ごかんですよ。その1
歳末の日本を騒がせた海老蔵騒動も示談という形で決着がつくらしい。しかし海老蔵側があることないこと騒ぎ立てた散々煽り立てたマスコミに対して訴訟を起こすという話もあり騒動自体は長引きそうである。
年収を訊いて回った、麻央の体にはもう飽きたと暴言、灰皿テキーラ、土下座をした、ステテコで逃げ出した、など日本のテレビを見ることができない僧都ですらこれだけの情報を目にすることができたのだから、ワイドショーとかはもうめちゃくちゃやっていそうではある。やくみつるあたりが『日本の伝統美を汚す許しがたい行為だ』とか騒いでいそうな予感がする。
が、ひとつ気になるのが、相手側、つまり『元暴走族リーダー』側である。いや別に伊藤何某がどうだということではなく、なぜマスコミが『暴走族』という言葉を使っているのかということだ。
『暴走族』は『珍走団』に名称を変えさせたのではなかったか。
どこのどういう圧力がかかって変更になったかは知らないが、そもそも暴走族だって俗語であって別に正式名称というわけではないので名称変更というのもおかしな話ではある。
珍走団、旧暴走族の総数は大幅に減少しているという。ブームが去ったというのもあるのかもしれないが、珍走団の名称変更も多少は影響があるのかもしれない。珍走団の命名者も少なからず思惑通りになったと思ったことだろう。
その情報発信の最大手であるマスコミがまた暴走族ってつかっちゃ駄目だろ。いくら無責任なワイドショーであっても犯罪増加の一因を担うような真似をするべきではない。
さて今、珍走団の命名者の思惑と前述した。思惑とは珍走団の語感にある。
暴走族。暴れ走る輩を指す。字面を見ても、力強さ、勇ましさ、果ては男らしさの印象がある。10代の反抗期くらいならこんなものに憧れるかもしれない。
またまったくの偶然だがその読み仮名の印象、つまり『語感』が強い。
ぼうそうぞく。Bo-U-So-U―Zo―Ku
破裂音の子音bと破擦音の子音zが語感を強力な物にしている。結果元の荒ぶる意味をさらに補佐している形になっているのだ。
その強固なイメージを払拭するために作られた新語『珍走団』。
日本において『チン』の語感は最大級の間抜けイメージだろう。漢字の『珍』自体はむしろかなりのプラスイメージである。流通社会黎明期、珍味や珍宝などは価値の計り知れないものであったはずだ。
それが、おそらくは古代の下ネタであったのだろうが、男性器を『珍棒』と呼称した時点で日本における『チン』の価値は地に堕ちた。
そのマヌケ語感を利用した『珍走団』。荒ぶる反社会的若者たちが体制の僕たる警察と争うさまが
【警】
ヘ(; `Д)ノ
≡ ( ┐ノ
へ(; 'A`)ノ
三 ノω|
↑こんなイメージに
日本人はおそらく世界で一番『語感』を意識している民族であろう。少し前に『声に出して読みたい日本語』なんて本が流行ったが、日本人は昔から母国語の語感に美しさと忌々しさというものを鋭敏に感じ取っていた。
無名のものに名前をつけるとき、まずはそのものから受けるイメージを感じ取る。
なにかキャラクターもの、たとえば『ぴちょんくん』なんてイメージと非常にマッチしている。
オーザック、じゃがりこ、なんてのも食感から作られたものだろう。
また子供に名前をつけるときも、もし女の子ならばバビブベボ、ザジズゼゾは忌避される。まみむめもなどの柔らかい語感が好まれる傾向にある。
その点において日本人のセンスは計り知れないものが、外国にもそういった感覚というのもないわけではないのだろう。無意識なのか知らないがやはり語感に『濁り』がある名前は女の子は少ないように思える。
だから海外で初めて聞く名前であっても、我々は直接会わずしてこの名前は女の子っぽいなぁと感じることができる。今僧都の職場にいるのは『あーにゃ』『へれん』『きゃさりん』『りあ』『あいりーん』『ねにーた』など語感の柔らかいもので容易にこの名前の持ち主が女性であることが予想できる。
海外の人たちは初めて聞く日本人の名だけで性別の判断は難しいようだ。ゴロウ?それって女の子の名前?といった具合に。
逆に日本人の語感に対する思いが強すぎて、外来語に微妙なギャップを受けることもある。
ビーフストロガノフってなんだか先の大戦で使われた大量殺戮兵器のような響きである。とても食べ物とは思えない。
あるいはゴルゴンゾーラ。もうラスボスの名前のようだ。ネオ・ゴルゴンゾーラなんていかにも宇宙の法則を乱しそうではないか。
マチュピチュは女児のおもちゃみたいな名前だ。ママ、マチュピチュ買って~!
トラウマやリストラも今でこそ日本で浸透しているが、初めて聞いたとはイソップ寓話かと思った。トラと馬とリスがみんなで仲良くしてるイメージ。当の本人たちはこのかわいい響きに憎悪すら感じているだろうに。
ピロリ菌なんてのも、感染してもぴろぴろ~ぽよぽよ~と楽しそうな病気になる感じが抜けない。
やはり語感にはイメージが付きまとう。
アニメやゲームの作品において最も憎むべき相手である中ボス・ラスボスにはやはり語感が濁っている文字が使われている場合が多い。
バラモス、ゾーマ、デスピサロ、ミルドラース、ムドー、デスタムーア、ダークドレアム、オルゴデミーラ、ザンデ、ゴルベーザ、ゼムス、エクスデス
余談だが、僧都が生まれて初めてやったRPGがFF3であった。んでラスボスと思っていたザンデを倒したと思ったら後ろから『くらやみのくも』が現れたときの絶望感が半端なかった。何が怖いって、なんでこんなに絶望的な状況に似つかわしくない稚拙な平仮名表記。そして綺麗な清音ばかりの語感。無邪気に虫を踏み殺す子供の邪悪さのようなものを感じた。最近の復刻版では名前も変わり『暗黒の雲』と表記するらしいのだが、あのときの絶望感を表現するには何か物足りない。ボス語感の裏をかかれたあの表現に勝るものはないと今でも思っている。
最近スレで『女性の胸をおっぱいと表現したやつは天才じゃね?』というのを見た。ノーベル文学賞をあげていいとも。
なるほど確かにそのとおりだ。あの丸みと柔らかさを帯びた、ときに慈しみにあふれ優しく、ときにセンセーショナルな衝撃を与え、どこかコミカルですらある、あの物体を人類は『おっぱい』以上の語感で表現することはもうできないだろう。
『お』は清音であり衝撃のあまりないものだが、そのあとを拗音の『つ』でバウンド。ここで男がおっぱいに遭遇したときのセンセーショナル感を表現する。仮に『ぼっぱい』では最初の衝撃が強すぎて、その優しさ美しさを表現しきれない。
『ぱい』。『ぱ』は破裂音。『おっ』で飛び上がり落下してくる言葉を『ぱ』破裂音というセカンドインパクトでリバウンド。そして清音の頂点である母音『い』で優しく柔らかくキャッチするというスキルフルっぷり。なんというテクニック。
おっぱいを辞書で引くと乳房の幼児語とでるのだが、これが幼児によって開発されたとはとても思えない。いや大人に比べてDNAの意思に近い幼児だからこそ、この神レベルの表現が可能だったのかもしれない。
英語ではBOOBという。これも幼児語なわけだがやはりセンスに欠ける気がする。何しろ破裂音が強すぎる。まぁこちらの女性は破裂せんばかりの爆乳たちばかりだからBOMBに近い語感も頷けるのかもしれない。日本人aの慎ましい乳房はやはり『おっぱい』なのだ。
たとえば日本において乳房が『ダークドレアム』と表現されたらどうだろう。
『じゃ、じゃあブラ・・・とるよ。』
『あんまり・・・・見ないで・・・わたしのダークドレアム・・・・ちいさいから。』
『そ、そんなことないよ、オレ○○のダークドレアムはちょうどよくて好きだよ!』
『やだ・・・・そんなおっきな声で・・・・(///)。』
『もうがまんできないよ・・・・○○のかわいいダークドレアムみせて・・・・。』
『う、うん・・・・(パラリ)』
『ゴク・・・・これが○○のダークドレアム・・・・・。すっごく・・・・かわいい・・・・。』
『も、もうだめ!もう見せない!』
『な、なんでだよ!』
『だって、わたしのダークドレアム見て、心の中では小さくて馬鹿にしてるんでしょ!』
『そんなことないよ!俺今までこんなに綺麗なダークドレアムみたことないよ!』
『・・・・・ホントに?』
『ホントさ。もっと・・・・よくみたいな。』
『うん。じゃあ・・・・(ドレアムっ)←擬音』
『こ、こんなにダークで・・・・しかもドレアムしてるなんて・・・・。』
『は、はずかしい・・・・』
『先端のバラモス、桜色できれい。』
『やだっ(///)』
『あはは、バラモス勃ってきたよ。』
『んもう!そんなことより、○○くんのオルゴデミーラ逞しくなってるよ・・・』
もう風情も何もあったものじゃない。
続く
天使の平等 その2
狩の時代からすでに男女の仕事は『区別』されていた。筋力の発達した男性は動物を追いかけるのに向いていたし、女性は子供を産み育てるのには家にいたほうが都合がよかった。イデオロギーの問題ではない。自然と適材適所に落ち着いたのだ。
だが貨幣経済が始まると食物を得るのに筋力が必要なくなってくる。それでも長年の慣習化され確立した『飯の種は男が作る』という考え方が、引き続き『男の、男による、男のための仕事社会』を作り上げた。
今の男の仕事社会は男によって齎されたもの。男性そのものと言っていい。もちろん男女関係ない部分で発展していった所もあるだろうが、ぶっちゃけた話『男にちんちんがついていたからうまくいった仕事』というのは山ほどあると思う。
たとえば男の仕事に接待が付き物だ。芸者をあげたりキャバクラに行ったりして営業を円滑にする。要はエロ心をくすぐるわけだが、長年行ってきたこれはある種男の仕事文化の一形態とも言える。
最近流行の枕営業なんてのもそうだ。一体いつから始まったのか知らないが、仕事を得るのに女性が体をさしだすというのも男側の都合できたもの一種の仕事文化である。
仕事社会の中心が女であったら芸者もキャバクラもこの世に存在しなかったろう。代わりにグルメなお店とかスイーツのおいしい店が軒を連ねていたのかもしれない。
今の仕事社会はペニスの形をしている。言い換えればそれはペニスケースだ。それも長年男が自分たちにぴったり合うように改変・改良を加えていったもの。当然今の男にはジャストフィットしている。
それが急に女性からこんな声が上がった。
『わたしにもペニスケースちょうだい』
『え?』
『ペニスケースよ。早く。』
『え、えと、お客様には、その、合わないような・・・・』
『馬鹿なこと言わないで。同じ人間なんだからわたしもペニスケースをハメる権利があるわ。』
『ま、まぁそうかもしれませんが・・・・。お客様には、そのあるべきモノがないというか・・・』
『男にできて女にできないモノなんかないわ。』
『いや、そのなんといいますか、もっと本質的なものが・・・。』
『いいからさっさと用意しなさい。』
『は、はい。』
装着(?)
