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獲得の文化 喪失の文化

人と動物を分かつものは何だろうか。


よく言われるのが『人は火を扱うことができる』というスキルだ。火の獲得である

が、実際にはどうなのだろう。何を以って『火を獲得』というのか。


確かにもう我々はナマの火(変な言葉だが)を使うことはあまりない。スイッチをオンすると機械が勝手に火を管理してくれる。ナマの火はたばこを吸うときくらいだろう。


なのに毎年この時期になると多くの火事が起き、少なくない犠牲者が出る。しかも原因60%がたばこの火の不始末。なんともお粗末な万物の霊長ではないか。火の獲得が聞いてあきれる。


動物は火を恐れるので山で遭難したときは火を起こせ、というのは少年誌のセオリーだが、実際にはそんなことはないらしい。好奇心の強い動物が集まってきたりすることも多々あるのだそうだ。


猫だってストーブの前に集まる。ストーブの前が暖かいことをしっているのだ。ドアを開けたりトイレの水を流したりする猫がいるのだから、そのうちストーブを点火できるやつも現れそうだ。もっとも奴らは火の扱いではなく人の扱いに長けているので、自らを危険にさらすことなく温まり、焼き魚を食うことができる。より賢く間接的に火を扱っているのだ。


いくら人間が火を獲得したからといって火事を即座に鎮火することもできないし、火山の噴火の前では成すすべがない。その意味では動物も人間も火を扱えてるとは言いがたいのではないか。


我々は文化信奉者である。有形無形関わらず何かを獲得するたびに『我々の文化は飛躍的に進歩した』と考える。


獲得とはすなわちプラスである。だが+α=進歩と単純に考えてよいものなのだろうか。


『+火』は人類を文化人たらしめたが、その火で全文明を燃やし尽くし、全人類を滅ぼすことも可能だ。知らなくていい知識を獲得したために退化することだってあるのではないか。


逆に『-α』が文化をもたらすこともあると思う。


遣唐使廃止による国風文化や、鎖国による元禄・化政文化は当時としては異例中の異例『異国の影響を受けなかった独自文化』として世界で評価が高い。言うまでもなく『-異文化』がもたらした結果である。


ところで僧都は宗旨替えをしようと思う。


これまでは、男がおっぱいを好きなのは、おっぱいの発達=妊娠可能期であり、メスによる生殖を促す扇情性徴の影響によるものであるという説をとっていた。通常他の動物ではこれらの特徴は発情期などのごく一時期に限られるのだが、年中生殖が可能な人類は永続的におっぱいが発達・維持するにいたったのだ、と。


が、その根幹たる『おっぱい=扇情特徴』に疑問を抱き始めている。


最近僧都のおっぱいに対する欲望が弱まってきている気がする。


原因はわかっている。カナダと日本で乳文化が違うのだ。カナダの女性は乳を自分の美しさ飾るものの一つとして、それこそ髪や足の長さと同様に、明確な自信をもっている。極端な話『女と生まれた以上乳の谷間も見せずに何とする!』ぐらいの勢いだ。街を歩けば谷間にぶつかるほど、世に自信に満ちた乳があふれている。


日本ではまだ乳の社会権が保証されていない感が強い。文化的な違いなのだろうが、胸の谷間を露出して歩いている女は美しさの評価どころか、阿婆擦れだ、淫猥だと後ろ指指されるのが関の山だ。乳は女性の性徴であってどう見せようが淫猥とは直接関係ない。議論が若干ずれている。しかし女性たちはその社会的弾圧により双球を持て余し、猥褻にならない程度にひた隠す。


イスラム圏ではさらに厳格で、女性は家族以外に素顔すら見せることができない。そのイスラムの友達が「ノースリーブの女性を見かけるとムラムラする」と言っていた。


結論から言うと、男が女性の胸に劣情を催すのは彼女らがそれを隠しているからだ。つまり隠せば見たくなるし、大っぴらになれば興味がなくなる。


日本におけるおっぱい隠しの歴史は実はそんなに長くない。明治くらいから、つまり150年ほどだ。そのころ何があったのかと言えば開国だ。欧米文化が奔流のように流れ込んできて、日本の文化は劇的変化を迎えた。その欧米の文化の一つで乳を殿方にみだりに見せないというのがあったのだ。


それ以前は、まぁ日常的にぷりんぷりん見せていたわけではあるまいが、わりとオープンだったらしい。農作業をしていて暑ければトップレスで鍬を担いだり、赤子が泣き出せば道端で乳をやったりしていた。なんども弾圧を食らったが銭湯は混浴であり、当時の男にとっておっぱいは今ほどレアなものでもなかったのだ。男がそそられたのは女性の下半身一択であった。


それが上のほうでごたごたがあってアレヨアレヨという間に、女性たちがおっぱいを隠し始めた。男からしてみればわけがわからない。今まで普通に見ていたものを『おなごだけのヒ・ミ・ツ』とか言われても困る。


しかし隠すなら暴きたくなるというのが人情だ。


国があちこちに飛ぶが、赤道圏。部族たちは男女関わらず基本的に裸だ。こりゃ男にとって天国だねwかと思えば実はそうでもない。中学生くらいの部族男子でも『うはww隣のおねえさんテラ巨乳wwwww挟まれたいwwww』とティッシュ片手に勤しんだりしない。彼らにとって乳はその人が女性だという判断基準の一つでしかなく、性欲を掻き立てるものではない。


ただ面白いのが、現地に行った女性研究家が男たちに『オマエなんで胸隠してるんだwwwみせろみせろwwww』と迫られたというのだ。


男は性欲でおっぱいが見たいんじゃない。人は『隠しているもの全般』に対して『見たい!』という衝動が強いのだ。


その隠匿物がたまたま『女性しか持ち得ない性徴』であったから余計男は普段から見ることができない。


また乳というのは赤ん坊の哺乳器官ということを差し引いても無駄にフォルムが美しい。丸くて柔らかい。これは人が最も好む形状である。硬かったり尖ったりしていたら本能的に動物はそれを避けるが、丸い・柔らかいは食物を連想しそのものに好奇心を持つ。


