ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

いよいよ、プロ野球が開幕・・・本格的な球春到来です。

今年はどのチームが優勝するのか、ファンの間では喧々諤々の予想合戦が繰り広げられていることでしょう。


さて、〝筋書きのないドラマ〟といわれる野球で最もエキサイティングな場面は最終回の逆転劇、更に言えばサヨナラ・ゲーム。

その中でも、これ以上ないという値千金の一発といえば


 代打逆転サヨナラ満塁ホームラン

 

でしょう。

 

この最も劇的なホームランが日本プロ野球で初めて飛び出したのが、今からちょうど70年前の今日・1956(昭和31)年3月25日・・・後楽園球場で行われた巨人-中日戦でのこと。

 

この歴史的な一打を放ったのは、巨人の樋笠一夫選手(1920-2007)。


        

同選手の経歴は少々変わっていて、旧制高松中学で全国中等学校優勝野球大会でベスト8まで進んだものの卒業後は職業軍人に。

戦後は広島鉄道局などのノンプロで活躍していたところを広島カープの目に留まり、1950年に30歳で入団。


いきなり打点・本塁打でチーム二冠となったのに、僅か1年で退団。
 

その彼を巨人が熱心に口説き落として獲得したのですが、当時の巨人は青田昇・与那嶺要など外野陣の層が厚く、広島の主力打者も代打に甘んじていました。

その彼がこの試合で代打として登場したのは、9回裏。

0-3でリードを許しながらも、1死満塁で一発逆転の場面。

相手チームの杉下茂投手の3球目・ストレートを狙いすまして振った樋笠選手のバットは見事にボールをジャストミート!

打球は左中間スタンドに一直線・・・ここに史上初の快挙が達成されたのです。


ホームインした樋笠選手は、まるで優勝監督のようにナインから胴上げされたそうな。

     

8年間の現役生活で打率.229、ホームラン54本という平凡な記録しか残していない同選手ですが、この一発で見事球史にその名を残しました。

 

さて、今までこの劇的なホームランは樋笠選手のものを含め、日本プロ野球では8本飛び出しています。

日本国内で初めてプロ(職業)野球の試合が行われたのは、1936(昭和11)年2月9日。(↓)

 

 

以来90年・・・現在ではCS・日本シリーズを含め年間890試合程行われていますから、少なく見積もっても累計試合総数は約7万試合以上。

 

従ってこの劇的ホームランの出る確率は約11年・約9,000試合に1度という低さ。

樋笠選手以降に達成した選手を年代順に並べてみると、

 

② 1956年6月24日 藤村富美男(阪神) 
  (藤村監督自ら「代打はワシ」と告げて打席に・・・。)

③ 1971年5月20日  広野 功(巨人)

④ 1984年6月11日  柳原隆弘(近鉄)
 
⑤ 1988年6月18日  藤田浩雅(阪急)

⑦ 2001年9月28日  藤井康雄(阪急)

⑧ 2011年10月22日 長野久義(巨人)


・・・あれっ、⑥は?

はい、決して忘れたわけではありません。

25年前の2001年9月26日に飛び出した史上6本目は、更に劇的。

現在まで日本はおろかメジャーを含めても史上唯一、いや今後もおそらく出ないであろう〝代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン〟なのです。

打ったのは近鉄の北川博敏選手。

 

前年阪神からトレードされてきた同選手の、まさに乾坤一擲・会心の一打・・・その瞬間をご覧ください。(※9分過ぎ ↓) 

 

北川選手の名は、この一打で近鉄ファン・プロ野球ファンの記憶に永遠に留められることでしょうが、この僅か4日後に打った⑦の藤井選手の一発も、実はやはり史上唯一となる2死・(お釣り無しの)3点差での達成だったのです。

しかし
北川選手の一発があまりに劇的だったため、完全に霞んでしまいました。

これもいわゆるひとつの〝運〟ですネ。

8本目の長野選手から15年経った今シーズン、果たして9本目は出るでしょうか?野球ボール

 

 

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今から56年前の今日・1970(昭和45)年3月24日、我が国で前例のない葬儀が執り行われました。

 

なぜならその葬儀、故人が実在の人物ではなかったからなのですが・・・その人の名は、

 

 力 石 徹

 

そう、スポ根漫画の名作・『あしたのジョー』に出てくる、主人公・矢吹丈のライバル。

 

