非モテ概念の救済のために(3)
【2006-11-12】
書記長が良くリンクする「モテ非モテドットコム」を見てなかったのに気付いた。行ってみる。「リアルモテ非モテ診断」だって。ふーん。
占いや血液型性格診断の類い。基本は一般論であり、誰にでも思い当たるようなことを並べ、後は本人の心掛け次第という話だ。これはこれで勝手にすれば良く、目くじら立てるようなもんじゃない。
『にじみ出た優越感に劣等感を苛まれないだろうか』
にじみ出る「お節介」というのが一般的なところだろうが、書記長の「モテ努力不能論」からすればお節介すら優越感なのだろう。
『私自身が嫌われている』
どう考えても皆のアイドルです、本当に。
『構造的』
いつも疑問なのだが、社会学と数学のどちらの意味だろう。社会学において構造という単語は主に「上下関係」や「階層」という意味で使われている気がするが、数学では対象に潜む対称性や不変性などの関係において記述され、どちらかで全然違う……と思う。卒論が「RMAの社会学(俺命名)」だから、やっぱり社会学だろうか。つまり「モテ=上-非モテ=下」関係という意味。
もし書記長が、モテ構造と非モテ構造の対称性だとか、一般に人間は非モテだが「可解」な時のみモテるとか、そういうことを解き明かしてくれるならば、私は書記長を今千年紀の天才として持ち上げる用意があるのだが。
※これほど「モテ-非モテ概念」は不可解なのだから、きっと5次以上の関係にあるのだろう。
書記長が構造という単語を使うときには、むしろ構造のことではなくて「自身の体系下においてジェネラルナンセンスである」と言いたいように見えるのだが。どうだろう。
【素朴な疑問】
書記長の結論がここまでではまったく見えて来ない。例えば「恋愛行為を国有化し、平等に配給せよ」と主張して恋愛券の発行を要求するとかだったら良くわかるのだが。ここで言う平等とは、当然ながら反革命が陥りがちな「結果平等」ではなく、「能力に応じて働き、必要に応じて恋愛する」である。意味はわからないが。
「すべてのモテをソヴィエトへ!」
書記長が良くリンクする「モテ非モテドットコム」を見てなかったのに気付いた。行ってみる。「リアルモテ非モテ診断」だって。ふーん。
占いや血液型性格診断の類い。基本は一般論であり、誰にでも思い当たるようなことを並べ、後は本人の心掛け次第という話だ。これはこれで勝手にすれば良く、目くじら立てるようなもんじゃない。
『にじみ出た優越感に劣等感を苛まれないだろうか』
にじみ出る「お節介」というのが一般的なところだろうが、書記長の「モテ努力不能論」からすればお節介すら優越感なのだろう。
『私自身が嫌われている』
どう考えても皆のアイドルです、本当に。
『構造的』
いつも疑問なのだが、社会学と数学のどちらの意味だろう。社会学において構造という単語は主に「上下関係」や「階層」という意味で使われている気がするが、数学では対象に潜む対称性や不変性などの関係において記述され、どちらかで全然違う……と思う。卒論が「RMAの社会学(俺命名)」だから、やっぱり社会学だろうか。つまり「モテ=上-非モテ=下」関係という意味。
もし書記長が、モテ構造と非モテ構造の対称性だとか、一般に人間は非モテだが「可解」な時のみモテるとか、そういうことを解き明かしてくれるならば、私は書記長を今千年紀の天才として持ち上げる用意があるのだが。
※これほど「モテ-非モテ概念」は不可解なのだから、きっと5次以上の関係にあるのだろう。
書記長が構造という単語を使うときには、むしろ構造のことではなくて「自身の体系下においてジェネラルナンセンスである」と言いたいように見えるのだが。どうだろう。
【素朴な疑問】
書記長の結論がここまでではまったく見えて来ない。例えば「恋愛行為を国有化し、平等に配給せよ」と主張して恋愛券の発行を要求するとかだったら良くわかるのだが。ここで言う平等とは、当然ながら反革命が陥りがちな「結果平等」ではなく、「能力に応じて働き、必要に応じて恋愛する」である。意味はわからないが。
「すべてのモテをソヴィエトへ!」
一方的移転のサステナビリティ(たぶん1)
書記長の「非モテ論」の骨子が掴み辛くて困るなあと思う。かと言って、はてな村で一般に論じられている「モテ-非モテ論」が分かり易いわけでもなく、それ以前に根本が理解できない。
【市場原理】