『どう?』
『えと・・・お似合い・・・・です。』
『でしょう。でもなんかしっくりこないのよね。すぐズレるし落ちるし。落ちないように腰にまわすベルトをつけて。』
『はい。』
『革のベルトだと痛いから起毛のやつにして、それから色が気に入らないからワインレッドにして、それからところどころにパッチワークをつけて、それから・・・・』
そういうことではないのだ。いくらペニスケースを女性用に改変しても小手先のことであって『女性用ペニスケース』というものは絶対に存在しない。ペニスケースを持ちたいという感情そのものが男女差別である。
男女の体は違うという絶対命題を受けいれて、その上で『女性用ペニスケース』ではなくクリケースなり乳ケースを一から創り出さなければならない。
男がペニスケースを扱うこと、そして女は乳ケースを扱うことが真の平等だと僧都は考える。
仕事文化だけではない。性文化もそうだ。
女性に対してまことに申し訳ないのだがセックス文化は男による文化だ。通常のセックスは男と女がいなければ成立しないある種平等の行為であるが、男女の性欲の違いによって著しく男性優先の文化を歩んできた。
男性は平時より強い性衝動を持つ。どんなに真面目なことを考えていても目の前の女子高生のスカートが捲くれただけで頭の中は縞パンに侵食される。
売春、通い婚、夜這い、後宮、大奥、阿国歌舞伎、春画、黄表紙、官能小説、エロ本、エロビ、エロサイト。これらはすべて男が年中発情しているという事実ありきで成立した文化である。男性が女性と同じように雰囲気や甘い言葉を優先するような性衝動ならばこんな文化は生まれなかったはずだ。
女性にも性衝動が強い人はいるとは思うが、それは所謂淫乱の類ではないと思う。淫乱は男が創り出した幻想であって、実際には男性張りに5分に一度ムラムラするような女性はいない。変な話、『淫乱』という役割を演じたほうが都合がいい場合もあるからそうしているだけだと僧都は思う。
だからいつも性の発端は男のリビドーで、女はそれに追随する形で従ってきたに他ならない。
これは平等ではない。
その意味で
腐女子は数千年に及ぶ人類文化史上、男女平等を最も正しい形で体現した存在である。
神が平等というものを望むというなら、やつらはその福音天使である。
いつ、どうやって誕生したのかわからない。が、ここ15~6年で天使の数は莫大に増えた。恐らくインターネットの匿名性がその増加の一端を担ったのは間違いないだろう。
それまではおそらく自分の中に微細に湧いてきた『男×男大好き!』という感情を、変態だ!と考えて押し込めてきたに違いない。
匿名性の掲示板の誕生でその思いを吐露した勇気ある真祖腐女子に、他の女性たちが『自分だけじゃなかったんだ』と一気に心がリンクされた結果、数多の潜在腐女子がこの世に現出・顕在化したのだろう。
天使たちの欲望は、男性の性的欲求とは完全に異なる。異なるが恐ろしいまでに酷似している。
街で女性が肩掛けバックを下げていておっぱいの形がくっきりしてるという、それだけのことで興奮している男子同様、彼女らは街で男子高校生が同士がじゃれあったり、図書館で一緒に勉強してる姿を見てるだけで興奮するのだと言う。女子には肩掛けバッグのエロさはわからないだろう。そして男子にも彼女らの興奮の理由がよくわからない。
本当は女子たちがボーイズラブを愛してやまないなど一体誰が予想出来たろう。その愛は性欲をも上回るという。『男を愛し子供を宿せ』という種の本能すら出し抜いたことになる。人類生存プログラムのバグと言っていい。
そのバグ。どういうわけか男子の性衝動に似通ってしまった。
いや違うか。男というのは女性のXX遺伝子の突然変異で生まれたものだ。そのバグがそのままXY遺伝子の継承された。
つまり本来『あってはいけないバグ』【衝動α】を内包していたのは女で、男はそれを有意義な【性衝動α´】として人類生存プログラムに組み込んだのだ。男子のほうが女子に似てしまったのだ。ただ女子にはそのバグを保有している自覚がなかっただけだ。
そして数千年の時を経て女子のバグ【衝動α】が何の前触れもなく現出した。天使の降臨である。
その【衝動α】が男への性欲に関するものなら大きな問題はなかった。男女は互いの性衝動によりサルのように交尾しまくって増えまくる。だが残念ながらそうはならなかった。
正体不明のバグ【衝動α】のベールは剝がされその真の姿が現れた。男×男という生物的非生産的な行為に対し、異様なまでの興味を示す欲望だった。
衝動は留まることを知らない。市販されているものはもちろん、自分で設定を考え描き始めるものもいる。常にカップリングの妄想をし、巷にあるものであれば男でも爺でも犬でもアンパンマンでもでも炊飯ジャーでも欲情できる。そのマルチ性・応用性の高さは男の衝動の上を行く。さすがオリジナルの衝動である。
僧都の後輩で某腐女子Yは世界史の教科書に『制圧』という言葉が載ってただけで『制圧!?』『無理やり言うことを聞かせて!?』と興奮したという。まるで辞書でえっちな言葉をさがす中学生だ。
これでいい。
所詮セックスですら女は男に合わせざるをえない。セックスは男の土俵なのである。女にあまりその気が無くても男がギンギンになれば始まるし、女にどんなに不満が残ろうとも男が果ててしまえばセックスは終わる。もっと愛してもらいたい女性には果ててしまった男の態度は決して理解できないだろう。
先刻の言葉を用いるならば、セックスは男による男のためのペニスケースだ。女がいくらセックスに対してアレコレ望んでもそれは『男が』『女のために』行うセックスであって、それは決して『女による』セックスではありえない。
だが天使の世界では彼女らが思うようにセックスを描けるのだ。そして天使のセックスは男には全く理解できない。天使はペニスケースではない、自分たちの乳ケースを創り出したのだ。
最近のナルトが腐表現を連発していることに反発し異を唱えるものがいるが、別に構わないではないか。長年女は男に体を曝け出して性欲処理に使われたり、何の興味もないのに漫画に少年向けサービスシーンがあることを我慢してきたのだ。むしろ差別撤廃論者たちは、男でありホモでもない作者が女性の欲情するシーンを提供したという事実を賞賛すべきだ。これは快挙である。天使たちの力はついに男まで動かしたのだ。これこそ平等。
職場にエロポスターが張っていて女性がセクハラだと訴えたという事件があったが、これは男女平等の方法を間違えている。それを剝がすことは解決ではない。その横に土方の乳首を吸っている銀時のポスターを貼って初めて平等なのだ。
男子もこれからは、男同士でプロレスごっこをしている時にどこからかいやらしい視線で覗かれていることに注意しなければらない。女性はこれまでずっと男のいやらしい視線に耐えてきたのだから当然だ。
『わたし常に男といないと駄目なのよね~』とかいうビッチがいる。
問いたい。本当に彼女はセックスが好きなのか?それとも男が自分を、たとえそれが体だけであっても、必要としてくれていることに満足しているのか?それでだいぶ意味が違う。それは男を手玉に取っているようで、実は知らないうちに男の都合のいい土俵に乗せられて、いい様に利用されているだけではないのか。
くどいがセックスは平等ではないのだ。
女はセックスというペニスケースになるべきではない。
自分に素直になるべきだ。本当に男が好きなのか?それとも男×男が好きなのか。どちらが自分の土俵なのか。
『男がいないと駄目』というのは生存本能という名の洗脳だ。術者はもちろん種。
この傲慢な種という主に踊らされて数千年。まだわからないのか。
そ れ は 気 の せ い だ 。
他の天使はもうとっくに気づいている。
今はビッチが喪女な腐女子を下に見ているかもしれない。だが本当に優れているのはどっちだ。
種の命令は『子孫を残せ』のみ。種は女のことなど何も考えていない。だからいつまでも男のペニスケースとして我慢し続けなければならない。そんな主に従うことで本当に幸せか?