またおっぱいはすべての哺乳類のエレメンタリ食品である。とっくにおっぱいを卒業していても、深層心理がそれを求めてしまう。セックスの際に男がおっぱいを口に含んで吸い付く行為には、それで栄養が摂取できるわけではないのだから動物行動学的には全く意味がない。だが心理学的には意味がある。幼児退行願望などの表れだ。


おっぱいに対する三大劣情『見たい・揉みたい・吸い付きたい』は実は性欲とはあまり関係がなく、心理学の分野なのだ。


こうしておっぱいと性欲には生理的因果関係がないにも関わらず、様々な文化的要因・心的要因などの偶然が重なり性欲の対象とされたのだ。


だがこれは偶像崇拝である。おっぱいを見られれば幸せだと思っているものもいるかもしれないがそれは違う。

たとえばある男子高生。好きで好きで堪らなかったEカップ女子高生と、同じ部屋に閉じ込めて8時間そのナマ乳を眺め続けろというバイトがあったとする。時間中は余所見を許さず、故意に長時間目を瞑ることも許さない。そしてもちろんそれ以上のことはしてはいけない。


彼は8時間幸せだろうか。否そんなことはない。いいとこ1分で飽きるだろう。なぜならおっぱいには性欲扇情効果がほとんどないからだ。


おっぱいはもはや信仰の対象だ。見たい触りたい、そのためならいくら金を払ってもいい、家族を捨ててもいい、教師の肩書きを捨ててもいい、犯罪になることもいとわない。


おっぱい信者たちによっておっぱい神輿は高々と担ぎ上げられる。教祖はあまり姿を見せない。それゆえに神秘性が守られる。たまにちらりと見えたり、顔だけ隠して表れたり、それがまた人心を掌握する。


だがいざ蓋を開けてみると教祖たるおっぱいは人の性欲を満足させる魔力など持ち合わせていない。教祖はたまに揺れたりぷるぷる震えたりするだけの社会的には全く役立たない爺だ。


爺が教祖になれた理由はただ一つ。文化的に規制されたため、たまにしか姿を見せないこと。それだけだ。

爺には優秀な興行師がついていた。彼は元来どこにでもいた爺を教祖としてプロデュースするため、さまざま方法を編み出した。


水着を小さくする、今にもほどけそうな水着で海辺を走らせる、ボディコン着せる、葉っぱで隠す、貝殻で隠す、谷間だけ見せる、下乳だけみせる、縄跳びさせる、小説にして文字だけで表現する、騎馬戦をやらせる、バカ殿に神経衰弱やらせる、二プレスだけにする、エプロンだけにする、谷間に万歩計挟めて数を競わせる、深夜番組だけ見せる、AT-Xだけ湯気が取れる、AT-Xだけ奇妙な日差しがかからない、DVDだけ規制がかからない、ぱふぱふ、ぱいずり、おっぱぶ・・・・。


これらはすべて『公共の場で余裕でおっぱいを見せていた文化』が失われたために誕生した文化だ。つまり『-α』文化である。


やっとのことでおっぱいを手に入れた信者が万感の思いでおっぱいに接見する。するとどうだろう。何も変わらない。感想は『ふむ。』である。


本来見ることが可能だったおっぱいが隠されていて、苦労しておっぱいを見ることができた。それはマイナス分がやっとゼロに戻っただけで、彼にとってはプラスでもなんでもないのだ。曖昧で不安定だったものが元の安定を取り戻したに過ぎない。


おっぱい信仰文化は先進国(特に日本)を中心に広く頒布しており、未開人や畜生には理解できない文明最先端の民族の嗜みのように思えるが、裸族からしてみれば全く以ってバカくさい児戯にしか思えないだろう。


見たいならみりゃいいし、隠してる方もチョイ見せとかケチなこと言わないで全部見せればいいじゃんwww

隠したり隠さなかったり旗ゲームかよwwww乳首権一つで一喜一憂とかwwww暇を持て余した神々の戯れかよwwwwとか思ってるに違いない。


獲得の文化(+α)は大変な労力を費やすが、喪失の文化(-α)は明日にでもできる。


たとえば明治期同様に、ふだん見慣れているものをいきなり猥褻だ!と規制すればいいのだ。



仮に耳規制をしたとしよう。


ワコールは早速『天使のミミジャー』を発明するだろう。負けずにほかの企業もフリルつきミミジャー、すけすけミミジャー、Tフロントミミジャーを開発。勝負ミミジャーが激戦となる。


