「センチメンタルな死と詩の豊饒・  北村太郎試論」

  はじめて、北村太郎の作品に触れたのはいつ頃であったか、手にしたのは何かのアンソロジーであったか雑誌であったか、とんと記憶にない。はじめて読んだ作品はたぶん「センチメンタル・ジャーニー」か「墓地の人」あたりであったろうと推察はできるのだが、あいまいなことこのうえもないわたしの記憶を裏づけるにたる物証はひとつたりともない。当然のことながら、わたしが北村詩を正しく鑑賞する(?)ことは長い間なかった。ずいぶんのちになって、『おわりの雪』という詩集(一九七七年)の表題作となった一篇の詩を読んだ。何かの雑誌に載っていたのだったと思う。鮮烈な、というよりなにか痛々しいような澄んだ叙情に撃ちのめされた記憶がある。北村太郎という詩人の姿をわたしがまっすぐに見つめられるようになったのは、たぶんこの頃のことである。

        屋根裏の部屋で
    わたしは明かりを消した
    障子に黒く
    雪がふぶいた
    棟木がきしみわたしは泣いた
    でももう月だった
    鼠が駆けた
    虫の骨が飛んだ
    むかしの恋よさようなら
    ふとんがずれて父も母も死んだ
    朝の
    青の光に
    みどりの森が斜めに流れ
    藁が
    さわさわ音たてて
    わたしの髪に降るのを夢にみた
    闇に目ざめてもう一度泣いた
 

 詩「おわりの雪」の全行である。こうした叙情とレトリックに、めっぽうわたしは弱い。
 それはしかし、障子の向こうに見える雪明かりと天井裏を鼠が駆ける音に「むかしの恋よさようなら/ふとんがずれて父も母も死んだ」と、旧い感傷を呼びおこされて「わたしは泣いた」という幾分センチメンタルな状況設定にわたしの涙腺がゆるくなる、というわけではない。個人的にはセンチメンタルな世界はあまり好きではない。不確かな感情の波に酔ったりおぼれたりするのは、いやである。こんなわたしが目をみはったのは六行目「でももう月だった」以降に描かれた「わたし」の孤高なたましいのありさまである。恋も血縁もすべてはしょせん過去でしかなく、つらくとも現実の日々を生きるしかない。「藁が/さわさわ音たてて/わたしの髪に降る」夢から覚めた明け方に「もう一度泣」くしかない「わたし」の姿からは、諦めというより、むしろ清冽な覚悟と孤独のはざまでなおも揺れつづける無垢な心のありさまを読みとることができる。この張りつめた意志のかたちに、撃たれるのである。

 

 「むかしの恋」、「わたしの髪」といった修飾語によって、この作品の主人公である「わたし」がまだ若い女性であることが暗示されているが、それが詩人じしんの姿の投影であることは疑うまでもない。しかし、作品には「わたし」こと北村氏じしんの心のありさまはほとんど描かれていない。傷心の「わたし」の姿は過不足のないことばによって描かれているのだが、それは「わたし」とは別の視線によって俯瞰され描かれた情景である。そこにあるのは「鼠」や「虫の骨」よりもさらに離れたところから、孤独の痛みに耐えている「わたし」の姿をじっと見つめている詩人みずからの〈個〉である。〈個〉のありさまと繊細な心理を描きながら、それをあからさまに表面に出さないことで北村太郎の作品は、まさに独自の痛ましい世界観のなかに生きづいている。

        滅びの群れ、
    しずかに流れる鼠のようなもの、
    ショウウインドウにうつる冬の河。
    私は日が暮れるとひどくさびしくなり、
    銀座通りをあるく、
    空を見つめ、瀕死の光りのなかに泥の眼をかんじ、
    地下に没してゆく靴をひきずって。
    永遠に見ていたいもの、見たくないもの、
    いつも動いているもの、
    止っているもの、
    剃刀があり、裂かれる皮膚があり、
    ひろがってゆく観念があり、縮まる観念があり、
    何ものかに抵抗して、オウヴァに肩を窄める私がある。
    冬の街。               (「センチメンタル・ジャーニー」部分)


 最初期から、北村太郎は、都市とそこに生きる人々の心をみずからの詩の舞台にえらんでいた。都市は、驟雨にうたれる「丘のうえの共同墓地」であり、「われわれの屈辱」と引き替えに「やすらかな幻影」でみたされた小さな街であり(「雨」)、あるいは「地下に没してゆく靴をひきずって」さまようように歩く銀座通りの「ショウウインドウにうつる冬の河」であったりするが、いずれも廃墟の影をとどめた情景としてそれらは描かれた。また「空を見つめ、瀕死の光りのなかに泥の眼をかんじ」、「ひろがってゆく観念があり、縮まる観念があり、/何ものかに抵抗して、オウヴァに肩を窄める」無数の「私」の屈折した姿と心理が描かれた。詩人は「滅びの群れ、/しずかに流れる鼠のようなもの」という呼称を戦後の都市にあたえたが、そこには〈屈辱的〉な〈敗戦〉によってもたらされた酷薄な日常を受けとめ生きてゆく確固たる〈個〉はすでに喪われかけていた、と見るべきであろうか。都市という群衆のなかで限りなく拡散してゆく〈個〉とその孤独を、北村太郎は、血と死の匂いのすることばで描きつづけた。

 

 『感情移入が完璧すぎると、他者は存在しなくなってしまう。性的結合のクライマックスのように、必然的に自己も存在しなくなる。パースペクティヴ(透視図、遠景:筆者)があるようで、ないのである。これらの詩において彼が展開しているものは「自己」の存在しないモノローグであるというような印象を、私は受けるのである』。鮎川信夫は、『北村太郎詩集』(一九六六年)の「解説」のなかで、北村太郎の特性をこのように指摘しているが、これは、自己=〈個〉の不在という構図に着眼している点において、わたしもほぼ同様の関心を持つものである。そして、この〈個〉の解体と不在という認識は『荒地』グループをはじめとする〈戦後詩〉の揺籃期にあった詩人たちによって共通して描かれた命題のひとつであった。
 

