30:不可解な宗教の授業
宗教の授業は、ちょっと複雑だった。
唯一の教師ポタポタさんがカトリック信者のため、プロテスタントの僕もカトリックの授業を受ける他はなかった。ただし、祈りの時に十字を切るカトリックの典礼上の掟は破ってもいい、という特権を与えられた。でも、それ以外は同級生と全く同じ様に、毎日聖書物語や公教要理という科目と格闘することになった。
旧約聖書には流血の惨事をめぐる話が多いせいか、ある程度まで魅力があったが、公教要理は眠りを誘う程長たらしかった。
たとえば、十戒は聖書に簡単な言葉で書いてあるのに、神学者たちは何世代にも渡って、それを難しければ難しい程価値あるものと考えて解釈していた。そして僕らは、ややこしい解釈文をすべて暗記しなければならないのだ。この公教要理のせいで、誰にでも分かる十戒は神様にさえ理解出来ない程不可解なものになってしまった。
当時、村にはプロテスタントの教会はなく、巡回のベルグ牧師が月に一回だけ裁判所で礼拝式を執り行っていた。牧師としては、プロテスタント信者の子供がカトリックの授業で洗脳されるのが我慢出来なかったに違いない。彼は、教区委員のヘース未亡人の客間を教室にして、自分でプロテスタントの教義を教えることにした。そこでは学年に関係なく4人の生徒が宗教の基礎を習った。でも、授業の退屈さを判断基準とすると、カトリックとプロテスタントの教えには少しも違いがなかった。
「神様と三角形は、よく似ています」
ベルグ牧師は三角形の例を持ち出して、全く興味のない僕ら4人の生徒に何週間も続けてキリスト教思想の基本である三位一体を解説した。
「三角形には三つ頂点があるのに分けることはできない。同じように、父なる神、子なるキリスト、聖霊が存在するけれど、その全体が神であり、不可分なのです」と、毎回念仏のように繰り返しながら、それぞれの生徒のノートに三角形と、その中に主を象徴する上手な絵を描いて歩いた。
それは、十戒にある「偶像の禁止」に違反する大罪だった。
29:歯医者のオット先生
ヴァルメロード村には、歯医者が2軒、理髪屋が3軒あって、僕ら子供から見ると、両方の職業はよく似ていた。歯医者も理髪屋も、さまざまな道具を使って人間の首から上に手を加えるからだ。
いうまでもなく、僕は歯医者より理髪屋の方を高く評価していたが、かかりつけの歯医者オット先生の手際と風変わりな人格は今も記憶に残っている。
オット先生は狩猟気違いで、鹿、猪などの狩猟や飼育に夢中だった。夜は居酒屋の常連で、大げさな内容で「狩人のラテン語」ともいわれる猟の自慢話を交換するのが日課だ。太った妻は、若い時から猫の飼育が趣味で、「猫の母」と呼ばれる程の猫好きだった。
スーパーマーケットの棚に、犬、猫、小鳥の餌よりまだ離乳食の方が多かった頃、オット先生に変わった出来事が降りかかった。
ある深夜、いつものように狩猟家の集まりから帰ってきたオット先生は、ぐっすり眠っている妻を起こさないように、電気をつけず、足音を忍ばせて台所に入った。そして、音を立てないように冷蔵庫のドアを注意深く開けて缶詰を取り出し、その中味を一切れのパンに塗って食べてから床に入った。
翌朝、オット先生は「いつものアンチョビーペーストを買っておけよ!」と妻に文句をいった。すると妻は、続きを聞かないうちに腹をかかえて笑い出した。オット先生が食べたのは猫の餌だったのだ。
オット先生は子供にも人気があった。冬に野性動物を餓死させない為には餌が必要だ。そこで、秋になると僕ら子供はいつも栗を拾い集めて、先生から特別な小遣いをもらっていた。
28:僕の小さな世界