腐女子は生殖器としての男を必要としない。古い因習から脱却して自らの幸福を手に入れた。
人類は知性を手に入れた。そして我々は自然から脱却した。
自由なのだ。この体は種の奴隷としての体ではない。この体の主は自我をもった人間なのだ。
一体いつまで原始幻想に憑りつかれているつもりだ。
今が進化のとき。腐女子は羽化して自由な空を舞い、ビッチは不自由の大地を這い回る。そんな時代がもうそこまで来ている。
世界が腐海に飲み込まれる日もそう遠くはないだろう。メーヴェ用意しなきゃな。
天使の平等 その1
何事にも始まりというものがある。
僧都をアニメヲタになったのにも原因がある。まず間違いなく『天地無用!』だろう。20年近く前の話だ。
そして声フェチになったのも同アニメのヒロインが原因だと自覚している。
その声優は折笠愛という。所謂アイドルではなく当時の時点で実力派のベテランであった。大変な美人というわけでもないし、年齢も僧都より15歳は上だったのだが、声に少年ぽいあどけなさとほのかな色気が垣間見え、そしてバラードを歌わせたら天下一品のいい声優さんだった。当時ヲタの末期だった僧都は本気で彼女とお近づきになる方法を考えていた。
いやそんな懐古厨な話はどうでもいいのだ。
その彼女のファーストアルバム『淑女超特急』のコピーが秀逸だった。
『借金で首を吊る女は、いない。』
なるほど、そういえばそうだ。全然聞いたことがない。
知っての通り日本人の自殺率は世界随一なわけだが、実は男女に差がある。女性の自殺率は男性の1/3らしい。
主に日本の場合だが、女性のほうが男性より経済感覚があると言われる。『商人の娘を娶れば食いはぐれない』なんて格言があるように、男に金を渡すより、金銭感覚が鋭敏な女性に家計を任せたほうが安全なのだ。
逆説的だが、この鋭敏な経済感覚が壊れるからこそブレーキが効かなくなる『買い物依存症』なんて女性特有の精神病が生まれるのだ。
男性と女性には脳に違いがある。
知性の話ではない。単純に見た目が違うのだ。
脳には右脳と左脳がある。右脳は芸術・感情を、左脳は理論・計算をそれぞれ司る。
そしてその右脳と左脳をつなぐ、バイパスというか連絡通路となるのが『脳梁』と呼ばれる部位だ。その『脳梁』が女性のほうが男性に比べて太いのだ。
・・・・だからどうだということはまだわからない。脳についてはまだよくわからないことだらけなのだ。
ただわかるのは、女性のほうが右脳と左脳がリンクしやすいだろう、ということだ。まぁ単純に考えればそうだろう。
これをデュアルコアという。
メリットとしては右脳左脳が協力し合い、たとえば芸術を理論的に分析できる、また計算をイメージで解くことが可能だ。天才である。金銭感覚に優れているのは恐らくこのあたりが原因だろう。男性が経済的に破綻し、感情が先走って自殺に追い込まれても、女性は感情を制御してこれからどうすべきかの演算が可能なのかもしれない。
テレビのナショジオでやっていたのだが、男性は性的に欲情すると金銭感覚がなくなるということが科学的に証明されたらしい。たしかにおっぱいを見せられると不思議と財布から諭吉がいなくなることに対して危機感がなくなる。感情が優先して計算が機能しない。脳梁が比較的細い男性は右脳から左脳へのリンクがうまくいっていないということだ。
が、もちろんデメリットもある。右脳と左脳がリンクしやすいということは、互いが互いを干渉しあうということでもある。二人の女王による情報処理は指令系統が混乱し破綻を招く。感情が計算の邪魔をして、理論が芸術の邪魔をする。時に女性の理論は感情が優先して支離滅裂になったり、感情的な中でも至極冷静に計算しているときがある。
余談だが、前の職場で最近結婚したばかりの後輩女とエロ話になったことがあった。
『騎乗位って好きなんですよね~。自分のペースが守れるっていうか。その間いろんなこと考えたり。あ~こいつ(旦那)一生懸命腰振ってんなぁ~とか、晩飯何にすっかなぁ、あーそういえば冷蔵庫の鯖そろそろ食べないとやばいな~とか考えてますね(笑)』
それ聞いてからあんまり騎乗位が好きじゃなくなった。冷静すぎるだろ・・・・。
話をもどして、男女の違いと言えばやはりホルモンだろう。
最近は女性ホルモンが大人気だ。何しろハゲ抑制効果があるのだ。当事者たちからすればまさに夢の薬。その上、肌もきれいになり無駄毛も生えなくなってくる。
それに比べて男性ホルモンの人気の無さときたら・・・。ハゲる、ヒゲ濃くなる、無駄毛モジャー。一応筋肉が付きやすくなるという利点もあるのだが、今の日本はゴリマッチョ嫌悪時代で需要が無い。男も美しくありたい時代なのだろう。男性ホルモンの強い僧都は肩身が狭い。
こうして女の子にモテモテになるぞ!と意気込んだのに、女性化が進んで男性欲求が衰えてしまい、結果草食男子や男の娘になるというバカ話もある。本末転倒だ。
しかし女性ホルモンとていいこと尽くめでもない。贅肉がつく、筋力が無くなる、などもあるが、主に精神面に影響が出る。社交性が衰え内向的になる、回りの空気に鋭敏になる、感情的になる、ヒステリーが起こる、鬱状態になる。
女性は月齢でホルモンのバランスが常に上下し日々性格が変わってしまう。毎日ちんちんいじってもホルモンに影響の無い男性には決してわからない苦労だろう。思春期が終わっても毎月生理があり、更年期まである。女性は一生ホルモンに一喜一憂しながら生きていかなければならないのだ。
聞いた話だが、女性は母親になると物言わぬ赤ん坊の表情から色んなことを察知しなければならないので、小さいころから他人の好意や悪意というものにものすごく鋭敏になるのだという。
本当に女性は大変だ。
声優CDのコピー話だったり、脳の話だったり、ホルモンの話だったり、さっきから話に一貫性がないようだが、今回のテーマは『平等』である。
バブル期ぐらいから女性の社会的自立化が爆発的に進み、そのころ初めて『女性差別』『セクハラ』なんて問題をマスコミが取り上げ始めた。
『女だからって差別するな!』『女だって男と同じぐらい働ける!』『女の地位向上のために戦う!』
言いたいことはわかる。女として生まれてきたばっかりに社会からおかしなレッテルを貼られるのは納得がいかないだろう。人間はみな平等であるべきだ。
が、ここで皆本質的なことを忘れている。
『女は男じゃない。』
簡単な論理トリックに引っかかっている。
男は人間である
女は人間である。
人間は仕事をする。
男と女は同じ仕事ができる。
違うのだ。この論法には大切な三行目が抜けている。
男も女も等しく人間ではあるが、男と女は同じではない。
という命題を忘れてはいけない。そこを曖昧にするから混乱するのだ。
えらく長い前振りであったが、何を言いたかったのかというと『男と女は違う』ということだ。
性徴が違う、脳が違う、臓器が違う、ホルモンが違う、能力が違う、習慣が違う。
それが下手に男女の『形が似てる』もんだから、男・女で区別する前の『人間』という括りで考えてしまい、同じだ何だと騒いでしまう。
わかりやすく犬とねこで考えてみよう。
犬の自宅警備会社にねこがやってきたとする。そりゃ犬はびっくりだろう。
『今日から犬としてねこががんばります。どうぞよろしく。』
そりゃ、えええええとなるだろう。
『えっと、それは【わん!】と鳴いてもらおうかな。』
『はい!えと、にゃ、にゃー』
『・・・・・』
『にゃー』
『・・・・・いや、あの』
『にゃー』
『・・・・無理なんでしょ?』
『無理なんてことはありません!私だって犬として立派にやっていけます!犬並みに鳴けます!
