現代アート作家・ヤマオタケシ(TakeshiYamao)ブログ -58ページ目

現代アート作家・ヤマオタケシ(TakeshiYamao)ブログ

「Stand UP!Monster!!人生を変えちゃうアートを!!!愛のバクダン!!!!もっとたくさん!!!!!落っことすゼ!!!!!!」

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うちの祖父が1230日に亡くなりました。

うちは母子家庭だったので僕はじーちゃんばーちゃんに、ばーちゃんはリウマチであまり動けなかったので特にじーちゃんが面倒をよく見ていてくれてました。

僕は生粋のおじいちゃんっ子です。


そんなじーちゃんが亡くなって、普段泣かない俺でも泣くかなぁなんて思ってたけど、ある程度覚悟もしていたし、語弊のある言い方かもしれないですが、気持ちよく、僕らしく送れたかなっと思っています。


ここ12ヶ月は食べたい思いがあっても喉に詰まらすといけないし、肺が悪いので食べると酸素の量が落ちるので、満足に食べたいものも食べさせてやれず、絶食の時もあったりで思い残す事もあったとは思うけど、楽に苦しまず逝ってくれたようで、それだけが救いかなと。

じーさんやっと楽になれて良かったなぁと。

ほっとしています。


だがしかし!

じーちゃんまだ俺の心配してるやろなぁー。

絵で、まだまだ飯が食えるほどでもないし。

かといって、まともに働いてないしで、「もっとしっかりせー」っと心配してるやろな。

うん。

じっちゃんの名にかけて!頑張るぜ!!!

、、、自分のペースで。

今さらジタバタしても仕方ないので、じーさんも「ゆっくりやれよ」ってなもんで、応援してくれてるでしょう。

ははは。


っということで、失礼ながら新年の挨拶は控えさせていただきます。

今年もよろしくお願いします!!!っとだけ、、、いや、ほんと、マジでいつでもよろしくお願いします。






ここからは、ちょいと個人的な話から、少し話を広げて、人が死ぬという事に、思うところを書いていきたいと思います。


うちのじーちゃん1人死んだくらいで世界に何の支障もない。

メリットもデメリットもない。

誰が死のうが、日常は勝手に流れるし、みんな普段通りの生活をする。

亡き人の家族も、心に何かを抱えながらも日常に戻っていく。

世界は何も変わらない。

世間様は普段通り生活している。


僕にとって祖父が亡くなったのは凄く大きな出来事なのだけど、だからって、僕の何かが変わろうとも、葬式も終りゃー自分自身も日常の生活に戻る。

世間は相変わらず何事もなく日常が流れていく。


命とはなんでしょうか?

個人にとって大切なものでも、地球規模で見たら、いつもどこかで、人間だけに限らず生き物が死んでいて、土に還って、また新しい命が生まれる。

そんなのの繰り返し。

そこに喜怒哀楽も上も下も何も無い。


例えば、有名人が死んでテレビ見て「あの人死んじゃったんだ。悲しいね」って涙1つ垂れても、チャンネル変えちゃえば、仮にお笑い番組に変えちゃえばさっきのことは忘れて、お笑い見て笑ってる。

それこそ、冷たい言い方をすると自分とは関係のない人の命なんてそんなもん。


命の尊さとか、重さなんて人間は言うけど、動物も仲間の命を守ろうとするので、人間だけじゃないのだろうけど、結局のところ、個々人の解釈の違いで命は重くも軽くもなる。

それくらい曖昧なもの。


うん、言いたいことがまとまらないし、なんだか、僕が人間軽視してるような言葉にもなっていっているので、この辺でやめときます。

また、改めて落ち着いた時に「命」についてちゃんと書きたいと思います。


愛とはなんでしょうか?

愛という事について3年ほどずっと考えて絵を描いてきた。

それを表現してきた。


たった3年で理解できるほど簡単な概念じゃないけど、それでも薄々気付いた事はある。


ここでいう「愛」とは、男女間、他者間での「愛とは?」を思考を巡らし考えてきたものだけど、今の僕には、いわゆる「純粋な愛」っと言うのは無いのじゃないかと思う。


母と子のような無償の愛を「愛」だと思ってる人が多いと思うが、「恋と愛の違いは、相手を想いやれるか」だとかいう言葉もあるが、結局のところ、無償の愛なんて無いもんなんだと気付いた。そう思った。


っというのも、男女間、他者間の間で愛を語る時、そこには「気に入って欲しい」「嫌われたくない」「自分を受け入れてほしい」「一緒にいたい」などなど、何かしらの思惑があると思う。

それは「愛じゃない」っと批判する人もいるだろうけど、無償の愛が無いと仮定すれば、結局「愛」とは全て自分のため。っとなる。


っと言っても、それが悪いとかじゃなくて、それが愛なんだと思う。

マザーテレサだって、僕が思うに「自分が人を救いたい」と思ったから行動して、世に語られるまでになった。

そこで間違っちゃいけないのが、「自分が決めたんだ」という認識があるかどうか。


「自分が決めてきたんだ」という認識が無い人は、どれだけ愛を誰かに注いでも愚痴を吐いたり、何も返ってこない時に「あれだけしてあげたのに」っと怒る。

それは、愛ではなく、なんだろうか、世の中的に褒められるような事をしたいだけの自己中。


要は、愛とは他人に期待することではなく、自分自身が誰かのために何かをやりたいと行動に移した時に、何も返ってこなくても、誰に批判されても、「全ては自分が決めたんだと」思える人が愛を持っている人。


さっき、褒められたい感謝されたいだけの人を自己中と言ったが、「愛」とは究極の自己中でもある。

「自己中」と「究極の自己中」の差は「自分が決めたんだと納得出来ているかどうか」だと思う。


ここで少し恋愛について書くと、昨今、婚活なんてものが流行ってるけど、女子は収入と外形を見、男子は相手の器量と容姿を見る。

どれだけ外見が良かろうが、好みの相手だろうが収入の低い男は見向きもされないし、男子は男子で第一印象で好みじゃなければ相手にしない。

世知辛い世の中だz、、、、


果たして、婚活で条件の満たした相手を見つけたところで、その結婚生活は上手くいくのだろうか?

婚活って、どうみても表面しか相手を見てないように見えて、そのまま良かれと結婚まで行ったとしても離婚、もしくは相手が浮気や不倫したりでイビツな結婚生活が待ち受けているんじゃなかろうか?っと邪推してしまう。


そこに愛はあるのか?っとなると、もうそんなの無いよね。

むしろ生活するのに「愛」なんて要らないと一蹴されそう。


っと、まぁ、恋愛や結婚に限らず、男女関わらず会社の後輩先輩とか、友達だったり趣味の仲間だったりいろんな繋がりのある中で、相手に対していろんな愛の形があるけれども、相手に何かを期待するんじゃなくて、いや、期待はいいんだ。それは相手の実力と将来性を認めてるからだろうから。

要は、他者に期待するにしろ、愛を剥き出すにしろ、人のせいにするんじゃなくて「全ては自分が決めたんだと」思えれば、それが「愛」なんだと思う。


「人のせいにしない」そんな人達が増えていけば、これだけで素敵な世の中になると思うの。


まぁ、でも、難しくもあるよね。

なんでもかんでも悪い方に自分のせいにしちゃうと、最悪、行き詰まって過労死やら自殺なんてことにもなりかねない。

開き直る事も大切。


「愛について」書いてたのに、最終的にいつの間にか「人のせいにしない」ってことについて書いちゃってるよ。。。


まぁ、いいかぁ。