僕は母と一緒に買物に行くのが大好きだった。もちろん買物自体に興味があるわけではなく、店の主人が美味しいものをくれるからだ。肉屋、パン屋のような専門店で、いろんなものを貰った。肉屋のソーセージもパン屋のクッキーも美味しかった。
食料品店では、買う物によっては小さなおもちゃも手に入った。今でもマーガリンを買うと、子供の頃に貰った自動車の模型やプラスチック製の動物園が頭に浮かぶ。どれも安物だったが、まだ鉄道模型を持っていない僕には宝物だった。
僕は生まれてからずっと、いつも風邪をひいているように鼻が詰まっていた。
鼻をかんでも鼻水は出ないし、薬でも良くならなかった。
「お前は本当に馬鹿だね!鼻もろくにかめないんだから!」とゲルダおばさんによく叱られたが、やがて慢性副鼻腔炎だということが分かり、手術のためにモンタバール市の「慈悲の友の会修道士病院」に入院することになった。
手術の朝、修道女の膝の上に乗せられた僕の顔に、耳鼻咽喉科の先生が麻酔用マスクを押しつけた。すると色とりどりのあざやかな幻影が見えて、次に気がついた時はもう病室に戻っていた。ベッドの頭の上に掛けられたスレート板に、小さな患者たちの名前と年齢がチョークで書いてあった。診療科目ごとの小児病棟はなく、子供は年齢、性別、病気に関係なく、ひとつの大きな病室に入院していた。
ほとんどの子供は僕の半分位の年齢だったが、隣のベッドに寝ている女の子は8歳で、僕らはすぐに親しくなった。僕の嫌いなガリ勉タイプではなく、可愛い子だったが、初恋にならないうちに退院してしまった。
僕の世界は、相変わらず狭かった。小児麻痺の保険金で買った土地、それから村のパン屋、肉屋まではマラソン距離みたいで、母が毎週買物に行くリンブルグ市と姉が登校するモンタバール市までの15kmのドライブは、まるで海外旅行のようだった。誰かに嘘を教えられて、海岸がタールハイムという村にあると固く信じていた。
27:森の権力闘争
当時、ヴァルメロード地区には、森の番人が2人いた。
営林局長は大学を卒業していて、森林行政の中ではかなり偉い人だった。隣村のザルツには、おとぎ話のようにロマンチックな山番小屋があって、シュミット林務官が住んでいた。彼はやっとのことで中学校を卒業した人物で、人にいえない不可解な方法で林務官試験に合格したようだ。
そして自分より偉い営林局長の地位を妬んで、いつも何とかして局長に損害を与え、名誉を傷つけようと画策していた。
僕の両親も、一度その争いに巻き込まれたことがある。
ある年、父はいつもと同じように親しい営林局長にクリスマスツリーを頼んだ。実際に伐採するのは部下のシュミット林務官で、ツリーにふさわしい立派なモミの木を探し出すことになっていた。だが、彼が営林区を隅々まで探して選んだのは、営林局長が面目を失うこと間違いなしの木だった。玄関の前に置かれたモミの木は、薪としても利用出来ないほど貧弱だったのだ。
その結果、クリスマスイブになっても、家にはまだクリスマスツリーがなかった。
子供をガッカリさせたくない両親は、法律を無視して深夜に森林を探し回り、高さ2mのモミの木を切って帰った。こうして両親はクリスマスの失敗を紙一重で免れ、僕は鉄道模型のかわりに再び金属製の組み立ておもちゃを拡大してもらった。
26:ラジオ、映画、白黒テレビ
ヴァルメロード村の人たちは、見慣れた家畜、害虫、穀物と違って、技術的な複雑な自動車やラジオなどをエキゾチックなものと見なしていた。その魅力は構造や働きの難解さに比例して大きくなる。
僕ら子供にとって、機械の操縦や修理を職業とする人は憧れの的で、ガソリンスタンド経営者の息子ハインツ君も、その一人だった。僕らは彼を心から尊敬し、彼の車に関する意見をまるで福音のように受け入れていたが、僕の父を含めた大人はハインツ君の不手際をよく怒っていた。彼は知恵遅れのために中学校も卒業できず、彼の技術上の能力は洗車やオイル交換に過ぎなかったのだ。