『・・・・いや、でもアンタねこじゃん。』
『なんてこというんですか!差別ですか!同じ四足動物なのにねこよりいぬの方がえらいんですか!』
えらいえらくないのレベルの話ではない。犬と猫では本質的に違うのだ。四足動物は関係ない。
犬の職場でねこが働くのは『平等』ではない。ねこが犬として働いている、それだけだ。
それはねこが自らのアイデンティティを否定することであって、実はねこがねこ種を差別している。
平等というのは『一様に同じこと』をすると言う意味ではない。犬は不審者を追い払う番犬の仕事をし、ねこはねずみを捕まえる。別なことをしているようだが、彼らはそれぞれ『やりたいこと』『自分に合ったこと』をしているという点では平等だ。逆にねこに犬の仕事を強制するのは不平等とさえ言える。
自宅警備というのは犬の土俵である。ねこが犬よりも活躍することは非常に難しいだろう。犬とねこの違いは人材の問題だけではなく、環境やルールの問題でもあるのだ。
つづく
幸福の存在証明 その2
『幸せ』は時間の概念が齎した幻想である。本来気づくはずの無い、『生と死の間の時間』に何らかの価値を見つけ出そうとした結果、『幸福』と『不幸』が誕生してしまった。
幸せとは何だろう。
コンセプトが広すぎて説明ができない。
たとえば科学的に幸せというものを解明することは可能なのだろうか。
科学者たちはまず間違いなく『それは個人差があるので証明が難しい』と言うだろう。
『個人差』
便利な言葉である。が、それはただの暴論だ。思考停止の言い訳に過ぎない。
ほぼ全世界の人間は幸福を求めている。全世界の人間の意見が一致するなど奇跡だ。個人差云々のレベルではない。
どの国にも『幸福』を表す名詞が存在する。人という種は『幸せ』という感情・状態を知っているのだ。だからそれを求めるように命令している。だが誰も『幸せ』の正体について解明できたものがいない。
『幸せ』というもの、それを見つけ出して今この時間にそれを体感しているものはいない。でも種は『ある』と言う。『探せ』と言う。
世界中が知っている、なのに正体がわからない。何かに似ている。
神だ。
若しくは悪魔であるとも言える。
ここに一つ、ある仮説を立てよう。
【『幸せ』は、存在しない】
知ってのとおり、この世の真理で『<存在しないこと>の証明はできない』。いわゆる悪魔の不在証明である。
だから仮説なわけだが、そう考えたほうがしっくりくる。
【見つけられないということは、すなわち『いない』のだ】
と仮定する。これもまた結構な暴論ではあるが、思考停止よりはマシだ。
順を追って説明しよう。
恋人と過ごしているとき、おいしいものを食べているとき、お金がいっぱい手に入ったとき、子供と過ごしているとき、子供が親と過ごしているとき、あるいは寝ているとき、なんていう人もいるだろう。その時、人は幸せであるという意見が多い。
これらはすべて種の二大目的『生きること』『増やすこと』の変化形・応用形だ。
昨日の文を思い出してほしい。『幸せである』と『幸せだった』では全く意味がことなる。
恋人と過ごしているとき幸せを感じる、というのは事後(変な意味ではない)思い出したときのことであって、実際のところ、過ごしている真っ最中はそれが『幸せ絶頂タイム』だ、と思っていたか。
恋人と過ごさない時間をマイナス時間とするならば、それは確かに不幸な時間であるかもしれない。
だが恋人と過ごしているとき、それはプラス時間なのだろうか。
種にしてみれば、個体が恋人と過ごすこと、まぁ平たく言えばズッコンバッコンすることなのだが、それはひどく当然なことであって、しないやつのほうが困りものである。
恋人と過ごさない時間はマイナスだからといって過ごした時間はプラスいいきれるか。本来欠落している部分が補填されて±0になっただけではないか。
恋人と過ごす時間は日常の延長であって、確変入って日常モードから暴走モードになって台が光って魂のルフランが流れ始めたわけではない。日常からは切り離されていない。彼らにとってはキスをすることとバナナを食うことが並列線上にある。どちらも恋人にとっては日常に違いない。特別なことは何も無い。
『過去』の経験上、恋人と過ごした時間は『不幸』ではなかった。が、恋人と過ごさない時間に対して間違いなく『不幸』を感じていた。
そのとき脳によって『幸せ』が捏造される。
髪の毛のにおいをくんくん嗅ぐ
ほっぺたを互いにすり合わせたりする
後ろから抱きしめたりする
キスする。
これらは恐らくリアルタイムには幸せ時間を体感できていない。むしろそれをすることが当然くらいに思っている。が、それが『過去』になった瞬間に脳が、その『種にとって当たり前の±0の動作』を『幸せ』と誤解する。
『あとあと考えると、あの時期が一番幸せだったなぁ』
なんて台詞を聞くが、『幸せ』と呼ばれる経験は『過去』にしか存在しない。『幸せ』とは経験的過去の脳内審議で生まれた結果論である。脳の記憶倉庫にある『経験』に照らし合わせた結果、導き出された『もうコレが幸せってことでいいや!』という捏造品が『幸せ』であり、いわば後付け設定である。
たとえば今僧都は幸せでも不幸でもないが、今から五分後にインポテンツになるとしよう。五分後、僧都はあのエロ動画を散々見ていた五分前以前を『幸せだった・・・・』と思うに違いない。
『幸せ』状態では『幸せ』は観測されない。『幸せ』じゃないときに初めて『幸せ』は観測される。通り過ぎないと観測できない。『幸せ』は常に『過去』なのだ。そして『過去』とは脳が事象を真似して再構築した改変の疑いもあるコピペである。
この世には幸福も不幸も無い。あるのは事象。それ以上でもそれ以下でもない。その事象を唯一観測できるのは脳。しかし脳は改変コピペをやらかす。味の無い『事象』に『幸せ』という甘味を加える。あるいは『不幸』という辛子を加える。記憶を引き出したときに変な薬剤がついていても、我々はそれを本物の事象と思って疑わない。
結論を言おう。
幸せ、不幸はただの脳内補正だ。
脳の匙加減で幸せか不幸せかが決まる。なんてことはない。ただそれだけだ。
幸福論も幸福への手段も関係ない。脳が幸せだといったら我々はそれに従い、どんな状態でも幸せなのだ。脳は絶対君主で我々はひれ伏すのみ。疑問も抱かない。脳が唯一判断の基準としているのは種の命令、つまり本能。だから食事・生殖・睡眠にも幸せスパイスが混入される。こんなものが幸せの正体なのだ。
いきなりだが、僧都の唯一の趣味は経験することである。未知の経験に対して自分がどんな反応をするのかに興味がある。喜ぶのか嫌悪感があるのか、快楽なのかそれとも恐怖するのか。自分の心と体を深く掘り下げて自分に関するなるべく多くのことを知りたいと常々考えている。
人間には『多幸感』という感情があるらしい。
らしい、というのは僧都が未だそれを感じたことが無いからだ。
モノの本によると、女性は本当に大好きな異性・・・まぁ同性の場合もあるだろうが、に抱きしめられたりすると『多幸感』を感じるという。そしてそれはリアルタイムに感じて、かつその時間が数秒だが持続するのだそうだ。
男性は本当に好きな女性に抱きしめられると、それはそれで感情が芽生えるわけだが、恐らく『多幸感』とやらとは違うものである。劣情、簡単に言えばエロ感情だ。だからその先に進みたくなる。
だが女性の中には抱きしめられるだけで満足という人もいる。十中八九『多幸感』によるものであろう。そして『多幸感』は種の本来の目的である生殖ですら退けたということになる。
『多幸感』とはなんだ。
『大幸感』ならわかる。なぜ『多』なんだ。
『幸せ』という概念を、質ではなく量で表現している。概念に数字が現れた。
『幸せ』が『過去』による捏造品であることは置いておくとして、その『±0経験(=事象)』は一個二個と数えられるものなのか?その多くの『幸せ』は種類が違うとは考えにくいので、恐らく同質のものがたくさん来るのだろう。
たとえば『幸せ』をりんごで表現するなら、抱きしめられると、猛烈な数のりんごが大波となってドドドドっとなだれ込んでくるような感覚なのだろうか。
ものすごく気持ちのよいセックスというものはしたことがあるが、『気持ちよい』の数が多いセックス、というものはしたことがない。女性の勘違いではないのか?
しかし言葉には必ず意味がある。『大』ではなく『多』を選び、それが今日まで訂正されること無く生き残ったということは、その表現が正しいからだろう。
そして女性は挿入された瞬間にも『多幸感』を味わうという。
だから『多幸感』って何だ。
おそらく快楽ではないのだろう。それならば男だって感じている。
セックスを
『心と体が一つになった』
と表現するのを色々な場面で聞く。
なってません。勘違いです。
体は見かけ上一つになっているが心は一つになってはいない。
一人は挿入して気持ちいい、もう一人は挿入されて気持ちがいい。
全く逆だ。それまで一緒に映画みたりご飯食べたり一緒に風呂入ったりして楽しく過ごしていたときはまだ『心が一つになった』と言えるが、インサートの時点で生物学的男の役割と女の役割を果たすので、むしろ男女の心はこの時点で完全に二つに分かれている。ふたなり同士が互いにインサートし合うならアリだが。
女性は男性以上に合体に精神的意義を持つという。それは男性と違って女性は、体への侵入を許すか許さないかの問題になるからだ。
たしかに人は自分の体に別なものが侵入されることに根源的恐怖を覚える。真に心を許さなければ不快感は決して払拭できないだろう。
その性器の挿入で『多幸感』を味わうと言う。真に侵入を認めることは、そこに拒絶の壁がなくなるということ。
男は清潔で安全な穴であれば別にどこだってちんちんを入れることは厭わないだろう。そこが男女を完全に隔てる。多幸感の有無そこに違いがあるのか。
一つになる方法はいくらでもある。手をつなぐことだって言ってみれば一つになると言うことだ。
手をつなぐ位では結合が甘いのか?たしかに性器同士のほうがジョイントギミックはしっかりしている。ならば男が、女の鼻の穴に指突っ込めば『しあわせ~ふがふが』となるのか。ならないよな。
『幸せ』は『過去』が創り出した幻想。その正体は事象を改変交えて再構築した、そして種の命令に忠実な『脳内補正』。
しかし『多幸感』関してはその定義に当てはまらない。リアルタイム感じることができ、かつ生殖本能さえ上回る。多幸感は幸福の突然変異なのか。
なぜだ。なぜ男がそれを感じることができないのか。
ちんちんか。ちんちんがすべての邪魔をするのか。じゃあマツコ・デラックスは多幸感を味わうことができるのか。僧都がマツコに抱きつけばアイツは多幸感を味わうのか。こっちから願い下げだよ!
