大河ドラマの解説コーナー① | わんわん物語

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~異界から目薬~

今年の大河は解説できる!

というわけで麒麟が来るぶりの解説コーナーです。

 

どうする家康、結構専門家なわけですが、去年とは打って変わって誰もが知ってる歴史上の人物が主人公の大河ドラマです。

 

誰もが知ってるわりにあまり知られていないのが前半生、具体的には長篠の戦い以前の徳川家康なんだけども、その理由は信長、秀吉が目立ちまくってるって理由の他に、史料のせいもあるのです。

 

信長は信長記、秀吉は武功夜話と活躍を始める初期からの家臣による記述の史料があるのに対し、家康はおそらく一番近い史料が家忠日記という松平一族の人の日記になるんだけど、家忠さんが従軍し始めるのが長篠の戦いからなのです。

 

なお、家忠日記の松平家忠は深溝(ふこうず)松平氏だけども、同時期に同年代で同盟の松平家忠さんが形原松平と東条松平にもいるのでかなり紛らわしいです。

しかも全員強い。

 

あと、家康の史料は誰が書いたか不明だけど松平記、大久保彦左衛門(今日出てきた大久保忠世の弟、桶狭間の戦いの年生まれ)が昔を知る者に聞いて書いた三河物語など、やはり長篠の戦い以前がリアルタイムになりません。

 

何が言いたいかというと、長篠の戦い以前は家康がどんなことをしたかという項目はわかっても、具体的にどうやってやったか、例えば城攻めならどこにどういう部隊を配置してどういう戦術で戦ったかということがあまりわからないのです。

 

そういうところをどう描写するのかが今回の大河の注目なわけですが、今日やった大高兵糧入れ、丸根砦攻めは数少ない具体的史料がある戦なのに、史実改ざんっていう残念な演出でした。

 

そもそも大高兵糧入れと丸根砦攻めは違う戦で、史料によっては時期が異なっていたりしますが、桶狭間の戦い当日に家康がやっていたのは丸根砦攻めでした。

 

演出のために一緒にしちゃえ、っていうのは繰り返しますがとても残念です。

 

大高兵糧入れも丸根砦攻めもそれぞれ別の家康が活躍した話なので、それぞれで描写して欲しかった。

 

っていうかそもそもいきなり桶狭間って。

初陣がナレーションって。

 

人質時代は後から話を遡ってやりそうな感じだけど、いきなり桶狭間なのでそれまでを解説しましょう。

ええ、ここまでが今日の解説コーナーの前置きです。

 

まず、戦国時代の三河はとてもカオスでした。

戦国時代の陣営分け自体がカオスなんだけど、室町幕府成立からずっと続いてる南北朝の南朝方、北朝方に加えて応仁の乱での東軍西軍っていうのあって、家督相続方がちゃんとできてなかったからそういうのを口実に一つの家の中で近隣の南朝方、北朝方、東軍、西軍、自分に近い方を巻き込んでお家騒動をやっていました。

 

去年の大河の鎌倉時代のアレなんだったん、っていうくらい上手く家督相続できない時代だったのです。

 

その中でも三河は建前上でも国をまとめる勢力が無く、今川氏の植民地になっていましたが、隙を見せると尾張から織田が攻めてくるという織田と今川の境になっている激戦地でした。

 

家康の祖父清康が一時三河の勢力をまとめて今川に対抗する勢いを見せたのですが、突如家臣に斬り殺され、三河をまとめた松平氏を中心とした勢力が崩壊、再び三河は混沌となりました。

 

家康の父広忠は今川と織田に挟まれて困った挙げ句に家康を今川へ人質に出そうとして途中で誘拐されて織田に送られるっていうわけわかんないことになります。

 

最近の研究では誘拐は自作自演って説も出てますが。

 

で、今川が織田に占領されてた安祥城を攻略した際に信長の兄を捕らえ、家康と人質交換をして家康は今川の元へ行きます。

 

