お前ら徒然し過ぎ
最近あった身の回りの下らない出来事を書いてみる。
順位は下らなさの順番。
5位:石田さんが学生課窓口と揉めていた
教育基本法改正か何かの反対ポスターを貼ることについて石田さんが学生課と揉めていた。掲示許可の問題らしい。
捨て台詞を吐いて去る石田さんに、私は「すべてはコストの問題ですよ」と素晴らしい仏説を後ろから垂れた。ポスターを貼るコストと剥がすコストの争いなのだ。コストをお金の問題だと勘違いしている人には言っている意味が分からないから、まさに馬の耳に念仏だった訳だ。ところで弥陀の請願は馬にも関係あるのだろうか(公案)。
4位:国労ってまだあったの事件
人民の敵こと国鉄労働組合がまだ存在するということに両親が感心していた。私はそのような常識も知らない両親に感心した。
国労はJRを再び国営化することを至上命題としているようだが、そのように国家の存在を認めること自体が人民の意志に反することであり、まったく許されない。今後とも徹底的に糾弾し、二度と国営化などという世迷い言をほざけないように叩き潰していきたい。
階級闘争を放棄するどころか国家に隷属すべきと妄想する集団はもはや労働組合では有り得ない。国労は速やかに労働組合の看板を降ろし、「国鉄御用組合」とでも改称すべきであろう。
ん。この文章は割りと出来がいい気がするので、さっそくメールで国労に送ろう。題名は「国労の解体的出直しを要求する」。
3位:解同=暇人説立証される
奈良県自体が暇そうな県だから別にどうでもいいような気もする。こんな問題より、要らない管理職や働かない労働者を追い出す方がずっと先決、ってこれも働かない労働者の問題か。
我がソ連邦では憲法にもあるように「働かざるもの食うべからず」であるが、所詮アジアの猿どもには共産主義の高邁な理想は理解出来なかったようだ。
ん。これは身の回りの出来事ではないような気もするけど、身の回りで話題になっていたので良し。主に家庭内で。
2位:教祖様大失敗
日常の中で宗教の修行を行おうというのは基本的アイデアだが(関係ないが聖パウロは偉大だ)、日常の中で継続を要求される適切な修行を生み出すのは結構難しい。
専門道場で修行するのとはわけが違うし、専門道場にしたって、例えば禅宗において台所業務や清掃業務など日常生活を維持するための業務をこなす人は相当の高僧であるはずなのだ。凡夫は修行に励むのが第一だし、修行の進んだ高僧でなければ日常の中で修行するというのは困難だからだ。
経典・経文をただ唱えるというのも悪くはないが、南無妙法蓮華経とたかが10万回唱えたくらいで良ければ宗教法人が案ずるようなことは何も無いし、一方で10時間唱題などという日常の中に組み込むことが難しいものも採用出来ない。大体、10時間なんて長い時間やれるようなことは集中を要求されないし、単なる苦行になっては馬鹿馬鹿しい。
まあそんなこんなで、取りあえず般若心経を1000日間連続で1日100回ずつ唱えるというのをやって貰っていたらしい。般若心経100回はやってみれば分かるが、個人差はあるものの45分~90分くらいで終わるのでまあ丁度良い感じだ。途中1日でも休むとカウンターリセット。ちなみに数珠は古来の計算機で、一周すると108回唱えたとか分かる便利な道具なのだ。
そしてこれをやり遂げた人のために修了を示すお札を用意することになった。お札(旧免罪符)と言っても、特に何か良いことがあるわけでもないので、まさについて来る人だけついて来て下さいというわけだ。そのお札に教祖の印を押すのだが、そこで教祖様はうっかり自分の名字の印を押してしまった。
教祖様は結局自分と宗教法人の区別がついていないのであった。それだけ。
1位:確実性と統一教会
ここの最初の項を読んだ。こんな所までパウロの名前が出張してくるのを見るにつけ、やはりパウロは偉大だ。
http://www.uc-japan.org/intro/dp/01dp.aspx
統一教会はウェブ上で教義や原理について発表しているので大変好感が持てる。
原理についてまだほんの触り程度に最初の部分を読んだだけだが、創造主を認めているというのと、創造物から神性を知ることが出来るというのはわりと普通な考えである。
