大河ドラマの解説コーナー㉗ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

7月16日の安土城に招待された話の分です。

 

えーと、今回の話に入る前に、佐久間さん追放されたのは「2度と顔を見せるな!」がそれだったのでしょうか。。。

 

佐久間信盛はドラマでは碌な仕事もしないくせに嫌味なキャラで、史実でも本能寺の変の前年に多くの罪状(十九条の折檻状)でもって本願寺攻めが上手く進んでいないことや朝倉攻めで攻め時を誤る発言をしたこと、三方原の援軍でたいした成果を出さなかったこと、水野から引き継いだ領地を上手く治めていないことなどを挙げられて追放されているので能力的にも高くないようなイメージがあります。

 

が、追放されるまでは柴田勝家よりも上位で、信長公記等を読んでも多く名前が出て、他の軍団長クラスの武将よりも信長に近いところで活躍しているし、何よりも信長が家督を継ぐ前から仕えていて、多くの家臣が反発する中でも信長を支えて尾張統一を果たすのに貢献しました。

 

十九条の折檻状、失敗が多くあると思うかもしれませんが、30年以上信長に仕えて怒られることが19個と考えれば少ないし、追放って処分をするにあたって長年の失敗をちまちまと挙げなければならなかったって解釈もできるし、何より19個挙げたってことは大きな失敗はしてないってことになります。

 

武将としても行政官としても長年信頼を得て筆頭家老というポジションにいた佐久間信盛の追放は大事件だし、そんな人物でも追放になるというのは明智光秀の謀反の動機の一つになったことは間違いないはず。

 

十九条の折檻状は建前で他に隠された理由があると推測することもできます。

 

やばそうな陰謀論はキリが無いのでやめておきますが、1つ挙げるならば家康の父暗殺の黒幕が佐久間全孝という人だという説がありますが、その関連で同じ佐久間氏を罰することでの家康への配慮、もしくはそう思わせて家康を油断させるための布石だという推測もできます。

 

証拠も何も無いので立証は無理ですが。

 

ただ、佐久間信盛と同時に長年仕えた老臣も追放になってるので、これをもって信長は失敗を許さないという偏見のイメージができてしまったのです。

 

そんなことないですよ。

織田軍団は結構負け戦も多いのでたくさんの武将が失敗してるし、よほどの失敗なら死罪もあるし降格もあるけど割りと一般的な範疇です。

 

むしろ死罪になった家臣の縁者はそのままだったり何年後かに許してるし、佐久間信盛の息子も半年くらいで赦免されてます。

 

物語的には佐久間信盛追放事件が明智光秀を追い詰めて憔悴させる感じになってくれると水野信元が謀殺された件と絡めて家康に関連してくると思うのだけども。

 

もちろん水野信元謀殺だって、長年仕えてきた功臣(もしくは同盟者)をよくわからない理由で謀殺したのも明智光秀の心を揺るがしたと思うわけで。

 

他の家臣にはこの事件で動揺が広がって、対本願寺の軍団を一つ任されていた荒木村重が謀反してるし、織田家臣団がガクブルしちゃったのです。

 

あ、このドラマでは秀吉や光秀がやたら信長と一緒にいますが、実際はそんなに信長と行動を共にしていません。

二人共軍団長で側近の仕事はしていないので、その辺はドラマだから、ということにしましょう。

 

さて、本題の安土饗応につきまして。

 

この部分は史料にあって、信長に安土城に招かれて、饗応役が明智光秀で不手際があって信長に殴られて饗応役を解任されるっていう事件なのですが、明智光秀が信長に家臣や家康一行の前で殴られるっていう事態もさることながら不思議なのは家康一行のメンバーです。

 

酒井忠次、石川数正っていう家康を含めて3分割して徳川領を統治していた3名全員。

本多忠勝、榊原康政、井伊直政、大久保忠隣といった家康軍の主力メンバー。

他にも三河統一の際に家臣になった三河豪族たち。

 

ウィキペディアによると伊賀越えの時の供回りはこれら総勢34名とされていますが、徳川軍の首脳部まるまる全部が含まれているのです。

 

で、兵は連れて行かなかったのでしょうか・・・

 

帰る時の伊賀越のルートは様々に検証されてされていますが、安土城に行くときのルートってどうなんでしょうね。

信長公記では番場に着いてその後大宝殿に泊まったって書いてあるだけなので詳しくわかりませんが、番場(米原)に着いたってことは陸路で岐阜を通ってきたってことですね。

 

三河物語では甲州征伐帰りの信長と一緒にいったと書いてあるけど、信長が安土に帰ってから安土饗応まで1ヶ月くらい空いてるので一緒には行ってません。

 

徳川の兵も連れずに安土まで行ったというのは不自然極まり無いと思うのですが、家康の方は自分が殺されるかもという雰囲気は察知しなかったのでしょうか。

 

なお、もしこの一団がまるまる殺されていたら、わんさんが推しの奥平さんが義理の息子だけど最年長の後継者なので奥平さんによる駿遠三の三カ国統治が始まったかもしれません。

 

それはさておき。

 

家康は家康で信長を本能寺で殺そうとしている設定になっていました。

 

よくテレビでやってる本能寺の変の謎を紹介する番組で、なぜ信長が本能寺にいるのが事前にわかったのかというのをやっていますが、ドラマでセリフがあった通り、京都での信長の宿所は結構本能寺です。

 

むしろ本能寺が信長の家です。

 

茶屋四郎次郎の店が本能寺の脇にあるのを偶然みたいに行ってましたが、信長からすれば家の隣にコンビニ置いたみたいな感じだし、すぐ脇に教会もあるので外国の知識が気になったらすぐ聞けるようにウィキペディアも隣に置いたみたいな感じです。

 

信長公記見ても本能寺に泊まってる記述はかなり多いので、数ある寺の中からたまたま本能寺を選んだんじゃなくて、だいたい本能寺だったわけです。

 

で、信長を殺そうと計画するわけですが、、、

 

信長を殺したら戦乱の世に戻る、というセリフがあったのですが、これは当時の武将がそういう認識だったかは疑問です。

 

なぜならば、信長の長男信忠はすでに織田の家督を継いでいて、多くの戦に出陣して指揮を執っているし甲州征伐の総大将として武田を滅ぼした実績もあるのです。

 

信長が死んでも信忠が継げばそれほど混乱は無かったのではないでしょうか。

 

と、ここで更なる疑問が出るのだけど、信忠の実績は史料があっても個人的な能力や性格的なことがあまりわからないのです。

 

次男信雄、三男信孝はいろいろやらかしてるし本能寺の変後のすったもんだである程度キャラクターのイメージができるのですが、信忠は能が好きだった以外はあまりわからず、信長に従ってマジメに仕事をこなす人な感じです。

 

が、信長の子であることと信雄、信孝のキャラクターと合わせて考えれば無難な性格の常識人なわけがなく、信長が死んでも信忠がちゃんと織田の天下を維持できたのではないでしょうか。

 

まあ、わからんけど。

 

つまるところ信長だけを殺してもその後に織田軍団との戦があるので、無理じゃろ、の前に500人の伊賀者で信長殺せてもどうやって徳川領まで帰るんだ、と。

 

それが実際の本能寺の変では信忠も一緒に死んでしまうし、家康は伊賀越えで帰れちゃうしで謎と奇跡がいっぱいなんだけども。

 

というわけで、次回はついに、本能寺の変!

 

家康に自分が殺せるか試すために手薄な警護でいくとか謎すぎる設定ですが、茶番にならないことを祈って見ます!

 

次回もお楽しみに!