昨日、久しぶりに日本の古本屋さんに行きました。
$2.50のセールの本棚から見つけ出した本を数冊買いました。
旅に待ち時間はつきものです。
積読の本がまだあるのに、ふらふらと寄って買い求めた本は、以前なら手に取らなかった本たち。
選ぶ本が、あぁ今の自分ってこんな感じなんだなー、と教えてくれます。
ずっと読んでみたかった、高橋和巳さんの本。
「非の器」という本をずっと探しているけれど、LAの日本書籍の古本屋さんという限定されたところで出会うのはなかなか難しい少し昔の本です。
今回、高橋さんの別の作品があったのだけど、結構分厚くて上下巻。
ちょっとひるんだけれど買いました。
今朝の予定をこなして出勤まで少し時間ができたので1ページめくってみて、じわーっと込み上げてくるものがあり、書いてみたくなりました。
最初、砂利敷きの細長いプラットホームがなんの飾りもなくのぼる駅に降り立った時、鮮明な雲の輝きが、少年の胸を撃った。胸に、白い布で包んだ遺骨壺を吊り下げていたからだろうか、その見知らぬ駅とその町が、あたかも故郷であるかのように少年には思われた。ほんのわずかの間、不義理をしていて忘れ去っていたもの、帰って来さえすれば無条件に受け入れてくれる、あの、人々のいう古里であるかのようにー。
ー「邪宗門」上巻より
「6」や「9」のいう愛とか無条件というものは、人がずっとその答えを探しているものだと思うのですが、
自分の日常で考えた時、それは、
帰って来さえすれば無条件に受け入れてくれる
というものなんだろうな、などと考えていて、なかなか1ページ目から先へ読み進めないでいます。
昨日の夕方、帰宅すると息子は寝ていました。
夕飯ができたので、お肉焼けたよ冷めないうちに食べよう!、と声をかけたけれど、疲れているのか眠ったまま。
私は先に食べ始めました。
間もなくして部屋から、
「ただいま」と言いながら息子が登場しました。
なぜ「ただいま」なんだ、ねぼけてるの?と笑ったけれど、今こう思っています。
子供達がまだずっと小さい頃、私はいくつかの職場を掛け持ちして忙しく、子供達をお帰り!と家で迎えることがほとんどできませんでした。
学校でひろったら家で急いで夕飯を出してすぐに夜も仕事に行く。帰ってくると眠っている。
ただ、おかえり!、と迎え入れるだけのことだけれど、それは子供達の心を栄養する大事な瞬間だったはずなのに、と、久しぶりにそんなことを思い出してちょっと心がちくっとしています。
子供やパートナーや家族や友人やクライアントをドアの中に迎え入れるなり、
質問攻めにしたり、
怒鳴ったり、
あたり散らしたり、
そんな光景に出くわしたことも、自分がしてしまったこともあります。
帰って来さえすれば無条件に受け入れてくれる
そんな場所があったなら、
人はそこへ“安心をしに”行きたくなるだろうなと思います。
故郷は遠くにあって想うものだ、と有名な人が言っていたけれど、
故郷でなくても、一瞬で胸を撃たれる情景に突然出逢うから、日々を丁寧に感じながら生きることはとても大切だなと自戒する朝です。
$10ちょっとで我が家にやってきた本達。
本との出逢いは、人との出逢いと同じくらい大きいように思います。
Kiki
今朝、iPhoneから1年前の“懐い”写真が勝手に出てきたぜ、息子よ。
豆腐と道具。
そんなことを考えて、夕飯の麻婆豆腐を用意しました。
息子が私の帰りを待てなくてお腹が空いた時のために。
息子と私のやり方は、これでいい。
別々だって楽しく。
一緒の時はもっと楽しく。