  戦後、『荒地』によった詩人のうちで、鮎川信夫、田村隆一らは、英米の詩人の作品、とりわけT・Sエリオットの詩集『荒地』に〈戦後〉という時代認識と批評を核とした詩学を学び、モダニズム批判をはじめ、詩人の戦争責任や反反核運動に関する論陣を張り、また夥しい詩を書いた。これらの活動の総体が良くも悪くもわが国の戦後詩の進む方向を決定づけたと言っていい。そうした理念的な運動と詩作に明け暮れた『荒地』メンバーのなかで、理念の韜晦を嫌い、平凡な日常を生きる庶民の感情と都市の風景を平易なことばでスケッチしていったのが詩集『ひとりの女に』『小さなユリと』の黒田三郎と、北村太郎であった。一運動体としての『荒地』の個々のメンバーの資質のばらつきは非難されるべきではないが、〈敗戦〉という体験からわが国の精神構造の近代化を模索した知性と、「また、口笛のように風が吹きだすとしても、きょうは、/きょう、生きるに値する幻があればいいのだ」(「白いコーヒー」)と終わりのない日常の不安をあっけらかんと唄いあげる感性がひとつところに共存し、両者の振幅のうちでこんにちの〈戦後詩〉の母胎が滋養されていったということは記憶にとどめておいていいだろう。ちなみに、北村太郎は一九五一年から五八年まで刊行された年刊『荒地詩集』に五五年版まで参加している。『荒地』から離れたのちも、北村太郎はもっとも『荒地』的な感性を固持していた詩人のひとりであった。
 

 ところで、長い詩歴を持つこの詩人には一〇冊の詩集があるのだが、一九六六年に刊行された『北村太郎詩集』から第二詩集となる『冬の当直』(一九七二年)まで六年の沈黙を据え、その後、一九九二年の死の前年に刊行された詩集『路上の影』にいたるまで、じつに旺盛な感性の躍動を見せている。寡作と沈黙、そして精力的な創作活動という詩人の変則的な詩的遍歴が何を意味しているのか、わたしは知らない。しかし詩人が残した仕事をあらためてひもといてみると、そこには死への不安を抱えながらもその彼岸を夢見ているような孤独な男の姿が見え隠れしているのである。
 
        そのときそれを見ていた息子が
    いま猫を撫でているのを見ていた
    猫の全体をゆっくり見ていた
    とつぜん隣の家の水道管が
    苦しげに高らかに喘ぐ音がきこえた
    それは実に急激に絶えた
    皿のさかなを見ていた
    陰膳という習慣は
    きみがわるいと思った
    雨の上がった闇を見ていた
    これから見るに違いない幾つかの夢を見ていた    (「五月闇」部分)


 死は、生命あるものにとってひとしく避けがたい宿命であり、最大の恐怖である。死によって肉体を離れた生命、あるいは魂と呼ばれるものはいったいどんな彼岸を目指すのであろうか、生きているわたしたちが知ることはないが、その絶対的な未知のため、死への不安と恐怖はいよいよ募るのに違いない。そしてそうすることが死を避けられる唯一の手段であるかのように、わたしたちは仕事をし、本を読み、恋をし、ひたすら眠る。しかしそれだけでは充分でないのか、生命そのもののような「猫の全体」を見つめる息子の生命を慈しみながら、詩人は「これから見るに違いない幾つかの夢を見ていた」という。まったく悲壮さのない、死への覚悟と魂の無限を抱えることによって北村太郎のことばは、まさに死と詩の豊饒をわがものにしていったといえるだろう。この詩人にとって、人生とは穏やかな死を迎えるためのア・プリオリ、あるいはそのレッスンのようなものであったのかもしれない。


 詩人のエッセイ(「あの世の微光」)等によれば、詩人は「あなた、わたしを生きなかったわね」という闇からの声を聴きながら半生を生きたということである。それは、詩人の心の深いところで徐々に解体してゆく〈個〉の訴える声でもあったのか、「あなた、わたしを生きなかったわね、というQの声が詰問でも安堵でもなく、慰めのように聞こえてくれば、きっと終わりは近いのだろう。そうは聞こえないだけ、まだこちらは生きていなければならないのか」と唸るようにしたためている詩人の不安が痛ましい。そしてすでに「あなた、わたしを生きなかったわね」という闇の声はなく、それを聞く人もすでにこの世の人ではなくなっている。彼はほっとしているだろう。


 告白すれば、こうした人の生と死を繋ぐ、あるいは分かつ宿命の持ついくばくかのセンチメンタリズムにわたしはめっぽう弱く、心奪われることが多い。誰にも推し量られることのない、これはわたし自身の基準である。「闇に目ざめてもう一度泣いた」のは、どうやら、雪の夜にうずくまっている女性だけではないようである。

           ★

 

 北村太郎は、「荒地」解散以後も、若い世代の詩人たちと交流をもち、あたらしい詩を地道に書きつづけてきた詩人だった。そういう意味においては、もっとも現代詩に長く「荒地」イムズを横溢させた詩人だったといいのかもしれない。北村の晩年については、ねじめ正一の「荒地の猫」に詳しく描かれているから、興味のあるかたはご覧いただきたい。

 

 ほぼ20年前に書き散らかしたぼくの詩人論は、これで以上だ。とても詩人論と呼べるしろものではないけれど、それでも、ぼく自身の詩への向き合い方と考え方を、見つめ直すいい機会にはなったようだった。