なんとなく思ったのだが、「モテ努力主義者」の主張というのは、要は「恋愛市場の活性化」なんだろう。彼らにとって「恋愛市場」は労働市場と同じようなものであり、市場に参加してない者に対して参加を呼びかけているという構図だ。そしてより多くが「恋愛市場」に参加することは、同等のコストで高品質な「恋愛対象」を入手したり、同等の「恋愛対象」をより安価に入手可能にする望ましい事態であると考えているに相違ない。いわゆる「市場の失敗」が考慮されているかは知らないが、深く論じる気はない。
誤解されることが稀にあるが、労働市場において労働者が提供しているのは、人間そのものではなく労働力という抽象的なものである。同様に「恋愛市場」なるものが在ったとすれば、そこに出品されているのはやはり人間ではなく「恋愛力」とでも言うべき抽象的事物であるが、それが何であるのかを検討するのは面倒なのでやっぱり省略。
※奴隷とは商品として扱われる人間のことだが、これとは厳密に区別される必要がある。
いわゆる恋愛一般は多様であるので、そこでどのような物品やサービスがやり取りされているかというのを一様に表現することは出来ないだろう。しかし、それは交換一般においても同様であり、従って不等価交換を前提とすれば、要は双方ともに恋愛行為に対して払うコストよりも恋愛行為の結果得る効用が高いので恋愛行為が成立するという明快な話になる。ここでは時系列を考慮していないが、拡張は容易。
また、恋愛行為の継続性について気にならなくもない。一般に恋愛行為が継続性を有する必要はないが(つまり毎回清算)、一方で恋愛一般に継続性を付与する向きは多い。東インド会社の経緯から考えれば「ある恋愛行為から十分な効用が得られなかったので、もう一度同じ恋愛行為を行う」ということになるはずだが、ここは個別に検討する必要があるだろう。特に、恋愛状態にあると認識することと個別の恋愛行為について区別しなければ混乱する可能性がある。この辺りは適宜。
さらに会計学上の一貫性に相当するような概念が必要かということだが、やはり一般には必要ないだろう。しかし"steady"に関しては一貫性そのもののような気もしなくはない。
※つまり「ある場所にデートしに行ったところ施設が休みだったので日を改めてもう一度」というのが「恋愛行為の継続性の起源」であると考えるかどうかということだが、あまり本質的でもなさそう。
【恋愛の社会動学】
以上のように考えてみて、「恋愛市場」などという単語を使ってみたものの実はあまり馴染まないような気がするような、しないような。
ボールディングも言うように、社会事象や集団について、すべて経済で説明できるとかすべて軍事で説明できるとかいう事は一般にないだろう。あらゆる集団や事象、行為には政治的経済的軍事的要素(もっと言えば、高々可算個の社会的要素一般)が一定の割合で含まれており、どの要素が濃厚かという問題に過ぎない。
恋愛一般を考えるにつけ、恋愛が第一に軍事事象であるとは考え辛い。但し、恋愛(ないし恋愛市場)が何らかの保護を受ける必要がある場合、そこに軍事的要素は含まれるだろう。また、恋愛が政治と経済のどちら寄りであるかについては直ちに言うのは難しい(私が軍事最優先主義者なので)。むしろ恋愛というものの「未開度」について考えるなら、政治か経済かなどというよりもずっと原始的な、未分化な存在なのかもしれない。
これは、恋愛が野蛮で駆逐されるべき行為であるなどという啓蒙主義的思索ではなく、恋愛が一般的に論じることが出来ないほど広い概念である可能性の示唆である。それは宗教について一般化することが不可能であるのと同じで、まずは「現代(人)的恋愛」についてでも具体的に検討する必要があるだろう。
私は、現代恋愛概念を具体的に指摘することは可能だと思う。それはちょうど現代(日本?)人的宗教観が堪え難いほど均質であるのと似ていると感じている。
【途中までの考察】
恋愛云々よりも高々可算個の社会的要素の線形性とか正規直交基底的な分類とかの方が断然面白そうだ。
それはとかく、恋愛概念について考える際に、もしかすると恋愛一般に限定することは得策ではないのかもしれないという懸念がある。つまり恋愛というのはその中で閉じた概念ではないということだ。あるいは恋愛から生成される空間というものについて、あるいは恋愛一般を含みかつ閉じた最小の空間について考える必要があるかもしれない。とすればやはり恋愛の個別事例などよりももっと考えるべきことは沢山あるということだ。
(別記事に続く気がする)
【市場原理】
