますが、何故か世間の評判はイマイチだったようで、その後ベートーヴェンの存命中に演奏されることはありませんでした。

 

 

またその後彼がピアノ協奏曲を作曲しなかったところを見ると、不評がかなりショックだったのかも。

 

この曲についてはバックハウスやルービンシュタインなどの演奏が名盤とされていますが、私にとってはこの演奏がダントツで一番なんです。(

 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-皇帝

 

フリッツ・ライナー指揮・シカゴ交響楽団の演奏、そしてピアノは私が最も敬愛するウラディミール・ホロヴィッツ!

 ※ライナーに関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 


これがなぜ忘れられない1枚なのか、と申しますと・・・私が初めて聴いたホロヴィッツの演奏だったから。

 

RCAから発売されていたこのレコードを買ったのは、中学1年生の時。

 

クラシック音楽にハマり始めて、お小遣いを貯めてはレコード店に通っていた頃のこと。

 

当時人気絶頂のカラヤン=ベルリン・フィルのレコードは、1枚2,000円以上。

 

3,000円程貯めてもやっと1枚しか買えず。

 

そんな中、この 『皇帝』 を聴きたくてレコード店に行った私の目に留まったのが、ホロヴィッツのレコード・・・しかしその時点で、私は彼の事を全く知りませんでした。

 

ではなぜ買ったのか?・・・それは古いモノラル録音だったため、値段がたったの1,000円だったから。😅

 

「おぉ、ラッキー!」 もう1枚、チャイコフスキーの 『悲愴』 も1,000円のレコードを見つけ、2枚買っても手元には帰りの電車賃が十分に残り、上機嫌で帰宅した私。

 

そしてコレを聴いた時の衝撃は今でもはっきり憶えています。

 

それまでFMラジオで何度か聴いた同じ曲とは思えぬタッチの強さと、モノラルとは思えぬ音色の豊かさ。


「世の中に、こんな凄い音を出せるピアニストがいるのか!?」

 

このレコードこそ、私がホロヴィッツとの出会いでした。

そしてこの直後、音楽の先生に連れられて行った音楽サロンで、すっかりホロヴィッツに魅入られてしまったのです。(↓)

 

皆さんには、そんな〝衝撃的な出会い〟となったレコードやCDは、ありますか?笑2

それでは最後に、そのホロヴィッツの名演をお聴きください。

 

 

 

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今日は、我が愛読誌・月刊『致知』12月号より、アサヒビール社友・福地茂雄氏による [巻頭の言葉] を一部編集にてご紹介致します。

          ◆    ◆    ◆    ◆

『十年樹木、百年樹人』 という書籍があります。(馬遅伯昌・著)

樹木を育てるのは十年、人を育てるのは百年を要するという意味だそうです。

残念ながら今の国会議員の中には、隣近所の出来事や友人・知人の声には耳を傾けても、国家の経綸を語り国家百年の大計を論じる人はあまり見当たりません。

これは今の選挙制度、特に小選挙区制度に問題があると私は思います。

極端な言い方をすれば、小選挙区制度が導入されて以来、国会議員と地方議員の違いが見出しづらくなったように感じられてならないのです。

地元住民の声を拾い上げて政策に反映する地方議員の役割は大変尊いものですが、国政を担う立場にある人がこうした地方議員に類するような仕事ばかりに汲々とし、国家的な視点を見失っているようでは、国の行く末が心配です。

 

       

