大河ドラマの解説コーナー⑮ #どうする家康 | わんわん物語

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~異界から目薬~

GW仕事して、終わったところで休みなので今日も大河見ることができました。

4月23日、誕生日にやってた回のです。

 

誕生日は日曜日だったので小牧山城に行っておりました。

 

前回のブログにも書いたけど、清須城から小牧山城へ移り、桶狭間の戦いから7年かけて美濃を制圧し、そこから足利義昭を迎えて京を制圧して将軍にし、ようやく将軍を擁しての天下統一戦の第一歩、順調に勝利を続けてようやく見た日本海、それを捨てての金ケ崎退却戦なのですが、冒頭ナレーションで終わった!!

 

まあ、この退却戦で秀吉軍は活躍したけど徳川軍はどうだったかよくわからんからね。

 

だけども、続く姉川の戦いでは大活躍しました。

これもほぼナレーションだったけど。

 

なので、姉川の戦いの解説をしましょう。

 

まず、姉川の戦いは後詰合戦と呼ばれる形式の戦いです。

攻め手が守り手の城を攻め、守り手の援軍(後詰)が来たところで攻め手と後詰が決戦するという形で、桶狭間の戦いにおける大高城、長篠の戦いにおける長篠城と同じ形で、姉川の戦いにおいては横山城(戦後は秀吉が城代になる)がそれにあたります。

 

横山城はこの写真中央の左右の山どっちか。


 

で、姉川の写真を御覧ください。

 

 

 

 

 

万同士の軍勢が戦ったエリアなのでとても広いです。

 

なお、行ってきたのは8年前なので風景は変わってるかもしれません。

この時から行くのは良いけど帰りのバスが無いって経験してるのに、先日も高天神城でやらかして横須賀城まで10キロ歩いたわ。

 

行くときは駅からなのであらかじめバス停の時刻表で確認できるし1時間に1本くらいあるけど、駅に戻るのは2時間に1本だったり下手すると夕方まで無かったりするので気をつけましょう。

 

同じことを諏訪大社と川中島と一乗谷でやってます。。。

 

大河ドラマではさらっとやってたけど、1万人を超える軍同士の戦なんてこの時期までは滅多にありませんでした。

 

そもそも1万人を超える軍勢を揃えられるのは2カ国以上持ってる大名だけなので、元亀元年(1570年)の段階で単独で1万人動員できるのは織田、武田、上杉、北条、桶狭間前の今川、毛利、尼子、大友くらいで、その他は連合軍(川越夜戦の古河公方軍とか)にならないと1万人超えません。

 

上記の大名たちでも乾坤一擲の決戦じゃないと1万人以上の動員はしないわけで、要するに何が言いたいかっていうと、そんな戦の一番槍を任されて微妙な顔する家康は不自然な演出だってことですよ。

 

たしかに先陣、一番槍は損害が大きいのですが、それ以上に名誉、それ以上恩賞が出るものなのです。

 

なので関ケ原では福島正則が先陣に固執し、井伊直政が後見してる家康四男忠吉と共に抜け駆けしてまで一番槍ぶっちぎったわけで、逆に一番槍任されて渋ったら戦やる気無いと思われてその場で斬られることだってあるし、子々孫々まで臆病者の家と言われることでしょう。

 

謎演出でした。

 

そんな演出とは裏腹に、実際の姉川の戦いでは徳川軍大活躍。

特に、徳川四天王で一番具体的な手柄がわかりにくい榊原康政が迂回して渡河してからの朝倉軍への横撃、織田軍は浅井軍に押されてたっていうかぶっちゃけ負けかけてたんだけど、これによって朝倉軍が崩れると形勢逆転して織田徳川連合軍の勝利となりました。

 

わんさんが推してる奥平さんも大活躍で、奥平軍800で榊原康政と共に渡河し、挙げた首級91って中津藩史に書いてありました。

 

長篠の戦いで長篠城を守り切る奥平信昌もこれが初陣で15歳にして首級1をあげて家康に褒められたそうな。

 

あと、朝倉軍には真柄直隆、直澄っていうめっちゃでかい太刀を使う怪力兄弟がいたのですが、この戦いで徳川軍が討ち取っています。

 

直隆は身長が220センチで、使う太刀も同じくらいの長さで完全にオーガなのですが、動かない徳川軍に鉄砲撃ちかけるとか関ケ原のアレをパクった嘘っぱち演出なんかしてないで、大暴れの真柄兄弟とその息子のジェットストリームアタックに榊原小平太が突っ込むみたいなことして欲しかった。

 

信長も家康動いてから自信満々の「かかれー」とか言ってたけど、織田軍負けてたからね。

 

そしてこの戦い最大の謎は、さも当然のように徳川軍が3000とか5000とかで出兵してるんだけど、三河遠江大丈夫だったの?ってところです。

 

ドラマでも切り取ったばかりの遠江が不安定みたいなことやってたけど、不安定どころじゃなく既に武田がちょっかい出してきてたわけで。

 

そこのあたりもうちょい研究が進んでくれるとまた別の1面が見えてくるのかな、と。

 

徳川の領地、実はかなりやばくて留守番組が外交や謀略でめっちゃがんばってたとか、実はそんなことなくて余裕だったとか。

余裕だったってことは無いんだろうけど、中津藩史の奥平軍800を信じるならば奥平軍的にはほぼ最大兵力出してる感じだし、武田との国境にいる豪族からそんなに出させて良いものか、と。

 

織田と武田は同盟関係だったから浅井朝倉と合戦中は徳川に攻め込まないよう密約があったとかね。

 

三方原では織田軍が援軍出すけど戦ってないし、長篠も織田は相当出兵を渋ってたから姉川の際の武田との密約とかありそうな気はするんだけども、そういった証拠を見つけられないと推測しかできないからね。

 

というわけで、家康は今川を滅ぼしたと思ったら信長に呼ばれて浅井朝倉と戦い、戻ったら武田と戦う忙しい人生を歩んでいます。

 

次回は信玄が怒るらしい。

 

お楽しみに!