20:小児麻痺で得たもの
小児科の教授がくれたクリスマス休暇は、あっという間に終わり、僕は泣きながら大学病院に戻った。毎日感電しているうちに萎縮した筋肉は少しずつ強くなっていったが、右の上碗だけは治療の努力に逆らっていた。筋肉の萎縮による骨の変形を防ぎ、長い入院で弱くなった体を鍛えるために、体操もさせられた。夜になると背中、両肩、右手に大きなギプスをつけてもらった。
こうして、僕が退屈な毎日に耐えながら長い治療を受けている間に、どこかの研究所で、誰かが、やっと小児麻痺を防ぐ痘苗を発明した。
それまで、子供が小児麻痺にかかった余波で親が破産するのを防ぐ方法は、保険をかけることしかなかった。心配性の父は、もちろん保険をかけていた。そして、僕が重病で稼いだ金で新しい家を建てることにした。
入院中に、僕は多くの人と出会い、いろんな人から慰めや励ましを受けた。父と同じフリーメーソン団員のオスカールおじさんもそのひとりで、僕と会ったこともないのに、2~3日ごとにハリネズミの絵葉書を送ってくれた。
ハリネズミは、賢い生き物として、昔からよく童話や寓話の主人公になっている。自分より強くて素早い動物と対決し、まんまと裏をかいて出し抜く話が多い。
当時はメッキーというハリネズミ一家の冒険を描いた絵本が人気で、数えられないほど出版されていた。メッキー家の父は頭が良く、北極探検に出かけたり、熱気球で世界中を回ったりしていた。もちろんメッキーの本も、いっぱいもらった。
僕はオスカールおじさんから100通以上の絵葉書を受け取ったが、不思議なことに退院後も会う機会はなく、親しくなることもなかった。
19:ゲルダおばさん旋風
ゲルダおばさんは、クリスマスイブのビンタ以外に僕を困らせるようなことはなかった。だが姉は、まるで口答試験のように、フランス語の単語、歴史上の事件等について質問責めにされていた。
経済学者で、ドイツ労働組合員で、難民同盟・全ドイツブロックという小さな政党の党員でもあったゲルダおばさんは、政治や雇用関係にこだわりが強く、まだ子供の姉を厳しく詰問して泣かせたりした。もちろん本人に悪気はない。
ヴァルメロード村の僕達以外に親類はいないので、クリスマスや誕生日になると、いつもたくさんのプレゼントをくれた。
姉は、いつも学校で習った知識を応用出来る、教育的なおもちゃを貰っていた。フランスの都市、山、峠などを覚えるためのフランス語の説明がついたトランプ、裁縫箱などだ。姉が欲しくなかったプレゼントは、いつもゲルダおばさんの帰宅と共に物置に消えた。一方、僕は堀削機、飛行機、窓ガラスを登るゼンマイ仕掛けのキツツキなど、いつも面白いおもちゃを貰って、かなり満足していた。
ゲルダおばさんのもうひとつの特長は、流行に乗り遅れない、ということだ。
都会で暮らしていて、最新の電化製品や情報に詳しかった。特にその年は、奨学金を受けて約半年のアメリカ留学から帰国した翌年だったので、アメリカの生活様式も熱心に研究していて、その印象的な要素を我が家にも導入したがっていた。
そのひとつが、美容院ではなく家で髪の毛を染める方法だった。
ある晩、おばさんは「自分で髪を栗色に染める」といって洗面所に入った。
かなり時間が経って出てきたおばさんの髪は、栗色ではなく、青蝿の腹部とそっくりの色に輝いていた。前衛的な試みが失敗に終わったにもかかわらず、クリスマスの楽しみは台無しにならなかった。ゲルダおばさんは恥ずかしがることもなく、青蝿色の頭を見せびらかして過ごした。
18:クリスマスの一時帰宅
ある日、回診で小児科の教授が「クリスマスは家で過ごしていいよ!」といった。
僕はうれしくて胸がいっぱいになった。まだ子供だった僕には、入院生活はつらかったのだ。医師たちは何度も血液検査を繰り返し、筋肉の萎縮を防ぐために神経を電流で刺激した。その感電は酷かった。
肺炎防止のため、病室の温度は必要以上に高く、いつも喉が渇いていた。僕はそれまで嫌っていた汁気の多い果物も、大量に食べるようになった。
入院中には、うれしい出来事もあった。母がくれた模型の飛行機は、僕の一番好きなおもちゃとなった。記憶に間違いがなければ、オランダ航空の旅客機だ。それに母は普段の気難しさを捨てて、よく僕を車椅子に乗せて病院の近所を散歩してくれた。
そうこうするうちに、約束のクリスマス休暇になった。