少年院時代から因縁があり、プロボクサーとなった2人がボクシングの聖地・後楽園ホールで遂に対決。

 

体格差を埋めるために壮絶な減量をして試合に臨んだ力石選手は、強烈なアッパーカットでKO勝ちを収めたものの、ダウンした際に頚椎をロープで強打したことが原因で、試合直後に息を引き取ったのです。

            
      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-力石徹

 

彼の死が描かれた少年マガジンが発売された直後、同誌の内田勝編集長の元には読者からの弔電や香典が山のように届いたといいます。😲

 

その後作家・寺山修司さんが世話人となって、彼の葬儀が講談社の講堂で執り行われることとなりましたが、(当然のことながら)読経してくれるお寺様を探すのにも一苦労・・・寺山氏の作った告別式の台本が配布されたのは、開式直前だったそうです。

 

後楽園ホールのリングを解体して式場に持ち込み、そこでアニメの主題歌歌手・尾藤イサオさんがプロボクサーと模擬ファイトした後、熱唱。

 

「お前を殺したのは誰だ、誰なのだ、力石よ!」 

 

弔辞者がそう叫んで弔辞文を破り捨てるという型破りの告別式には、平日にも拘わらず小学生から社会人まで約800名が参列、読経が流れる中で焼香をしたそうです。

 

当時は東大紛争など学生運動が盛んな時代・・・この葬儀の一週間後には犯人が 「我々はあしたのジョーである」と叫んだ〝よど号乗っ取り事件〟(↓)が起きています。

 

 

 

(2002年には同じ講堂で三十三回忌法要が行われ、その時にも約300名のファンが参列したとか。)

 

現在に至るまで架空人物の葬儀が本格的に執り行われたのは、力石徹、ラオウ(北斗の拳)、マーズ(六神合体ゴッドマーズ)、上杉達也(タッチ) 、ヤン・ウェンリー(銀河英雄伝説)ら。

 

また法要としては赤木しげる(闘牌伝説アカギ)の十周忌が執り行われ、約1,000人が列をなしたとか。

主役ではない力石徹やラオウの死に、なぜこれ程までに人々が涙するのでしょうか? 

(2人とも男臭い、武骨なキャラクターなのは、単なる偶然?)

 

人間は、2度死ぬ・・・といわれます。

1回目は、肉体が滅んだ時。
そして2回目は、人々の記憶から消えた時だとか。

その意味では、力石徹はまだ1度しか死んでいないと言えましょうか。


・・・さて、皆さんには葬儀を実施してほしい架空の人物は、いますか?


宇宙戦艦ヤマト・ファンの私は、沖田十三艦長の葬儀を・・・と思ったんですが、彼が亡くなったのは2199年という未来の話だから、無理?😣



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「それじゃ、お先に~。」

 

そう言うと、バッジテスト1級所持者・S君は、サッサと軽快なスキー捌きで滑り降りていってしまいました。

 

(おいおいっ、そりゃないだろう。) 

 

そう思っても後の祭り。

 

残された3人は、ただ呆然。

 

「おい、どうするョ。」 

「どうするって・・・行くしかないだろう。」

 

覚悟を決めた私は斜滑降でゲレンデの反対側めがけて滑り出しました。

 

〝ダウンヒルのナベちゃん〟もすっかり形無し・・・コースの両端を行ったり来たり、ジクザクに急斜面を降りるしかありません。

 

もう1人も私に続いて無事下まで降りたのですが、問題は最後に残ったN君。

 

実は彼、スキーは初心者だったんです。 

 

我々3人が下まで降りてきた時もスタート地点で固まったまま。

 

「お~い、早く降りてこいょ~。 

 一番いいスキー履いてんだろ~!」

 

S君は開業医の息子。 

 

金持ちの父親から、当時一番高かった小賀坂のメタル・スキーをこの日のために買ってもらっていたんです。

 

確か当時で10万円くらいした最高級品・・・我々はその事を知っていて、冷やかし半分・嫉妬半分で声をかけたのでした。😅

 

そして意を決したS君は、ヘッピリ腰のままソ~ッとボーゲンで滑り始めます。

 

         

           ジャイアント・コースの急斜面         

 

でもスキーって腰を引くと一層スピードが出ちゃうんですょネ。

 

みるみるスピードアップしたS君、「あっ、そのまま行ったら林にツッコむゾ!」 と思った瞬間、斜面下に向かって転倒!