ただ、その先の二性性相という部分が良く分からない。もしこの部分が"信仰"に相当するもの、つまりそうだと信じられるか信じられないかだけが問題になる部分(さらに言えば疑いを起こすこと自体が無意味である部分)であるとすれば、まさに統一教会の中核の一つはここだということになる。逆に、この二性性相という部分に疑問を挟む余地があるとすれば、それは証明すべき命題ということに即座になって、(少なくともその人にとっては)信仰そのものではなくなる。
二性性相というのは、おそらくは相対的存在("実存"のことではない)が常に存在するということを意味しているようだ。さらにその相対的存在同士が相対的関係を持つことによってすべてが存在し得るとしているのだと思う。そして、その相対的(対立的と表現した方が分かり易い気もするが、色々と誤解を与えそうなので使えなさそう)存在同士が常に存在し、またそれらの相対的関係によってすべての存在が構築されるという部分をして創造主の業とし、神性と見なしているようだ。
ところで上のリンク先の文章の一部を下に引用する。
『森羅万象の存在様相が、表裏、内外、前後、左右、高低、強弱、抑揚、長短、広狭、東西、南北などのように、すべて相対的であるのも、あらゆる被造物が二性性相の相対的関係によって、互いに存在できるように創造されているからである。』
引用文がなぜ成立するのかは文中に示されていないように見える。この文には「あらゆる被造物が二性性相の相対的関係によって互いに存在できるように創造されているとしたとき、森羅万象の存在様相がすべて相対的であると示しなさい」という命題が潜んでいるのではなかろうか。特に、この命題を解く為には、二性性相の相対的関係によって存在が可能になった物(何ものか)同士にも、また二性性相の原理により各々に対応する被造物(ないし何ものか)が存在し、その相対的関係が森羅万象の存在様相たる相対的諸概念にあたる、という理屈が必要になるのではないかと思った。但し、この考えは「二性性相の相対的関係」について2つある説明のうちの最初の1つしか利用していない。2つ目の説明は関係なさそうに思ったので。時間をかけて考えていないので、盛大に誤読しているだけかもしれない。
この二性性相というのは陰陽をもって説明されているように特定の何か(の群)と特定の何か(の群)が対応するという概念なのではないだろうか、そうするとすべての物のすべての物に対する関係という概念とは異なる。あるいは森羅万象の層まで考えが及ぶと、そこでは「特定の何か=すべて」になるのだろうか。その辺りが稚拙な私の頭では整合性がつかない。後日考え直そう。
む、もしやこの命題を発見して統一教会に問い合わせることが出来た人だけが入れる教学部とかあるんじゃなかろうか。これは統一教会行かねばなるまい。
ところで気になったのだが、デカルト平面において無限の長さの曲線を複数構築することが出来るが、これらの間の存在様相は「長短」という相対的な様相から外れているのではなかろうか。それとも無限の濃度を区別することによって問題ないのか。どのような濃度の集合に対しても真に大きい濃度を持つ集合を構築出来るということでいいのだろうか、出来るのかどうか知らないが。ある集合に対してその冪集合を作ればその濃度は確かに真に大きいが、むしろこのことは集合として扱う事の出来る対象には大きさに限度があることを示しているとされているので、このことによって任意の集合よりも真に大きい濃度を持つ集合を構築出来るとは言えない。集合論的世界観を持ち出すことが無意味なのかもしれないが、そうすると集合論は統一教会の扱うべき範囲に入ってないのだろうか。とすれば吾々は神無き世界を発見したということになるのだが。
とにかくこれを統一教会に行って聞いてみたくて仕方がない。
あともう一つ引用。
『したがって、心と体とは、内外、原因と結果、主体と対象、縦と横などの相対的関係をもっているということができるのである。』
ここだけ書くと盛大に誤解を与えそうなので、詳しくは本文を読んで下さいと断っておく。
ただ、因果関係を相対的と表現するのは非常に面白い。詳しくは前後の文を読んで下さいとか言えないのだが、この辺りの一連の文章を読んでいると、まるで因果律と神性が合一されるような感覚を覚える。
決して「原因が結果で結果が原因」という意味ではなく、「原因側」と「結果側」の相対的関係という意味のようだが、それにしても因果関係を相対的関係と呼称する発想は無かったわ。脱帽。