なんとなく思ったのだが、「モテ努力主義者」の主張というのは、要は「恋愛市場の活性化」なんだろう。彼らにとって「恋愛市場」は労働市場と同じようなものであり、市場に参加してない者に対して参加を呼びかけているという構図だ。そしてより多くが「恋愛市場」に参加することは、同等のコストで高品質な「恋愛対象」を入手したり、同等の「恋愛対象」をより安価に入手可能にする望ましい事態であると考えているに相違ない。いわゆる「市場の失敗」が考慮されているかは知らないが、深く論じる気はない。
誤解されることが稀にあるが、労働市場において労働者が提供しているのは、人間そのものではなく労働力という抽象的なものである。同様に「恋愛市場」なるものが在ったとすれば、そこに出品されているのはやはり人間ではなく「恋愛力」とでも言うべき抽象的事物であるが、それが何であるのかを検討するのは面倒なのでやっぱり省略。
※奴隷とは商品として扱われる人間のことだが、これとは厳密に区別される必要がある。
いわゆる恋愛一般は多様であるので、そこでどのような物品やサービスがやり取りされているかというのを一様に表現することは出来ないだろう。しかし、それは交換一般においても同様であり、従って不等価交換を前提とすれば、要は双方ともに恋愛行為に対して払うコストよりも恋愛行為の結果得る効用が高いので恋愛行為が成立するという明快な話になる。ここでは時系列を考慮していないが、拡張は容易。
また、恋愛行為の継続性について気にならなくもない。一般に恋愛行為が継続性を有する必要はないが(つまり毎回清算)、一方で恋愛一般に継続性を付与する向きは多い。東インド会社の経緯から考えれば「ある恋愛行為から十分な効用が得られなかったので、もう一度同じ恋愛行為を行う」ということになるはずだが、ここは個別に検討する必要があるだろう。特に、恋愛状態にあると認識することと個別の恋愛行為について区別しなければ混乱する可能性がある。この辺りは適宜。
さらに会計学上の一貫性に相当するような概念が必要かということだが、やはり一般には必要ないだろう。しかし"steady"に関しては一貫性そのもののような気もしなくはない。
※つまり「ある場所にデートしに行ったところ施設が休みだったので日を改めてもう一度」というのが「恋愛行為の継続性の起源」であると考えるかどうかということだが、あまり本質的でもなさそう。
【恋愛の社会動学】
以上のように考えてみて、「恋愛市場」などという単語を使ってみたものの実はあまり馴染まないような気がするような、しないような。
ボールディングも言うように、社会事象や集団について、すべて経済で説明できるとかすべて軍事で説明できるとかいう事は一般にないだろう。あらゆる集団や事象、行為には政治的経済的軍事的要素(もっと言えば、高々可算個の社会的要素一般)が一定の割合で含まれており、どの要素が濃厚かという問題に過ぎない。
恋愛一般を考えるにつけ、恋愛が第一に軍事事象であるとは考え辛い。但し、恋愛(ないし恋愛市場)が何らかの保護を受ける必要がある場合、そこに軍事的要素は含まれるだろう。また、恋愛が政治と経済のどちら寄りであるかについては直ちに言うのは難しい(私が軍事最優先主義者なので)。むしろ恋愛というものの「未開度」について考えるなら、政治か経済かなどというよりもずっと原始的な、未分化な存在なのかもしれない。
これは、恋愛が野蛮で駆逐されるべき行為であるなどという啓蒙主義的思索ではなく、恋愛が一般的に論じることが出来ないほど広い概念である可能性の示唆である。それは宗教について一般化することが不可能であるのと同じで、まずは「現代(人)的恋愛」についてでも具体的に検討する必要があるだろう。
私は、現代恋愛概念を具体的に指摘することは可能だと思う。それはちょうど現代(日本?)人的宗教観が堪え難いほど均質であるのと似ていると感じている。
【途中までの考察】
恋愛云々よりも高々可算個の社会的要素の線形性とか正規直交基底的な分類とかの方が断然面白そうだ。
それはとかく、恋愛概念について考える際に、もしかすると恋愛一般に限定することは得策ではないのかもしれないという懸念がある。つまり恋愛というのはその中で閉じた概念ではないということだ。あるいは恋愛から生成される空間というものについて、あるいは恋愛一般を含みかつ閉じた最小の空間について考える必要があるかもしれない。とすればやはり恋愛の個別事例などよりももっと考えるべきことは沢山あるということだ。
(別記事に続く気がする)