 

何回かゴロゴロッと転がった後、ズルズルと落ちてきました。

 

これまたスキー経験者ならお分かりだと思いますが、30度を超える急斜面だと転倒したらエッジをうまく立って踏ん張らないと

止まらないんですょネ。

 

捕まって棒に吊るされたイノシシのような恰好のまま滑り落ちてくるN君の情けない姿を見て必死に笑いを堪える我々の足元に、ミカンが何個か転がってくるではありませんか。

 

(どうして、ゲレンデにミカンが?)

 

不思議に思っていると、今度は明治の板チョコが1枚、スルスルと・・・。

 

そして最後にN君本体(?)が我々の足元に落ちてきました。

 

その彼の背中には、パックリと蓋の開いたリュックが。

 

そうなんです。 

 

ミカンと板チョコは、彼が持ってきたおやつだったのです。

 

あまりの可笑しさに、とうとう声を上げて大笑いしてしまった私ですが、次の瞬間ピタッと笑いが止まりました。

 

それは、N君の右足に装着されていたスキー板の後ろ半分が、ポッキリと折れて無くなっていたから・・・。

 

フッと斜面を見上げると、彼が転倒した辺りの純白のゲレンデに、鈍く光る黒いメタル・スキー板が、あたかも墓標の如く刺さっているではありませんか!

 

初心者の彼は転び方も知らなかったため、転倒した際にスキー板をゲレンデに突き刺して転がってしまったわけです。

 

10万円もする新品のメタルスキーは、たった20m滑っただけでお陀仏。

 

休憩所に連れて行くと、イスに座ったN君は、「パパに買ってもらったばかりなのに・・・」 と、シクシクと泣き止みません。

 

さすがに悪いと思ったのか、S君は動き出したリフトに乗ってゲレンデに刺さった残骸を引き抜き、再び滑り降りてきました。

 

私はN君用にレンタルスキーを借りてきて

 

「泣いてもしようがないだろ。 

 蓮池のやさしいコースで滑ろうぜ!」

 

と励まし、我々は半ベソの彼を抱えて休憩所を出たのです。

 

・・・その後どこでどう滑ったのか、今は全く記憶なし。

 

しかし白銀の斜面を転がってきたミカンの鮮やかな橙色と板チョコの茶色、そして急斜面に刺さっていたメタル・スキーの破片がまるで墓標のように黒く光っていた光景は、今もって忘れることができません。

 

※このジャイアント・コースを滑った方(上級者!)自ら撮影した動画がありました。 

 

ご覧いただきながら、ミカンや板チョコが落ちてきた光景をイメージしてください。

 

 1分過ぎから急斜面に入ります。

 

 

 

 

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スキーシーズンも、まもなく終わり・・・皆さん、今年は滑りましたか?

 

長野に生まれ育った私にとって、スキーは身近なスポーツ・・・というより冬はそれしかやることがなかった、とも言えますが。

 

自宅からリフトが見えるスキー場があり、シーズン中の日曜日はよくスキー靴を履いたまま(!)電車やバスに乗って通ったものです。

 

着替えや昼食のおにぎりを入れたリュックサックを休憩所の机の上に置きっぱなしでゲレンデに向かい、1日乗り放題リフト券をお守りのように首から下げて、朝から暗くなるまで滑りまくり。

 

(当時は村営で、リフトが3本しかなかったその 『飯綱高原スキー場』 が約30年後にはオリンピックのモーグル競技会場となり、里谷多英選手がそこで金メダルを獲得するとは・・・私にはまさに隔世の感というか、感慨深いものがありましたが。)

 

小学生の頃から一応ウェーデルンくらいは出来ましたが、私は生まれながらのスピード狂(?)・・・スキーでもダウンヒル(直滑降)が大好き。

 

中学生になると、親にせがんで憧れのメーカー・〝小賀坂〟から発売されたグラスファイバー・スキーを買ってもらったのですが

、できるだけスピードが出るようにと長さはなんと2m。

 

ジャンプ競技に使うようなロングスキーに当時最先端・HEAD社のビンディングを装着して、ブイブイ飛ばしたものです。

 

そんな私がスキーをしたのは高校生の時まで。

 

大学に進学して上京すると、周囲がスキーに行くのは女の子をナンパするアフタースキーが目的。

 

背中に入れたバスタオルがグッショリ濡れるほど身体を張って滑っていた体育会系スキーヤーだった私には、とてもそんな軟弱スキーなどに付き合う気が起きませんでした。

 