我々男性は風が吹いてミミジャーが捲くれて耳チラするのを期待する。


やれ巨耳がいいだの貧耳がいいだの幼耳がいいだの福耳がいいだのフェチが現れ始める。


女は耳にシリコンを入れたりして偽耳を作る。


ヲタはそういうビッ耳に愛想をつかして二耳元に走る。


サザエさんに耳を引っ張られるカツオのシーンが近親相姦ものとしてマニアに受ける。


マギー審司が『でっかくなっちゃった!』で逮捕される。


平野綾は紳介に『売れたかったらどうすればいいかわかってるよな?』『はい・・』と耳のAYAスタイルのホックをはずす。


広井王子はAKBに膝枕営業を強要。


ネット上には吉沢明歩の無修正耳かきビデオ流出し、男の子は耳かきでマス○キ。


女がスレ立てれば耳うp!耳うp!の嵐。


おみみんとかはもう完全風俗扱い。さらにディープなお店『寝耳に水』が大繁盛。


ラブホテルに取って代わりミミホテルが続々開業


「ああ・・・これが○○ちゃんのアソコ・・・・ヒダに触ってもいい?(※耳の話です)」


「そんなに見ないで・・・私の形変だから(※耳の話です)」


「こんなとこにまで毛が生えて・・・・いやらしい・・・・。(※耳の話です)」


「いや!そんなこと言わないで。恥ずかしい・・・・。」


「ほら、もうココこんなに赤黒くなってる・・・・(※耳の話です)」


「もう・・・変なこというから・・・・。」


「まだ何もしてないのに湿ってるね・・・・感じてるの?(※耳の話です)」


「違うの・・わたしのココ・・・・いつも湿ってるの・・・(※耳の話です)」


「ふふ・・・好きモノだね・・・・普段はあんなに清楚にしてるのに・・・いつもここはぐっしょりだったってわけか・・・(※耳の話です)」


「そうなの・・・わたしいやらしい娘なの・・・・・いつも男の人のアソコのこと考えて・・・自分で指突っ込んで耳鳴りー(ミナリー)してるの・・・(※耳の話です)」


「ふふ・・・汚いカスだらけの穴・・・奥までしっかり見える・・・・じゃあ挿入るよ・・・・(※耳の話です。そして耳かきです)」


「私初めてなの・・・・。(※耳掃除の話です)」


「そう・・・・じゃあ膜破るよ・・・・(※鼓膜の話です)」


「ああっ!毛むくじゃらの硬い棒が入ってきちゃいます!奥に当たってますぅっっっ!!!こんなにも!こんなにもよく聴こえちゃますぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!(※耳の話です)」


「す、すごい・・・中からどんどん溢れてくるよ・・・・(耳くそが)」


「はぁ・・・・はぁ・・・・もっと中を掻き回してーーーーー!!!めちゃくちゃにしてーーーー!!」


「うっ・・・そろそろ・・・・・外に出すよ・・・・(耳くそを)」


「顔に・・・・顔にかけてーーーーーー!!!!」


ぽろぽろ








ヲタ「中古(中耳炎)は氏ね!」

ゲシュタルト崩壊

今ではこんなザマだが、小学校の頃の僧都はそれなりに優秀であった。思えばあのときが人生のピークだったのだろう。


ドラえもんやその他漫画で、終業式に通信簿が配られて憂鬱な思いをしているキャラの描写がよくあるが、僧都はむしろそれが楽しみであった。


通信簿には『先生からの一言欄』というものがあり、先生が生徒一人一人の感想を述べる趣旨のものがあった。授業中どういう生徒であったか、学友とは仲良くやっていたかなどである。


僧都の欄にはいつも『責任感が強い』『リーダーシップを発揮する』『真面目』『協調性がある』と今では考えられないようなべた褒めの言葉が書かれていた。


が、忘れもしない四年生二学期の通信簿。これまでの経験上ありえないようなことが書かれていたことがあった。


それは


『物事に対して必要以上に難しく考える悪い癖がある。』


だった。



ショックだったが、それに対しての反発はなかった。何しろその通りだったからである。


むしろこの先生の観察眼に驚いた。僧都も薄々気づいていた悪い癖を見通していたのである。


僧都の小学校の六年間のうち、五年間は国語教師が担当であった。だが、四年生のこのときの先生だけが算数の先生だったのだ。


当時、今もそうだが、僧都は算数を嫌っていた。


人は『算数は答えが決まっているから単純だ』などというが、それが全く理解できなかった。


答えが一つしかない、という奇跡に対して疑念を抱いていた。他の教科、特に国語などは考えれば考えるほど心情描写に奥行きが増し、物語を深く掘り下げることが可能だ。一つのQに対して一つのAなどただの思考停止ではないか。


確か四年算数の『証明』の授業だったと思う。


先生に指されて、黒板にある相似図形の『証明』を求められたとき


僧都は黒板一面に相似の証明を、これでもかというほどのしつこさで書きなぐり、黒板は僧都の文字でいっぱいになった。


「いや・・・三行くらいにまとめてくれないか?」


と言ったあのときの教師の驚愕しきった顔を忘れられない。



算数のテストはいつも7割を超えなかった。なぜならいつも時間切れになるからだ。


先生の言うとおり、僧都は数字と言う記号に対して必要以上に難しく考え、結果、僧都の脳は破綻する。いつもこのパターンだった。



人があることに対して過度の集中力をぶつけると、そのものを認識できなくなることがある。


所謂『ゲシュタルト崩壊』である。


たとえば『仏』という漢字。


この一字を紙に書いて壁にでも貼り、眺め続ける。


数分でこの『記号』の意味が分からなくなる。


今正常な我々は、この漢字は『宗教の一つ』『仏教における最高位』『ゴータマ・シッダールダ』、あるいは『フランス』などと、その漢字を漢字たらしめん内包情報を認識できる。


だが『ゲシュタルト崩壊』後の我々は、そこから肉ともいうべき内包情報が撤去され、全く意味のない骨格、記号が残る。


初めに言葉ありき、ではないが、この世界は言葉でできている言っても過言ではない。


膝下くらいの大きさで、毛むくじゃらで、耳が頭から生えて、しっぽがあって、「にゃー」となく生物を、我々は『NEKO』と呼び『猫』と書く。


が、それは『我々が生活する便宜上そう呼んだほうが都合がいい』という言葉であって、この生物には本来名前がない。我々の創作した記号であり、我々はその生物をそう呼ぶことを頑なに守っている。それだけだ。


