レコード番号:WPCR-502(Warner Bros) 1995年(国内盤)
マイルズ・デイヴィス(Miles Davis)をリアルタイムで聴いてこられたリスナーの皆さまにとって、印象深いアルバムのひとつとお察しします、1986年リリースの”TUTU”。
後追い世代のボクはもはやCDでしかこのアルバムを入手できませんが―それでも、そのインパクトの大きさはよく分かります。
以前、大阪市内に住んでいた頃に買った中古CDは生活苦( ;∀;)から売却してしまいましたが、それから数年経ったつい先日、埼玉の端のブッ○オフで格安な一枚を見つけてすぐに購入を決めました。
90年代後半の「ホットプライス1500」シリーズだったことに加え、のちにはボーナス音源付きのデラックス盤もリリースされましたから、安くて当然といえる一枚でした。
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この”TUTU”を語るとき、マイルズのワーナー移籍後第一弾アルバムという肩書(?)が常について回ります。
では、古巣のコロムビアからみたマイルズ・デイヴィスというアーティストはどのような存在だったのか?振り返ってみると1955年から、実に30年近く関わってきたレコード会社だったのです。
ニューヨークのいちローカルレーベルだったプレスティッジとの契約を残した状態でコロムビアと契約したマイルズが、プレスティッジの求めるアルバム4枚分の録音を残すべく望んだのが後に語り草となるマラソンセッションであり、それからのマイルズは、全米のみならず海外にも配給網を持つ大手コロムビアからレコードをリリース、商業的に最も成功したジャズマンのひとりとなりました。
70年代中盤から5年にわたる隠遁生活を送っていた時期も、当時のコロムビアのジャズ部門のプロデューサー、ジョージ・バトラーによるカムバックの説得は続けられていたのですし、ついにマイルズが重い腰を上げて楽曲のレコーディングを開始するやいなや、バトラーに説得されたコロムビアはヤマハ製のグランドピアノをプレゼントするという特別待遇っぷりをみせました。
ところが、復帰して数年ののち、アルバムでいえば”YOU’RE UNDER ARREST”のレコーディング前後からマイルズはコロムビアと対立を深めることになります。
”YOU’RE UNDER ARREST”に、フランス語のナレーションという妙なパートでゲスト参加したスティングへのギャラの支払いをコロムビアが拒んだこともそのひとつとされています。
結局ギャラはマイルズが自腹を切ることになってしまったのですが、コロムビアからすれば、いきなりスティングを参加させるって…と困惑させられたことでしょう。しかもスティングは当時ポリスの一員であり、そのポリスが契約していたのはA&M、ほかのレコード会社です。
また、この直前にマイルズが注目し、やがて共演を計画することになる新進気鋭のアーティストがいます。それが
そう、プリンス(PRINCE)です。二人が残した音源は長く未発表でしたが、しばらく前に公式リリースが実現したのをご記憶の方もいらっしゃることでしょう。
ですが、このプリンスもまた、契約していたのはワーナー。コロムビアとは別の会社です。
そして、当時のコロムビアがプッシュしていたのが新鋭のトランペッター、ウィントン・マルサリス(マーサリス)であり、マイルズと同じく前出のG・バトラーがエクゼクティヴ・プロデューサーの任についていました。
ところが、マルサリスはマイルズを含めた上の世代のミュージシャンへの批評を繰り返すようになり、それを耳にしたマイルズは、そのマルサリスを次代のスターに押し上げようとするコロムビアに対して強い不満を抱くようになります。
もうひとつ、パレ・ミッケルボルク編曲によるビッグバンドとシンセサイザーの混成曲のレコーディングに参加すべくマイルズはデンマークまで渡ります。
ところが当初コロムビアはその楽曲のリリースを見送り、費用を工面する必要からマイルズは連邦芸術基金からの助成金を受けなければなりませんでした。
もっとも、数年ののちにコロムビアはこの音源を”AURA”の名でリリースしています。
こうして、マイルズとコロムビアのすれ違いは拡大していき、かねてからプリンスの誘いもあったことでマイルズはワーナーへの移籍を決めたのです。
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”TUTU”のレコーディングと並行して複数のプロジェクト‐というよりも楽曲製作の試みを行っていたマイルズですが、かつてアルバム”THE MAN WITH THE HORN”にベーシストとして参加し、そののちにプロデューサーとしても活躍していたマーカス・ミラーとコンタクトをとります。
それと前後してジョージ・デュークから楽曲の提供を受けていたマイルズはそれをミラーに聴かせ、そこからマイルズの嗜好‐意向を汲みとったミラーはマイルズとのやりとりを繰り返しながら複数の楽曲を提示していきます。
レコーディングの後半にはシンセサイザーのジェイソン・マイルズやアダム・ホルツマンが加わってサウンドを強化していきます。
