クルミ -6ページ目

片をつけて進む、みち

あれ……
最近書いていないな、とは思っていたけれど、一ヶ月以上空いた。
そうか。。
時々書こうとして、なんだかくだらないことをぼやこうとしている自分に気が付いて
手を止める。を繰り返した気がしないでもない。


もう完全にひとり言だけれど、元気にしています。



こんまりさんの本を読んで、
片付けとは人生に片を付けること。  という考えを知った。

ずっと、もう何年も、次がきたら捨てよう。きっと、捨てられる。と
閉じ込めたままのものがあった。
見ると心が痛んで、涙が出そうになるのに、捨てられなかった。
でも同じくらいずっと、早く捨てられればいいと思っている自分もいた、って、分かっていた。

久しぶりに取り出したそれは、やはり見返すと
その時のことを思い出して、心が痛んで、
でもとても捨てられそうにないな。。と思いながら、こんまりさんの言葉を思いながら
“この、一番大事な部分以外は捨てられるかもしれない”
“少しでも、軽くできればまだ良いかもしれない”
そんな気持ちで、少しずつ、少しずつ、整理をして、捨て始めた。


そうすると不思議なもので、だんだん
“次がきたら、と思っていたけれど、もしかしたら
 これに片を付けられたら次が来るのかもしれない”  とか、しまいには
“もしかしたら全部、捨てられるかもしれない” とか、 思い始めた。

それは多分、ずるいことにバックアップがあるからだと思うけれど、
紙で分厚くあるのと、USBひとつに収まっているのとでは、天と地との差がある。

最終的には、ほんの一部分を残して、捨てることができた。
ありがとう。って気持ちでお別れするの、大事だ。

そしてそのほんの一部分は。
どうしても残る気持ちが大きくて、そのままゴミ箱には入れられなくて、
さっき、バイバイ。ありがとう。という気持ちでキッチンで、燃やした。

なんだかドラマみたいだと自分で可笑しくもあったけれど、
やっぱり、それなりの作用?効能?があるのかもしれない。
そういえば護摩も燃やしている(焚いている?)し、
煙で燻して浄化、なんていうのも聞いたことがあるし。


本当に何もなくなったら、USBからも、消そう。



あの頃、こころの一番奥のほうにいる“わたし”は、
すべてちゃんと本当にわかっていたと思う。
後から、後から、分かる。
そう思いたいのではなくて、ほんとうに、わかっていたのだ。

でも律することができなくて、表面のわたしは弱くて、ずるくて、
なんとか修正できるのではないかって、そういうことばかり考えて。

確かにそう努力したからこその今があって、
それは間違っていたとは決して思わないけれど。

ああそういうことだったんだなぁ、って、少し遠いところから、見ることができるようになったね。

きっとまた少し、身軽になって、
きっときっと少し先の明日で、素晴らしいことが待っている。

どんどん、素敵な“今日”をつくっていこう。

ありがとう。がんばったね。過去のわたし。
それを全て引き連れて、キラキラに変えて、未来を歩んでいく。

たぶんそのための、いっぽ。

今日の気分は

うわ、今、なんかムショーに
「うわーそれどうでもいいわーー」って
ヒトからは言われそうなくだらない、でも楽しいこと、したい。

……それって、何をすればいいんだ。


めいっぱい楽しくいることが人生への反撃?
悲しいことの分量は変わんないから、めちゃくちゃ楽しんだほうがいい。?

いや、なんか違う、全然違う気がするけれどそんなようなこと、
ばななさんのどの小説だったかな、、書いてあったはず。
(今パラパラ見たけれど見つからず。後でちゃんと探そう)


2013/08/17

帽子に日傘で歩いている人がいたり、
街中でもノースリーブにビーチサンダル姿を見たり、
中学生か高一かの幼い二人が、夏休みにカフェでちょっぴり緊張気味に向き合ってパスタを食べていたり、
夏、だなぁ。夏休みなんだなぁ。という感じ。

