ドイツ少年記 -3ページ目

10:アンナおばさん

家には、スクーターの他にフォルクスワーゲンの緑色のカブトムシもあった。父は冬の間や雨の日は、その車で往診に出かけた。僕を連れて往診に行くこともあって、そんな時、僕はいつも後部座席に座った。そして父が家の中で患者を診察している間、農場で働いている人や走り回る鶏等を観察するのが好きだった。僕にとって、そこは不思議な世界だった。

 

父が休診の週末は、家族でよくライン河までドライブした。折りたたみ椅子やテーブルを車に詰め込んで河原へ行き、そこで料理をして、みんなで食事を楽しむ。夕食は、たいてい帰る途中のレストランで食べた。

 

僕がひとりで留守番をする時は、隣村のモルスベルグから大好きなヘンケス家のアンナおばさんが来て、僕の面倒をみてくれた。やさしいアンナおばさんは、僕に童話を読んで聞かせたり、一緒にトランプのババ抜きをして遊んでくれたりしたが、秘密を守ることはできなかった。僕がちょっと悪戯をしただけで、すぐ両親に告げ口をした。

 

1900年生まれのアンナおばさんは、20歳の時に変な噂のせいで婚約を破棄して以来、生まれ育った農家で兄弟や甥たちと一緒に農民らしい生活をしていた。


アンナおばさんの兄弟のひとり、ヨーゼフおじさんは、耳が遠く、補聴器を使ってもほとんど音が聞こえなかった。彼に話しかけるには、耳元か補聴器のマイクに向かって精一杯声を張りあげて、同じことを2~3回わめくしかない。自分の話もよく聞こえないため、答えも大声でわめき返す。そうやってヨーゼフおじさんと村人たちは、いつも騒音公害のような雑談を楽しんでいた。

 

Molsberg村へ(Wallmerodサイト内)

9:将来の夢

僕には、ふたつ大きな夢があった。ひとつは電動の鉄道模型を持つこと、もうひとつは庭師になることだ。

 

小さい機関車、車両、線路を手に入れるために、随分苦労した。

サンタクロースの優しさを信じていた僕は、毎年クリスマスの1ヶ月前になると欲しい物を数え上げて、姉にサンタクロースへの手紙を書いてもらっていた。でも、姉に書き取らせている僕の願いを聞くと、両親は怒って、「なんて厚かましい!そんなに高い物を願ったら、サンタクロースは絶対に何もくれないよ!」というのだった。

そして「汽車の代わりにメルクリンの金属製組み立ておもちゃを頼めば、本当に貰えるかもしれない」などといい添えた。

そんなわけで、僕は9歳になるまで毎年、実際には欲しくない物ばかり貰っていた。

 

庭師になるという夢の実現には、まわりの人の協力は不可欠ではなかった。花を植える楽しみを邪魔する人がいても、僕は庭師への道をあきらめなかった。

毎日、隣の土地にある温室にいって通路の両側に並んだ花を眺め、忙しく働いている庭師に植物のことを根掘り葉掘り質問してうんざりさせた。親切な庭師は、どんなに馬鹿な質問にも親切に答え、時には挿し木をくれたりした。

 

僕は、小遣いをもらうとさっそく植木鉢を買いに行って、庭師からもらった挿し木を植えた。家の中に置く場所がなかったので、植木鉢を石垣の上に並べた。毎日せっせと水や肥料をやったが、花の大部分は冬の間に冷害で枯れてしまった。

 

真面目に花の面倒を見ている僕を馬鹿にする人もいた。塩を持ってきて「これを蒔くと4週間以内に塩の木が生えてくる」といわれたこともある。だが、僕は塩を蒔くほど愚かではなかった。

8:真夏も冷たいプール

小さなヴァルメロード村には屋外プールもあった。宗教的に偏狭な村長が努力した結果、すでに第二次大戦の前に完成していた。

 

そこまで電気回線を引くことができなかったので濾過装置はなかったが、プールの水はいつもきれいだった。常に近くの泉から沸き出る水がプールに流れ込み、その反対側で同じ水量だけ流れ出るようになっていたからだ。そのため水温は真夏でも16℃を超えることはなかった。

 

プールの監視人は、水泳監視人という肩書がついているくせに泳げなかった。幸運なことに、全能の神様と泳げる青年たちのおかげで、水死という不幸な事故は一度も起こらなかった。

 