大学病院の広い病室や廊下、高い天井にすっかり慣れていたせいか、帰宅した時は、家も部屋も家具も以前より小さく見えた。久し振りの我が家は小人の屋敷みたいで、小さく見えないのは相変わらず肥満体のゲルダおばさんだけだった。
おばさんは、クリスマスと正月を僕らと一緒に過ごすために滞在していた。
母は、僕がまだ生きていることに感謝して、いつもより豪華な食事を準備した。
朝食には普通のパンだけではなく、2種類の高級なパンを用意した。その1種類は巨大な淋菌のように、もう1種類はケシの種がついていて三日間髭を剃っていない男性の顔のように見えた。最も安いパンは人間のお尻とそっくりだった。パンに乗せるソーセージも普段より種類が豊富で、ゆで玉子も必ずテーブルに並んでいた。
クリスマスイブの朝、浴室替わりに使っていた洗面所へ入ると、素っ裸のゲルダおばさんが目に入った。そのお尻を見て安いパンを連想した僕は「おばさんのパンが見えた!」と大声でからかい、怒ったゲルダおばさんに叩かれた。
17:小児麻痺にかかって
6歳の秋、僕はいつものように風邪をひいて学校を休んだ。
その週末は、両親と姉がライン河で過ごすことになっていたので、アンナおばさんが家に来て僕の世話をしてくれた。
一日中、トランプでババ抜きをして、おばさんが勝ち続けた。その単調さを破る為に僕を数回勝たせてくれたが、僕はすぐそれに気がついて、よけい退屈に感じた。
寝る前には童話の本を開いて、僕の最も好きな話を何度も読んでくれた。そして、電気を消す前には、カトリックの三位一体を唱え、天使の軍勢を賛美し、さらに大勢の聖人聖女の名前を呼んで、さまざまな祈りを捧げた。
当時、カトリックのお祈りには、頭、右手、左手、右足、左足等、身体の各部分に守護天使がいた。今でも、14守護聖人を除くすべての聖人聖女は、それぞれ専門家だ。僕は長いお祈りを童話のように楽しみながら、両親の留守をなんとか切り抜けた。
だが、アンナおばさんの祈りも、父の注射も、僕の風邪を治すことは出来なかった。
家から100kmほど離れたマインツ大学病院に入院すると、風邪は小児麻痺として本性を現わした。わずか数日で、僕は背中、右手、右足が、ほとんど動かせなくなった。
母は、僕が入院している間、病院の近くに部屋を借りて毎日見舞いに来てくれた。
病室には僕と同じように小児麻痺にかかったフランス人の男の子がいて、僕らはドイツ語とフランス語を混ぜて話しながら、仲良く入院生活を送った。彼の両手は麻痺で動かなくなって、足が手の役割を果たしていた。食事の時は、足でスプーンを持って上手に操作した。
彼の母親も、毎日泣きはらした顔で息子を見舞いに来ていた。
16:ヘンケス家の家畜観察
僕は、次第に小学生としての生活も嫌になってきた。自由に遊べなくなっただけではない。午前中はポタポタさん、午後は両親が掛け算の九九や暗誦すべき詩について次から次へと僕を質問攻めにして、うるさかったのだ。
学童生活が天罰のようである一方、休みは天の贈物だった。午前中、母が家の中を掃除している間だけは、誰にも邪魔されずに庭で自由に遊ぶことが出来た。
家の前には広い道路があって、友だちと僕は、よく通り過ぎるバスやトラックに腐ったリンゴやいろんなものを投げつけて遊んでいた。ある日、ひと握りの小石をトラックに当てたら、怒った運転手が降りてきて父に文句をいった。僕はビンタを食らった。
しつけ厳しい父は、家族思いの心配性でもあった。僕が大好きな隣村の農家、ヘンケス家に泊まりにいくと、村で遊んでいる間にうっかり肥溜めに落ちて死ぬんじゃないかと、ずっと心配していた。
家畜の観察が大好きだった僕は、ある日、ヘンケス家で鶏の奇妙な行動を目撃した。雄鶏が雌鶏を一羽選んで後を追いまわし、追いつくと雌鶏の背中に乗って、くちばしでトサカを引っぱりながら荒れ狂ったのだ。僕にはその行動が理解できなかったので、アンナおばさんに聞いてみた。おばさんは、こう教えてくれた。
「あの雌鶏は、玉子をあまり生まなかったからね。雄鶏に怒られているんだよ!」
僕の自然科学観は、敬虔なアンナおばさんのおかげで何年も進化が遅れた。動物の交尾から人間のセックスまでは、僅かな一歩しかない。その事実をよく知っていたおばさんは、6歳の子供と交尾の話をするのは宗教上の禁忌だと思ったのだ。