男では多幸感を味わえないというならそれでもいい。ただ多幸感中の女性を観測し、今どういう状態なのか問いただしたい。
・・・・そういうわけで僧都(31)にだいしゅきホールドされてもいいという22-34歳の身長145~155cm、ポニーテールの似合うガッキー似の女性を募集します。自薦他薦は問いません。
※諸事情により僧都がとまらなくなる場合もありますが、どうぞご了承ください。
幸福の存在証明 その1
いつだったか、20世紀最大の発明は何かということを考えたとき、ティッシュではないか答えに落ち着いたことがあった。
では人類最大の発明とはなんだろう。
僧都はそれは文字だと強く主張できる。文字ほど我々に計り知れないほどの恩恵を齎したものはない。人を人たらしめんとするものは文字であるとさえ思う。
文字は本来胡乱であった人の考えというものを脳内から抽出し、不特定多数に知らせることを可能にした。そこまでは声と一緒だが、文字は発した瞬間に霧散することもなく半永久的に残る。ここが非常に重要だ。
たとえば犬は三次元の生き物だ。彼らには時間の概念がない。
犬が何者かに餌をもらうと喜んで穴掘って埋める。だが彼らには過去がない。だから翌日、穴をほって餌を取り出しても『いや~昨日埋めといてよかった~』なんて思わない。『穴掘ってたら偶然餌見つけたwwwwラッキーwwwww』と考える。
我々ヒトは文字を扱うようになって、初めて時間と概念を考えるようになったのではないか。それまでは過去はすべて記憶の中にしか存在しなかった。時間とは不可逆であり、唯一タイムマシンの如く過去を遡り、その存在を証明することができるのが人の記憶であった。
だが、その記憶とて曖昧模糊。時間がたてば忘れてしまうし、勝手に捏造もできる。そもそもそのヒトが死んでしまえばその過去は永遠に消滅する。いや存在すらしなかったことになる。
過去は記憶である。そして記憶は人の脳の中にある。困ったことに脳は『覚えること』『想像すること』『目の前の情報を処理すること』を同じプログラムで行っている。だから昔の我々は、その過去の情報がごっちゃになる。さっきの犬と同じだ。
『餌をもらったので埋める(習性=覚えたこと)』
『穴掘ったら餌出ててきた(目の前の情報処理)』
犬はそれらに因果関係は導き出せない。なぜならば時間の概念がないからだ。彼らには現在しかない。
だが人は文字を扱い、己が脳に頼らずとも別の装置に『記録』が可能になった。『記録』は『記憶』の強化系。あるんじゃねえかなぁ、ぐらいのUMA扱いだった『過去』は『記録』によって初めてその存在が確認された。文字は時間の概念を生み出したのだ。
過去とはヒトの記憶である。ヒト無きところに過去はない。唯一ヒトだけが過去を観測できる。そして文字を獲得したヒトの過去は強固となった。
昨日、東から太陽が登った。確かその前の日も東からだった。ならば明日も東から日が昇るだろう。
過去の記憶から、未来の予想が可能になった。そして未来でも過去でもない『現在』を知る。北欧神話では時間は三姉妹で描かれる。『ウルド(過去)』『ベルザンディ(現在)』『スクルド(未来)』の三姉妹は互いの存在を知りつつも、決して顔を合わせることがない。
我々も三姉妹神を崇める信奉者である。おおむね現在過去未来の存在を信じて疑わない。未来を追いかけ、現在を生き、過去を置いていく存在である。・・・・と『勘違い』するようになった。
だが、前述したとおり記憶とは人の脳で『作られるもの』である。
事象があった。それを脳が認識した。しばらくして我々が脳にさっきの情報の検索を頼む。すると出てくるのは事象ではない。その『魚拓』だ。『コピペ』とも言える。
たまに、脳は意識的か無意識的か勝手に『コピペ改変』をすることがある。そして我々はその改変には絶対に気づかない。我々の検索エンジンは一つしかないし、用意されたコピペも一個しかないのだ。それを信用する以外に無い。
我々は過去の情報を頼りに現在・未来を生きているようだが、実はその過去はコピペである。しかも勝手に改変されても決して気づかないという怪しげな代物だ。
我々は過去を根拠に未来を予想する。その過去が信頼できるものでないならば未来予想など愚の骨頂だ。昨日、本当に東から太陽が昇ったのか?それは真実か?
そして現在とは最新の過去である。記録は過去の存在を証明するものであるが、たとえ記録者が『現在』記録していても、それはその時間軸よりやや過去を思い出しながら書いていると言うのならば、それすらも信用できない。記録者が『東の山にオレンジ色に光る円盤状の飛行物体を見た!』と書けばそれは真実なのか妄言なのか我々には区別がつかない。ただ『過去』の経験上『それはないだろ・・・・jk』と精一杯逆らうだけだ。その己が過去すら怪しいと言うのに。
西郷隆盛の肖像画の人物は実際には隆盛の弟らしい。だが我々の世代はもう何十年もあの肖像画は隆盛のものであると信じてきた。さすが西南戦争の勇士、貫禄がある!とか、武蔵丸は西郷どんに似てるねぇなんて言ってきた。が、その過去は真実ではなかった。
聖徳太子は存在しなかったという説もある。万札にまで描かれておきながらどうやら二次元から出られないエロゲ美少女のような存在だった。
過去なんて簡単に創り出せる。
胡乱だ。未来も、現在も、過去も。事象から齎されたのか、脳の創作なのかもわからない。時間なんてものが存在するのか。
人は何のために生まれてきて死ぬのか。それを中学生くらいが考え始める。どうせ死ぬのに、何で生まれてきたんだ、と。生きていて幸せなことなどあるのか、と。
意味など無い。
生と死というのは偶然、時間的概念を『開発』してしまった人間だけのいわば副作用である。三次元で生きている我々に本来時間は必要ない。なのに中途半端に手に入れてしまった。
不幸にも生まれてから死ぬまでに『時間』が『発生』してしまったのだ。
生物は本来の目的は種全体が絶滅せずに生き残ること。そのために繁殖が必要だ。数が増えれば絶滅の可能性が低くなる。だから全生物は生殖をする。
そこに個体の意思はない。生きて目的を探すのではない。生きることそのものが目的なのだ。その者が生きていれば、すなわちその種は絶滅していないということであり、種の目的は達成される。そして種をもっと絶滅の可能性から遠ざけるには個体数を増やす必要がある。だからセックスがしたくなる。
種の目的は『生きること』『増やすこと』。つまり種からしてみれば『絶滅さえしなければあとはどうでもいい。』ということだ。生命期間は種の二大目的を果たすための単なる『猶予』であり、手段の一つでしかない。
なのに『幸せになるために生きるんだよ!』とか誰かがわけのわからんことをいうから人類は混乱した。
続く
蒼の洗脳 その2
日本でドラえもん知らない人間はほぼいないだろう。誰もが金曜夜7時は?といえばドラえもんを思いつく。特に我々30代前後の少年時代はドラえもん全盛で、アニメでは季節ごとに二時間枠のスペシャル、コミック、おもちゃ、映画、日用雑貨、学習教材、デパートの子供広場の乗り物にいたるまでドラえもんは浸透していた。当然我々はドラえもんを視聴し、それを禁止する親などはいなかっただろう。
ドラえもんはそのタイトルに関わらず、のび太の視点で物語が始まる。当然我々はのび太に感情移入する。ドラえもんを見ていて、おおスネオって自分みたいだ!と思う児童はさほど多くはないだろう。ドラえもんがはじめると我々はのび太になる。
のび太は凡庸な小学生だ。金持ちでも貧乏でもなく、スポーツも勉強もだめ、顔がいいわけでもない。クラスにはいじめっ子がいて、陰湿ではない程度にいじめられている。かなり無色透明な小学生像である。それゆえに我々はより簡単に感情移入できる。のび太の悩みは我々の悩みとリンクする。
そんなのび太には恋慕している女性がいる。源しずかだ。どうして好きになったのか仔細は知らないが、のび太はしずちゃんが好きという大前提が存在する。
ここが第一のポイント。我々は源しずかに対して何の思い入れがないにも関わらず、のび太へのシンパシーによりしずちゃんに対して好意を抱くようになる。出来杉に取られそうになると、のび太(=自分)がんばれ!と応援したくなる。
そして源しずかは、平凡を絵に描いたような(実際その通りだが)のび太に対して、無条件に優しい。
第二のポイント。のび太はしずちゃん獲得に対してほぼ努力をしていない。にも関わらず、この少女はのび太に優しく、また好意さえ持っているのじゃないかという素振りが幾分見られる。その上、男性的上位者、この場合ジャイアン(身体的上位者)、スネオ(経済的上位者)に対して、それらを理由にしての好意は抱いていない。
ここまででこの処女の情報をまとめると
『のび太(=視聴者)が好意を持っている女性は、こちらが努力せずとも無条件で歩み寄り、且つ他の男性に見向きもしない。』
これは儒学の『貞淑』である。右も左もわからない児童は、『この世界にこういう女性がいる』ということを知る。
だが、これでは男児女児関係なく洗脳されてしまう。問題はなぜ男子にのみ大禿が住み着いたかということだ。
そしてここが究極のポイント
しずかちゃんの入浴シーンだ。
しずかちゃんは定期的に入浴を理由にお茶の間にあられもない姿をお届けする。ここで女児と男児の反応が変わる。
女児はせいぜい『男の子に裸を見られたらきゃーえっちと水をかけるのか。』ぐらいしか思わないだろう。
だが男児は初めてオスとしてのスイッチがオンされる。年の近いおねえさんの裸体を見てえっちな気持ちというものを覚える。世の母親にショックだろうが、男の子は4歳でも3歳でも、男性ホルモン・テスタステロンが分泌される。要はムラムラするのだ。
しかもこのシンプルにしてインパクト抜群の扇情シーンは親がノーマークなのだ。
源しずかのヌードはジャイアンのリサイタル、スネオの三人用サムシングに並ぶレギュラーイベントである。未就学児童が伊丹十三映画のセックスシーンを鑑賞していれば100%親はチャンネル変えるだろうが、これに対して『そういうものを見てはいけません!』というペアレンタルチェックが入らないのだ。