両親と姉と僕は、4人でスクーターに乗ってよくプールに泳ぎに行った。

50ccの小さなスクーターで、父は母を後ろに乗せて運転した。姉は父と母の間に座っていたが、僕は父の両足に挟まれたまま前に立っていた。トゥルツを連れていく場合は、誰かひとりが歩かなければならなかった。

 

猛犬のくせに水を怖がっていたトゥルツは、プールの中へ飛び込む勇気がなかった。それで、いつも親切な村の青年たちがトゥルツを抱えたまま注意深く水に入れ、数分後には自分で梯子を登れないトゥルツをまた抱えてプールから出してくれた。

 

僕は、このプールで父に水泳を教えてもらい、生まれて初めて酷い日焼けの痛みも体験した。その跡は今でも残っている。

7:まぬけのマイさん

どの村にも、みんなから「まぬけ」と馬鹿にされる人がいる。ヴァルメロード村ではアウグスト・マイという人がそうだった。

 

マイさんは統合失調症だった。ずっと前から身体障害者として終身年金を貰っていたが、毎日朝早くから夜遅くまで働いていた。彼の名刺には「発明者」という職業が書いてあった。ペダルを踏まなくても坂道を登る自転車のような、自然法則では不可能な機械を数多く発明したらしい。

 

マイさんは村の薬剤師と同級生で、子供の頃は一緒にヴァルメロード村から10km程離れたハダマール市の小学校に通っていた。

薬剤師は薬局の仕事で忙しく、村の外へ出かける機会が少なかったが、マイさんは統合失調の治療で週に1回ハダマールへ通っていた。そして、バスに乗る前には必ず薬剤師と話をするために薬局へやってくる。

 

薬局に勤めている女性たちは、マイさんが現れるとサッと薬剤室から奥の実験室へと姿を消した。逃げる理由は、統合失調の患者が恐いからではない。毎週、必ず繰り返される喜劇のせいだった。薬剤師の前で大笑いするわけにもいかず、笑いをこらえることも出来ないので、みんな実験室で腹をかかえてゲラゲラ笑っていたのだ。

 

薬局の人も農民も、ヴェスターヴァルト地方の訛りで余計におかしく聞こえるこんなやりとりを面白がっていた。

 

マイさん「おい!今日またハダマールに行くんだ!」

薬剤師「そうかい」

マイさん「誰かに会ったら、その誰かによろしくといっていいかい?」

薬剤師「あぁ、いいよ」

マイさん「じゃ、誰かに会ったら、その誰かによろしくといおう!」

  

Hadamar

6:亀のマチルデ

動物が大好きな僕の姉は、ある年、誕生日プレゼントに兎と陸亀をもらった。

 

その亀の名前が、村の薬剤師の奥さんと同じマチルデだったのは、別に偶然ではない。彼女の気取った振る舞いを嫌っていた父が、マチルデと命名したのだ。父の本音を知らない農民たちの間で、同名の偶然がしばらく話題になった。

 

ヴァルメロード村には営林局もあった。だが営林局長のビスピング家は高慢な家族で、村民とはあまり親しくなかった。亀マチルデの噂も知らなかったので、突然自分の営林区に亜熱帯にしか生息しないギリシア陸亀が姿を現わした時は、さぞ驚いたに違いない。捕まえて家に連れて帰ると、亀の飼育に関する本を買って庭に専用の場所まで作り、長男が亀の世話をすることになった。

 

営林局長が陸亀を飼っているという噂は、一週間以内に僕の耳に入った。さっそく営林局長の家に行ってみると、その亀は数週間前に家から逃げたマチルデだった。営林局長は、庭の一部を柵で囲ったことも無駄骨だったと知って、すぐに亀を返してくれた。

 

父はもう一匹亀を買ってアドルフという名をつけたが、その亀は逃げて永久に姿を消してしまった。営林局長がいくら森林を捜し回っても見つける事は出来なかった。一方のマチルデは、庭で日光浴を楽しみ、美味しいミミズや野菜を食べて楽な生活を続けた。

 

住宅と医院を貸してくれた大工の息子たちは、意地悪な悪戯坊主だった。

ある日、家の庭で遊んでいた一人が僕の方へ走ってきて、

「見て見て!早く!亀が卵を産んだよ!」と叫んだ。

すぐ見に行って亀を持ち上げると、下に小さな白い卵があった。

 

