もうすぐ9月も終わり。
2023年10月は、数秘8のエネルギーが拡大していく1ヶ月。
私の息子は明後日、大学の寮に入ります。
私の最後のベイビーもいよいよ巣からテイクオフ。
アパートを10月に引き払って、猫と二人で仮住まい先に移ることにしました。
その先の目的地はまだ決めていません。
子供達に伝えると、いいんじゃない、考えて決めればいいよ、と返事が返ってきてありがたいなと思っています。
帰るつもりだった日本を眺めていると、帰りたくなる場所ではない感じがして複雑です。
どこかで少し寄り道暮らしをしてみようかと考えているけれど、白紙の未来地図を眺めるのも楽しい。
不安と期待の入り混じった秋を迎えて、終活と銘打って荷物を処分し生活を小さくしていく作業は、物がいちいち思い出を連れてくるものだからなかなか進みません。
こうやって現実逃避 笑
実は、このブログも整理の対象のひとつ。
文章を公開するということが恥ずかしかったのに、今ではこうやって自分の気持ちを書きにくることが大事な作業に変化していておもしろい。けれど、今の私は以前とは随分違ってきていて、自分に感じる違和感は日に日に大きくなってきています。
その違和感がなんなのか確かめるために今日書いて、それで終わりにしようと思います。
少ししたらアカウントを処分しようと思います。
山本芳幸さんのコミュニティで世界のことを学ぶようになってもうすぐ丸3年になります。
世界情勢や政治経済、哲学やモノを見る視点、いろいろなことを学ばせてもらったけれど、私が最も興味をもちずっと観察し魅了され真似てみたいと思わされたのは、山本さん、でした。
どんな人でどんな活動をされているのか、それらのリンクを貼ったりすることもできるけれど、興味がある方は名前で検索されてみてください、すみません。
彼を信仰しているわけでもないし、賛辞のような文章を書いていることを知られたくもないので貼りません。
崇め奉られるなんて山本さんが最も嫌うことだろうと思うので。
自由になることから逃げないこと。
みんな根はいいやつだと思っている。
(自分の本心は違ったとしても)それでもやる。
山本さんの言葉で私が自分の心に強く残した言葉はこの三つ。
簡単だけど、できそうで出来ないことばかり。
ボディーワークや心のケア、ヒーリングとよばれものや占いや人生相談。井戸端会議や雑談や飲み屋での会話だって、そいうものの一つだと私は思っています。
時々見かけて気分が良くないことが多くなりました。
良しとする揺るがないモノを持ちすぎて、それ以外を受け入れないような雰囲気。
自分のお城と王国の中だけが“世界“。
信念に縛られて苦しそう、信じないものを見ないのは不自由で苦しそう。
昔の自分もそうだった、苦しかったなあ。
それでも、やる。
私はまだこれができないでいます。
苦手なモノから逃げ出してしまいたくなる。
先日、旧Twitterに山本さんが長いエッセーを書かれたものを読んで、たくさん考えることがありました。私はまだ、物事の表面しか見ることのできない人間なのだと知りました。
その一部を抜粋させていただきます。
"プーチンは悪魔・ゼレンスキーはヒーロー“的な信念を少しでも揺るがしそうな情報が出てきたらフラットに受け入れられないのは、情報ではなく、信念に強く影響されているからだろう。
ウクライナ戦争に限った話ではなく、戦争になると必ずこういう“善意”の“人道的“な絶叫が始まり、それが利用され、戦争は悪化する。彼等の無邪気な“善意“は火に注がれる油として大いに重宝される。
ついでに書いておくと、交戦者の一方を救援する人道的な動機とは人道主義の対極にある。交戦している二者のどちらか一方が“悪“で、他方が“善”で、その“善”を応援するというのは、人道主義とは呼ばない。
戦争が起これば、、敵味方という区別が無意味になる悲劇が起きる。その区別を取り払って無差別に救援するのが人道主義の本来の意味なので、自分が“善”だと信じている側を救援し、自分が“悪”だと信じてる側を殺すことを応援するというのは、人道主義ではなく戦争への加担にすぎない。
人道援助機関は現場では、“善意“に罵倒されながら焼け石に水業務を粛々と遂行する。
一つの独善には、必ずそれに対抗する独善が現れる。独善が消滅するか、独善間の均衡が維持されるかした時だけ束の間の平和を得られる。保守とかリベラルとか、とっくに意味がなくなった軸に拘っている限り、こういう世界で日本に出口はない。
応援する国に義援金を送ると戦地の人々を助けることになると思っていたけれど、そのお金で武器を買われてしまうことを私たちは考えない。武器を買われてしまうということは、送ったお金が戦争を盛り上げ、誰かの命を奪うことにもなり得る。
大切なのは、善悪を決めることではなく、そこで苦しむ人をただ救うこと。
鵜呑みではなく自分で考えてみること。
意味を理解するには知ることがとても大切だということ。自分の中にある善悪の均衡を保ちながら、そこに少しの安心を感じつつ進んでいく。
そういう行いを試みてみることが、生きるということなのかなと私なりに解釈しました。
ずっと長いこと、水分である人体にオイルをすり込むマッサージの仕事をしながら、私のしていることはいったいなんなんだろうかと、考えていました。
全く関係のなさそうな人道支援機関で生きてこられた山本さんの言葉に、その答えをもらえたような気がします。
いろんな分野の人と交わると、セッションにもぐっと広がりが出るんじゃないかってことを、これまで遠慮がちに伝えてきたつもりなんですけど、最後なんで真っ直ぐに伝えてみたいです。
これは、自分へのメッセージでもあります。
いろんな人がいて、いろんな人生があるので、自分は全てを理解でき全てを受け入れきれているというのは、なかなかの思いあがりです。
なんだそれ全然理解できんぞ、って思いながらもそれでも近づいてみるとか。
なんだかこの人は苦手だなと思っても、おもしろい人かもしれないぞと近づいてみるとか。
あとで無駄だと思ったとしても、無駄足を踏める心身。
無駄が無駄じゃないと思える自由な思考。
前の作文に書いた、精神は肉体をこえられない。
今の私は、精神は肉体を越えられない、と感じています。だから、このブログを書き続けるのは難しい。
肉体がなければ、人生は続いていかない。
精神も心も、宿る場所がなければ存在が難しい。
どこかの国のプリンセスやスクリーン越しに眺める人達も、服を脱げばただの人間、肉体。
どの肉体も尊くて雑にされるべきではない。
数秘8は、ぐるぐる巡る輪廻の8。
中医学クラスで、陰陽学説では止まっているものよりも動いているものの方が安定する、と習いました。
水と油が決して一つにならず、曖昧にくっついて離れたりするのは、バランスすることや一瞬の均衡に存在する幸せを教えてくれているのだろうと思います。
地球とか人類とか大きな輪廻の中で、自分の中のちいさな輪廻が回っている。
最後まで、うまくまとめる力なし笑
私らしくてとてもいい笑
ありがとうございました。
今朝父から届いた、ウスキキヌガサタケの写真です。
山に入った父が見つけたそうです。
黄色のレースのドレスはもう萎んで垂れ下がってしまっているけれど、彼女はそのドレスを別に誰に見せたくて生えてきたわけでもなく、自分らしく纏って朽ちていっているだけ。
そういう色気がかっこいい。
自然が教えてくれることは、それこそ山のよう。
たった一着だけでも、自分にぴったり似合うモノを纏って格好良く生きていきたいなあと、クローゼットを整理しながら始まった、ながーい妄想日記でした。
佳き日々を。
Kiki