大人たちは、ラジオをまるで仏壇のように大切にしていた。オートバイや車も、ラジオと同じように神聖な物で、その利用と手入れは世帯主の特権でも義務でもあった。権限のない人間が聖なる物に触れることは、重大な不敬罪にあたるようで、ほとんどの家のラジオは子供の手が届かないような本棚の上に置いてあった。
そんな村で、僕の母は堂々と運転免許を取って、一週間に少なくとも一度は車で17km離れたリンブルグ市へ買物に出かけていた。
もうひとつの娯楽は映画で、村の体育館では2ヶ月ごとに白黒映画を上映していた。生まれて初めて見たのは「長崎の鐘」という日本の映画で、途中でフィルムが何度も切れたのを今も憶えている。
やがてテレビが登場すると映画の上映は少なくなったが、テレビは中古車と同じくらい高価で、一般の人には手が届かなかった。そのため、どの酒場も、テーブルや椅子と同じように、基本設備としてテレビを置くようになった。人々は、どんなに退屈な番組でも、じっと見入っていた。僕が今でも憶えているのは、カーテンの前で延々と何かの討論が続く場面だ。
幸い、テレビはラジオと同じように最も手の届きにくい高い場所に取り付けてあった。客はすぐに首が痛くなって飲酒に戻るので、退屈な番組で精神的な被害を受ける恐れはなかった。
25:バルト海と夏の終わり
ハノーヴァの駅でおばさんに見送られ、一人で汽車に乗ってバルト海のニーンドルフ村へ向かった。そこに子供用の保養施設がある。
保養所の料理は、あまり美味しくなかった。中でも「海星のスープ」のまずさは今でも憶えている。僕は海で遊ぶのを楽しみにしていたが、一日の予定は厳しく管理されていて、それも思うようにならなかった。最初の日に海に入ったのは、たった2分間だ。
海水浴の時間は毎日少しずつ長くなっていったが、海辺の気候に慣れてからも15分以上泳いではいけなかった。
晴れた日は、海岸沿いをハイキングして、浜で貝殻や鮫の歯等を拾い集めたり、砂で城を建てたりして過ごした。雨の日は、下品な歌詞の船乗りの唄を習った。誰にも邪魔されない昼休みを利用して、僕は初めて一冊の本を終わりまで読んだ。シャワーを浴びるのも初めての体験だった。
この保養所で、僕が健康を回復したかどうかは、もう忘れてしまった。でも家に帰った時は、もっと痩せていた。
夏が終わり、保養所の小難を逃れて学校に戻ると、勉強という大難にあった。
成績は相変わらず悪かったが、海辺で習った汚い船乗りの唄のおかげで音楽の試験だけは満点を取った。
「白くて可愛い鴎が、きれいに磨いた甲板にまた糞を落とした」という唄だった。
24:ハノーヴァで過ごした夏休み
待望の夏休み。出発の日になると、フランクフルトからハノーヴァまでの飛行機旅行は、ハノーヴァ上空の遊覧飛行に縮まってしまった。ゲルダおばさんの恋人が狭いカブトムシで僕を迎えにきて、夜遅くハノーヴァに着いた。
おばさんのアパートの近くには、路面電車の停留所も、ハノーヴァ中央駅も、それから「フレディの家で」という酒場もあった。その薄暗い小さな店を覗こうとすると、おばさんは僕の手をしっかりつかんで厳しい声でいった。
「入っちゃだめだよ!逆さまに作られた奴の集会所だから!」
逆さまに作られた奴というのは同性愛者のことだった。
生まれて初めて見た大都市ハノーヴァには、空襲で瓦礫になった家と新しく建てられたビルが並んでいた。廃虚の探究は飛行機に乗るのと同じくらい魅力的だったが、瓦礫を囲む柵とゲルダおばさんに阻止されて、研究欲を満たすことはできなかった。そうなると、残された楽しみは遊覧飛行とデパートの見学だけだ。