この時点での家康の名前は幼名の竹千代で、今川の元で元服して二郎三郎元信となります。

すごい名前だよね。

今川義元から「元」の字もらってるけど「信」の方は織田の通字(代々名前につける字)だぜ。

今川の通字は「氏」で義元の父は氏親、子は氏真、でも義元は足利将軍家から「義」の字をもらいました。

 

ちなみに二郎三郎の方は通称ってやつで、こちらも代々受け継がれます。

どこかの家の次男の二郎さんが家を独立させて二郎が通称だったところ、二郎の三男もまた独立させて二郎の家の三郎ってことで二郎三郎が通称の家ができた、と想像できますね。

 

最後出てきた本多平八郎はお父さんも平八郎です。

ちなみに信長の通称は三郎です。次男なのに。

 

名前でいうと、前置きで書いた家忠さんもですが、徳川家康の家臣はやたら同じ名前がいます。

本多平八郎の「忠勝」も酒井忠次の「忠次」もいっぱいいるので気をつけましょう。

 

そうだ、冒頭から海老すくい踊ってた酒井忠次さん、あんなキャラですがめちゃめちゃ強いのです。

戦国最強は本多忠勝とか言われてますが、酒井忠次も相当に強い武将でした。

 

あんな登場した時点で家康不在の松平氏の総司令的なポジションです。

あの登場の直前に福谷(うきがい)城で柴田権六の軍勢を撃退する籠城戦をかましてます。

 

桶狭間の戦いのあとは、徳川軍が二手に分かれる時はもう一方の総大将で、領地が増えた際には譜代の家臣の中で真っ先に城を与えられた(吉田城、現豊橋城)武将です。

 

話を戻すと、織田と今川に挟まれ、家康の父広忠もまた謎に家臣殺されて松平氏は当主不在まま今川の植民地的支配下におかれました。

 

松平氏は侵攻してくる織田軍に対する盾となって幾多の戦に出兵することになりますが、家康自身はというと、駿府でVIPでした。

 

三河の最有力な勢力である松平氏の当主、しかも兄弟もなく他に家督を乗っ取られる心配の無い唯一の当主だから教育も最高レベルの教育を受け、今川一族の娘を嫁にもらい、大事にされていました。

 

後年、いじめられた相手に仕返しした記録があるから人質ということで多少はいじめられたのかもしれませんが、おおむねVIP待遇であったことは間違いないかと。

 

それが岡崎に戻ることができたのは、それだけ織田が驚異になってきたこと、三河支配が不安定になってきたことが原因に挙げられます。

 

これまでの桶狭間の戦いのイメージの、強大な今川家が尾張の弱小勢力の織田家を一気に滅ぼそうとした戦いっていうのはだいぶ払拭されてますが、弘治年間は三河では反乱が相次ぎ、三河での今川に対する反乱ってすなわち織田と結んで、もしくは織田にそそのかされてのものだからかなり織田の侵食が激しくなってきたということになります。

 

ドラマでも桶狭間の戦いは織田が今川の前線基地である大高城を包囲し、その救援のために今川軍が大軍を率いて決戦をしたという風に描かれていましたが、桶狭間の戦いは織田から仕掛けた戦いということです。

 

で、織田軍は大高城をわざと陥落させずに包囲しつづけ、今川と決戦しようとしてたように感じます。

いわゆる後詰合戦というやつで、戦国時代の主な合戦はだいたいこの方式です。

 

どこかの城を包囲し、援軍(後詰)に向かってきた敵の本隊と決戦するという形で、城を一つ一つ落としていくと何十年もかかる戦がこれ1回で相手の勢力に壊滅的ダメージを与えられるので一気に決着が着くわけですね。

 

ここにいたるまでに織田は数年間三河で反乱を起こさせ、その度に松平氏が討伐にいき、その中で家康の初陣が行われます。

駿府で高等な教育を受けていた家康は岡崎に戻って松平軍を率いると、陽動作戦で敵を分散させて撃破し、家臣たちを感動させたそうな。

 