言葉は平たく言えば記号であり、記号は意味のない無味乾燥・無機質の象形である。それに意味を持たせるのは人間だ。


言葉だけではない。人間も動物も植物も森羅万象全てが記号である。便宜上、この記号の羅列を宇宙・世界と認識しているだけだ。


身近なところでは金。我々はこの紙片を『価値のあるもの』と思っている。


いや思おうとしている。ただの紙にそう自己暗示をかけることは経済の上で非常に都合がいいのだ。


宇宙人からしてみれば


地球の猿どもが紙をありがたがってるwwwwwアホスwwwwwwwwww


みたいな感想だろう。


あまり知られていないが、金を故意に破いたり燃やしたりすることは法に抵触する。僧都の予備校時代の現国講師は公共の電波で一万円札を燃やして書類送検されたらしい。


そうなのだ。いきなり全国民が、『金』を『ただの紙片』と記号化すると、経済が崩壊する。


ルールを破る。記号は記号で意味などないと考える。それはこの記号の世界において絶対の禁忌であり、行った者は人格が崩壊すると言われている。


鏡に向かって『オマエは誰だ』といい続けると、自分の存在は元の記号に還り、自我は消滅する。恐ろしい話だ。


考えれば考えるほど、事象は単純化され、やがて原初の記号に戻る。思考の難解度は放物線のグラフであり、最後には非常にシンプルな答え『記号』が残る。


考えてはいけない。




いきなり話が俗っぽくなるが、僧都は一時期モテるモテないについて日夜考えていたことがあった。


美男美女が付き合うことは非常に腹立たしくも正当なものであるとわかる。


がたまに美人女優がこれといって特徴もない素人男性と結婚するという不可解な現象がある。


町でヲタっぽい男性が黒髪ロングのモデルのような女性と手を歩いているのを見かけることもある。


なぜなんだろう。女優はこれまで数々の眉目秀麗な俳優と競演してきたはずで、通念的なことを言えば女性はイケメンと愛を交わしたいはずなのだ。


なのに選ばれるのはパッとしない男性。


本能か、理性か。雰囲気だったり性格だったり趣味だったり髪型だったり体の相性だったりほくろの位置だったり色々あるのだろう。


だが何か法則があるはずなのだ。なにか科学的根拠が。人が人を好きになるメカニズム。人とて所詮はたんぱく質と水の化学物質。ホルモンか、脳下垂体か、前頭葉か、脳梁か。つり橋効果の例もある。心臓のリズムか。一体なんなのだ。


そんなこんなでもう30代だ。こんなにモテに対して一生懸命考えているのに、PSP片手にスイカビーム!と騒いでいた高卒が日夜女をとっかえひっかえしている事実がある。絶対僧都はそいつより考えている自信はあるが、結果としては大敗だ。


考えれば考えるほどどツボに嵌っていくのだろう。


愛は考えてはいけないのだ。愛という記号にしてはいけないのだ。





思うに賢者タイムってゲシュタルト崩壊が原因なんじゃないだろうか。


あんなたゆゆんゆんと楽しんでいたおっぱいが、嘗めたくて入れたくてたまらなかった性器が


終わってみる肉塊にしか思えない。


なんでこんなたんぱく質と脂肪の合成物に欲情していたのか、数秒前の記憶がなくなる。おっぱいが揺れたからなんだというのだ。あそこから液体が噴出されたからどうだというのだ。


この感覚はゲシュタルト崩壊に似てはいないだろうか。


愛し求めた挙句、思考は究極に行き着き、侵入してはいけない領域に入り込む。


結果目の前の最愛の相手が、『ヒトのカタチをした記号』にしか思えなくなる。豊満なおっぱいの意味もぷりぷりのお尻の意味も消滅する。




なんで男は終わると冷静になるの?


というのは女性の永遠の謎だろう。そういわれてもそうなのだからしょうがない。


某スレで


『それはいち早く冷静になってオマエを守るためだよ』


という返しを思いついたやつがいた。鬼才だが若干厨二っぽくてなかなか言えない。


どうせいうならとここん厨二を突き詰めてもらいたい。


眉間に人差し指を当てて首を振りながら


『すまん、どうやら今ゲシュタルトが崩壊したらしい。』


とかつぶやいてもらいたい。


『くそっ・・・【組織】の奴らめ・・・こんなときにまで・・・・・まさかこれは【精神侵食】(アストラル・インベード)!?』


女「どうしたの?」


『すまない・・・・少し時間をくれないか・・・・そう・・・・戦う時間を・・・・。』


誰もいない方向に向かって


『やめろ!この子は関係ないだろ!オレだけを狙えよ!』


とか言って時間を稼いで


そしてまたムラムラしてきたら


『・・・ふふ、どうやらオレの【能力】のほうが数段上のようだったな・・・・。』


とあらぬ方向みながらほくそ笑んで


『危機は去ったよ・・・・さぁ続きを・・・【体液交換】(フィジカルリキッド・エクスチェンジ)を・・・・』


と第2戦を開始してもらいたい。


たぶん彼女の中で彼とは違うものが崩壊するから。







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未だ来ない

来年で21世紀になってから10年になるという。驚きだ。


僧都の少年時代、大人たちに


「君たちが大人になるころにはもう21世紀だ。未来を担うのは君たちだ!」


とミニに蛸ができるくらい聞かされたものだ。


そりゃ前よりは格段に技術は進歩しているのだろう。電話を持ち歩き、リニアカーは長野県をすっとばし、インターネットで地球の裏側だろうが恥丘の裏側だろうがボタンひとつで見放題だ。


しかしなんともうまく表現できないのだが、思ったほど未来じゃない気がする。


たとえば電話が発明されたとき、世界に衝撃が走ったことだろう。それまでは遠くの人間に情報を伝えるには、言いたいことを文書化し、人や鳩が何時間もかけて相手に伝えていた。


それがリアルタイムで、文書化することなく、まるで隣にでもいるかのように遠くの人間に伝えることができる。当時の人からすれば魔法か錬金術の類と思えたかもしれない。これぞ超発明。


あるいはカメラ。それまでは時空間は頭の中でしか記録できなかった。絵にすることはできてもそれは作者の心象風景が多少なりとも混ざり正確なものとは言えなかった。


カメラは使用者の意思とは関係なく空間を切り取り記録した。当時の人は本当に空間が切り取られたと思い、その場所には四角い穴ができたんじゃないかと疑ったものもいるという。