遊覧飛行は雨や霧で何度も延期になった。気まぐれな天候という試練に耐えながら、僕らは毎日ハノーヴァの名所を見物してまわった。
動物園は異次元の世界のようで、頭にも尻尾みたいなものがある象は、僕の想像力をはるかに超えていた。公園では、いろんな小鳥が僕の掌にとまって小麦の種をついばみ、リスがズボンのポケットに忍び込んで餌を盗み取った。
ある日、デパートへ出かける前に、おばさんは僕に紙を渡して「今日買うものをいうから全部書きとめなさい」と命令口調でいった。
僕は、不当な罰を受けたように感じて大騒ぎしたが、デパートでエスカレーターやエレベーターに乗る頃には、学校の休みに文字を書かされたことなど忘れていた。
最後の日にやっと天候が回復し、おばさんは僕との約束を果たすことができた。
飛行場で待っていたのは4人乗りの小さな飛行機で、ハノーヴァ上空の遊覧飛行は1人10マルクほどだった。
飛行は楽しかったが、着陸直後に後輪が壊れて、舵が効かなくなった飛行機がぐるぐるとまわり始めた。仕方がないのでパイロットはエンジンを止め、機体は牽引されて所定のエリアに戻った。
そして僕らは、最後に飛行証明書をもらって、ちょっとした冒険飛行の記念とした。
23:進級前の補習授業
1年の半分近くも学校を休んだのに、僕は復活祭の休み明けに進級出来ることになった。
ポタポタさんは、外見も性格もババくさかったが教師としては熱心で、一日も早く僕に勉強の遅れを取り戻させようと一生懸命だった。たとえ小児麻痺のせいでも下手な字に甘い点をつけなかったのは尊敬に値するが、何度も書かされた文章は「我が校の先生をポタポタさんと呼んではいけません!」という無意味なものだった。
当時、僕らは屋根材によく使う薄い粘板岩のスレート板で字の練習をしていたが、大人のように紙に字を書くのを習うために毎週カリグラフィーの授業も受けていた。そのために、すべての机にインク壺が取り付けてあった。
カリグラフィーの授業では、インクが紙にボタっと落ちないように、ペン先に少しだけインクをつけて、注意深く字を書く。そして2~3文字書くと、再びペンにインクをつけなければならない。紙に字を書くのは面倒くさかったが、インク壺は前に坐っている女の子の髪を染めるのに役立った。
僕は勉強嫌いの生徒だった。小学生としての人生の意義は、次の休暇を待つことにあると考え、楽しい夏休みを心に描きながらポタポタさんの補習授業をじっと我慢した。
夏休みには、僕はバルト海のニーンドルフ村にある小児保養所で約4週間過ごす予定になっていた。退院前にゲルダおばさんが約束してくれ、飛行機旅行のプレゼントも残っている。そこで、まず飛行機でハノーヴァへ行って、2~3日ゲルダおばさんと一緒に市内見物してから、一人でバルト海の村まで汽車で行くことになった。
詳しい計画は父が立ててくれたが、僕にとって生まれて初めての一人旅だ。まるで世界一周のような大冒険の旅に出る、という不安と期待と興奮でいっぱいだった。
22:お小遣い倍増作戦
小学校に入学してから、僕は毎週土曜日に小遣いを貰っていた。金額は10ペニヒ(約10円)で、ただでさえ大したものは買えない額だったが、さらに不当ともいえる支給条件がついていた。土曜日の授業の後で、おもちゃが入っている戸棚を片付けないと小遣いを貰えないのだ。片付けなかった場合、次の1週間は小遣いなしで過ごさなければならない。
小遣いは毎年10ペニヒずつ増えていったが、そんな小銭ではドロップの小さいのが10個、大きいのが5個、または小さい植木鉢1個しか買うことができない。その購買力は僕の理想にはほど遠かった。