結局大学時代、そして社会人になってもケガをして周囲に迷惑をかけたくないので、一度もスキーに行くことはなく現在に至っています。

 

そんな私が最後に滑ったのは高校2年生の時でしたが、このラスト・スキーで生涯忘れられない出来事に遭遇しようとは・・・。

 

来年は大学受験、とてもスキーどころではないってことで仲良しの同級生3人と〝滑り納め〟 に行くことに。

 

その中で最も上手だったS君の発案で、行先は志賀高原に決定。

 

当日、長野電鉄の始発電車に乗って終点・湯田中駅へ。 

 

そしてS君に案内されるままバスに乗って暫し・・・降りたバス停は、ちょうどゲレンデの中腹あたり。

 

「ここでスキー履いて、下の休憩所まで行こう。」

 

そう言うS君についていった我々はゲレンデの端に立った瞬間、思わず絶句。

 

遥か下に見えるロッジの手前は、ゾッとするような急斜面だったのです。(

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-志賀高原

 

なんとそこは、スキーヤーなら知る人ぞ知る

 ジャイアント・コース

 

国内の公式競技はもちろん、後にワールドカップも開催された超上級者用のゲレンデだったのです。

 

スキー経験者はご存知だと思いますが、傾斜が30度以上になると、絶壁を滑り落ちるような感覚。

ところが当時のジャイアント・コースの最大斜度は、それを遥かに凌ぐ約41度!
😱

 

朝8時前でリフトも動いておらず、まだ誰も滑っていないギャップだらけのゴツゴツしたアイスバーン・・・殆ど垂直に落ちていくような絶壁にいきなり立たされた私のビビリ具合、想像いただけますでしょうか?

 

さすがのダウンヒル男も、この急斜面を真っ逆さまに滑り降りる勇気はなし。

 

(オ、オレ・・・無事に下まで行けるんだろうか?)

 

緊張で心臓バクバクの私、そして同様に顔面蒼白の仲間たちの運命やいかに?

 

             ・・・・・To be continued!

 

 

 

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「・・・3、2、1、ハイッ!」

椅子に座っている人に、そんな掛け声をかけるシーンをテレビで観たことのある方、多いのではないでしょうか?

ということで、今日・3月21日は


 催眠術の日

 

なのだそうです。


催眠とは、暗示を受けやすい変性意識状態を言い、催眠術とは暗示をかけて催眠状態に引き入れる技術のこと・・・と言われても

何やらはっきり分かりませんが、催眠状態とは夢うつつの状態に入ることと考えれは良いのでしょうか?


催眠術の歴史は意外に古く、紀元前4世紀のエジプトで催眠術による治療が行われていたという文献が残っているとか。

しかしそれは医学というより魔術・呪術に近いものだったようで、本格的な催眠療法を行ったとされているのは、アントン・メスメル(1734-1815)というドイツ人医師。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

       Franz Anton Mesmer (1734-1815)


彼は〝動物磁気〟の存在を唱え、患者の頭上に手を翳すだけで病気を治したといわれます。

 

それ故、催眠術は “mesmerism ”とも訳されますが、当時の医学界からは科学的効用を認められなかったため、その存在は相変わらずゲテモノ扱いに近かったとか。


しかし1841年にイギリスのジェームズ・ブライドが一点を凝視することで被験者を催眠状態に導く〝凝視法〟を考案し、催眠状態を科学的に研究したことで催眠療法の発展に大きく寄与しました。

 

日本に催眠術が入ってきたのは明治末期から大正時代にかけて。
 

医学関係者からいかがわしい霊術師まで様々な人が催眠術を手掛け、400冊以上の関連本が出されるなど大流行。

それにより人心攪乱を恐れた当局が、1908年に発令された警察犯処罰令の中に「みだりに催眠術を施した者」という一項を入れたといいます。


しかし第二次大戦後アメリカで催眠療法の効果が認められると、日本でも再度催眠術が認められるようになり禁止条項も廃止に。


現在では医療現場でも催眠療法が正規の治療法として使われています。

 

最近はあまり催眠術を扱ったテレビ番組を観ませんが、昔は芸能人に催眠術をかけて急に体が硬くなったり、大嫌いな食べ物をムシャムシャ食べる場面がありました。

皆さんは、あんな風に催眠術をかけられたことがありますか?

