Study Hard -79ページ目

ブラジルの蝶のはばたき

 は日本の軍事システムを変革するか、妄想。
 これは個人にとっては小さな一歩だが、日本の軍事にとっては大きな前進だ。

 妹の家に泊まったら知らない人がいたので自衛隊カレンダーをあげた。

 呉起と孫臏のどちらが好きか。難しい質問だ。
 古中国に名を残した人物には激しい人生を送ったものが多い。中国史はミクロに見るならば身内集団に対する懐柔と弾圧の歴史だからだ。
 私は日本人の中国話を聞いていてどうしても気になることがある。孫文すら纏めきれなかった中国人(漢人)なる民族が、果たしていつ国民国家の形成に成功したというのだろうか。日本でもあるまいに。

特筆すべきことなし

【孤独の非グルメ】
 今日話していたこと。
 そう言えば、最終回妄想で言及した病院食は特別編で本当にやってたらしい。

 溝の口駅の立ち食いソバ屋「梅もと」にて。老夫婦が天丼を頼んだ。いつまで経っても天丼が来ないので老婦人が店員に天丼の在処を聞くと、構成要素不詳のかき揚げを丼に載せただけの目の前の物体を指し示した。老婦人は驚きを隠しきれない様子ではあったが、黙ってそれを取ると夫の元へと運んで行った。落ち着いた身なりの良い夫婦であった。
 私はそれを見て、契約および天丼の概念について考えさせられた。山菜そばが冷えていた。

 溝の口駅の立ち食いソバ屋「梅もと」にて。労働者が店員に大声で話していた。渋谷の「ぶや」という立ち食いソバ屋はマズい、その点この「梅もと」は旨い、と。
 確かに「ぶや」は出汁の取り方が感心しなかった記憶があるが、「梅もと」に比べれば上品な味付けであった。それ以前に「梅もと」は立ち食いソバの中でも決して褒められた水準にある店ではない。なんのことはない、梅もとの方が味付けが濃いというだけのことだ。しかしこれが何人も犯し難い味覚という概念である。

 溝の口駅西口に戦後のバラックの面影が残る商店街がある。そこに七福という立ち食いソバ屋があった。味、量、値段が比較的高水準で均衡しており、量が多いものだから食べている途中に汁を足してくれたものだった。
 七福が燃えて以来、私は「梅もと」に行かなくなった。

【放校の起源】
 オーカルカッタに行くと何故人は3杯目を食べようとするのだろうか。

【DVD-PG】
 数値計算の教授はPG的な気がする。板書がプログラム(特にFortran)っぽく見える。行頭と行間が妙に揃っている、ぴったり3字下げを使う、その他。

空位の空位

 おかしい。
 最近戦史研員が多すぎる。都合のいい戦史研員が。

 サークルってのは下克上しに入るもんじゃないのか。サークルってのは革命するために入るもんじゃないのか。
 下級生というのは上級生に対してあからさまな疑惑の眼差しを向け、その一字一句に目を光らせ無知をあげつらい、その行動の問題点を逐一指摘し、隙あらば居場所を奪い去ろうとするものだ。

 俺は夢を見ているのだ。都合のいい夢を。
 俺はサークルがこんなに都合のいいもんじゃないと知っている。構成員をして敵よりも味方の仕打ちを恐れせしめるのがサークルだ。
 サークルとは、考えられないほどの留年を繰り返し、ほんの一握りの人間だけが生き残ることのできる極限の社会だ。どんなサークルの長老も、最後は商鞅のごとく自縄自縛によって消え去るのみだ。そして最も良く屍に鞭打った者が新たな地位を得る。

 私はあまりにも多くを駒場から見送った。そろそろ私の番であって然るべきだ。
 ある人物を駒場から追い出したとき、父は「首切り役人も共に去るべきだ」と言っていた。今になって私はその意味が良くわかる。
 常に私も時代の流れの中の1人である。だから私はサークルからも去らなくてはならない。その兆候が見られないことを危惧する。25年を2人で支えたサークルが存在したことをこの時代に知る必要はないのだから。

 たった1つ確かなのは、駒場は特定の誰をも必要としていないということだ。
 駒場の暗部は、結局のところ「すべて」に渡って特定の人物が長く存在することに起因していた。善悪とは何の関係もなく、駒場は1人の人間が「必要以上に」長く存在するようには出来ていないのである。彼らが幾ら善悪を論じようと、それがすべてだったように思う。
 これが民間団体や国ならまったく話が違っただろう。死ぬまで所属していても何も文句は言われない。しかし駒場は民間団体でも国でもなく、私企業や国だと勘違いした人たちが問題を起こした。
 勉強する気が無いなら去る。これが駒場(あるいは大学)の原理である。就職しか考えないノンポリは4年で大学を通り過ぎ、やる気を無くした自治団体員は祖国に帰り、原理に逆らった人間は僭主になった。

 多くにとってその違いは無意味だろうが、私の居なかった駒場は少し違う場所だったはずだ。少なからぬ禍根も残したが、それは時間と共に収束するだろう。
 私を憎む人には、いつの日か憎しみが潰えた頃に少しだけ思い出してくれたらと思う。個人は善悪以前に意志を持っているということ、そして私は彼らを少しも憎んではいなかったことを。