神とは何かというのを、エネルギーに相対する概念として規定し得る模様。まあ仮にエネルギーよりも先の概念が出来たら、またそれに対する相対的概念を言えばいいだけの話。それより重大なのは、統一教会は神の存在証明を最初にしようとしているらしいということ。
私は、神の存在証明という命題自体を無意味とし公理的部分において語られるべきだという考えに傾きつつある以上、あまり統一教会には馴染めそうも無いが、一応宗教(なかんづく教会の権威華やかなりし頃のキリスト教、宗教としてでなく雰囲気として)っぽさはあるよねとは認めておく。
そう、統一教会は創価学会とは異なりだいぶ宗教っぽさがある。ただ、どうも中学生の宗教という感じはするが……
何か習い立ての概念を一所懸命切り貼りして俺世界観を形成するという。ん、もしかして統一教会って「セカイ系」か。意味違うけど。
でも悪いのは神の存在証明であって統一教会ではないよね、うんうん。
順位は下らなさの順番。
5位:石田さんが学生課窓口と揉めていた
教育基本法改正か何かの反対ポスターを貼ることについて石田さんが学生課と揉めていた。掲示許可の問題らしい。
捨て台詞を吐いて去る石田さんに、私は「すべてはコストの問題ですよ」と素晴らしい仏説を後ろから垂れた。ポスターを貼るコストと剥がすコストの争いなのだ。コストをお金の問題だと勘違いしている人には言っている意味が分からないから、まさに馬の耳に念仏だった訳だ。ところで弥陀の請願は馬にも関係あるのだろうか(公案)。
4位:国労ってまだあったの事件
人民の敵こと国鉄労働組合がまだ存在するということに両親が感心していた。私はそのような常識も知らない両親に感心した。
国労はJRを再び国営化することを至上命題としているようだが、そのように国家の存在を認めること自体が人民の意志に反することであり、まったく許されない。今後とも徹底的に糾弾し、二度と国営化などという世迷い言をほざけないように叩き潰していきたい。
階級闘争を放棄するどころか国家に隷属すべきと妄想する集団はもはや労働組合では有り得ない。国労は速やかに労働組合の看板を降ろし、「国鉄御用組合」とでも改称すべきであろう。
ん。この文章は割りと出来がいい気がするので、さっそくメールで国労に送ろう。題名は「国労の解体的出直しを要求する」。
3位:解同=暇人説立証される
奈良県自体が暇そうな県だから別にどうでもいいような気もする。こんな問題より、要らない管理職や働かない労働者を追い出す方がずっと先決、ってこれも働かない労働者の問題か。
我がソ連邦では憲法にもあるように「働かざるもの食うべからず」であるが、所詮アジアの猿どもには共産主義の高邁な理想は理解出来なかったようだ。
ん。これは身の回りの出来事ではないような気もするけど、身の回りで話題になっていたので良し。主に家庭内で。
2位:教祖様大失敗
日常の中で宗教の修行を行おうというのは基本的アイデアだが(関係ないが聖パウロは偉大だ)、日常の中で継続を要求される適切な修行を生み出すのは結構難しい。
専門道場で修行するのとはわけが違うし、専門道場にしたって、例えば禅宗において台所業務や清掃業務など日常生活を維持するための業務をこなす人は相当の高僧であるはずなのだ。凡夫は修行に励むのが第一だし、修行の進んだ高僧でなければ日常の中で修行するというのは困難だからだ。
経典・経文をただ唱えるというのも悪くはないが、南無妙法蓮華経とたかが10万回唱えたくらいで良ければ宗教法人が案ずるようなことは何も無いし、一方で10時間唱題などという日常の中に組み込むことが難しいものも採用出来ない。大体、10時間なんて長い時間やれるようなことは集中を要求されないし、単なる苦行になっては馬鹿馬鹿しい。
まあそんなこんなで、取りあえず般若心経を1000日間連続で1日100回ずつ唱えるというのをやって貰っていたらしい。般若心経100回はやってみれば分かるが、個人差はあるものの45分~90分くらいで終わるのでまあ丁度良い感じだ。途中1日でも休むとカウンターリセット。ちなみに数珠は古来の計算機で、一周すると108回唱えたとか分かる便利な道具なのだ。
そしてこれをやり遂げた人のために修了を示すお札を用意することになった。お札(旧免罪符)と言っても、特に何か良いことがあるわけでもないので、まさについて来る人だけついて来て下さいというわけだ。そのお札に教祖の印を押すのだが、そこで教祖様はうっかり自分の名字の印を押してしまった。