私は未だ経験がないのですが・・・どうもかかりやすいのは素直な性格の方らしいので、多分私(いや、それ以上に女房)にかけるのは無理でしょう。😅

それはともかく、皆さんもマスメディアの偏向報道や扇動・情報操作に引っかからないようにしましょうネ。

 

あれも集団催眠の一種ですから。

 

 

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今から31年前の今日、朝8時15分過ぎ。

 

当時サラリーマンだった私は、出勤のため地下鉄有楽町線に乗っていました。

 

・・・と、走行中に電車が突然止まり、しばらくして「先程、築地駅で走行(運行?)障害が発生しました。」というような車内放送が流れたのです。

 

普段「車両点検により」とか「人身事故により」等々の案内は時々耳にしますが、そんなアナウンスは初耳。

 

(一体、何があったんだ?)

 

という、何とも言えぬ胸騒ぎというか、イヤ~な予感がしたことを憶えています。

 

出社してすぐにクルマで営業に出かけた私は、やたらに走り回るパトカーのサイレンを耳にする異様な雰囲気の中ラジオから流れてくる臨時ニュースを聞き、初めて車内アナウンスが何を意味していたのかを知ることに・・・。

 

それが1995(平成7)年3月20日、オウム真理教によって引き起こされた

 

 地下鉄サリン事件

 

でした。

 

12名の死者、そして約6,000名もの重軽傷者を出したこの事件そのものについては、あらためてここで説明する必要はないと思います。


    

 

しかし事件が起きた日、3名の医師による 〝英断〟が多くの人命を救ったことについて、当時は殆ど報道されませんでした。

 

最も多くの被害者を出した地下鉄日比谷線・築地駅。

 

あまりの被害者の多さに、病院に連絡を取る余裕もないまま救急隊員によって続々と搬送される被害者を見て、 

 

◆ 外来患者を断り、事件の被害者治療を最優先。
◆ 全ての搬送を受け入れる。

 

これを即時決断したのが、当時の聖路加国際病院々長・・・2017(平成29)年7月に105歳で大往生を遂げられた日野原重明

 

ベット数が足りず、礼拝堂を開放して軽症患者を運ぶよう指示したのも日野原院長だったそうです。

 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-日野原重明先生

          故・日野原重明先生

 

一方事態が掌握できなかったため当初は農薬中毒という見方が大勢だったものの、瞳孔収縮等それでは説明できない症状がみられ、治療方法を確定できなかった医師団のもとに一本の電話が入ります。

 

電話の主は、信州大学付属病院の柳澤信夫医師。(現・信州大学及び東京工科大学名誉教授)

 

9ヶ月前に起きた『松本サリン事件』で被害者治療の指揮を執った方でした。

 

たまたま観ていたテレビで事件を知り、その被害者の特徴的な症状から「サリン中毒に違いない」と確信。 

 

すぐに自ら聖路加病院に直接電話をかけ、特効薬・治療法などをFAXで伝えたのでした。

 

その電話を受け、最終的に特効薬 ・プラリドキシムヨウ化メチルPAM ) の投与を決断したのは、同病院救命救急センターの石松伸一医師(現・聖路加病院々長)。

 

サリン中毒でなかった場合、この薬の持つ強い副作用で被害者が死亡することも有り得る・・・という状況下での、ギリギリの決断だったそうです。

 

◆もし聖路加国際病院が全被害者の受け入れを拒否していたら?

◆もし柳澤医師が直接病院に電話せず厚生省に連絡していたら?

◆もし石松医師によるPAM投与の早期決断がなかったら?

 

後日アメリカ国防総省から、「死者が70~80名出てもおかしくない無差別テロにもかかわらず、どうして被害を最小限に食い止めることができたのか?」と日本政府に照会があったとか。

 

その答えは3人の医師による英断と、救出にあたった警察・消防の方々、また特効薬 “パム” の配送に携わった製造元・スズケンや住友製薬の社員さん、そして非番にも関わらずテレビを見てすぐさま病院に急行し治療に加わった看護士の方々など、多くの人々による献身的な救命活動の集積だった、といえるでしょう。

 

政治家の優柔不断・実行力不足が目立つ昨今。

 

国会等で上っ面の空虚な言葉を並べ立て個人攻撃など枝葉末節に拘っている彼らは、非常時に勇気ある決断を下した3人の医師たちの行動を見習うべきでしょう。

 

