Study Hard -498ページ目

どうしたもんかねえ

 誤解のないように言っておきたいことが有ります。

 私は別に伊達や酔狂で創価学会に入った訳では有りません。ましてや学会を馬鹿にするつもりで入ったなんてことは決してありません。しかし一方で「法華経を中心とした生活」や「創価教育学体系」に共鳴して入った訳でも、ましてや互助慈善団体創価学会に入った訳でもありません。

 私は創価学会を構成する中核の500名に会いたいのです。そこで宗教の話がしたいのです。
 ただそれだけです。

 私は創価学会の一般的な構成員に比べて極めて異常な入り方をしました。それを必死に「通常の人間関係」の中に引き戻そうとしている学会員の方には申し訳なく思っています。しかしさっさとあんな「下っ端」は「切って」しまって、もっと「上」の人たちに会いに行きたいのです。

 私は私の父の宗教観を継承していると思われます。しかしその父が「法と宗教が未分化な時代の産物にしか思えない」と言っている法華経、これには一定の関心があるのです。但し、法華経の研究のために学会員になった訳でもありません。
 創価学会は日蓮宗ではありません。しかし創価学会の根本には法華経があったはずです(今も有るのかは知りません)。何と言いましょうか、「なぜ法華経なのか(あるいは、だったのか)」という部分が気になって仕方がないのです。

 何もかもすっ飛ばして一言で言えば、私は「戦後最も日本に影響を与えたものの一つと思われる法華経」に興味があります。

 「極めて民族臭のする」創価学会が何故「デーヴァダッタ」ではなく「釈迦」なのか。
 それに答えられますか。

 (追伸)
 用語一つとっても混乱が激しいので注意しておきます。
 例えば「宗教」という単語に対する共通的な認識は事実上ありません。「宗教」を「数学」におきかえてみてください。

 宗教ってなんですか。
 数学ってなんですか。

 下の質問に関しては「数学者がすること…かな」という程度にしか答えられません。ならば上の質問にだってその程度にしか答えられないと思いませんか。
 それにも関わらず、多くの人はさも一意的な意味があるかのように宗教という単語を使います。はっきり言えば、自身の混乱した宗教観を他に押し付けて来ます。相手が「宗教」と言ったから、それはまさに自身の思うところの「宗教」と同義であるという前提を立ててしまうのです。

 もう一つ例を挙げてみましょう。次は「神」を「数」におきかえてみてください。

 神って実在するんですか。
 数って実在するんですか。

 下の質問を「数」という実存がその辺をうろついてるというイメージで捉える人はほとんどいないでしょう。じゃあ上の質問だって同じだと思いませんかね。

 このように極めて高度に抽象的な概念は何の訓練も受けていない凡俗には扱えません(小学生が数学を構築出来ないようなものです)。
 また私の父と私は「イメージ」の宗教を極めて重視しています。

 私も私の父も「新しい」宗教を模索しています。だからどっかの宗教音痴の話を真に受けて培ったような「宗教観」を私の前に持ち出すと混乱をきたしますよ。注意しましょう。

直近の予定

 10日(金)CP1230-1700

 12日(日)CP0900-1500

 13日(月)CP1700-2130

 14日(火)学館1700-2130

 17日(金)学館1700-2130

 18日(土)学館0900-1600(ゲーム合宿前集会の脇にいる訳で…)

 19日(日)CP1500-1930(北本君代わってくんないかな…)


 次回学館運営委員会16日1100-

 出られない場合も「仮昇格」が行えます。やる気がある旨一筆したためればなお良し。

考えてみれば

 昨日あれだけ大井平和会館に人が居たのは私を歓迎するためだったようです。
 まったくありがたい話です。

 高き宗教の山に昇ろうとする人間を麓まで送りに来てくれたという意味合いで良いのでしょうかね。
 みな朗らかで本当に良い人たちばかりでした。
 まるで何の悩みも無いかのような。

 思えば祖母も父も(ついでに言えば私も)宗教法人に「おすがり」に来た人間を誰一人本質的な意味において救うことが出来ませんでした。それに父などは宗教法人は他人を救うためにあるのでは無いのではないかと考えているくらいです。
 お金を与えても知恵を授けてもダメでした。本人が変われないので結局また同じことを繰り返すからです。じゃああの人間革命云々は人を、何より私を変え得るのでしょうか。
 さて、創価学会の皆さんには生活規範以上のものを私に見せてもらうことにしましょう。

 あの時花をもらいました。戦史研の部室にでも置いときます。
 創価学会だと思って大切にしてね^^