夜になると、いつも2階の寝室でアンナおばさんと一緒に寝た。3階は穀物倉で、鼠たちの楽園だ。サッカーの世界選手権でもしているかのように大騒ぎで走り回るので、たいてい深夜まで眠れなかった。
15:変なクラスメイトたち
初めの頃は、授業時間は割と短く、10時半に登校して昼頃には家に帰った。3ヶ月位すると授業時間が少しずつ増えていった。やがて毎日3時間半の授業を受けるようになって、学年末までに僕らは皆、読み書きの基本を習得した。
ポタポタさんは、いつも同時に4クラスを教えていた。1クラスを教えている間、残りの3クラスは習ったばかりの内容を静かに復習する。だから授業の1単位は15分だった。
同級生は5人。2人は男の子で、3人は女の子だった。
クニは、隣村モルスベルグに住んでいる教師の娘だ。父親にうるさくいわれるせいか、他の学童より真面目に勉強していた。しかも、同級生の悪戯をすぐポタポタさんに密告するので、僕は大嫌いだった。
ヘルマン・ヨーゼフ君は、僕よりずっと体が強く、修道院を逃げ出して駆け落ちした修道士と修道女の長男だった。彼に続いて、弟や妹が毎年一人ずつ入学してきた。
他の3人は頭が悪く、反社会的な傾向があった。女の子のひとりは、赤い髪のせいで「赤毛の狐」と呼ばれていて、男の子はヘビー級ボクサーのパンチを受けたみたいな顔をしていた。
一方、ギュムナジウムに通うようになった姉は、どんどん鼻が高くなっていった。習い始めたばかりのフランス語の成績を自慢し、僕に礼儀作法を教えるのも、自分の役目だと勘違いするようになった。僕が鼻をほじっているのを見つけると、いつも「サー、上に着いたら絵葉書を書いてね!」と嫌味をいった。まったくうるさかった。
14:厳格なポタポタ先生
村の学校には、教室がふたつしかなかった。
ひとつの教室では、男性のシュッスラー先生が、5年生から8年生までの生徒たちに基本的な教養を与えようと努力していた。
彼は、ラテン語、ギリシア語等の古典語をマスターしていたにも関わらず、何らかの事情で辺鄙なヴァルメロード村に居座っていた。感情の繊細な学者だったせいか、がさつな田舎者に毎日いじめられていた。学問的な僻地ヴァルメロード村で、小学生に道理を説くのは辛い仕事だったに違いない。黒板を叩く指示棒の使い方もぎこちなかった。
もうひとつの教室では、婆くさい女性のトレーマー先生が4年生までの学童たちに読み書き、四季の行事、村周辺の地理学等を教えていた。彼女は、指示棒を巧みに使いこなして、教科書にある知識を僕らに叩き込んだ。
当時、男の子は皆革ズボンをはいていた。革ズボンなら叩いても痛くないから、トレーマー先生の掌は秩序を叩き込む道具となり、僕らのお尻は知識の入口となった。しかも男女平等を実践して、革ズボンをはいていない女の子も掌を叩いた。だが父が村で唯一の医師だったせいか、僕を殴る勇気はなかったようだ。この特権のおかげで、姉もギュムナジウムに入学するまで一度も殴られることなく無事に過ごしていた。
もちろんトレーマー先生には長所もあった。季節ごとに身近な植物や動物のことを色々と教えてくれたし、窓の外に餌を置いて、それを食べに来る小鳥のことも詳しく説明してくれた。教室の中で、皆で一緒にハリネズミを飼ったこともある。
ずっと昔、暑さで喉が渇いていたトレーマー先生は、生徒たちの前でコップを使わずに直接水道の蛇口から水を飲んだことがあった。そして口を拭くハンカチを持っていなかったので、水のしずくが口やあごからポタポタと落ちた。それ以来、皆から「ポタポタさん」と呼ばれていた。
13:前代未聞の入学袋
11時ちょっと前になると、僕は短い皮ズボンにチロル風の上着を着て、羽の付いた帽子をかぶり、家の筋向かいにある小学校へ向かった。いうまでもなく、もう数週間前から楽しみにしている入学袋を腕の中に抱きしめていた。
「どんなに気になっても、入学式が終わるまでは絶対開けてはいけないよ!」
と両親は何度も僕にいい聞かせた。
新入生の数は、ヴァルメロード村の重要さに比例していた。その年、新しく読み書き算盤に挑戦する子供は6人だった。小さな学校の椅子が足りなくなるほど、父母、祖父母等が入学式へ殺到したため、他の生徒たちは授業を休んで楽しい1日を過ごす機会に恵まれた。
先生も、村の名士も、まわりくどい挨拶で聴衆を飽き飽きさせた。とりわけ先生は、輝く将来を考えに入れて、高校や大学より小学校の教育を重視しなければならない、という意見を大げさな言葉で唱えた。