そして30年以上経過したということは、この事件を全く知らない若者が成人になる・・・いや、実質的に40歳未満の方々には殆ど実感がないはず。

2018(平成30)年に松本被告ら当該事件に関わったオウム信者らが死刑になったものの、
同教団がアレフなど名称を変えて存続しており、再び若者を取り込んでいることを含めて、日本国内で起きた未曾有のテロ事件を絶対に風化させず次世代に語り継がなくてはなりません。

 

最後になりましたが、この事件で不運にも尊い命を奪われた犠牲者の皆様のご冥福と、今なお後遺症に苦しんでいらっしゃる多くの被害者の一刻も早いご回復を、心よりご祈念申し上げます。🙏

 

 

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若い世代には、『踊る大捜査線』シリーズでの渋い刑事役のイメージが強いでしょうが・・・昭和世代の私にとって、彼は毎週土曜日午後8時に、ハッピ&鉢巻姿でブラウン管に登場する元気のいいおじさん。

 

今日は、そのザ・ドリフターズのリーダーであった

 

 いかりや 長介 さん

 

の命日・二十三回忌にあたります。

 

      

 

いかりや(本名:碇矢 長一)さんは、1931(昭和6)年に現在の東京都墨田区で生まれました。

4歳の時に母親を亡くし、疎開先の静岡で終戦を迎えたいかりやさんは、東京の高校を中退後静岡の製紙工場に勤める傍ら同僚らと  「女性にもてたい」 一心(?)でハワイアンバンドを結成。


1959年にミュージシャンを目指して上京、クレイジーウェスト・ジミー時田とマウンテンボーイズに所属。

しかし1961年の大晦日に交通事故を起こしたことで所属事務所との関係が悪化。

翌年、桜井輝夫とザ・ドリフターズに加藤茶さんとほぼ同時期に参加。

 

1964年には仲本工事さん、高木ブーさん、荒井注さんが加わってザ・ドリフターズを再結成しナベプロに所属。

 

当時人気絶頂だったハナ肇とクレイジーキャッツの後輩として大々的に売り出されました。

※いかりやさん始めドリフ・メンバーの芸名は、全てハナ肇さんが名付け親。

 

   

 

純粋(?)なバンド活動として最も注目を浴びたのは、1966年に来日したビートルズの日本武道館での公演で前座を務めた時でしょうか。


しかしドリフといえば、やはり1969~1985年まで毎週土曜日に放映された『8時だョ!全員集合』。

 

私が小学生から社会人になるまで続いた長寿・人気番組でした。

 

毎週笑わせてもらいましたが、そのネタ作りは実に熾烈なものだったことを、彼の著書 『だめだこりゃ』(新潮文庫・刊)で知りました。

 

     


平均視聴率27.3%、1973年4月に叩き出した最高平均視聴率が50.5%というこのお化け番組は、驚くべきことに殆ど毎週生放送。

ゆえに本番中停電したり火災が発生するなど様々なハプニングがありました。

しかしもっと大変だったのは、本番前。

オンエアの2日前・木曜日に毎週ネタの打ち合わせ会議をしたそうですが、そこでリーダーのいかりやさんがネタを思いつくまで室内は重い沈黙が支配。

当時番組制作に参加していた作家の高田文夫さんは、あまりの重苦しさに耐えきれずその場から逃げ出したことさえあったとか。

その生みの苦しみを15年以上繰り返し、また60歳過ぎても水を被ったり一斗缶や洗面器で頭を殴られたりという身体を張ったコントを続けたのですから、頭が下がります。

『全員集合』が終了した2年後、1987年にNHK大河ドラマ 『独眼竜政宗』に出演したことがキッカケで、本格的に俳優業へと転身。


全員集合時代のいかりやさんを知らない若い世代までもが、『踊る大捜査線』シリーズでの刑事役を高く評価したのも、コント時代の苦労が演技に生かされていたからでしょう。

 

長く芸能人として活躍したいかりやさんが、原因不明の頚部リンパ節がんで緊急入院したのが2003年5月。

7月には一旦退院し、テレビ出演などの仕事をこなしましたが、翌2004(平成16)年3月15日に転移が見つかり再入院。

その僅か5日後の3月20日に、72歳で天に召されました。

PTAからは子供に見せたくない番組のトップクラスに名を連ね続けた『全員集合』でしたが、私にとっては忘れられない思い出の番組。


その中で常に中心で活躍していたいかりやさんは、その後の俳優業と合わせテレビを通じて最もお世話になった芸能人だったと断言できます。

そんな私にとって、最も印象的ないかりやさんの姿は・・・2000年に亡くなったドリフのメンバー、荒井注さんの葬儀で弔辞を読み上げた時。

「出発間際の忙しい時に、とアンタは怒るかもしれないけど、ちょっとお話しましょうや。」

 