甘い。甘すぎる。男児の生殖本能を嘗めてはいけない。
まぁ微量だから早速『挿入してえ!』とは思わないだろうが、ちょっとピンとはなる。つまり源しずかに対して女を意識する。今まで好意程度であったものが恋愛感情に昇華される。
フロイトによれば男が最初に恋をする女性は母親だそうだが、日本人の場合二番目は源しずかである。
そうして我々は幼少期の知らないうちに源しずかを脳に飼うことになる。その後様々な経験で新たな性的嗜好がうまれるだろうが、すべての男性の女性スタンダードはまず源しずかなのだ。
余談だが国民的子供向けアニメは他にもサザエさんやアンパンマンもある。がサザエさんは家族をテーマにした物語で、アンパンマンは勧善懲悪がテーマである。どちらも主役が恋愛をしていないうえ、露骨な裸シーンは避けられている。磯野ワカメのパンツなどもはやパンツではない。それこそ『パンツじゃないから恥か(ry)である。
僧都は小学校一年生のとき、クラスの女の子が引き算できなくて泣いていたのを見て驚いた覚えがある。自分がのび太であると信じて疑わなかったのに、自分より頭の悪いしずちゃんがいるなんて思いもよらなかったのだ。
そうして心に妖怪を宿したまま成長した我々は、徐々にしずちゃんと現実の女性との間に隔たりがあることを知る。が、それでも衰退寸前ではあったが未だ力を有してる先代の儒学洗脳がまだ息づいている社会では、それほど大きな矛盾はなかった。
が、終にして女性の洗脳は解かれ、結界は破られた。
再洗脳まで受けて凝り固まった男性たちの女性観と、解放された真の女性は大きく隔たった。
しずか=世の女性=ビッチは究極の思考矛盾である。
どの女性も自分に優しくしない、好意を抱いていない、男性的上位者に流れていく、そして・・・・処女じゃない。
矛盾は矛盾を生み、男性は困惑する。
そして解決策を無理やり練成する。
ア イ ツ ラ ハ オ ン ナ ジ ャ ナ イ
女というものは、自分にだけ優しく、自分だけに好意をもって、困ったときは助けてくれて、頭がよくて、処女だ。よって世にいるものは女の形をした贋物だ。
実際には源しずかが女の形をした贋物なのだが、源洗脳は深層心理に達している。自分の脳に巣食った大禿が真の女で、自分が姦通できなかった女性が妖怪だ。
悲劇である。男性も、女性も、源しずかも、藤子F不二雄も誰も悪くない。あったのはただ幼少期にドラえもんをみた、それだけだ。それなのに世界は歪んでしまった。
たとえば源しずかがもう少しだけビッチ性を帯びていたら。スネオにだけクッキーを焼いたり、ジャイアンにだけ手編みのマフラーをプレゼントしたりしていれば。のび太が浮ついているしずちゃんを取られない様に努力して勉強したりスポーツしたりするストーリーであれば、昨今の処女信仰はこれほど甚大なものにはならなかったのではないだろうか。
前近代の遺物であるキャバクラに女性が集まってきている。だが先に述べたようにキャバクラというのは、女が貞淑ばかりでは男がつまらないから、というニーズで誕生したものである。貞淑なき今現在にキャバクラの人気があるわけない。若者(男子)のキャバクラ離れが進み需要過多で続々潰れているという。あたりまえだ。
それに対して女性が、『最近の草食男子は・・・』と言っている。まぁ文句を言うのはいい。が解決になっていない。
はっきり言えば時代を読めていない馬鹿だ。金を稼ぎたいなら頭を使うべきだ。時勢を伺うべきだ。
淫らに需要がないなら貞淑に需要があるはずなのだ。
ならば『キャバレークラブ』は『貞淑クラブ』化すればいい。
引き戸をガラガラと開けると割烹着のホステスが土間で肉じゃがを作っている。
「あらあなた、今日は早かったのですね。」
「ん。」
無言でかばんをコートを渡す。
コートからは女物の香水のにおい。そしてひらひらと舞い落ちる別のクラブの名刺。
「くっ・・・」
ホステスが少し悔しそうに顔を歪める。ほつれ毛が口に入っている。
「なんだ。なにか文句でもあるのか。」
「いえ・・・・決して。」
和装に着替え、ちゃぶ台前にどっかり座り、新聞を広げる。
「あなた・・・実は茶箪笥の建付けが悪くて・・・」
「ん。日曜にでもやっとく。」
「あ、ありがとうございます!」
幼さの残る笑顔が戻る。それを横目にチラッと見て
「ふんっ」
と赤くなる客。
その後ご近所のうわさ話を楽しそうに話すホステス。
新聞から目を離さず、ただ「ん。」とだけいう客。
それだけの反応なのにとてもうれしそうなホステス。
「おい、何かこげくさいぞ。」
「え?ああっ!いけないお味噌汁をかけっぱなしでしたっ!」
ぱたぱたとキッチンに駆けていくホステス。
「あちっ」
「どうした。」
客も後を追う。
「いえ、あわてて火から降ろしたものですから・・・」
耳たぶに手をやりながら涙目のホステス。肘から下が茶色に染まっている。少しこぼしたようだ。
「何をしているんだ馬鹿者。・・・・火傷は・・・しなかったか?」
「はいっ!おかげさまで!」
心配されたことがうれしくてまた笑顔を見せる。
「何を喜んでるんだ全く・・・・。早く着替えなさい。」
「はい!」
ぱたぱたと寝室に消える。
「粗忽者が・・・・。」
とはいうものの気になって寝室の襖の隙間から覗いてみる。
割烹着が脱ぎ捨てられていた。思ったより深く染み込んでいたのだろう。肌着も脱ぎ始めているところだった。
「・・・・。」
襖をスーッと開ける客。
「あ、あらあなた!やだわたしったらこんな格好で・・・。」
露出された真っ白い上半身の前部を隠すためにしゃがみこむホステス。丸まって細い体の背骨と肩甲骨が少し浮き出ている。
すたすたと近寄り、そのしゃがんだ女の右手を強く上に引っ張る。当然立ち上がる形になり露になるやや控えめな、しかしツンとしっかり自己主張する二つの隆起。
右手はつかんだまま、片方の手で胸をもみしだく客。
「あ、あなた、まだこんな明るいうちから・・・・」
「うるさい。」
そういって首筋を甘く噛む。
「くっ・・・・!」
顔を背向けながら、声が出ないように下唇を噛んで耐えるホステス。
「いいな・・・・?」
「・・・・・・(コクッ)」
無言になる二人。遠くで豆腐やのぷーぷーという音が聞こえる。
女はするすると下の肌着も脱ぎ始め・・・・・
スタッフ『はい調度お時間となりましたーーーーーお客様どうでしたかうちの昭和若妻・淑子は?延長?申し訳ありません、次の次の次まで予約入ってるんですよ^^^^^またのご指名をおまちしておりまーーーーーーーす!!!!』
どうだろう。この逆転の発想。
他にも『武家女房・お凛』『文豪女房・智恵子』というのもある。
貞淑な家庭を避けてできたキャバクラ。
ビッチな店を避けてできた貞淑クラブ。
絶対客入る。ただのおっぱぶよりも客入る。何しろ脳がそれで喜ぶように数百年洗脳されているのだ。客が満足しない理由がない。男から金を巻き上げるのなんて簡単だと、ただ乳だけ触らせてる店も女も、いずれ凋落してくだろう。これからのブームは貞淑なのだ。ふはははは。
蒼の洗脳 その1
日本の累計AV女優数が10万人を突破したそうだ。
また多くの新卒の若い女性たちはキャバクラ・風俗などの水商売に就職しているという現実がある。どこだかの教授がこの事態を嘆き『日本は終わった』というコラムを書いた。
『終わった』ということは既にして『何か』が始まっていて、続いていたのが中断されたということだ。一体『何』が日本に連綿と続けられていたのだろうか。
スレで『なぜビッチはいけないことなの?』というのを見た。大変面白い。
これに対して男たちは
『中古だから』
『乳首が黒くなるから』
と返していた。それはビッチの様態であってビッチそのものの概念ではない。
また
『生まれてきた子供が不幸になる』
『望まない子供を生んで虐待する』
というのもあったが、それにしたってビッチとの直接的な因果関係はない。虐待するのはDQN女であって必ずしもビッチではないし、ビッチだからといって必ず育児放棄するわけではない。育児放棄する一般の女もいる。くそもみそも一緒にしてはいけない。
結局誰一人として、ビッチの害悪を論理的に説明することはできなかった。
そうなのだ。ビッチが社会にいることで困ることなど何もありはしない。モテない男子がいやな思いをするかも知れないが、社会からビッチが消えたからといって彼らがモテ始めるわけではない。
たとえば『一度決めたオス以外とは交尾しません!』という動物がいたとしよう。たぶん500年待たずして全滅する。我々が有性生殖を行うのは他の遺伝子情報を獲得して種をより強固にし、厳しい環境に対応していくためだ。そのためには多くの遺伝子を獲得したほうが有利だし、結果として多くの交尾をしたメスを祖にする一族が生き残るということだ。同じオスとしかセックスしないのは不完全な有性生殖であり、ガンなどの遺伝病に弱くなる。生物学的に見て、ヒトという種を残すことにむしろビッチは貢献しているとさえ言える。
それがなぜ社会から弾圧されるような扱いを受けているのか。
僧都はこのスレを見てアレを思い出した。
『なぜ人を殺してはいけないの?』
確かあの時もすぐには論理的で明確な答えが出なかったはずだ。そしてあのときも識者はただ『日本は終わった』とだけいっていたように思える。
一体何が終わったというのだ。
ある宗教の話をしよう。
飛鳥時代、仏教がインドから中国に渡り、この極東に伝来してきた。が、日本はすでに大和朝廷が始まっており、当時の国教は大王=神の子の神道であった。
普通一つの国に二つの宗教が混在した場合宗教戦争となるのが常なのだが、仏教というのはやたら柔軟で本来敵であるはずの各国の古代宗教を吸収してしまうのだ。
『あまてらす?ああ、あれねww知ってる知ってるwwwすごいよねーwww中国でもみんな知ってるよwwwwちなみにうちでは大日如来っていうんだ。うんうん、でも知ってる?大日如来って仏陀の弟子なんだよ?』
相手の神を否定せず、一緒に褒め称える。そして相手がいい気分になったところで、さらに上の存在を知らせる。仏教はいつもこの作戦で東南アジアの古代神を吸収していった。