教祖様は結局自分と宗教法人の区別がついていないのであった。それだけ。
1位:確実性と統一教会
ここの最初の項を読んだ。こんな所までパウロの名前が出張してくるのを見るにつけ、やはりパウロは偉大だ。
http://www.uc-japan.org/intro/dp/01dp.aspx
統一教会はウェブ上で教義や原理について発表しているので大変好感が持てる。
原理についてまだほんの触り程度に最初の部分を読んだだけだが、創造主を認めているというのと、創造物から神性を知ることが出来るというのはわりと普通な考えである。
ただ、その先の二性性相という部分が良く分からない。もしこの部分が"信仰"に相当するもの、つまりそうだと信じられるか信じられないかだけが問題になる部分(さらに言えば疑いを起こすこと自体が無意味である部分)であるとすれば、まさに統一教会の中核の一つはここだということになる。逆に、この二性性相という部分に疑問を挟む余地があるとすれば、それは証明すべき命題ということに即座になって、(少なくともその人にとっては)信仰そのものではなくなる。
二性性相というのは、おそらくは相対的存在("実存"のことではない)が常に存在するということを意味しているようだ。さらにその相対的存在同士が相対的関係を持つことによってすべてが存在し得るとしているのだと思う。そして、その相対的(対立的と表現した方が分かり易い気もするが、色々と誤解を与えそうなので使えなさそう)存在同士が常に存在し、またそれらの相対的関係によってすべての存在が構築されるという部分をして創造主の業とし、神性と見なしているようだ。
ところで上のリンク先の文章の一部を下に引用する。
『森羅万象の存在様相が、表裏、内外、前後、左右、高低、強弱、抑揚、長短、広狭、東西、南北などのように、すべて相対的であるのも、あらゆる被造物が二性性相の相対的関係によって、互いに存在できるように創造されているからである。』
引用文がなぜ成立するのかは文中に示されていないように見える。この文には「あらゆる被造物が二性性相の相対的関係によって互いに存在できるように創造されているとしたとき、森羅万象の存在様相がすべて相対的であると示しなさい」という命題が潜んでいるのではなかろうか。特に、この命題を解く為には、二性性相の相対的関係によって存在が可能になった物(何ものか)同士にも、また二性性相の原理により各々に対応する被造物(ないし何ものか)が存在し、その相対的関係が森羅万象の存在様相たる相対的諸概念にあたる、という理屈が必要になるのではないかと思った。但し、この考えは「二性性相の相対的関係」について2つある説明のうちの最初の1つしか利用していない。2つ目の説明は関係なさそうに思ったので。時間をかけて考えていないので、盛大に誤読しているだけかもしれない。
この二性性相というのは陰陽をもって説明されているように特定の何か(の群)と特定の何か(の群)が対応するという概念なのではないだろうか、そうするとすべての物のすべての物に対する関係という概念とは異なる。あるいは森羅万象の層まで考えが及ぶと、そこでは「特定の何か=すべて」になるのだろうか。その辺りが稚拙な私の頭では整合性がつかない。後日考え直そう。
む、もしやこの命題を発見して統一教会に問い合わせることが出来た人だけが入れる教学部とかあるんじゃなかろうか。これは統一教会行かねばなるまい。
ところで気になったのだが、デカルト平面において無限の長さの曲線を複数構築することが出来るが、これらの間の存在様相は「長短」という相対的な様相から外れているのではなかろうか。それとも無限の濃度を区別することによって問題ないのか。どのような濃度の集合に対しても真に大きい濃度を持つ集合を構築出来るということでいいのだろうか、出来るのかどうか知らないが。ある集合に対してその冪集合を作ればその濃度は確かに真に大きいが、むしろこのことは集合として扱う事の出来る対象には大きさに限度があることを示しているとされているので、このことによって任意の集合よりも真に大きい濃度を持つ集合を構築出来るとは言えない。集合論的世界観を持ち出すことが無意味なのかもしれないが、そうすると集合論は統一教会の扱うべき範囲に入ってないのだろうか。とすれば吾々は神無き世界を発見したということになるのだが。