かくいう私もサンダルにアイスコーヒーだ。



最近、ほんのちょっと成長したか?と思うのは、
たとえば2つの希望がかぶってしまった時に、最終的になんとなく両方を取れているかもしれないなぁ
、と気づく瞬間。

ただ、まだスマートさが皆無なために自分の後味が悪くなってしまうこともしばしばなので、
ここはかなりの改善ポイントなのだけれど。
そして少し間違うと、ただワガママを通しているだけのダメな奴になるから怖くもあるのだけれど。

未だにワガママと、自分の希望との線引きがよく分からない。
ただ、ただ、一方通行にならなければいいなぁと思うばかり。

でも諦め癖みたいなものがたっぷりついている一面を見るなら、それは多分、良いことだろう。

こんなにそろり静かに暮らしているのに、
日々微調整を繰り返しているのに、
だから出掛ける時は調整に調整を重ねているのに、
それはヒトには分からないから、たまに会う人から
“フットワークが軽いね”なんて言われるなんて、本当に奇なり。である。

できるだけ、破っていたい。
見えない何かを。

蒸し暑く、八月。

日々、早いな。。
ふ、と気が付くと、すごく時が流れている。

昔よりももんもん・もじもじ(?)している時間が少なくなったのかも。
それくらい悩み事を抱えていないということは、
今のところ、多分よいことだ。

もしかしたら“ずっと”では、困るのかもしれないけれど。

しかし、外側のスピードが速くなってくると、同時に、
自分の側のスピードも求められるようになってくるから
時々、むずかしい。


前回書いた友人の披露宴は無事に終わり、
しあわせと、建前?世間体?みたいなものを同時に味わい、喜びと同時に疲れ、
その時にやったジェルネイルも爪がだいぶ伸び、

今、夏真っ盛りである。


だんだん……というか、どんどん?
若いよね!!という年齢ではなくなってきているけれど、
イコールおばさん、とはまた違うと思うし
(だからそう飛び越えて表現されるのは好きじゃない)、
すこーしずつ、生きるのだって上手になっているのだから
若い頃に戻りたい。とは思わないのだ。
……。
あんな恥ずかしい時代に、戻れないよ。

もっともっと年齢を重ねたら、あの若さゆえの勢いとか、無鉄砲さとか、青臭い感じとか、
そういうものが今あればなぁ。なんて、思うのかなぁ。
周りの大人が、時々、ぼやいているからさ。今のところ、不思議。



未来を変えるのは君のたった今。  だ。
アリの歩みでも、自分のことを一生懸命、しよう。
なるべく楽しみながら。 きっと、これが大事。

梅雨が明け、夏

今日は新月。
昨日は七夕。

ついに友人の披露宴出席まで、カウントダウン。

慣れない準備にここの所あわあわしているけれど、
見方を変えれば、それは何よりも私自身が新しいことを
たくさんしていることに他ならないのだ。

肌が弱いから、と諦めて……というか、避けていたリップも
何だかものすごーく久しぶりに買った。

相変わらずバンバン知合いや友達が増えたりはしないし、団体も苦手だけれど、
お店の人なんかとは話せるようになったから、
自分に判断できるだけの材料がない時のお買い物はしやすくなった。

あと、ネイルサロンデビュー(!)も目前だし、
そんな最中、すきなアーティストさんの個展があるから
時間を作って出掛けるつもりだし、
まだ細々した準備が終わっていないから早くやらなくちゃだし。

多分、ふつうの人からすれば何てことのないテンポでも、
私にとってはとても動きが出てきているように感じられる。

あぁそうそう、夏に旅行へも行くんだった。

すごいなぁ。。動いているなぁ。


動き出して、ようやく、少しだけ、分かる。

どうでも良いことに割く時間は、多分あまりないのだということ。

それは「モモ」の中の時間泥棒的な考え方ではなくて、
たとえば誰かの悪口を言ったり、何もしないままぐじぐじしていたり、そういう類。

うーん。これをてっていして身に付けさせたい。
そんな風に意識することがなくなるまで。




でもこうして動いてくると、きっと
お別れするものも出てくるね。

きっと。