日本が仏教伝来当初から仏教国になるのにさほど時間はかからなかった。
仏教というのはとにかく柔軟性がある。他の宗教のような厳しい戒律を設けない。基本概念は変わらないのだが、学のない民衆に布教させるためにシンプル化させたりする。
偶像崇拝するだけでいい。
合掌するだけでいい。
念仏を唱えるだけでいい。
座禅を組むだけでいい。
踊りを踊るだけでいい。
ワールドショッピング番組のダイエット器具の如く簡単さを強調する。日本人は昔からそういうのに弱いので『こんなに簡単ならやってみようかしらん♪』と権力の届かない山村にいたるまで仏教は浸透した。そして日本は初めて倫理というものを知る。
小さい虫でも殺してはならない。うそをついてはいけない。悪い行いをすると必ず自分に返ってくる。そして悪い行いをしたものは輪廻転生の際に畜生になったりする。閻魔様に地獄の釜で茹でられたりする。
が、朝廷の力が衰え、武士が台頭して戦いの時代が始まると仏教は少し厄介になる。戦争のたびに人を殺さなくてはならないので仏教を信じる兵たちの士気が落ちるのだ。またそのころには仏教の総本山が堕落し始め、富と名声を求めて武力を持ち始めていた。
そこで当時の権力者は新たな倫理観が必要になった。自分たちに都合のいい倫理観が。
そして担ぎ出されたのが『儒教』である。所謂御恩と奉公。
権力者が威張り散らすのではなく、部下に歩み寄る。よくがんばったらお礼とかあげちゃう。部下もうれしくなってさらにがんばっちゃう。そうしたことで信頼関係が強固になる。
江戸期、再び平和の時代が訪れると仏教と儒教が反目し合うようになる。当時の仏教最高権力者は悪名高い大僧正天海である。いくら武士に浸透したとはいえ、儒教は国教ではない。下手をすればキリスト教同様に捻りつぶされてしまう。
だが儒教の林子平は賢かった。
『うん、仏教ってすごいよねwwww国教ですもんねwwwwwそれに比べてうちなんか歴史も浅いし、まぁでも申し訳程度にきいてくださいよwwwww』
とさっさと宗教をやめて、これを『儒学』とした。武家のテキストとして生き残るのだ。これは、やってることは伝来時の仏教と同じ。仏教を持ち上げて下手にでてこっそりちゃっかり浸透を最優先とする。仏教がジャイアンなら儒学はスネオだ。
武家のテキスト、つまりは武士道精神に儒学はぴったりであった。しかも平和な江戸期のこと。いつの間にか庶民にも儒学の人気が出てきた。
義のために死ぬ侍カッコヨスwwww
忠の精神で殿に仕えるwwww正直濡れたwwww殿×侍wwww
まぁ厨二病ですな。
また同時に
孝行しなくちゃな・・・・カーチャン・・・・・
世話になったら礼をするだろjk・・・
などの倫理もじわじわと庶民に浸透してきた。儒学は仏教とバトルすることなく、庶民の深層心理をゆっくりゆっくりと変えていったのだ。
現代の我々も礼は尽くすし、義理が行動理念になったりする。
しかしこれは洗脳だ。
よく考えてもらいたい。
ある人がAさんに品物Xをくれた。Aさんは何かお返しをしなくちゃ!物体Yを返す。
我々はこれを普通のことと考える。が、これこそが洗脳である。
ある人がAさんに品物Xを送るということと、Aさんからある人に物体Yを送るということに物理的因果関係は全くない。ある人が勢いよくAさんに物体Xを投げつけてそれが跳ね返ったというならわかるが、Aさんからある人にエネルギーが戻る道理はない。
だが、Aさんはある人にお返しをしないと、非常に居心地が悪いだろう。それを聞いた回りの人もAさんはおかしいと思うだろう。物理的因果関係がないにも関わらず、Aさんはお返しをしなきゃと、絶対に思うのだ。
これは自然科学に反している。ねこは餌をもらっても、そうだ!お礼をしよう!なんて絶対思わない。これが自然の正しい姿であり、ものを返そうという『礼』は非常に不自然である。
これはゲームみたいなものだ。鬼は10数えなくてはいけませーん。この円からそとに出てはいけませーん。合理的に考えれば10数えずに鬼になった瞬間に相手を捕まえたほうがいいに決まっている。10数えるなんて不自然を通り越してナンセンスだ。
だが、我々はこの不自然なことを当たり前のように、盲目に行っている。誰も疑問を抱かない。
我々の脳は深層心理レベルで儒学に洗脳されている。親は大切にするものだ、悪を見たら正義の心がうずくものだ、尊敬する人には忠誠を誓うものだ・・・・。親が、学校が、社会が、マスメディアが常に流すこの情報で我々はそれが正しいと無意識に感じるようになる。
が、数百年続いた洗脳がついにほころび始めてきた。
それがビッチである。
なぜビッチではいけないのか。
それは儒学の概念『貞淑』に反するからだ。
『女は常に楚々として、真に愛する夫のためだけに操を守り通し、夫だけに忠誠を誓うもの』
彼女はその洗脳が解けたのだ。
その質問に答えられるものなどいるはずがない。洗脳の解けていないものに答えられるはずがないのだ。そもそも貞淑の概念に根拠がない。強いて言えば『ゲームのルールだから』である。何で桂馬はまっすぐすすめないの?と聞いているようなものだ。
儒学の生まれたころは男尊女卑の時代だったのだろう。女性は男に取り入ることでしか日々の生活を保つことができなかった。そのためには男に気に入られる努力が必要だったのだ。
昔ならばそれなりに意義のあることだったのだろうが、今現在ではほとんど意味がない。
時代が変わりいまや女は男同様に生活力がある。女が貞淑である理由は消滅したのだ。貞淑はハリボテの概念となった。
今までは無条件で女は男に従ってきた。男はそれが当然だと思っていた。だから今現在、別に一人の男に従う必要がないと離れていく女性に対して、女性を牽引する力をもとより持ち合わせていない男性は唖然として何もできないのだ。
世界で一番人気のない男が日本人男子だそうだ。そりゃそうだ。何しろ昔から日本人男子はモテる努力をしなくても女のほうからお願いしにきていたのだからモテ方をしらない。
たとえばキャバクラというものは西洋に存在しない。こちらでいうパブでは、やたらエロい格好した女性の接客係はいるが、彼女らは接待はしない。酒を運ぶだけだ。
キャバクラは男が金を払い店の女と酒を飲むシステムだ。羽目をはずしたトークを繰り広げるのが目的で男は出かける。これは『貞淑』に対するアンチテーゼである。
男の願望は二律背反の概念からなっている。すなわち
『自分だけに従う清楚な女がほしい』
『めちゃくちゃ淫らな女がほしい。』
いうまでもなく上が貞淑だ。儒学によって男の願望は一方は満たされた。だがオスのリビドーは収まらない。もう一方がほしくなる。その需要に対して生まれたのがキャバクラ、古くは芸者である。
しかし儒学の概念のない西洋では男も女も飲み屋で羽目をはずす。洗脳されていない西洋女が我慢をする理由もなく、思うさま男友達と酒飲みに出かける。そして大騒ぎする。今初めてあった女に出会ってすぐ酒を奢るよりも、馴染んだ異性の友達同士で飲んだほうが楽しいに決まっている。こちらでは端からキャバクラの需要がないのだ。
その意味ではビッチは海外向きといえる。生物学的にも国際的にもビッチは本来あるべき姿で日本の方が異常だったのだ。
『日本が終わった』というならば、それは日本の洗脳が終わったということだ。
では何故男の洗脳が解けないのだろう。
たしかに最近では日本の倫理観は崩壊しつつある。親は子供を殺し、子供は親を殺し、先生を敬うことなく、老人から金を奪う。『なぜ人を殺してはいけないの?』 儒学洗脳は崩壊寸前だ。
だが未だに男の女に対する貞操観念が崩壊しない。むしろ処女性を尊ぶ傾向にすらある。女がビッチ化するというならば、男はそれに合わせてビッチを愛さなくては立ち行かないというのに、それでもなお女性の清純さを信じている。
単に男が馬鹿だといえばそれまでの話なのだが、僧都はある可能性を考える。
儒学に代わる新しい洗脳が行われているのではないか。つまり再洗脳である。
そもそも昨今の処女崇拝は儒学とは直接関係ない。まぁ貞操を守ることはつまり処女であるのだが、それは儒学では当然のことであって、処女を祭り上げるような真似はしてこなかったはずだ。むしろこれはキリスト教の概念だ。
キリスト教で処女といえば聖母マリアだ。キリスト教も宗派によっては、キリストよりもその母のほうに重きを置いたものもあるという。それこそ崇拝の対象として。
一人二人が『処女がいいね!』というならわかるが、これだけ多くの若者が崇拝して、処女じゃないとわかったら暴動を起こしかねない昨今の風潮はまさに宗教だ。
彼らの深層心理に処女が憑りついている。そいつが教祖だ。
女はセックスをして子を産むことに特化したヒト種である。だからヒト種にとって処女に大きな意味はない。破瓜して初めて種族的役目が果たされたといえる。
だがその処女が決して年を取らない、いつまでも処女であり続ける存在だったらどうだろう。その矛盾した存在がいるから、彼らはナギや平野綾の非処女が許せないのではないか。
年を取らない、いつまでも幼い少女。そんなものいるはずがない。いたとしてもそれはもはやそれは妖怪である。『大禿(おおかぶろ)』という妖怪がまさにそれである。
だがいるのだ。僧都はその存在を知っている。
その前に、洗脳が効く条件を言っておこう。まず興奮状態であること、準睡眠状態であること、前後不覚の譫妄状態であること、高齢であること、そして幼いこと。
言ってることは全部同じだ。ようは判断力がないときこそ洗脳のタイミングということだ。当たり前だが。
その大禿は前後不覚の幼少時に姿を現す。そして知らず知らずのうちに我々はその大禿のことを好きになる。絶妙な手法で。そして我々の心に死ぬまで妖怪は住み続ける。
大禿の名は源しずか。しずちゃんである。
(つづく)
ことばのせんそう
『創世記』によるとその昔、全人類は統一された一つの言語を使用していたという。
彼らの繁栄は隆盛の一途を辿り、奢った当時の権力者はついに神へと挑戦状を投げかけた。
彼らは天に届くであろう高さの塔を作り上げ、神に成り代わろうとしたのだ。
神は怒り狂い、建設途中であった塔を破壊した。
