近鉄パールスは1950(昭和25)年に

パシフィック・リーグに参加。

法政大学の選手を核にチームを作っていった。

 

しかし、パ・リーグ新興球団の毎日オリオンズ、

西鉄ライオンズに比べ補強が小さいスケールで

好成績を上げることができず、

テールエンドをいつも伺いような球団だった。

1950年から1953年の4年間はパ・リーグ最下位(7位)

1954年に初のAクラス(8球団中4位)で初の5割越え(勝率.540)

そこから、1987年までは何とか最下位は免れたがBクラスを漂っていた。

(下には高橋、大映、東映がくすんでいた)

 

1952(昭和27)年の弱さも特筆すべき名成績で

108試合30勝78敗0分 勝率.278 

シーズンが始まり3月は1勝もできず

4月も5勝12敗、5月は5勝15敗、6月、5勝14敗

7月は4勝9敗、8月は7勝15敗、9月は4勝9敗と

ずっと負け越しで、5月25日から6月15日までに13連敗をした。

打撃陣は甲斐がリーグ2位.327、4位には鬼頭政一が.320を打ったが

他が不調で得点力は6位の東急と100点近く低い356点

投手陣は10勝投手もいなく、ちぐはぐな攻撃と守りで

首位の南海ホークスから40ゲームも離された最下位だった。

 

そして、その最弱球団がもっと伝説になった年が1958(昭和33)年だった。

 

この年は巨人に長嶋茂雄、南海に杉浦忠が入団し

プロ野球人気にターボか掛かった年だ!

しかし、1958(昭和33)年1955年の大洋と同じ

勝率の.238でぶっちぎりの最下位。

その上、史上唯一の30勝割れのチームという記録・・・・。

1956~61年のセ・リーグ、1956~58・61年のパ・リーグ勝率は

引き分けを0.5勝0.5敗で計算したため

引き分けを勝率に入れない従来の方式で計算すると、

29勝97敗.230という勝率・・・・。

 

チーム打撃成績もパリーグ平均打率.236とくらべ

2分以上ほ低い2割1分5厘。

 

パリーグ唯一のヒット数 1,000本割れ、

得点は1位南海ホークスが543点に対して326点

投手成績はリーグ防御率2.83に対して

他の5チームが2点台なのに4点台の4.04

 

もちろん守備率も最下位。

 

 

この年は長嶋茂雄の活躍で巨人の優勝、

西鉄ライオンズのパリーグ逆転優勝、

日本シリーズではプロ野球史に伝説になりつつある、

西鉄3連敗の後4連勝という、華やかな記録のなかで

近鉄パールスの最下位記録は野球暗黒史のように

隠れてしまっている記録ですが、

近鉄球団の補強の弱さと親会社の無関心さを充分伝えてくれる

歴史のひとつとなっています。

 

 

野球雲チャンネルでは近鉄パールスの9年間を

あえて、楽しく語っています。ラジオ感覚でお楽しみください。

 

翌年、さすがに近鉄はチーム改革に取り掛かります。

 

 

1959(昭和34)年、巨人から名選手の千葉茂を招聘し、

チーム名も近鉄パールスから

近鉄バッファローになり、生まれ変わろうとしましたが、

これがまた、パールスを超える

最弱伝説を作り出してしまうのだった。

 

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