最弱球団はどこだ!というのが

野球雲永遠のテーマの気がします。

弱くても未来がある、若手が育っている。など

暗さの中に一筋の光が見えれば、応援にも熱が入ります。

そんな気持ちを萎えさせてしまう最弱伝説をご紹介します。

それは近鉄パールスの1958年です。

 

近鉄パールスは

2004年の球界再編で

オリックスと合併した近鉄バファローズの前身球団だ。

その、近鉄パールスの弱さは、

 

上記の記事でも解説したが

もう少し、その弱さを紹介したい。


近鉄球団は1950年に新規球団としてパ・リーグに参加した。

 

同じくパ・リーグに加入した毎日球団は

阪神タイガースから若林、別当、土井垣と

当時の主力選手をごっそり引き抜き、

ノンプロ星野組からも荒巻、西本を加入させ、

圧倒的な強さでパ・リーグを制覇、そのうえ日本一にもなった。

 

しかし、近鉄は強引な引き抜きもせず、

紳士的な態度でニックネームも公募で

近鉄沿線の観光地のイメージからの「パールス」に決定。

ますます上品なイメージになっていった。そのためなのか、

パ・リーグではほとんど最下位を走り、

投手陣も打撃陣も他球団にだいぶ見劣りしていた。

 

50年代の近鉄は54年のAクラス(8球団中4位)が

1度でほとんどが最下位だった。

 

(1958年頃の近鉄ベンチ)

 

その中でも1958(昭和33)年は近鉄の歴史の中でも最悪のひとつだ。

(最悪は二つあった)

前年、芥田監督の後を受け監督代理から

そのまま監督に就任したのは加藤春雄。

 

近鉄パールス最後の監督 加藤春雄

 

正直今の時代どれだけの人が彼を知っているだろうか?

そして、シーズンが始まると激しく負けていく。

 

4月に3勝15敗1分.167、5月に4勝18敗1分.182、

6月に最初で最後の3連勝を記録して6勝17敗.261、

7月に4勝14敗.286、8月はやっと普通の最下位チーム並みの8勝14敗1分.364、

9月はスタミナ切れで4勝16敗1分.200、そして10月は3連敗で終幕・・・。

 

(1958年パ・リーグ成績 NPBから引用)

 

 

当時は4番の小玉利明三塁手は3割を打ちベスト10の4位、

3番には関根潤三外野手、

1番に元南海で100万ドルの内野陣のショート木塚忠助もいたが、

他球団の打線と比べると大いに劣り、

打撃成績は打率.215。

本塁打は阪急とお同じ41本だが得点が326で

5位の東映と93点差、南海とは217点も違った。

安打数も5球団が1000本以上の中、唯一の3桁の907本と貧打すぎた。

 

1958年パ・リーグ打撃成績NPBから引用

 

 

投手陣は大津 守(防御率2.99で第10位)、

完全試合男、武智文雄を中心にユニオンズから移籍した伊藤四朗もいたが、

投手成績も最下位で防御率は5球団が2点代のところ、

唯一の4.04では、当時の投高打低の時代にこれでは最下位は当然の結果となった。

 

1958年パ・リーグ投手成績NPBから引用

 

結局130試合で29勝97敗4分勝率.238なのだが、

当時は引き分けを0.5勝と計算したため、31勝した計算になるが、

現在の引き分けを勝率に入れないと.230となり、

1955年大洋ホエールズが31勝99敗.238の記録を大いに下回るのだ。

 

加藤監督はベースボールマガジン6月号で

「いつもドン尻では、申し訳がございません。こんなこととは思ってもいませんでしたが、

重鎮が病気また病気でようやく戦列復帰がかなっところですが、

何としてもテールエンドを脱して頑張ります」と答えていたが、

その取材を受けたころの成績が4勝21敗勝率 .176というどん底の時、

加藤監督の心労は大変だっただろう。

 

 

加藤監督はこの年を最後に退任するが、

1961(昭和36)年2月27日43歳という若さで亡くなっている。

とても切ないからなのか、

この頃の近鉄の成績の悪さには

救いがないようなものを感じてしまう。

 

そして、いよいよ近鉄は重い腰を上げるだった。

それは劇薬にもなる強烈な強化案だった。

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