今現在、そういった超発明は生まれているのだろうか。


答えは否。


携帯電話にしろデジカメにしろ、19・20世紀に発明されたものがパワーアップしただけだ。


生活がさらに豊かに便利になっただけだ。


だが未来ってそうじゃないと思う。


人類の生活そのものがひっくり返るような『何か』が生まれて、


『こんなこと前世紀のひとは思いつかなかっただろうね』


みたいなことがあって初めて未来を実感できるんじゃないだろうか。


車だってガソリンから電気になりました!って19世紀の人に伝えても、へーそうなん?で終わりそうだ。


もし今世紀に『どこでもドア』が生まれたら、まぁそれは日本人にはお馴染みだから新鮮味はないかもしれないが、人類の歴史的には驚天動地の発明だ。


移動手段が移動しない。置いて扉を開ければ目的地。


というのは電話の発明に匹敵すると思う。


アイデアという側面からしてみれば無から有ができたといっていいだろう。


何かのスレで


『人類って傘以上の雨を防ぐ手段発明できないの?』


みたいな発言を見た。


そうなのだ。傘の歴史は非常に長く、そしてほとんど進化を遂げていない。まるでカブトガニやシーラカンスだ。生まれたときからほぼ完成体。それはそれですごいのだろうが、はっきり言って人類の怠慢であるようにも思える。


空から水滴が落ちてくるから、濡れないために空と頭の間を何かで遮断しよう。


そんなこと原始人でもトトロでも思いつく。


いくらチェコ共和国の女のま×こを好きなだけみることができる未来社会でも、人類はいまだに雨ひとつ防ぐことも叶わないのだ。


僧都が最近思ったのが食べ物。


人類誕生以来、食べ物に関して大きな変革は火の使用くらいなもので、相変わらず我々は大地に生えてるものや地球に生きる別の動物を取って食ってるだけだ。いくら肥料が進化しても、天候に左右されて不作だの豊作だの一喜一憂しなければならない。


いまだ人類は人工たんぱく質をつくることができないのだ。これでは生きることができない。星新一のSFのような、完全なる人工食品はまだ先のようだ。


僧都の好きな甘いものもそうだ。なんやかんや言って結局ミカン味やりんご味、ミルク味やチョコレート味など自然にあるものをオリジナルにして、ざわわざわわ・・とさとうきび畑を利用して甘味をつくりだしている。人類史上食べたことがない味というものを人工で作ることはできない。人類が生まれて五億年も経っているというのに、だ。






そこいくと虹エロ画像ってすごくね?


確かにそれらのオリジナルには『自然界の人類の女』という存在があるのだろうが、別に女の体の一部や体液を使っているわけでもなし、実際にはだ男の絵師が作り出している、女成分0、自然成分0の完全人工体だ。


そしてそれらは天候に関係なく、ネット上にアップすれば永久に存在し続け、そして無限にコピーできる。男が美少女と信じればそれは美少女であり、男の娘と信じれば男の娘であり、腐女子が攻め受けと信じればそれは男となる。実体を持たない反自然的な人工物である。


たとえば地球が滅んで別の星に移住することになった場合、地球の作物は何一つ育たなくて食欲が満たされなくても地球の虹エロ画像は男女ともに性欲を満たしてくれる。なんと未来的、なんという超発明。


今現在、日本人を中心として(カナダでも少々見られるが)、異性(=自然)を必要としない傾向が進んでいる。もはや世界的二次元人気はとどまることを知らない。


人類史上、異性を必要としないと考える時代が存在しただろうか。あるはずない。なぜならば我々がこうして存在していることがすなわち先祖が異性を求めた結果なのだから。


だがそんな原始的な時代は終わった。我々は21世紀を生きる未来人。自然から何かを生み出すのではない、人工物が自然を上回る時代が来たのだ。さぁ未来を生きよう。


・・・まぁ問題はこのままだと人類に22世紀は来ないということだけなんだけどね。

れじ☆すた

ペリーが浦賀に来たとき、日本人の識字率の高さに驚いたというエピソードがある。


日本人は昔から「読み書きそろばん」の学術というものを大事に考え、幕府運営の学問所や寺社による私塾も思いのほか多かった。その知識欲の高さは同年代の先進国を上回っていたという。


今はゆとり世代がなんちゃらと言われ、日本人の学力は下がったと嘆いているものは多々いるが、それでも世界的に見れば高い位置にあるといっていいだろう。


僧都は読み書きは好きだったが、そろばんが、つまり算数・数学が嫌いだった。


概数とか統計値とかならまだしも虚数、素数、微分積分がなんの役に立つんだよ、と思春期にありがちなことを思っていたものである。


中学生のとき数学教師で担任だった人にはそう伝えた。


「・・・将来レジ打ちになるかもしれないだろ」


はっ!気づかされた気がした。そうか大人でも数学は使うんだ!と。


しばらくして、やっぱり微分は関係ねえ!と思い返した。しかも教師なのに将来レジ打ちの可能性を示唆するってどうなの。


さて今はこうしてホテルマンをしており、幸いにして数学ならぬ語学に悪戦苦闘しているわけだ。


田舎のバンフといえども●床と違ってまともなスーパーが2件もある。寮から近いほうのスーパーは大手チェーンだがジャンクフードなので、僧都は少し足を伸ばしてバス停二つ分遠くのスーパーを利用している。そっちにはアジアンフードが結構あるのだ。


だがそこのスーパーのレジがひどい。


レジのパートおばさんたちはおそらくは出稼ぎ外国人たちで生粋のカナダ人ではない。フィリピン系か東南アジア系だと思われる。


レジ「8ドル47セントです。」


僧都は客からチップをもらっているので細かい金には事欠かない。


10ドル47セントを出す。


が、彼女は不機嫌そうな顔をして、10ドルだけ受け取る。


そしてレジをパチパチやりながら、ふと残りの47セントを見て


「なにこれ。」


「え、47セントですが・・・。」


無言で今レジから出した1ドル53セントをしまい、47セントを受け取り、再び2ドルのおつりを僧都に差し出す。


・・・ひょっとして計算できないのか?