さらに、長足の進歩を見せていたとはいえ生楽器のタッチやフィーリングの再現が難しかったシンセサイザーのサウンドを補うべく、複数のパーカッショニストが参加しています。
こうして出来上がった”TUTU”、改めてマイルズ以外の参加ミュージシャンをみてみると;
Marcus Miller – bass guitars, guitar, synthesizers, drum machine programming, bass clarinet, soprano saxophone, other instruments
Jason Miles – synthesizer programming
Paulinho da Costa – percussion
Adam Holzman – synthesizer
Steve Reid – additional percussion
George Duke – all except percussion, bass guitar, trumpet on
Omar Hakim – drums and percussion on
Bernard Wright – additional synthesizers
Michał Urbaniak – electric violin on
Jabali Billy Hart – drums, bongos
と、マイルズのディスコグラフィの中でもかなり少なめです。
これは”TUTU”の制作が実質的にマイルズとミラーの二人三脚のごとき共同作業であったことが大きいのでしょう。
シンセサイザーを多用した伴奏、というより名実ともにバックトラックと化した演奏に、マイルズの不変のサウンドを乗せることで完成した音世界、ともいえます。
それに、リーダーの描く理想のアンサンブルがきっちりと出来上がっていた場合、逆に参加ミュージシャンの出来不出来が悪いほうに影響してしまうことを、ミラー、マイルズ両名が理解していたということでもあります。
あまり指摘されないことですが、この”TUTU”ではミラーによるソプラノサクソフォンが、ほんの色付け程度に加えられています。つまり、実質的にホーン(管楽器)プレイヤーはマイルズひとりという、”THE MUSING OF MILES”以来のワンホーン形態をとっているのです。
それと、この時期のシンセサイザーの飛躍的な進歩も大きく影響しています。
動作の不安定だった70年代のアナログ回路はもはや昔、デジタル回路搭載が一般化したシンセサイザーが、業界の共通規格であるMIDIを採り入れることでメーカー間の演奏データの共有が一気に進みました。
もはや複数のミュージシャンをひとつのスタジオに詰め込んで朝から晩まで録音に明け暮れなくてもいい、望みの音源データさえ確保できればどんどん録音できる‐そのような、さらに制約が減ったシンセサイザーを全面的に採り入れたことでも”TUTU”はマイルストーン的な作品となりました。
とはいえ、ファンの中には批判的な声もあるようです。
その多くは、曲中に短いテーマフレーズを挟み込むだけで、起伏に乏しく平坦なマーカス・ミラー節(ぶし)が前面に出ていて聴いていて飽きてしまう、というものです。マイルズ以外のソロイストが不在なこともあり、なおのことそのような印象が強いのでしょう。
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レコード会社移籍第1弾にして60歳(当時)のトランぺッター、マイルズ・デイヴィスの新作”TUTU”はUSビルボード・ホット100チャートで141位、フランスではゴールドディスク(100万枚)認定というセールスを記録しました。
また、マイルズの顔のどアップのジャケットデザインはアートディレクターの石岡瑛子氏に1987年のグラミー賞ベスト・アルバム・パッケージ賞をもたらしました。
アルバムのレコーディングが終了した1986年3月からマイルズは6月までUSツアーを決行、その後も南米~再度USと精力的にツアーを続けます。
また、”TUTU”のレコーディングから参加ミュージシャンのスポンテニアスなプレイによるヴァイタリティの必要を感じとったマイルズは、コンサートツアーをとおして若手ミュージシャンの起用を選抜し、マーカス・ミラーを再度制作に加えながらも躍動感あるアンサンブルを目指し、これが後にアルバム”AMANDLA”となって実現します。
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新手一生、といえば簡単ですが、実際にそれを実行し、そこから芸術的な創作物を生み出すことはとても大変なことです。
その点で”TUTU”はマイルズが何を望み、どんな音をリスナーに聴かせたかったのかが手に取るように分かり、解釈のブレが生じにくいという点でも、のちのマイルズミュージックの発展の礎のひとつとなったという点でも際立っています。誰もが認める傑作とはいえないかもしれませんが、これはやはり力作と呼ぶべきではないでしょうか。