ハリーの鬱(うつ)体験記 (その3) うつ的日々のある出来事 大震災 | ハリー・ヨシダの楽しい終活日記(ハリー爺ちゃん随想集)

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もういくつ寝るとあの世かな。
☆剣道 教士7段 、剣道コーチ
☆Harry's フォトスタジオ枚方 代表
☆催眠誘導心理カウンセラー
☆貿易アカデミー 講師
☆財務分析セミナー講師
☆元 関西外語専門学校 講師
☆元 JETRO認定貿易アドバイザー

ハリーの鬱(うつ)体験記

 

 

 

うつ的日々の出来事   大震災 3.11

 

東日本大震災が起きた3月11日、

私は仙台市の支社で管理部長として執務していました。

 

あの日の午後3時ころでしたね、とつぜん、ゴゴゴ~という地響きのような音と余震がきて、あっというまにあの大きな揺れが起き、それまで当たり前だった事が、すべて壊れた瞬間でした。

 

その時まで当たり前だった、電話での会話、水道の水、電機の灯り、水洗トイレ、携帯電話やパソコン。

 

その世界が、あっというまに無くなってしまったのです。

 

一発の原爆のピカ・ドンで一面廃墟となった広島と同じでした。

 

50人いた事務所は、キャビネットや棚が倒壊し、机の上のパソコンや書類はあちこちに散乱し、テーブルやキャビネットの中身は飛び出し、足の踏み場もない。

 

私の席の横にあった1トン以上もある重い大型金庫が飛び出して来て、床がへこみました。はさまれたら死んでいたでしょう。

 

二階建ての自社ビルだった我が社の玄関前に車30台が停められる駐車場に成っていました。

地震発生時、そこへ事務所内の社員が全員にげだしましたが、そのアスファルト面が、大きなうねりで揺れていましたので、女子社員たちは、立っていられず、おもわずそこへ這いつくばってしまいました。

 

車がボンヨ、ボンヨ、と大きく揺れていました。

何度か揺れが無くなっては、また再発し、アスファルトの隙間のあちこちから、溶けたチョコレートのような泥が噴き出しました。

 

液状化現象でした。

 

電柱や柱が傾き始めます。

 

揺れがおさまったころ、全員無事か、点超しましたら、「あれ?A子さんがいないぞ!」と気付きました。

二階から降りてきていないことに気づきました。

 

また、揺れが来たら室内の物が倒壊するか、ビル自体が倒壊するかも分からず、危険でしたが、元気のいい男性社員たちが、二階へ駆け上がりました。私も加わりました。

 

二階のA子さんが座っていた場所を見ると、後ろの大型キャビネットが崩れてきて、A子さんの机の上に覆いかぶさって机と棚がつぶれるようにへこんでいました。

 

名前を呼ぶと、「ここよ~」と声が聞こえました。逃げ遅れて机の下に隠れたようで、そこから出られなくなっていたのです。

 

10人がかりでキャビネットを起こそうとしましたが、ほんの少ししか動きませんでした。

でも、それでできた狭い隙間から、A子さんがタコのようにうまく抜け出しました。

「私 体がやわらかいのよ」といいながら、無傷で生還。

 

かくして、その場の社員の無事は確認できましたが、外回りをしている営業マン達の安否はまったく掴めなくなりました。

 

さて、その時から、電機、水道、ガス、電話通話、パソコン通信、交通、それらがすべて停止してしまったのです。コンビニも、お店も、全部無くなったのです。

 

トイレも使えません。

 

一気に、江戸時代以前の状態に成ったのです。

 

東北支社の営業マンたちのほとんどが、その日、東北各地へ車や電車で営業に行っており、支社長は東京で本社会議に出席していました。

 

当然、留守番役の管理部長の私が、この危機的状況の現場指揮を取らねばならなくなりました。

 

しかし、何をどうしていいか、このような事態を想定したマニュアルはありません。

 

事務所の中には入れません。

 

駐車場で余震を恐れながら時間だけが過ぎていきます。

東北の三月はまだ寒く、やがて雪が降り始めました。

 

 日が沈むまであと2時間くらいしかありません。

 

みな、家の事が心配に成り始めます。

 

皆と話し合い、残っている営業車に分乗して、それぞれ帰宅することにしました。

金曜日の事でした。

月曜日からの出社は、どうしましょうか?と質問があり、私は「来れるものが出社してください。 交通が復旧するか、各自の家の状態がどうかも今は分からないので、それしかないでしょう。」と私は言いました。

そして、数台の車に各位が分乗し、カーナビのテレビをつけると、そこに、津波で気仙沼や、海岸沿線が流される恐ろしい光景を放映していました。

 

各自の家の方額は、津波は来ないか?と心配になりましたが、そこまでは、こないだろうし、ここにいても、寝ることも出来ず、家の状態が心配だし、家族が心配だから、行くしかないだろう、と意見がまとまり、

最後は管理部長責任で、会社の車を使って、各位の自宅へと帰らせました。

 

そのうちの一台は、多賀城市方面へ向かいました。

 

運転は営業マンのU君。女子社員を数名乗せて出発しました。千年以上、多賀城市まで津波が来たことがない安全な地域と皆思っていたので、大丈夫だろうと思っていました。

 

ところが、あろうことか、多賀城市にまで津波は押し寄せたのです。

U君の乗った車は津波に追われ、そして、津波に飲み込まれてしまいました。

 

ハリーの撮った震災写真スライドYoutube:「みんな、どこへ行った。」

  ↓↓

http://www.youtube.com/watch?v=PuimZLhRe2A

 

その4へ 続く

http://ameblo.jp/wakuwaku-seminar/entry-11317816243.html

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