すっかり本気にした僕は、みんなに馬鹿にされた。その卵は、悪戯坊主が小鳥の巣から盗んで亀の下に置いたものだった。

5:大嫌いな幼稚園


僕は幼稚園が大嫌いだった。幼稚園の先生は修道女だが、子供たちを新兵のように扱っていたからだ。遊びの前後に、まるで軍隊のように2列に整列させたり行進させたりして、子供の個性はまったく認めなかった。

 

規則正しくシーソーで遊んだり、おとなしく砂場で城をつくったりしている子供の笑い声には微笑みで応え、不満を表わす泣き声は知らん顔で聞こえない振りをし、何かに怒って涙も流さずに大声で不平をいう子供は狭い小部屋に閉じ込めた。

子供が不機嫌になる権利は認められなかったが、自分の感情は気分のままに剥き出しにした。僕も、自由な世界を作ろうとして、何度も小部屋に放り込まれた。

 

子供の中で一番よく覚えているのは、僕と最も仲の悪いエンゲルベルトという奴だ。修道女たちは、いうまでもなくエンゲルベルトと僕を一緒に遊ばせようとして、2年間にわたる絶え間のない喧嘩状態を引き起こした。幼稚園が静かなのは、喧嘩っ早い僕らのどちらかが病気で休んでいる時だけだった。

当時、家にはお手伝いさんがいた。彼女はとても優しい人だったが、いつも幼稚園へ行くのを嫌がる僕と喧嘩になった。

 

ある朝、幼稚園の毎日にうんざりした僕は、家を出た直後にすぐ前の大通りで真ん中にうつ伏せになって、「幼稚園に行かない!」と泣いた。そこへバスが走ってきた。

バスは急ブレーキをかけて僕の直前で止まり、運転手が真っ青な顔で降りて来た。

 

僕はかろうじて死を免れたが、怒った父に尻を叩かれた。台所にあった木製の炊事用スプーンは、その時僕の尻で割れたのだ。

4:愛犬トゥルツ

ヴァルメロード村へ引っ越した年、ボクサーの仔犬が家族の新しい一員となった。トゥルツ(強情)という名前で、年間12マルク(約1000円)の番犬税と引き換えに永住権を受け、頼もしい番犬としての将来に向かって歩き始めることになった。

 

顔が黒く、体が茶色い仔犬のトゥルツは、やがて強い犬に成長した。

 

父は医者の他に犬の調教師もしていたが、力の強いトゥルツは相手の大きさや強さに関係なく、どんな犬にも喧嘩を仕掛け、しかもほとんど負けなかった。家の中では理想的な番犬そのもので、家に足を踏み入れようとする人には誰彼となく飛びかかって、損害保険の業界で悪評をたてた。

 

どうやら犬に関する村の人たちの知識は、シェパード、ダックスフント、猟犬、雑種に限られていて、ボクサーという品種は彼らの想像力を超えていたようだ。

やがて「新しい先生は本当に変な人だな。子牛を散歩に連れて歩いているよ!」という噂が村に広まった。

 

猛犬トゥルツも、僕に対してはおとなしかった。暖炉の火バサミで尻尾を挟んでも耳を引っぱっても、一度も怒ったことはない。

 

過去を光明に満ちた時と見なす人は、圧倒的に多い。時が経つにつれて子供時代の苦しみを忘れるからだ。だが僕は、不足のない暮らしや多様多彩な楽しみがあったにもかかわらず、子供時代を「自由のない生活」だったと記憶している。

いつも回りにいっぱい邪魔者がいて、一瞬たりとも両親や隣人の監督から逃れる場所がなかった。父母がいない時は、姉が世帯主を気取ってうるさかった。

幼稚園に入ってからは、起きてから寝るまで絶えず成人の監督下にいて、自由になるためには眠るしかなかった。窮屈な生活の中で、トゥルツはいつも僕の親友であり慰めだった。

3:ヴァルメロード村

父は、コッペンブリュッゲ村で5年ほど苦労した結果、やっと開業免許を取った。

 

辺鄙な鉱山村を経て、ヴェスターヴァルト地方のヴァルメロードという農村に引っ越し、村の名士の一人である大工に木造家屋を二軒、医院と自宅として貸してもらった。医院は小さな木組みの建物で、床と地面の間は蛇や鼠の遊び場になっていた。住まいの方は比較的広くて女中部屋まであったが、浴室はなかった。

 

