秋山 登 投手

1934(昭和9)年2月3日~2000(平成12)年8月12日

右投右打 岡山県岡山市出身

 

 

1951(昭和26)年夏の甲子園大会に岡山東高校の投手として出場

中西太にに本塁打を打たれ、高松一高に破れた。

明治大学に進学し島岡監督のもと、戦後初の優勝を含め3度の優勝に貢献

1954(昭和29)年には東大戦において22奪三振を奪った。

大学通算33勝18敗を残し、1956(昭和31)年に大洋ホエールズに入団。

この時に明大五人衆として5人大洋に入団。その一人が

バッテリーを組んだ土井淳だ。

 

1956(昭和31)年の1年目に

58試合、26完投、25勝25敗、379.2回 防御率2.39で新人王を獲得した。

完投数、敗戦数、投球回数、対戦打者、打数、被安打、四死球、失点、自責点は

セ・リーグ1位の記録だった。

 

1957(昭和32)年は65試合、40先発、27完投、

24勝27敗、406.0回、312奪三振、防御率2.50と400回越えの成績を残し、

 

1958、59年も投球回数300回以上を投げた。

そして、勝敗も17勝23敗、14勝22敗と4年連続20敗以上の敗戦数を記録。

 

酷使酷使されても報われないような数字だが、

秋山が入団した1956年から1959年までの大洋は4年連続最下位(6位)

 

                           秋山の勝敗を抜いた場合

1956年 130試合43勝87敗6分 .3308   18勝62敗 .225

1957年 130試合52勝74敗4分 .4154   28勝47敗 .373

1958年 130試合51勝73敗6分 .4154   34勝50敗 .425

1959年 130試合49勝77敗4分 .3923   35勝55敗 .388

 

と秋山投手が加入しても総合力が悲惨な状況だった。しかし、

1954年が32勝96敗2分 勝率.2500、

1955年は31勝99敗0分 勝率  .2385 と

2割台で超最弱の成績から1割以上上げたのは秋山投手のおかげだろう。

 

1955(昭和30)年大洋ホーエルズは最弱か?球団最少得点を考える。

 

細身の体ながら、酷使されたがここまで投げられたのは

鋼のような筋肉質でしなやか動きが出来たらしい。

同時期の杉浦忠(南海)と同じような下手投げに思われるが

杉浦投手は手首をあげ、秋山投手は手首を寝かせたフォームだった。

 

速球もさることながら、カミソリシュートと呼ばれるシュートボールで

内角に切り込んでくる変化球が大きな武器だった。

 

1960(昭和35)年、三原修監督のもと

大洋ホエールズは初優勝し、先発、リリーフに活躍

21勝10敗と大きく勝ち越し、防御率1.75で防御率1位のタイトルを取った。

そして、唯一のMVPとベストナインにも選ばれる。

 

最下位で苦しんだ大洋ホエールズが闘将三原脩を監督で優勝した日

 

1961(昭和36)年以降は完投数も減り、ロングリリーフとして

大洋ホエールズのAクラス入りに貢献し、1962(昭和37)年には

キャリアハイの26勝12敗で阪神と優勝争いをした。

 

しかし、さすがの秋山も長い間の酷使がたたり

1967(昭和42)年引退した。

 

通算193勝171敗 200勝まで7勝、

2993.0回と3000回まであと7回と惜しい記録だったが、

もっと強い球団だったら250勝はいったかもしれないと思われる。

しかし、大洋ホエールズに入団したからこそ193勝まで行ったかもしれない。

そこは、よく判らないが、2004年に野球殿堂りしたことで

野球史に大きな足跡を評価されたが、やはり亡くなってからの

殿堂入りは残念でならない。

 

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