また別の日


レジ「7ドル78セントになります。」


「はい、7ドル78セントちょうど。」


「違うでしょ!よく見なさい!」


「え?」


「5ドルと1ドル・・・2ドル・・・それから25セントが三つに・・・3セント・・・・ちょうどあるじゃない!ありがとうございましたハバグッデー。」








なんで今ウチ怒られたん・・・・?(´;ω;`)

MAN-HOLE

よく


「女は男より穴の数が一個多いんだから・・・」


みたいな台詞を聞く。



・・・・ごめん、うそ。よくは聞かない。たまに。


顔の穴は男女で違うわけもなく、へその穴も一つだ。


となると男女の違いの部分で穴の数が異なるというで、まことに残念ながらシモの話になってしまう。


肛門や尿道は各々一つずつ、そして性に関する穴も一つずつ。


ただ男は尿道が性に関する穴と兼業しているので、実質女性のほうが一個多い計算になる。

が、それはどうなんだろう。


ヒトの穴は単純にそれだけではない。


たとえば毛穴はどうだ。これだと明らかに男性のほうが毛穴数が多い。


汗腺の穴は人による。女性でも新陳代謝が良い人なら男性を上回る汗腺孔を持っているはずだ。


いやそれともちんちんがついてる分男性の汗腺孔のほうが多いのか?表面積的な意味で。てかちんちん汗かくのか?


あるいは舌。唾液がよく出る人と出ない人には差があるはずだ。


真に残念ながらエチーな話になるが、セックスをすると男女ともにいろんな液を分泌する。


が、これまた男性は同じ一つの穴から分泌されるのに対して、女性は内壁のいろんな部分から出している。ということはこの場合女性のほうが穴が多いことになる。


普段何気なく使ってる言葉でも意外と矛盾点を指摘できるものだ。


つまりこの言葉を使う場合は


『女性のほうが【肉眼で確認できる穴】が一つ多い』


というのが正しい。


しかし【確認できる穴】たって様々な理由で確認できないわけだわ。


つまり女性のほうが【肉眼で確認できる穴】が一つ多いかどうか確認できるかどうかは、※ただし(ry

なんだね。


何をいっているのかというと、僧都今ものすごく肉眼で確認したいと、そういうこと。

70の世界

少林寺の拳士仲間に、といってもまだ高校生だったが


「ロッキー行ったら山の写真とって見せてくださいよ!」


と言われた。


僧都はそのとき


「え、それって図鑑かなんかでみればいいじゃないの?」


と返した。


「・・・・それはそうなんですが・・・。」


「プロの写真家が取った写真のほうが俺がとるより数倍きれいだと思うよ。」


「・・・・そう・・・ですよね・・・・?」


互いに「?」の表情のままかたまってしまった。


何も僧都の下手な写真を見ることはない。ロッキーの写真が見たければ本でもネットでも資料はいくらでもあるのだ。


またドラえもんでこんな話があった。


絵の宿題を出されたのび太。だが絵が下手なのび太はやはりドラえもんに頼る。そこでドラえもんが出した道具は、見た構図を100%絵に描き出せるベレー帽と無限の色数を持つマーカー。これで宿題は完璧に見えた。


が、次の日のび太は先生に怒られる。


「絵が描けないからといって写真を持ってきてどうするんだ!」



絵とは一体なんだろう。


僧都の父親は教師だったがアマチュアの画家でもあった。高校美術教師の免許も持っていたらしい。昔はよく姉や庭の植物をモチーフにして油彩画を描いていたらしい。今でも家に飾っている。


だが僧都が生まれてからはほぼ絵は描いていない。たまに地元紙や道新のちょっとした挿絵をアマチュアとして描いていたことはあったが、本格的なものはしていなかった。


駄菓子屋のせがれのくせして一体どこで絵なんぞ覚えたのか。おそらく独学だろう。部屋には溢れんばかりの絵の本があった。


絵の才能は天賦の才とよく言われる。父にはそれがあったのだろう。


が、残念ながら僧都にはそれがまったく受け継がれなかった。


関係ないが姉も兄も音楽的才能があったが、僧都にはまったくなかった。


僧都は芸術的才能を一切持たないままこの世に生み出された。


あえて言うなら歌人だった祖父が作文を教えてくれたが、それは後天的なものでもとからあったとは思えない。


それはともかく、僧都は絵が嫌いだった。描くのも見るのも。


小学生時、年に二度の写生会が苦痛で仕方なかった。


なぜ絵なんぞ描くのだろう。


景色が見たければそこに行けばいいし、行けないなら写真を見ればいい。


なんでわざわざ100として存在しているものを努力して0から作り出さなければならないのだ。そして努力なぞしなくてもボタンひとつ100になる機械あるのにそれを使わないのか。


そしていくら努力してもその絵は実物である100にはならない。いいとこ70か80程度。実物に比べてそれは絶対に『劣る』ものである。


どうしても合点がいかない。


絵を見ると豊かな気持ちになるという。


僧都はなったことがない。絵の展覧会に無理やり連れて行かれたときも、ここにいる客全員が『わかったふり』をしているだけなんじゃないか、と疑った。


思うに芸術世界と現実世界は乖離しているのではないだろうか。


芸術世界と現実世界は次元が違うと言ったほうが正しいのかもしれない。そしてそれらはそれぞれともに100%が存在する。


そこにいたるにはラジオのチューニングのように次元変換が必要で、それができる鍵、芸術チェンジャーを持つ人物を芸術家とよぶのではないだろうか。


半裸の女性がいたら大抵男は劣情を催す。


しかしこれは現実世界での100%での話で、芸術次元の半裸にムラムラする芸術家はいない。


モナリザの手を見て勃起した吉良吉影のような性的倒錯者を除き、ミロのヴィーナスをオカズに自慰できる男性はそう多くはないと思う。なぜならそれは宇宙そのものが違うアナザーディメンションの裸だからだ。