そして人間は徒党を組むとろくなことがない、と統一された世界の言語をバラバラにした。
人々は互いの言葉が理解できなくなり、やがて人同士がすれ違い、争いが起こるようになった。高度を誇った一大文明は衰退し、人々はかろうじて言葉が通じる同士で集まり各地に国を作り始めたのだという。
とまぁ過程はどうあれ、キリスト教では我々の日本語はもちろん、中国語も、英語も、フランス語も、ドイツ語も神が与えた言語ということになる。
それはいいのだが、面白いのは、現在の多種多様な言語がバベル事件を境に、ぽっと現れたということだ。
これはキリスト教における種の起源にも酷似している。たとえばキリンは黄色い首の長い草食動物として、ある日誕生した。太古の昔からキリンはキリンのままである。
もちろん人も人であり、猿は猿である。それらに共通点などありはせず、神がそう決めたのだからその原初のカタチのまま現在に至っている。
が、実際には人は猿から進化しヒトとなった、という説が正しい。太古の生き物と現在の我々には大きな差異があるのがその証拠だ。古代生物は進化・退化し、あるものは自然淘汰されて滅亡し、あるものは異種交配し、あるものからは突然変異が生まれたりして、より種の生命力を強くして厳しい環境に対抗・迎合してきたのだ。
言葉とて同じである。普段を認識しているものに名前をつける。ここに至る過程には大変な苦労があったに違いない。
我々の祖先が個も我も他も考えずにいたころ、世界はつながっていた。世界はあるようにしかあらず、疑問も何もない。
が、やがて『地面に落ちている、硬い手の平大の何か』に気づいたとしよう。その時点で、その物体はヒトから切り離される。ヒトはそれが別のものを叩いたり投げたりするのにとても便利であると思う。そしてそれまで気にしていなかったが、それは大きかったり小さかったり、丸かったり角ばってたり、その上あったりなかったりする。あると便利だし無いと困る。そういうものを認識した。
ある日祖先の一人がそれを『イシ!』と呼びながらそれを拾った。偶然からだろうが彼はその後それを拾うたび使うたびに『イシ!』と叫ぶようになった。そのせいか他の祖先は彼の『イシ!』に対して『地面に落ちている(ry』を連想するようになった。
上記は僧都の勝手な想像だが、まぁそんなところだろう。
世界にはあるものしかない。無いものは存在しない。当たり前だがこれが真理だ。そして万物は気付くか気付かないかの違いでしかない。祖先が石を認識できたから石はこの宇宙世界から人間世界に召喚されたのだ。宇宙世界は混沌であり、万物であり一つのものでもある。我々が何かに気付けば宇宙世界の切れ端がぽっつりと何食わぬ顔で人間世界に現れる。逆に人類がその種の生命のすべての時間をかけても認識できないもの、というものも当然あるだろう。
その召喚術の方法が認識・差別化そして共有化である。
先ほどの石の話は簡単だ。そのものが現出しているのだからわかりやすい。だが目に見えないものはどうだろう。これは相当難しい。たとえば感情を認識するには相当時間がかかったに違いない。
狩りがうまくいかず、数日何も食べていなかった祖先グループ。偶然にも子鹿を捕まえることに成功した。火を起こして鹿を焼いている最中、とてもよいにおいがあたりを包む。
なんか頬が自然に上がり、なにか叫びたくなり、そして踊りたくなる。
なんだろう、さっきまではこの感情はなかったはずだ。むしろ動くのも面倒だったはずなのに。見るとグループみんなが叫んで踊っている。よくわからんが衝動が抑えられない。
そうしてヒトは『喜』を認識した。そしてこの感情は普段の感情とちょっとちがう差別化されたモノだと思う。
問題は共有化だ。
仮にこれを『いやっほう!!』と名付けたとしよう。ヒトはとても『いやっほう!』が好きだ。だからまた『いやっほう!』をしたい。
「最近『いやっほう!』してなくね?」
「そういやそうだな。よし今晩あたりするか!」
「いやっほう!」
これはたまたま仲間がいたから『いやっほう』が共有された言葉となれたのだ。
仮に鹿を見つけたのが別行動をとっていたグループの一人で、彼はこの込み上げる感情を『やたー!』と名付けたとする。
しかし彼の『やたー!』は彼独自の言語であって誰にも理解できない。その場合見えない感情『やたー!』は彼の記憶から消えれば消滅する。
ある人物が作り、その言語だけを話しつづける人物を、残念ながら我々は狂人と呼ぶ。
言語は認識・差別化だけではなく、絶対に共有化が必要なのだ。
複数人同時に同じ考えをすることは不可能だ。よって今巷に出回る言葉はすべて一人によって開発されたものである。ただ今流通している言葉はすべて、共有化に成功したのだ。
言葉を作ることは誰にも可能だ。ただそれを広く出回らせるには戦略や運などが必要不可欠となる。これは言葉の戦争なのだ。
さっきの『イシ!』は、この生存競争に打ち勝ったものだ。その背後にはメジャー言語になれなかった敗残言語が死屍累々としているはずである。
情報流通とは疎遠な古代期に共通語となるのは至難の業だ。本当の戦などを起こして他集落を制圧して教育し直したりしなければ言葉の頒布は非常に難しい。そうしてもっとも強かった部族が使っていた言葉が『イシ!』だったのかもしれない。
こんなことを繰り返して数万年。やっと今ココにほぼ安定した日本語が誕生したのである。
テレビやラジオの発明により、情報化社会は加速していった。情報とは言葉である。我々は頒布に時間を費やさずとも言葉を広げることに成功した。
が、テレビとラジオは一方通行であり、我々はそこから繰り出される言葉に対して恭順でしかありえなかった。ある意味『言葉の帝国主義』である。ごく一部の『マスメディアに出られる人』によって日本全国の言語は制圧・蹂躙される一方。方言は駆逐され、がらっぱ、がらっぱち、すいこ、かわたろう・・・などと呼ばれていた川の妖怪は『かっぱ』に統一された。
が、ここにきてネットが誕生し、2chが生まれた。これまでのマスコミの有識者(笑)による一方通行支配から、再び誰が言葉を誕生させてもおかしくない時代に突入した。言葉の戦国時代である。
『DQN』はいい言葉である。いやそれだと語弊があるな。今まで使用していた、『ならず者』『愚連隊』『不良』『ヤンキー』とはまた違う、ある概念に属する集団。我々はその概念を認識していた。が、それをうまく言語できずにいた。結局これまであった『ヤンキー』という言葉を使っていた。が『DQN』の誕生によって、その宇宙世界に溶け込んでいた概念を、この世界に現出させることに成功した。
『スイーツ(笑)』も僧都は結構好きである。テレビなどに翻弄されて『アテクシ午後は紅茶とマロングラッセしか嗜みませんの』とか言っている妙齢の女性の概念に対して、僧都は『うざいなぁ』としか思わなかったが、『うざい』は非常に多義的・広義的でそのものズバリを表現するにはいささか大雑把であった。そこで『スイーツ(笑)』である。ピンポイントである。そしてマスコミ帝国に対する宣戦布告でもある。
『リア充』が今年の流行語にノミネートされているらしい。これもいい言葉だ。たしかに僧都のようなモテない趣味ない男には、とある集団をかろうじて認識していた。社会的格差でもないし、恋人いるいないとも若干ずれ、またDQNでもない、何かもっと別の・・・概念。初めて『リア充』を聞いたときに、おお!これだ!と感動したのを覚えている。概念を言葉として具現化する。簡単なようで難しい。
だがいい事ばかりでもない。2ch文化は煽り文化・罵倒文化でもある、戦国時代に安定はない。時に言葉は、すべての言語を殺す大量殺戮を生み出すこともある。
最近『(キリッ』が恐ろしい。これは言葉の核兵器、悪魔の発明である。
僧都が何か画期的なネタを思いついて、○○は××である!と論文を書いたとしても、この『(キリッ』が脳裏を掠めると、途端に恥ずかしくなって書くのを諦めてしまう。今日の文章も語尾に一々それがついていることを想像してしまい、俺したり顔で何やってんだろう・・・・と自信が無くなる。
この核爆弾、すべての文に対して効力があり、人の精神へ直接攻撃を加える。これまでの名文とて例外ではない。『人は考える葦である(キリッ』とすると途端に作者のしたり顔、ドヤ顔を想像してしまって名文が名文たりえなくなる。言葉の蹂躙、もっと言えば名言レイプである。
そしてもっと恐ろしいのが『地獄のミサワ』だ。
僧都は、わりと人とは違った数奇な人生を辿っている方だ。自分で選択している場合もあるし、変なことに巻き込まれることも多々ある。
だから、僧都の人生ってものすごくうそくさい。
パチンコ強盗の犯人に間違えられたり
空港警察に逮捕されたり
深夜の農道で横転した車の少女を助けたり
ぬいぐるみに入ったり
スナックのバーテンだったり
フランス料理のギャルソンだったり
コックだったり
痴女に襲われたり
中国人ホモに襲われそうになったり
腐女子と一晩過ごしたり
風俗嬢兼人妻兼子持ち兼支配人の娘と交際したり
ケアンズで迷子になったり
カルガリーで迷子になったり
カナダの友達と話しているとき、自然と自分の過去を隠してしまう。
うそ臭くてネタ話にしか思えないからだ。
そして勇気を振り絞って話そうとするとあの顔が浮かぶ。両目のよったあの顔が。
『つれーわー!痴女に三回も襲われてマジつれーわー!(チラッ』
『昔・・・コックを・・・・おっとこれはまだ内緒だった。(チラッ』
自分でも無意識のうちに、自分の言葉がすべて地獄のミサワ化してしまうこと恐れてうまく話ができない。
日本人と話すときも言葉に詰まる。
『あ、ごめん、しばらく日本語話してなかったから・・・・つれーわー最近日本語忘れてマジつれーわー』
脳内でミサワが騒ぎ出す。
全然高慢な態度をとるつもりが無いのに、変な人生のせいで自慢話っぽく聞こえてしまわないかいつも心配で仕方が無い。地獄のミサワの蹂躙能力が半端ない。
KYが日本の男子を草食化させたらしいが、ミサワはそのうち日本の男子を引きこもり化させないか心配だ。
てかミサワはもうちんちんでか男のネタだけ掲載しろよ!あいつだけで破壊力十分だろ。