僕ら6人が気にかけているのは、入学袋のことだけだった。
父は、村でたった1人の医者だ。ということは、ヴァルメロード村では神父、教師、営林局長と並ぶ重要人物とみなされる。入学袋には、父の地位にふさわしい物が入っているに違いない、と僕は期待していた。
やっと式が終わって入学袋を開けると、僕の期待通り、素晴らしいおもちゃと美味しそうなチョコレートが入っていた。でも、手探りで中を調べた僕は、すぐには立ち直れない程の打撃を受けた。母が、お菓子の下に下着や靴下等を入れたのだ。そんなものが入学袋から出てくるとは、誰も思っていなかった。
僕は同級生の笑いものとなった。恥ずかしくて、どう面目を保てば良いのか見当もつかなかった。だが、その後何十年もたった今でも、母は「下着を入学袋に入れたのは間違いではない」といい張っている。
12:待望の入学式
母は、数週間前から大忙しだった。理由は僕の入学だけではない。4年間小学校に通った姉が、ギュムナジウムの入学試験に合格したのだ。第一志望校には入れなかったが、なんとか別の学校に合格した。
こうして僕は村の小学校に入学し、同時に姉はバスで30分程のところにあるモンタバウア市のギュムナジウムで、フランス語、数学、歴史等を習い始めることになった。
僕は、学校での将来を楽観的に考えていた。やっと姉と同じように読み書きが習える、と想像しただけでわくわくした。おもちゃや甘い物でいっぱいの入学袋も楽しみだった。母は指が痛くなるほどセーターや靴下を編み、僕を連れてリンブルク市まで出かけて入学式の時に着る民族衣装を買った。
毎日、入学式に関する騒ぎに巻き込まれていたにもかかわらず、僕は時間がなかなか過ぎていかないように感じた。極彩色の玉子、チョコレートの兎等のプレゼントで、普通はあっという間に過ぎ去る楽しい復活祭でさえ、耐えきれない程ゆっくりと過ぎていった。
やっと、入学式の日が来た。
小学校の先生は、6歳の子供の睡眠習慣を考慮して、入学式の始まりを11時と決めた。でも僕は日が昇らないうちに目が醒めてしまった。起きる時間までベッドの中でありとあらゆる想像力を使って、小学校1年生の楽しい生活を心に描いた。
最初に登場するのは、もちろん丈夫な厚紙で作られた長さ1メートルの入学袋だ。僕の頭は、入学袋に入っているはずの甘い物やおもちゃへの期待で一杯だった。
11:ヨーゼフおじさんの恋
19世紀に生まれたヨーゼフおじさんも、青年の頃は健康そのものだった。徴兵されて第一次大戦をフランスで過ごし、その時にフランス語も習った。だが聴覚が悪くなるにつれて自分の殻の閉じこもるようになり、結婚もしなかった。
毎日、畑を耕して、豚、馬、乳牛の面倒を見た後は、夜中まで読書に耽った。古代エジプトの歴史と政治に深い興味を持っていたので、外務大臣というあだ名がついていた。彼の夢は、なかなか実現できないエジプトへの旅行だった。
長年、晴耕雨読の静かな生活を送っていたヨーゼフおじさんだったが、ある時、性ホルモンの分泌腺は難聴も老齢も無視して、遅れた青春の血を沸き立たせた。その原因は、ヴァルメロード村で最も風変わりな人物のひとり、未亡人のテークラさんだった。
ヨーゼフおじさんと同年齢のテークラさんは、すでに夫を亡くし、家畜も数年前にいなくなった農家に独りで住んでいた。家族がいないため、誰にも文句をいわれることなく毎日を自分のペースで気ままに暮らし、村中の笑いものになっていた。
朝、雄鶏の鳴き声がまだ聞こえないうちに起床し、朝食後には家の中も中庭も掃除を済ませ、午前中に昼食をとり、正午過ぎには夕食を食べて午後三時頃ベッドに入る、という生活だ。
ヨーゼフおじさんは、自分の行動を彼女に合わせる他はなかった。
日曜日の礼拝参列を口実にヴァルメロード村に来ると、耕作の時期以外でもテークラさんの農家を訪れた。老人達の逢瀬に参加出来ない隣人は、想像をめぐらしていろんな噂を広めて楽しんでいたらしい。
僕が相変わらず毎日幼稚園に通っている間に、姉は小学校の4年生になっていた。たった10歳なのに知識人気取りで、僕を赤ん坊の如く扱い、やる事も話す事も真面目に受け取らなかった。僕はそれが我慢出来なくて、小学校の入学式をずっと待ちこがれていた。一日も早く小学生になりたかった。