そう言って始まった彼の弔辞は、まるでそこにチューさん本人がいるかのような語りかける口調で淡々と・・・しかしその中身は

かつて黎明期から絶頂期へと向かうドリフターズで共に頑張った戦友ヘの惜別の言葉。

 

思わず聞き入る、素晴らしい別れの言葉でした。


そのいかりやさん、今は天国で注さんと2人でまたネタ作りに励んでいるのかも。

最後に、いかりやさんが元来ミュージシャンであったことを彷彿とさせる、この撮影時のスチール写真が葬儀の遺影に使われたキリン・ビールのCMを観ながら、昭和時代を代表するコミックバンドリーダーのご冥福をお祈り致します。

 

いかりやさん・・・ちっともだめじゃなかったですょ!😊

 

 

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今日は、祝日・春分の日。

 

国旗を掲揚して、自然をたたえ生物をいつくしみましょう。

と同時に、今日は彼岸の中日。

墓参など、ご先祖様の供養もお忘れなく!🙏 

 

                   
 

 

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皆さんは、〝チェロ〟という楽器をご存じのことと思います。

ヴァイオリンを大きくしたような弦楽器で、腹の底に響くような低音が魅力・・・とはいえ、オーケストラの中ではどちらかという脇役というか縁の下の力持ち的存在。

とはいえ、女性が弾くと妙に色っぽいんですが・・・。

      

 

ま、それはともかく・・・おそらく多くの方がこの楽器を初めて知ったのは、宮沢賢治の童話・『セロ弾きのゴーシュ』 かもしれません。

またチェロ独奏の音楽作品としては、サン・サーンス作曲『動物の謝肉祭』の第13曲〝白鳥〟を、殆どの方が聴いたことがあるはず。

それでもあまりピンとこない方のために、今日はこの楽器の名曲をご紹介したいと思います。

それは、交響曲第9番『新世界から』で有名なドヴォルザークの


 チェロ協奏曲 ロ短調 作品104

チェロに留まらず、あらゆる協奏曲の中でも最高峰に位置すると言われるこの名曲・通称〝ドボコン〟が、彼自身の指揮によりロンドンで初演されたのが、今からちょうど130年前の今日・1896年3月19日でした。

彼がこれを作曲したのはアメリカ滞在時代の終盤、母国チェロ

・・・ジャナカッタ  チェコに帰国する間際の1894~5年にかけて。

それ故、彼の中に深く根付いていたボヘミア音楽と、アメリカで聴いた黒人霊歌やアメリカ・インディアンの音楽が見事に融合した作品に仕上がったと言われています。

芥川也寸志さんが、同曲を〝史上類をみない混血美人〟と評しているのも頷けますネ。

人間も音楽も違った土壌の融合は優れた〝作品〟を世に残す、と

いうことかも。

また彼の支援者だった大作曲家ブラームスをして

「人の手がこのような協奏曲を書きうることに、なぜ気づかなか 

 ったのだろう。 

 気づいていれば、とっくに自分が書いただろうに!」

と言わしめたのですから、いかにこの作品の完成度が高いかが分かります。

この協奏曲に関しては、過去さまざまな名演がありますが・・・私が過去に聴いた中でオススメしたいのは、こちら。(

 

     

 

チェロは、20世紀を代表する巨匠・ロストロボーピッチ。
そして指揮はこれまた20世紀を代表する巨匠・カラヤン。

・・・となれば、当然オケはベルリン・フィル。

先輩・ロストロボーピッチに後輩のカラヤンが食らいつき、それを世界最高峰のオーケストラが火の出るような演奏で盛り上げる・・・ジャケット解説ならそう書くような、50年以上前・1969年の録音とは思えぬ歴史的名演だと思います。

※その演奏を、こちらでお聴きいただけます。(↓)

 

 

もしかしたら、あなたが以前耳にしたような有名なメロディーに出会えるかも・・・是非この曲をキッカケに、地味な楽器・チェロに注目してください。

 

えっ、誰ですか? どうせ聴くなら老人より若い女性が弾いてる方がいい、なんて言ってるのは。😅

 

 

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