
つい最近の出来事だと「クリスマスには恋人と過ごさないと寂しい奴」。
これから起こるイベントにしても、日常の事にしても「あーしなきゃいけない」「こうしなきゃいけない」、例えば、そうだなぁ、結婚しなきゃいけない、働かなきゃいけない、夢を持たなきゃいけない、「〇〇じゃなきゃいけない」って思い込み。もしくは、〇〇じゃなきゃ寂しい奴とか、変な奴とか、世の中が勝手にレッテルを貼る。
大多数の人は疑問を持たないで一喜一憂する。そんなもの「くだらない」と思いながら、世間のレッテルに悔しい思いをする人もいる。
そもそも、世の中の貼るレッテルにまったく興味を示さず自分の人生を黙々と生きてる人もいる。
ほんとはね、大多数の人たちが正しいと思ってる事は、たまたまこの時代に大多数が疑問も持たずに前に習えで出来てきた習慣でしかない。
急に変わる事はないけど、もしかしたら、明日、朝起きたら今までの常識が通用しない世界に変わってるかもしれない。
それくらいあやふやなもの。
常識を疑わず、常識やモラルを振りかざして人を傷つける人達がいる。
その人達も決して傷つけようなんて考えてないと思う。
相手に対して正しい事を言いたいのだと思う。
ただね、今の1つだけの常識やモラルやルールだけを疑わず、それを振りかざすのは狂信的な正義と言っても過言じゃない。
もう、インプットされたようにそれしか信じてないし、それが思い込みだと気づかない。
パソコンみたいにアンイストールして、まっさらな状態からスタートできたらいいけど、人間、ほとんどの人はある程度の指針がないと動けないし、小さい頃から生まれた環境、国、文化、時代、で洗脳されてる。
思い込みから脱出するには、まずいろんな事に疑問を持たなきゃいけないんだけど、小さい頃は疑問ばかりで親や先生に「なんで?なんで?」っと疑問をぶつけるけど、いつの間にか親や教師、周りの行動や発言などを見て、疑問が薄れていくというか「あぁ、こうしなきゃいけないのか」っと学んでいくんだと思う。
いつの間にか疑問が封じられる。
「なんで?なんで?」っといつまでも言っていたらウザがられるから。
「ここは日本だ!」って言われちゃおしまいだけど、国や文化、時代でルールもモラルも変容するし、決して今の常識が絶対で正しいわけじゃない。
かと言って間違ってるわけでもない。
流行と同じで常に変化してるもんだから、そこに善悪はない。
今、この常識やモラル、ルールで苦しんでる人も沢山いて、疑問を持っても仲間はずれやイジメが怖くて何も言えない人もいる。
でもね、僕思うの、今そこにいて苦しいのなら、違う場所を見に行こうよ。
ちょっと目をそらすだけで違う景色があるよ。っと。
1人になるのは怖いだろうな。
知らない世界を見るのは怖いだろうな。
逃げ出すわけじゃないけど、いや、今ここが辛いなら、怖いかもだけど逃げ出しちゃえ。
辛いことから逃げる。
これは、決して悪いことじゃない。
逃げることが悪いこと。弱虫。のように言われるけど、これも思い込み。
他者の勝手な解釈。
ほんとは逃げていいし、言葉を変えるなら、今この場所に得るものが何もないなら遊牧民のように良い場所を探して別の場所に移り住んだらいい。
遊牧民を逃げてると批判する人たちはいないでしょ?
思い込みから生じる間違いというか、人が不幸になる要素はいっぱいあるんだよな。
でも、良い思い込みであれば、メリットも沢山なんだけどなぁ。
まぁ、要は「クリスマスに一人ぼっちで寂しい」って誰が決めたんだよ!このやろう!!!
ぼっちでも楽しいぜ!
満喫してるぜ!!!
ってな感じですよ。
5日ほど前に、肺の病気で3年ほど入院している祖父の意識レベルが低下して病院に呼ばれた。
モニター(心拍数、血圧など)の数値は正常だけど、酸素吸ってるから、吐き出しがうまく出来なくなってきて頭に二酸化炭素がたまって意識が落ちたようだ。
いわゆる、CO2ナルコーシスっというやつ。
数値は正常なので呼吸器を入れてCO2を飛ばそうと言うことになり気管挿管かした。
お医者様も休みのところ急いで来てくれて、看護師さん一同、祖父を生かそうと頑張ってくれた。
そして、意識は戻った。
問題はここから。
意識が戻ったのは嬉しいことなのだけど、呼吸器が苦しそうで、2日目の夜で自分で抜いてしまったようで、抜いても特に数値に変化もないし意識もしっかりしてるので、看護師さんサイドじゃ大変だっただろうけど、問題なく今は酸素だけで生きてる。
1週間ほど朝晩、毎日様子を見に行ってるが、しかし、、、呼吸器は苦しそう。
顔を見に行く度「外してくれ」と目で訴える。
外れたら外れたで、絶食状態なので「食わせろ、水飲ませろ」っと言われても僕には何も出来ない。
尿の管も入ってるからか、抜かないように?手にミトンされてる。
「ミトンを取ってくれ」と弱った声で訴える。
だいぶ辛そうで、しんどそう。
果たして、意識レベルが低下した時、果たして気管挿管してもらって良かったんだろうか?っと思う。
食べたいものも食べれず、飲みたいものも飲めず、点滴で生きている。
こんな状態で生きていて、彼は幸せなのだろうか?
あの時、意識の無いまま逝かせてやれば良かったのか?
っと思い悩む。
個人的な想いとしては、先が短い命なら好きなもの食べて、好きなもの飲ませて死なせてやりたい。
だけど祖父の場合、食べる、飲む、その事自体が命に関わる。
水をゼリー状にして飲ませても、そこで酸素の数値が下がって苦しくなる。
なので食べたら、それこそ死ぬだろうな。
母子家庭だったから、小さい時は祖父祖母に面倒見てもらってた。
祖母はリウマチだったので、特に祖父には保育園の送り迎えとか、引きこもってる時は毎週ジャンプにサンデーにマガジンと買って家に持って来てくれていた。
今思うと、すごいマメな祖父。
可愛がられてたんだろうな、俺。
だから、恩返しとかじゃないけど、出来るだけ顔出したいし、出来る事なら何でもやりたい。
ただ、ここ一年、調子悪くてまともに面会に行ってなかったが。。。
すみません。
調子悪くなってから、また顔出し始めるなんて都合がいいよね。
っと俺の懺悔は置いといて。
医療の発達は多くの命を救うけど、それはとても素敵な事だけど、うちの祖父に関しては、医療の発達でもう危ないかもと言われる度、医療に助けられここまで長生きできたのだから(88か89かな?)、もう苦しいのなら辛いのなら楽に逝かせてやりたいと思う。
今までと「もう危ない」の質が少し違うから。
もう寿命なんだと思うから。
果たして彼にとって今は、今日は、とても辛く必死で命を繋いで生きてるんじゃないかと思う。
もしかしたら、気管挿管されるわ、手も自由に使えないわでもう死にたいと思っているのかもしれない。
それは、今の僕には知る由もないが、陳腐な言葉を使うと、自由が無くなった今、祖父にとって「生きてる意味」があるのだろうか?
家族サイドからすれば少しでも生きていてほしいと思うけど、今の祖父を見ていると辛そでかなりしんどそうなので、僕自身はもういいんじゃないかと、もう楽になってもいいんじゃないかと思う。
生きるという事はどういうことなのだろうか?
死ぬとはなんだろうか?