だがどういうわけかその芸術次元が不可視な人間には、つまり僧都だが、それは現実100に比べて見劣りする不完全な70以外の何者でもないのだ。


前のホテルの先輩が、男性のオナペットは次第に過激化していったのち一巡して最初のオカズにもどる、という『オナペット輪廻転生論』というものを提唱していた。


そういうわけで当時30歳だった彼は素人モノに嵌っているという。まだ若かった僧都はそれが理解できなかった。かわいい女性のほうがいいに決まっている。


が、いまや中年となった僧都はそれが理解できる。


美人のプロ女優ではあまりこない。


逆にあまりかわいくもない乳の形も微妙な素人女優が、妙に生々しくてエロく感じる。


美人に比べると素人女優は70だ。


が僧都の中では美人美乳女優のというのは現実100を突破した芸術次元となってしまった。これではミロのヴィーナスとなる。現実感が喪失してしまった。


そんな僧都にとって新垣結衣は芸術次元の存在だ。


もしガッキーがパンツと乳首のねこシール以外何も身につけていない状態で


『剥がしてもいいんだぞ☆』


と言っても僧都は勃起しない自信がある。


『風邪ひくよ』


とそっとメイド服かなんかを与えると思う。

栄養

栄養が偏っている。


カナダに来てから食事の回数は一日二回と減っているにもかかわらず、僧都の体は一時期ありえないほど太っていた。要するに一食におけるカロリーが日本に比べて高すぎるのだ。


バンクーバーでのホームスティ生活ではマザーが出すものは残さず食べていた。僧都はあんまり食事について文句は言わないほうだと思うが、はっきり言ってまずかった。マザーの食事がというよりもカナダ全体の食事がいまいちなのだ。それでも毎日食べ続けた結果が脂肪として蓄積した。


今はバンフ。アコモデーションという寮に寄宿している。共同とは言えキッチンを与えられたので喜んで自炊を始めた。さぁこれで好きなだけ日本食が食えるぞーと。


が、僧都は知らなかった。日本食が、というよりも日本ブランドは恐ろしく高い。


たとえばうどん300g、日本なら百均にありそうなものが450円。キッコーマン醤油500ml880円。小鍋に味噌汁でも作ろうもんなら3000円は飛んでしまう。


いくら収入があるとはいえこんな贅沢料理(?)ばかり食ってたら散在する。仕方ないので結局まずいカナダ飯を自ら作って食べている。


幸い家の近く(三軒隣)がスーパーなのでちょくちょく値段チェックをしては安いものを仕入れている。


コストパフォーマンスの王様といえばやはりスパゲティ。これを2kgでも買っておけばしばらく食っていける。ただ日本と違って、明太子パスタソースとかペペロンチーノふりかけとかそういうものは一切売られていないので、味はナポリタンかミートソースに限られる。あとは塩コショウ振って食うとか。いくらなんでも飽きる。


大体にして野菜がさっぱり取れない。野菜・・・買ってもいいのだが、以前書いたとおりお得用パックばかりで少数購入ができない。腐らせてしまうのだ。


そもそも野菜を買ったところでスープにする以外手段がない。日本食ならば肉じゃがや筑前煮を作ることが、なにしろだし醤油が売ってないのだ。味醂もなければ料理酒もない。


一体ほかのカナダ人はどうやって野菜をとっているのだろうか。


ちなみに今一緒に住んでいるイタリア人は当たり前のように毎日パスタとピザを食っている。よく飽きないなと感心するが、イタリア人からしてみればパスタ&ピザは我々で言う主食の米みたいなものだから飽きるはずもないのかもしれない。


そのピザに申し訳程度にトマトとピーマン、オニオンスライスが置かれている。聞けばピザは肉も野菜も取れるヘルシー食品らしい。ちょっと日本人には理解できない感覚だ。


そういえばカナダにはサプリメントショップが独立して店を構えている。ツルハの一角に置かれているような感覚ではなく、完全に一テナントとして、だ。


カナダ人のサプリメント信仰は半端ではない。スーパーの袋に山ほど買っていく太ったおばさんとかがいる。裏を返せば彼らは食事から栄養を取ることにまったく期待していないということだ。日本でちょっとでもダイエットにトライしたことがある人間なら『サプリメントに効果なし』が定説なのになぁ。


成人した人間が『一日に必要な野菜』量は、大ざるに溢れんばかり。そしてそれを補う野菜ジュースもこちらでは売られていない。まぁもっとも野菜ジュースも糖分ばかりで必要量にはるかに及ばないらしいが。


来年まで僧都は野菜なしで暮らすのか。不健康この上ないな。


ところで僧都は今ネットを自由に使えない状態にある。情けない話だが仕事から帰ってきて、全くやることがない。図書館で借りた小汚い日本の小説を読むか、PCのアクセサリのスパイダーソリティアを一心不乱に続ける気持ち悪い日々を送っている。


その上の禁欲生活。エロサイト巡回でもしていれば3~4時間はあっという間すぎるのに、そのどちらもできない。


ただ禁欲を続けると性欲減退するらしいので、僧都のHDエロ動画は小まめに見るようにしている。


僧都のオナ禁のルールは、触れない・握らない・上下しないの非カキ三原則で行っているので、夢精はセーフである。密かに夢精しないかなぁと毎日期待してるのだが今のところ至っていない。寝る前にえっちな動画をたらふく閲覧してから床に入る。が、淫夢は見るものの僧都は睡眠障害の明晰夢常習犯なのですぐに、これは夢だ!と悟ってしまうのだ。


最近僧都はちょっと疲れている。精神的にというより肉体的にだ。6勤でのハウスキーピングは少々つらい。前のホテルは3ヶ月休みがないこともあったが、それでも全て肉体労働でなかったらやれたのだ。しかもそれは20代のときの話でその上僧都はその後に2年のニートブランクがある。三井みたいに試合の後半でスタミナ切れを起こしてしまう。毎日筋トレみたいな仕事では精々4日が限度だろう。