かつてアサヒビールの中間管理職を務めていた頃、「部下の仕事は取るな、上司の仕事を取れ」と教えられたことを思い出します。

同じ意味ですが、「将来を期待する社員には〝大きな着物〟を着せよ。〝窮屈な着物〟を着せると人間までが小さくなってしまう」 とも言われたものです。

これは社員の視野を拡げ、器を大きくして人財を育成するのは経営者の重要な役目の1つであること、つまり 「百年樹人」 という視点の大切さを示していると思います。

私は、福岡県立小倉高校時代に教えを受けた教師を〝恩師〟と呼んでいます。

私の座右の銘はいずれもその3人の恩師からいただいたものです。

こうした尊い教育者と比較すると、この頃マスコミを賑わしている〝わいせつ教員〟に人を導く資格があるとは思えません。

先日の新聞の見出しには 「わいせつ教員数、高止まり」 と書かれていました。

わいせつ教員対策法なるものを国会で審議しなければならないとは、何と恥ずかしいことでしょうか。

教育では、知識を教える知育ばかりでなく、人格を養う徳育が大切です。

残念ながら今日の生徒・学生の多くには、〝恩師〟と呼べる存在が見出しづらいのではないでしょうか。

徳育を実践する器量を供えた真の教育者を育てるには、教育大学・教育大学の重要な役目です。

私の子供時代、父親には先祖を大切にすることや風呂の掃除、廊下の拭き掃除をすることを厳しく躾けられました。

そして母親には日々の予習・復習から学芸会の準備、読書に親しむことを教えられてきました。

両親にとって子供に教えることは大切な仕事です。

ところが、今は子供の教育を放棄している親が多いことに、私は強い危機感を抱いています。

今年8月の日経新聞に、支那では 「家のしつけ法律化・・・『片づけは自分で』 学校任せにせず」 という記事がありました。

教育、とりわけ大切な徳育は、幼いうちに家庭でしっかり為されてこそ、その人を生涯支える人間的基盤が養われるのです。

明治の元勲と呼ばれる先人は、「鉄は国家なり」を合言葉に鉄鋼業を、「海洋日本」を謳って造船業を興し、「法治国家」といわれるほど法制度を整備して議会制度をつくり、世界有数の識字国家として「読み書き算盤」に「修身」を中心とする教育制度を樹立しました。

私が子供の頃には、国土は狭いが国力は大きい「世界の一等国」としの自負がありました。

今求められる人財は、自分の専門分野のみに精通した切れ味のよい〝カミソリ型〟ではなく、人間力の備わった、たとえ切り口は鋭くなくても大木をなぎ倒す力を持つ〝ナタ型〟ではないでしょうか。

国家百年の大計が求められる今日、改めて「百年樹人」という言葉を心に留め置きたいものです。


          ◆    ◆    ◆    ◆

文科省のトップである事務次官が出会い系バーに入り浸っていたんですから、教育行政に期待するのは無理でしょう。

我が子の行く末を案じるなら、徳育・躾は親が行うしかありません。


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今からちょうど80年前の今日・1941(昭和16)年11月26日(日本時間・27日)・・・その11日後に行われた真珠湾攻撃から日米開戦に至る決定的な出来事がありました。

それは、当時の米国務長官コーデル・ハルが野村吉三郎駐米大使・来栖三郎特命大使に、 いわゆる

 ハル・ノート
   Hull note


正式名称 『合衆国及日本国間協定ノ基礎概略』 を提示したのです。

 ※コーデル・ハルに関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 

それまでの我が国は、国際連盟を脱退後に軍部の独走で満州など中国大陸進出を進め国際社会から孤立を深め、その制裁措置としてABCD包囲網を敷かれ、石油調達の道を閉ざされていました。

エネルギーという生命線を絶たれた日本は、その制措置解除を目指してアメリカと交渉を重ね、甲・乙案などを提示し最大限の譲歩を表明。

しかしこの日提示されたハル・ノートには、過去の交渉をひっくり返す無茶な要求が列記されていました。 その主たる内容は、

 

1. 日本軍の支那、仏印からの無条件撤退

2. 支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府・
政権の否定 

  (日本が支援する南京国民政府の否定)

3. 日独伊三国同盟の死文化(同盟の一方的解消)

 

これは日露戦争・第一次世界大戦以降、日本が多くの犠牲を払って手に入れてきた権利・権益をほぼ全て手放せ、という高圧的なもの。

この文書に関しては、極東軍事裁判で判事を務めたパール氏が、

 

「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」

 

と言及し、また

「ハル公文はアメリカ当局の予想によれば、交渉が決裂して戦争になるとして万事を準備したのち、日本側の受諾せざることを予期したものであって、日本に全面降伏か戦争かを選択せしめんもの」

と当時の東郷茂徳外相の手記に記されている如く、実質的には最後通牒・・・いや、戦争に追い込むための挑発だったと言えます。


       

               ハル・ノートの1ページ目

 

我が国としては、供給を絶たれた石油資源を東南アジアに求める他なく、同地域の国々を植民地として支配している欧米諸国を駆逐し独立させるため、戦争に突入せざるを得ませんでした。

しかし既に暗号を傍受していたアメリカは連合艦隊が真珠湾を急襲することを予め察知していながら、国威高揚と開戦の大義名分作りのため敢えて攻撃させた、といわれています。

つまり日本はアメリカの術中に見事ハマッた、と言えましょう。

そして近年、驚くべき事実が明らかになりました。


それは・・・ハル・ノートはハル国務長官ではなく、財務次官補ハリー・D・ホワイトが書いた、ということ。
 
        

                  Harry Dexter White

 

しかもこのハリーなる人物は、ソ連のスパイだったのです。
(彼は告発を受けた数日後に服毒自殺。)

つまり日米開戦はソ連のスパイによって仕組まれた、というわけ。

これらの史実を通じて言えるのは、〝外交では資源と情報を掌握し強力な武力を保持する国が勝つ〟ということ。

残念ながら現在の日本はそのいずれも心許ない限りですが・・・。😰


 

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