とにかくこれを統一教会に行って聞いてみたくて仕方がない。
あともう一つ引用。
『したがって、心と体とは、内外、原因と結果、主体と対象、縦と横などの相対的関係をもっているということができるのである。』
ここだけ書くと盛大に誤解を与えそうなので、詳しくは本文を読んで下さいと断っておく。
ただ、因果関係を相対的と表現するのは非常に面白い。詳しくは前後の文を読んで下さいとか言えないのだが、この辺りの一連の文章を読んでいると、まるで因果律と神性が合一されるような感覚を覚える。
決して「原因が結果で結果が原因」という意味ではなく、「原因側」と「結果側」の相対的関係という意味のようだが、それにしても因果関係を相対的関係と呼称する発想は無かったわ。脱帽。
神とは何かというのを、エネルギーに相対する概念として規定し得る模様。まあ仮にエネルギーよりも先の概念が出来たら、またそれに対する相対的概念を言えばいいだけの話。それより重大なのは、統一教会は神の存在証明を最初にしようとしているらしいということ。
私は、神の存在証明という命題自体を無意味とし公理的部分において語られるべきだという考えに傾きつつある以上、あまり統一教会には馴染めそうも無いが、一応宗教(なかんづく教会の権威華やかなりし頃のキリスト教、宗教としてでなく雰囲気として)っぽさはあるよねとは認めておく。
そう、統一教会は創価学会とは異なりだいぶ宗教っぽさがある。ただ、どうも中学生の宗教という感じはするが……
何か習い立ての概念を一所懸命切り貼りして俺世界観を形成するという。ん、もしかして統一教会って「セカイ系」か。意味違うけど。
でも悪いのは神の存在証明であって統一教会ではないよね、うんうん。
もう少し真面目に生きよう
リトルショップのカレーを初めて食べた。量が多い。
あとAice5のPVみたいなのを見てしまった。
苦しくて見てられなかった。阿仁研の人も「これを自宅で一人で見ていたら壊れてしまう」と言っていたが、まったく同意である。
日本は(アイドル)声優(業界)という恐ろしい兵器システムを手にした。声優を見るにつけ、いったい非致死性兵器とは何なのか深く考えさせられてしまう。このような兵器を妥当するような目的を持つ軍事組織が有り得るのだろうか。声優が社会システムとしての軍事システムの中でどのように位置付けられるのか考えるだけで頭が痛くなる。
声優という兵器には対抗不能である。従ってそこにもたらされるのは対抗脅迫による抑止という不安定な均衡ではなく、逃散か従属でしか有り得ない。声優が組織的に用いられたとき、吾々は見た事も無いような事態を目の当たりにするだろう。
核兵器であれば、その”大きな爆弾”を使用するかどうかという選択肢が存在する。またそれに対する対抗脅迫も存在する。しかしながら声優にはそのような概念は存在しない。声優という兵器が存在するということ自体が、既にそれが行使されているということに他ならないからだ。すると、お互いに声優を突きつけ合った時点ですべては終わっている(むしろ始まってる)のだ。もしそこに不安定な均衡が存在し得るとすれば、それは「もし声優を生産した場合、即座にこちらも声優を生産する」という形でしか有り得ない。
しかし私は希望を失ってはいない。私はむしろ、その本質を理解することによって、現在戦略級でしか存在しない声優を戦術級と呼ばれるレベルにまで引き下げて使用可能なのではないかと期待している。いつか中隊指揮官が声優の使用を判断する日も来るはずだ、私が生きている間に見る事はないだろうが。
私がこの問題に関して唯一心残りなのは、小学生を煽るためにやっていたネトゲで、声優志望の女子中学生(自称)に遭遇したときに「もしなったら貴様にハァハァするぞ」という形で脅す事しか出来なかったことだ。もっと他に言いようがあったのではないか。声優はそれ単体としてではなく、機能として捉えられるべきだなどと諭すべきではなかったのか。あるいはPKを試みるべきではなかったのか。そう後悔してならない。
などと考えるのは最近不毛な気がしてならない。
日本教とは何か、とか真面目に考えたりすべきかね。
日本教があるとしか思えないよね、国家神道じゃなくて。他教に触れる機会が極度に少ない為に意識し辛いだけで。