疲れて帰ってきてからとりあえずおっぱいをみる。そうするとすこし元気になる。一部がじゃなくて体全体がね。

どこだかの研究チームが、男性老人は同じ老人たちと生活するよりも、若い女と話をしていたほうが病気になりにくいとの調査結果を挙げたらしい。


僧都は老人ではないが、なんとなく理由がわかる気がする。そりゃ男はいくつになっても女が好きなものだ。




そして僧都は確信しているのだが






その若い女がトップレスだったら老人はもっと長生きすると思う。


ようし明日も生きておっぱいみるぞ!と活力が沸いてくると思う。


たぶんおっぱいには生きるうえで必要な栄養素が含まれているんだと思う。


僧都は今栄養失調状態だ。


一日に必要なおっぱい量を摂取できていない。


おぱみんA、おぱみんB1、おぱみんB2、おぱみんC、おぱもつ繊維、おーぱーカロチンなどの栄養分が足りていない。


今のところ大量生産された養殖エロ動画でなんとか生命をつないではいるが、そろそろ天然物のおっぱいを摂取しないと壊血病を起こしかねない。


その意味でも世の女性はもっと僧都におっぱいを見せるべきだと思うんだ。僧都はやっぱりおぱみんCぐらいがいいなぁ。大きさ的に。

究極DQNネーム

初対面の韓国人に自分の名前を名乗ると



「・・・・ENはないの?」 と言われる。


ENとはすなわちイングリッシュネーム。主に英語圏の人間に発音が難しい外国人が自らつける『アメリカ人っぽい名前』のことである。



韓国人に多く見られ、僧都の韓国人友達もジェイ、カーティス、ウィルソン・チャールズなどがいる。 もちろん彼も本当はパクだのビョンだのという名前なのだ。


が、別に僧都の本名の発音は韓国人にとって難しいことはない。韓国語と日本語は発音がさほど離れていないのだ。



問いただしてみると僧都の名前は、韓国では野獣・猛獣・鬼畜・ケダモノなどの意味があるらしく、それを人間に使うのは罵倒語以外の何者でもないとのこと。


別に悪意があって呼んでいるわけでもないし、そもそも僧都の本名なのだから別に構わないのだが、彼らにはどうにも抵抗があるそうだ。特に女の子には。


しかし若い女の子に野獣呼ばわりされることは僧都の望むところでもある。むしろ呼んでもらいたいくらいだ。


「このけ・だ・も・のドキドキ












wAn-pAKa




まぁたしかにどこかの国の人間に


「初めまして!ボクのことはカウパーと呼んで下さい!」 とか言われたら困る。名前を呼ぶのに躊躇してしまう。


Hi カウパー!調子はどうだい?」 「カウパー最近元気がないみたいじゃないか。相談に乗るよ。」


とか言うのは日本の女の子には難しい。まぁカウパーなんて単語も知らないだろうけど。



というわけでENを求められるのだが、これはこれで困る。


「初めまして!ガブリエルと呼んで下さい。」


なんて恥ずかしくていえない。


「おまえガブリエルって面かよwww」 とかもう一人の自分が腹を抱えてしまう。 結局いつも韓国人たちに慣れてもらっている。面倒な名をもらったものだ。



子供に日本人らしからぬ名前をつけている親がいる。所謂DQNネームだ。



彼らの言い分としては「将来国際化社会になったときのために世界に通用する名前をつけるんだ」とのこと。



まぁそういう意見もあっていいだろう。 よく有栖(ありす)なんて名前をつけて年取ってからどうするんだ!とか怒っているご老体がいるが、実際こちらにはアリスという婆ちゃんがごまんといるわけだから、その理屈はちょっとおかしい。



すべてはENが解決してくれる。国際デビューの際に好きな名前を名乗ればいいのだ。だから親は自信をもって日本の名前をつけてもらってかまわない。


なんだかんだ言って、親が自分の『所有物』に奇をてらった名前をつけたいだけのような気がする。


光宙(ぴかちゅう)という名の子が国際社会で活躍する光景はなんとも滑稽だ。ひょっとしたら国連事務総長になるかもしれないのにその名前のせいで世界が大爆笑だ。


『自分の名前』に対して自分ではなんともできないという事実がすこし怖い気がする。親の匙加減一つでそれが70年80年人生ついて回るのだ。親の頭の悪さがにじみ出た名前を背負うには人生長すぎる。


昔なら将来の幸福を願い、姓名判断とかもしたのだろうが、果たして光宙の親がそれを用いたがどうかは疑問だ。明らかにノリでつけられている。



ノリでつけられて80年は酷すぎる。もう少し本人の意見も反映してもらいたいものだ。



戦国時代みたいにそれまでは幼名を名乗って、元服(成人)してから自分で名前をつけるようにするシステムとかをもちいてもらいたい。


何にせよ、親の責任能力が低下している昨今で、親が自分の子供を名づけるというのは時代にあってはいないのだろうか。



親だって人間だ。子供が誕生した前後3週間、父親に社会のイライラストレスばかりあったらその影響が子供の名前にでるかもしれない。その時の気分を子供に一生背負わせるのはあんまりだ。



DQNネームの問題は、親が子供に変な当て字の名前をつけることにあらず。



親が子供に対してあまりに影響力のある決断の責任をもっているにもかかわらず、あまりに無頓着であることが本質的問題なのだ。


一ヶ月山に篭り、滝に打たれて修行をして、そのとき天啓や大悟があったというならぶっちゃけ光宙でもかまわないと僧都は思っている。



だからDQNネーム問題は最近のことではないのだ。 その場の空気でつける親ならば昭和だろうが明治だろうが、その親はDQNでしかないのだ。



それも踏まえて


留吉は酷いと思う。



いや留吉に関わらず、留蔵、留治、トメ・・・ 『トメ』の付く、現在おそらくはご老体であろう方々が不憫でならない。


なにしろ親が 「この子で打ち止めだ」 という意味で『留』の名を冠するに至ったのだ。


それってつまり言い換えれば



「もう中田氏はしないお!(`・ω・´)」



という親の意思表示の表れだ。


そもそもそんな宣言なんかしなくていいのに、それが自分の名前に付いて、生涯付いて回るなんてかわいそうすぎる。


それはあくまで親のタンパク宣言であって子供には全く関係ない。ていうか本来秘匿すべき親のセクシャルな部分を子供の名前につけるってどうなの。


それって、子供に「オナ禁」と名づけることと大差ないように思える。親父のオナニーライフなんかどうでもいいだろ。


それが自分の名前にある。ああ恐ろしい。


それこそ『トメ』なんて明白な言葉を用いずにDQNネームで包み隠してもらいたい。





「こんにちは。佐藤・富愛奈留江出伊紫苑(ふぁいなるえでぃしょん)と申します」