片をつけて進む、みち | クルミ

片をつけて進む、みち

あれ……
最近書いていないな、とは思っていたけれど、一ヶ月以上空いた。
そうか。。
時々書こうとして、なんだかくだらないことをぼやこうとしている自分に気が付いて
手を止める。を繰り返した気がしないでもない。


もう完全にひとり言だけれど、元気にしています。



こんまりさんの本を読んで、
片付けとは人生に片を付けること。  という考えを知った。

ずっと、もう何年も、次がきたら捨てよう。きっと、捨てられる。と
閉じ込めたままのものがあった。
見ると心が痛んで、涙が出そうになるのに、捨てられなかった。
でも同じくらいずっと、早く捨てられればいいと思っている自分もいた、って、分かっていた。

久しぶりに取り出したそれは、やはり見返すと
その時のことを思い出して、心が痛んで、
でもとても捨てられそうにないな。。と思いながら、こんまりさんの言葉を思いながら
“この、一番大事な部分以外は捨てられるかもしれない”
“少しでも、軽くできればまだ良いかもしれない”
そんな気持ちで、少しずつ、少しずつ、整理をして、捨て始めた。


そうすると不思議なもので、だんだん
“次がきたら、と思っていたけれど、もしかしたら
 これに片を付けられたら次が来るのかもしれない”  とか、しまいには
“もしかしたら全部、捨てられるかもしれない” とか、 思い始めた。

それは多分、ずるいことにバックアップがあるからだと思うけれど、
紙で分厚くあるのと、USBひとつに収まっているのとでは、天と地との差がある。

最終的には、ほんの一部分を残して、捨てることができた。
ありがとう。って気持ちでお別れするの、大事だ。

そしてそのほんの一部分は。
どうしても残る気持ちが大きくて、そのままゴミ箱には入れられなくて、
さっき、バイバイ。ありがとう。という気持ちでキッチンで、燃やした。

なんだかドラマみたいだと自分で可笑しくもあったけれど、
やっぱり、それなりの作用?効能?があるのかもしれない。
そういえば護摩も燃やしている(焚いている?)し、
煙で燻して浄化、なんていうのも聞いたことがあるし。


本当に何もなくなったら、USBからも、消そう。



あの頃、こころの一番奥のほうにいる“わたし”は、
すべてちゃんと本当にわかっていたと思う。
後から、後から、分かる。
そう思いたいのではなくて、ほんとうに、わかっていたのだ。

でも律することができなくて、表面のわたしは弱くて、ずるくて、
なんとか修正できるのではないかって、そういうことばかり考えて。

確かにそう努力したからこその今があって、
それは間違っていたとは決して思わないけれど。

ああそういうことだったんだなぁ、って、少し遠いところから、見ることができるようになったね。

きっとまた少し、身軽になって、
きっときっと少し先の明日で、素晴らしいことが待っている。

どんどん、素敵な“今日”をつくっていこう。

ありがとう。がんばったね。過去のわたし。
それを全て引き連れて、キラキラに変えて、未来を歩んでいく。

たぶんそのための、いっぽ。