ちなみに隠棲氏のブログで紹介されていた謎のチェックをやったところ以下のようになった。
http://www.commongood.org/cgi/quiz.pl?q1=22&q2=0&q3=0&q4=0&q5=2&q6=0&q7=2&q8=12&q9=11&q10=1&q11=0&q12=0&q13=0&q14=0&q15=2&q16=0&q17=0&q18=0&q19=21&q20=1&q21=0&q22=1&q23=19&q24=91&S1=&B1=Submit+Answers
質問がカトリック的というか、まあそれっぽかったのでそういう意味なんだろうなあという前提を受け入れた上でチェックしてみたらこうなった。相手が意図した解答の意味とはかなり違う意味で答えた気もするけど、まあ仕方ない。
一番近いのが教皇閣下。日本人なら大抵右上に行くなどと妄想が書いてあったが、せめて左上に行って貰いたい。
あとAice5のPVみたいなのを見てしまった。
苦しくて見てられなかった。阿仁研の人も「これを自宅で一人で見ていたら壊れてしまう」と言っていたが、まったく同意である。
日本は(アイドル)声優(業界)という恐ろしい兵器システムを手にした。声優を見るにつけ、いったい非致死性兵器とは何なのか深く考えさせられてしまう。このような兵器を妥当するような目的を持つ軍事組織が有り得るのだろうか。声優が社会システムとしての軍事システムの中でどのように位置付けられるのか考えるだけで頭が痛くなる。
声優という兵器には対抗不能である。従ってそこにもたらされるのは対抗脅迫による抑止という不安定な均衡ではなく、逃散か従属でしか有り得ない。声優が組織的に用いられたとき、吾々は見た事も無いような事態を目の当たりにするだろう。
核兵器であれば、その”大きな爆弾”を使用するかどうかという選択肢が存在する。またそれに対する対抗脅迫も存在する。しかしながら声優にはそのような概念は存在しない。声優という兵器が存在するということ自体が、既にそれが行使されているということに他ならないからだ。すると、お互いに声優を突きつけ合った時点ですべては終わっている(むしろ始まってる)のだ。もしそこに不安定な均衡が存在し得るとすれば、それは「もし声優を生産した場合、即座にこちらも声優を生産する」という形でしか有り得ない。
しかし私は希望を失ってはいない。私はむしろ、その本質を理解することによって、現在戦略級でしか存在しない声優を戦術級と呼ばれるレベルにまで引き下げて使用可能なのではないかと期待している。いつか中隊指揮官が声優の使用を判断する日も来るはずだ、私が生きている間に見る事はないだろうが。
私がこの問題に関して唯一心残りなのは、小学生を煽るためにやっていたネトゲで、声優志望の女子中学生(自称)に遭遇したときに「もしなったら貴様にハァハァするぞ」という形で脅す事しか出来なかったことだ。もっと他に言いようがあったのではないか。声優はそれ単体としてではなく、機能として捉えられるべきだなどと諭すべきではなかったのか。あるいはPKを試みるべきではなかったのか。そう後悔してならない。
などと考えるのは最近不毛な気がしてならない。
日本教とは何か、とか真面目に考えたりすべきかね。
日本教があるとしか思えないよね、国家神道じゃなくて。他教に触れる機会が極度に少ない為に意識し辛いだけで。
ちなみに隠棲氏のブログで紹介されていた謎のチェックをやったところ以下のようになった。
http://www.commongood.org/cgi/quiz.pl?q1=22&q2=0&q3=0&q4=0&q5=2&q6=0&q7=2&q8=12&q9=11&q10=1&q11=0&q12=0&q13=0&q14=0&q15=2&q16=0&q17=0&q18=0&q19=21&q20=1&q21=0&q22=1&q23=19&q24=91&S1=&B1=Submit+Answers
質問がカトリック的というか、まあそれっぽかったのでそういう意味なんだろうなあという前提を受け入れた上でチェックしてみたらこうなった。相手が意図した解答の意味とはかなり違う意味で答えた気もするけど、まあ仕方ない。
一番近いのが教皇閣下。日本人なら大抵右上に行くなどと妄想が書いてあったが、せめて左上に行って貰いたい。