すでにギュムナジウムに通っていた姉は、都会育ちの同級生の影響を受けて、子供として上手く立ち回る狡賢さを身につけていた。そして悪知恵を絞って、頻発する小児財政危機を緩和する対策を立てた。その目的達成には共犯者が欠かせないため、僕に対する高慢な態度を改めることにしたようだ。
姉の計画は、つけで買い物をする母の習慣に基づいていた。母は料理に必要な材料を手っ取り早く手に入れるために、よく僕と姉を買い物に行かせて、店には後で払っていた。いつも必要なものを紙に書いてくれたが、姉はそのリストにドロップ1袋とか板チョコ1枚をつけ加えて、僕に暗記させたのだ。店には、まだ悪だくみを疑われない年齢の僕が1人で入って品物を受け取り、騙し取ったお菓子を一緒に食べながら家に帰った。母は、僕らの犯行には気づかなかった。
姉は、ギュムナジウムの成績はあまり良くなかったが、お菓子をくすねる技術だけは毎回少しずつ上達していった。
ドイツではどんなに小さな村でも、そこに教会がある限り、毎年決められた日に教会寄進記念祭が開催される。それは僕らにとって、クリスマスや復活祭の次に大事な祭日だった。お祭りの場所はどの村にもある中央広場で、屋台、射的場、子供用のメリーゴーラウンド、誰でも乗れる観覧車などが並ぶ。僕は、父や近所の人から特別な小遣いを貰うと、いつも最後の硬貨を使い果たすまで広場で遊んだ。
厳格な母にとって、もともと子供の小遣いとは「自由に使っていいのよ」といいながら実は自由に使ってはいけないもので、果物、鉛筆、絵の具箱など、栄養になるものや勉強に役立つものを買うべきお金だった。姉や僕が、時おりわずかな小遣いに相当するわずかな自由を満喫できたのは、子供に甘い父のおかげだ。
21:退院と復活祭
治療は順調に進み、復活祭前に退院できることになった。
両親は僕に、素晴しいプレゼントを用意して豪華な退院パーティを開く、と約束した。ゲルダおばさんは、両親に負けないプレゼントとして、4週間のハノーヴァ滞在に招待してくれた。しかもフランクフルトから飛行機で行くのだ。
また小学校へ通わなくてはならないのは嫌だったが、入院に伴う痛い注射や感電治療よりはずっとましだ。僕は、ヴァルメロード村へ帰る日を待ちこがれていた。
両親は、数週間前の大げさな約束を守った。山のようなプレゼントの中で、僕がいちばん気に入ったのは新型のスケーターだ。その他のプレゼントは衣類ばかりで、すぐに母が作ったものだと分かった。
復活祭の休日には、初めてライン河の古城へ連れていってもらった。子供を飾りつけの一種とみなしている母は、僕に背広を着せて小さな紳士のように見せるのが大好きだったが、僕はネクタイで縛り首にされている感じがして大嫌いだった。それでも、古城へいく日は我慢して小さな紳士の仮装をした。
休日が終わると、僕に与えられた特権は少しずつ消えていった。
退屈な病院で何ヶ月も待ちこがれていた学校生活も、戻ったらすぐに嫌になった。
ポタポタさんは当時の風潮に従って、勉強を罰として誤用していた。算数が苦手な生徒の宿題を倍にしたり、字がきたない時は「宿題はきれいに書かなければなりません」という馬鹿な「命題」を百回書かせたり、悪戯した生徒を学校に居残りさせて何の役にも立たないことをやらせたりした。
しかもポタポタさんと両親は共謀していて、まるで自然法則のように「疑わしい場合、子供のいうことは嘘である」という見解で常に一致した。
普通、子供は習ったばかりの算数や読み書きを自慢するものだが、ガリ勉のクニを除いて、僕らヴァルメロード村の学童は勉強を本当に嫌っていた。それどころか、習得したばかりの知識を応用するたびに恥ずかしい気持ちになった。
