さて、最後に兼六園で御茶を呑みつつ思った事。
それは兼六園の「弱点」です。
兼六園の最大の弱点・・・それは兼六園が「文化財指定庭園」という所にあります。
一見、名誉に思えるこの名称ですが、どうしてこの名称が弱点なのか。
それは、「良くも悪くも変えられない」という所にあるんです。
これが、例えば建物だったり、絵画だったりならば話は別です。
しかし、庭園というのは、「人工的な生き物」という、非常にファジーな存在だったりします。
例えばですが、樹が枯れかけているとしましょう。
根元から伐れるかというと、伐れません。
なるべく保存する方向性になるわけです。
しかし、枯れかけた樹などというものは、庭園にとって邪魔なだけの存在なのですね。
例えば、樹が枯れたとしましょう。
当然、全体のバランスがあるわけですから、バランスをとるために変化を起こさないといけないはずなのに、変化ができない。
変化をすることを、文化財という名称が許してくれないのです。
それが、例え良い変化だとしても。
他にもあります。
兼六園は、全体的に剪定がクラシックで、自然系を良しとしています。
昔の庭園だから、恐らく昔のような剪定をしているという事なのでしょう。
しかし、それだと、特に赤松がどんどん大きくなっていく。
そして、赤松に剪定代がかかりすぎてしまい、他の樹の剪定がなおざりになっている。
で、赤松だけが大きく立派になっていって、結果としては樹木は赤松だけの庭になりつつあります。
兼六園は確かに赤松が立派で、それが売りなのですが、じゃあ赤松だけにお金をかければ良いのかというと、それは違うわけですね。
庭園とは、全体のバランスが大事なのです。
「兼六園とは、何故兼六園なのか。」
兼六園とは、「六を兼ねる」からこその兼六園なのです。
即ち、宋(昔の中国)の詩人・李格非(りかくひ)曰く
「洛人云う園圃の勝 相兼ぬる能わざるは六 宏大を務るは幽邃少なし 人力勝るは蒼古少なし 水泉多きは眺望難し 此の六を兼ねるは惟湖園のみ
※洛陽の人は言う。
広々としていれば(宏大)静かな奥深さはなく(幽邃)、人工的であれば(人力)古びた趣は少なくなる(蒼古)。
また池や曲水や滝が多ければ(水泉)、遠くは眺められない(眺望)。
つまり、それぞれが相反するのだ。
この相反する六つの景観(六勝)を兼ね備えているのは『湖園』だけである
洛陽名園記より
兼六園とは、昔の兼六園を残すことに兼六園の価値があるのではない。
いつの時代も、「六を兼ねる」からこそ、兼六園なのだ。
と私は思うのですが、皆さんはどう思うでしょうか?w
因みに、現在の日本で一番とされている庭園は、兼六園ではなく、島根県の足立美術館です。