村人のほとんどは、カトリック信者だった。数少ないプロテスタント信者は、戦後になって東方領土から追い出されて住みついた人たちだ。僕たちも、少数派のプロテスタントだった。信心深い農民たちは毎週きちんと教会に通っていたが、医者の宗教については特に関心を払わなかった。

 

ところが狂信的なカトリック信者の村長は、プロテスタントの医者によるプロテスタントの医療に我慢出来ず、カトリックの医者の開業を求めて裁判を起こした。もちろん最高裁でも負け、さらに州政府への請願も却下され、村長がどんなに頑張ってもプロテスタントである父の医院に止めを刺す事は出来なかった。

宗教的には偏見に満ちた村長だったが、数年後に名誉村民に選ばれた。

 

ヴァルメロード村には、簡易裁判所も、小さな刑務所もあった。そして4週間ごとの日曜日には巡回の牧師が村にやってきて、裁判所の法廷がプロテスタント教会に変わった。礼拝を執り行う間、牧師は祈祷や聖書朗読の時にはいつも裁判官がいる場所に立ち、説教する時にはいつも検察官が起訴状を読み上げる場所に移った。

 

僕にとって、礼拝は退屈そのものだった。大都市に住んでいる人がいったいどうやって週に1回も礼拝を我慢しているのか、全く理解出来なかった。

 

Wallmerod村へ

2:ふたりのおばさん

僕が生まれた頃、父はハノーヴァ市の近くにあるコッペンブリュッゲ村の保養所に医者として勤めていた。その村は、笛吹き男の伝説で有名な町ハーメルンからも近い。

 

戦後の困難な時代で、皆がお互いに助け合って暮らしていた。家にもほとんど毎日親類が手伝いに来ていて、特に父の姉ゲルダおばさんと母の姉マルガおばさんが、よく家事を手伝ったり僕の面倒を見たりしてくれた。

 


経済学者のゲルダおばさんは、普通の人に比べて几帳面過ぎる性格で、ちょっとした家事でも着手する前に詳しい計画を立てて、最後までその計画に従っていた。ある時、母とゲルダおばさんが交代で僕のおむつを取り換えていた。僕はゲルダおばさんが交換する時だけおむつを大便で汚していたらしい。不思議なことに、その習慣まで几帳面に何週間も続いたそうだ。

 

ある時、父と母が一緒に留守にしたことがあって、マルガおばさんが母の代役を務めた。だが独身のマルガおばさんは、子守りの基礎的な知識を持ち合わせていなかったようだ。食事の量を毎回きちんと計算せずに好きなだけ食べさせた結果、僕は栄養過多であっという間に真ん丸になった。そして、帰ってきた母に「赤ちゃんの食べ物が足りなかった。私が買わなきゃ死んじゃったよ!」と苦情をいうのだった。

★Hamelnへ
★Coppenbruegge村へ




1:誕生日

出生証明書によると、僕は1948年1月29日に生まれたことになっている。だが、その日付や正確な出生時間については、いろいろ噂があった。確かなのは、出生地がドイツ北部のハノーヴァ、体重は5kgを超えていたということだけだ。

人に出生地を聞かれた時は少しだけ答えをためらう。ハノーヴァ人は偏屈で石頭という悪評があるからだ。

 

僕は子供の頃から出生日を疑ってよく冗談の種にしたが、その疑いには根拠がある。母の誕生日も1月29日なのだ。1月28日の夜遅く生まれた僕を立派なプレゼントにするために、医者や助産婦が出生証明書を少しだけ偽造して1月29日と記入したに違いない。

  

両親は、いうまでもなく僕の疑いに反対の声を上げた。母は「あなたは生まれた時、へその緒がぐるぐる首に巻きついていたから、きっと酸欠で頭がおかしくなったのよ。それで、そんなに疑り深いんだわ!」という変な反撃で僕を黙らせようとした。

 

そういわれると、僕はいつも引き出しから計算尺を取り出して、出生日と正常な妊娠期間から僕と姉の受胎日を計算してみせた。こうして誕生日の話は、いつも両親に恥ずかしい思いをさせて謎のまま終わった。どうやら姉は飲み明かした大晦日の夜に、僕は人が特に恋に狂うという5月に出来たようだ。

 

僕が典型的なドイツ人男性であることは、幼い頃から悩まされていたビールへの欲望からも明らかで、ドイツ語で「1本のビール」と「ビール瓶」の区別もつかない頃から、誕生日のプレゼントに「ビール瓶」が欲しいと両親にねだっていた。

    

★Hannoverへ