1960(昭和35)年10月2日、セ・リーグの覇者は
前年最下位で苦しんだ大洋ホエールズが闘将三原脩を監督で優勝した日だ。

大洋ホエールズは1950(昭和25)年にセパ両リーグに分裂した際
セ・リーグに加入した球団で、親会社はマルハ(現マルハニチロ)。
50年代は打撃力が高い球団で巨人から青田昇、阪神から藤井勇などの
名打者が移籍してきたが、投手力不足や球団生え抜きの選手が育たず
Bクラスに甘んじていた。

そこで、巨人、西鉄で監督をしていた三原脩が西鉄内での場所が
微妙な雰囲気なったという話を聞いた大洋側が招聘。
当初より1年遅れの1960年に大洋ホエールズに就任した。

 



1955(昭和30)年に1位から61ゲーム以上離され最下位を経験し、
一念発起したのか、球団は大補強として
明治大学から5人の新人を獲得、その中に大車輪の活躍をする
秋山登投手、土井淳捕手もいた。彼らが育っていき、三原監督の采配ががっちりあい
6年連続最下位から1960(昭和35)年に見事優勝した。

                 
   


西鉄時代の三原監督は大エース稲尾投手を使いに使い、
打撃陣もベテラン天才打者大下弘、怪童中西 太、強気の豊田泰光と
個性的な選手を擁し、黄金時代を築き上げ
野武士野球と言われる選手の自主性で勝っていった。


大洋ホエールズは秋山登、打者では近藤和彦、桑田武はいたものの
おとなしいイメージのチーム力を投手を前面に立て、
「超二流」と言われるような選手の個性を最大限生かし、
1点差で勝利していく戦い方をしていった。

 


小粒なのに、監督の采配で勝っていく
世間では「三原魔術」と言われ
三原脩野球が完成したような年に思える。

巨人の水原監督は西鉄時代の三原監督に3年連続で日本シリーズで敗れ、
前年の1959年も南海に4連敗を喫し、60年も大洋の三原監督に敗れ、
5年連続で日本シリーズで勝てないことに苛立っていたのか、
10月には写真を執拗に撮ろうとした記者に
暴力を振り、巨人退団のきっかけとなってしまう。
三原監督へのライバル心からくる悔しさも心の奥にはあったであろう。

日本シリーズはパ・リーグを10年ぶりに制した大毎オリオンズと対戦。
戦前はミサイル打線と言われた大毎有利と言われたが、
全て1点差で4連勝日本一となり、予想外の結果に
大毎は西本監督が解任されてしまった。

その後、大洋は横浜ベイスターズになった1998年まで優勝は出来なかったが、
1960年のミラクルな大洋の優勝は21世紀も印象深いペナントレースとして
野球史の中のエポックの一つとなっている。

 

 


ヤクルト時代の三原監督

 

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2014年のブログに加筆、修正したものです。