ここで三河武士について語りたいところだけど、長くなるので今日のところは簡単に言いますが、三河武士に戦術なんて無い。

旅順要塞に突撃する日本兵をイメージしてくださいませ。

 

なので家康がやった単純な陽動作戦も神業のようになりました。

 

その流れで大高兵糧入れっていうイベントが起こります。

 

4つの砦に包囲された大高城、と、ドラマではシカトされてましたが鳴海城。

鳴海城は飢えに苦しんだ記録は見ないのですが、大高城は木の実も食うほどの飢えに苦しんでいたとのこと。

 

そこに兵糧を運び込むミッションですが、家康よりも前に奥平さんが何度かやってるのでノウハウはあったんだと思います。

が、包囲された城に敵にバレずに米持ってくってそう何度も成功するもんじゃないと思います。

 

これが丸根砦からの視界

 

次が鷲津砦からの視界

 

丸見えです。

 

が、家康は成功させます。

このあたりは陣形まである詳しい記述があるものの、史料によって時期がまちまちで、まあ、奥平さんがやったのと混同もあるだろうし、1回だけじゃないだろうし、そして何より、家康の母の実家の水野氏(この時点では織田方)の領内ってことで、裏の事情で成功するように取り図られていたのかもしれません。

 

水野さんは桶狭間があるあたり、三河と尾張の国境をまたいだとこの領主で、織田方なんだけど今川へ寝返る感じの手紙を出したりしていて、それなのに桶狭間の合戦時にどこにいたのか不明で、だけど戦が終わったあと大高城で休む家康に義元討ち死にを知らせる使者を送るっていう謎の動きをします。

 

ともあれ、兵糧入れも家康伝説に残る活躍をして、桶狭間の戦い当日、家康は丸根砦の攻略がミッションになりました。

 

この戦はマジ泥試合です。

丸根砦は名前の通り丸い、ほんとに円形の山の上にある砦で、結構急な山です。

 

真ん中の山ね。

斜面はこんな感じ。

 

円形なのでどっちが正面ってわけでもないから力攻めするしかないのですが、大激戦の末、丸根の守備兵は全滅、松平軍も大打撃を受けて名のある武将の戦死者多数で戦の継続不能、大高城での休息を指示されます。

 

なので、大高城についてみんなでわっはっはっていうことには絶対ならないのと、今川義元が討ち取られるのは雨が止んでからなので、あの演出には不満たっぷりです。

 

雨降ってる中で討ち取られる方が悲壮感でますが、桶狭間の戦い研究では、雨が降ろうが降るまいが信長の作戦は出来上がっていたというところが大事なので、雨降ってる中で義元討ち取られたんじゃ偶然奇襲が成功したみたいになるじゃんか。

 

信長公記(桶狭間に従軍した人が書いた)にも雨が止んで突撃したと書いてあるし、何より今川義元を討ち取って今川軍が逃げ散った戦ではなく、死者3000人(全軍の1割以上)で今川軍が壊滅した戦なので、豪雨による偶然で義元一人を討ち取った戦ではなく、ちゃんと今川軍を壊滅させる作戦があったはずなのです。

 

ただ、その作戦は史料になく、義元を討ち取った記述は詳しくあれども3000人をどうやって討ち取ったかはよくわかりません。

でも死者1割なら負傷者は5割くらいになると思うので壊滅という言葉を使って良いと思います。

 

あと、義元の部隊の位置的には裏崩れ(後方の部隊が崩れると戦線も崩壊する)に当たるので、そういった効果も狙っていたかもしれません。

 

ここまでが今日の大河の解説になるわけですが、、、

初回から史実捻じ曲げの演出で、どうするっていうかどうなる家康です。

 

奥平さん長篠の戦いまで出てこないのか・・・

水野さんも出てこないのか・・・

むしろなぜ水野さん麒麟がくるの方では出てきたのか・・・

 

次回もお楽しみに!