Study Hard -74ページ目

死亡報告

 帰宅直後に玄関のカーペットで足を滑らせ、足が吊った。報告まで。

 倒れて足の回復を待っている間に思ったのは、これが戦場なら必死で立ち上がっている(無駄に姿勢を高くはしないか?)だろうなということと、戦場で力み過ぎて足が吊った人はどうしていたんだろうということだ。
 現代戦なら個人の裁量の範囲が比較的大きいので、回復まで数分倒れているくらい大した問題ではない(問題だが)だろう。しかし、近代(ないし一次大戦)以前は隊列を組んで一斉に前進するのが普通だから、その途中で足を止めたりしたら「協調性がありません」と小学校の通信簿に書かれてしまう。

 まあ杞憂か。

最近の神学的傾向

 今までは人間が神の領域に手出しをしようとするのは、単純に有限が無限に到達しようとするが如き馬鹿げた発想だと思っていた。しかし「非可算無限和」の 構成方法を思い出して、ふと、考えを改める必要があるように感じた。と言っても、これは別に非可算でなければ思いつかないことでもないのだが、人間の思い 込みというのは度し難いものだということだ。説明する必要もないとは思うが、念のため非可算無限和の構成方法を大雑把に言えば、有限部分の和の上限を採れ ば良い。
 何を考えていたのかを整理すると、濃度の大小関係が有限<可算<非可算となっているので、なんとなく非可算は可算の延長上でないと語り得ないという感覚があったわけだ。特に数学的根拠があってそう思っていたのではなく、単純な感覚の問題である。

 当然ながら有限濃度は可算濃度より真に小さいのだから、なんとなく「まだ上がある」気がしてしまうわけだが、そんな心配はないようだ。
 しかし実際、非可算濃度は可算濃度よりも遥かに大きいのであって、可算濃度をアレフ(文字が出ない)とすると非可算濃度は2^アレフ(以上)になり、問題にならないくらい大きい。なのに可算個ですらなく有限個で良いのだから、極限操作というのは、単に無限回繰り返すとか比較するという親しみ易い表現よりもっとおぞましい何かだ。

 というのは2割冗談だが、人間が忘れてはいけないのは上限は常に存在するということだ。人間の可能性が無限だとしても、それは最大元が存在しないことを言っているのみであり、常にその上に上限は存在し続ける。
 人間が遠くへ到達しようとするほどに神はさらなる遠方へと姿を消すのだとすれば、むしろ我が身を小さくすることこそが儀式ないし修行の本質であると考えるのは矛盾を来さない。人間が神に到達する唯一の方法は、すべてが空に至ることに他ならないのかもしれない。そこでは神が存在し、かつ存在しない(!)。しかもこれは独立している。
 私は何となく、神の存在証明とは存在と非存在が同時に証明されなければならないようなものではないかと思っていたが、強ち奇妙な言説ではないのかもしれない。

 こうしてみると、強固にドグマ的であると見なされている神学についてさえ、唯一真なる神学への統合を夢見たくもなるではないか。
 それどころか神概念について深く言及しない仏教についてさえ、むしろ現代キリスト教神学はそれに近付いているように感じる。つまりそこに潜む本質的な何かは、人間の浅薄な思慮の産物などでないということを示唆しているはずだ。

 馬鹿な現代人は神という単語を空でない有限なものとして発してしまうのだろう。だからあんなにも愚かなことしか言えなくなる。しかし、それすら神概念の中に包含されている、というのが結論である。

趣味

 さて、児童ポルノに擬装した白人のおっさんの画像でも集めるか。