100人の人生大逆転ストーリーVol.1 骨盤力アドバイザー 大山五恵子さん | マインドアンチエイジング~すべての人々に漲る若さを!

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マインドアンチエイジング・ジャパン理事長 人財育成・組織変革コンサルタント 千代鶴直愛 公式ブログ

 

私が人生で一番苦しかったのは、19歳の時です。私には高校3年生の時大好きな彼がいました。ずっと部活をしていたので、夏に部活を引退してから初めてできた大好きな人でした。毎日一緒に帰り、図書館で勉強して、春になって大学生になってもこの幸せがずっと続くと信じていました。

 

しかし、卒業間際、私は大学受験に失敗し1年浪人することになり、彼は現役で大学進学が決まりました。私は教員志望だったので小学校の教員免許がとれるところにどうしても行きたかったのです。それで泣く泣く浪人を決めました。彼も私の夢を応援してくれていたし、1年待っていてくれればまたあの幸せな時間は戻ってくるから、とにかく次の受験のために1年間はしっかり勉強しようと思いました。

 

ところが、10月のある晩「話があるからでてこられる?」と電話をもらいました。そのころ大学生がどんな生活を送っているか何にも知らずに、バイトやサークルで忙しい彼とは時々電話をするくらい。もっと会いたいし電話もしたいけど、いまは我慢しなくちゃと自分に言い聞かせていました。今度は受験に合格するため我慢、我慢。いつも勉強しなくちゃと余裕のない生活をしていました。だから、急に電話をもらってなんだか悪い予感がしたのです。

 

彼に会うと、その予感は的中しました。「他に好きな子ができたから別れてくれ」と言われたのです。私は目の前が真っ暗になるって経験をその時初めてしました。

 

“どうして待っていてくれなかったの?わたしだって会いたかったけどがまんしていたんだよ。”

 

“あんなに応援してるって言ってたのに、なんでこんなひどいことができるの?”

 

“でも浪人して放っておいたのは私なんだから文句をいう資格なんかないんだよね”

 

全部私がわるいんだ

 

そう思ったら何も言えなくなってしましました。ただ、彼のいうことを受け入れるしかないそんな気持ちでした。

 

彼と並んで歩くときはいつも私の右側に彼がいて、いつも私の右手と彼の左手をつないでいました。この手を離さなければいけないそれが何よりも辛いことでした。でも引き止めることは今の私にはできない。だから最後に一つだけお願いしました。

 

「最後にもう一度だけ、手をつないで歩いてもいい?」って。

 

彼はだまって手をつないでくれました。そしていつも二人で手をつないで歩いて帰った私の家までの道を、黙って歩きました。彼も辛かったんだと思います。時々手が震えていました。

 

家の前について、もうこれ以上引き止められないとおもい、彼の手を放しました。

もうこの手をつなぐことができないんだと思うと、涙が止まらなくなりました。

そのあと、暗い部屋の中でしばらく膝を抱えながらうずくまっていました。私には大学生という身分もない、大好きな彼氏も失ってしまった、これから何を励みに生きていけばいいのかわからなくなりました。

 

“こんな私なんていなくなればいい”と死にたくなりました。

 

机の上の鋏が目につくと、なんだか自分に向けてしまいそうでこわくなって、机の中にしまいました。

 

泣くだけ泣いて、親友に電話しました。すると翌日、会いに来てくれて励ましてくれました。話を聞いてもらっているうちに、私は“先に彼を手放していたのは自分だったのかも?”と思い始めました。本当に彼のそばにいたかったのなら、浪人なんてせずに適当な進路に進んで一緒にいることもできたはずなんです。でも、私は彼が待っていてくれると勝手に決めて、彼に対して何の努力もせず放っておいたのですから。

 

頭もよくて、かっこいい彼がモテないわけないのに。

 

そしてなにより、彼を待たせてまで諦められなかった自分の夢があることに気付いたのです。

 

“そうだ!私は先生になりたくて大学受験をすることにしたんだから、その夢をあきらめちゃいけない!”と押しつぶされそうな心の中から、自分を励ます声が聞こえてきたのです。

 

その時、親友が私にくれた“今頑張らずにいつ頑張る”という内容の手紙をお守りに、くじけそうな弱い自分と闘いながら、なんとか受験を乗り越え、春には大学生になりました。

 

大学受験が終わった春休みに一枚の絵ハガキが私の元に届きました。春休みにスキー場で住み込みのバイトをしている元彼からでした。私のことが気になっていたのでしょう。

 

“よかったら電話してほしい”と書かれていました。私は嬉しかったけど、どうしてもすぐに電話をする気にはなれず(今のようにスマホはないので、電話をしても呼び出してもらわなければならないのです)、日にちが過ぎていきました。

 

3月も終わる日、やっぱり声だけでも聴きたい!と思い、何度もかけようとしてかけられなかった電話番号を押しました。つながった先に「そちらでバイトしている○○さんいらっしゃいますか?」とたずねたところ「○○は昨日かえりました」と言われたのです。

 

“えっ!もう一日早ければもしかしたらつながったかもしれないのに、私はなにをためらっていたんだろう”

 

“やっぱり、私と彼の縁はもう切れてしまったんだな”

 

もともと結ばれない運命なんだな

 

そんな、気持ちを抱えて大学生になりました。私もテニスサークルに入ってたくさんの仲間もでき、授業やバイトも忙しくなっていきました。心の奥に彼への想いは封印し、それなりに充実した日々を送っていました。

 

新しい彼を見つけようと思っても、彼を超えるときめきを感じる人は出てきませんでした。それでも、この人なら彼を忘れさせてくれるかもしれないと思わせてくれような素敵な人とお付き合いをしてみましたが、いくら努力しても、いつもどこかでも元彼と比べてしまう自分に耐えられなくなり、別れも経験しました。

 

そもそも、恋愛なんて好きになろうと思って努力するものではないのに、がんばってすきにならなくちゃとしていたのだと思います。

 

そのころ、同じ路線に住んでいた元彼と、通学途中の電車の中でばったり出会ったり、試験期間中に昔一緒に行ったことのある都立中央図書館で本を探していたときに偶然出会ったり、サークル仲間とでかけた志賀高原のスキー場のカフェテリアの中でランチを買おうと並んでいたときばったりあったり、極めつけはサークルの追いコンで渋谷のセンター街を歩いているときに、ビラ配りをしている元彼と偶然出会ったのです。

 

こんなことがたびたび続くと、やっぱり私と彼とは深いご縁でつながっているのかもしれないと勝手に思い込んでいきました。ちょうど、元彼が大学3年から4年になる3月の春休みのことでした。

 

出会うときにはいつも私の周りに仲間がいたりしたので、私は元彼の前ではいつもリア充に見えていたと思うし、私もみじめに彼のことを引きずっている自分をみせたくなかったので、私はあなたがいなくてもいつでも幸せにいきてるよ!っていう強がりな自分を演出していました。

 

でも、こんな風に何回も偶然出くわすと、私の中の大好きだった想いがふたを開けて出てくるのです。それで、3月末のある晩、おもいきって彼に電話をしてみました。すると衝撃の一言が!

 

“オレ5月からアメリカに留学するんだよ。そのためにやたらバイトしてたんだよね。センター街であった時言おうと思っていたんだけど、さえこのまわりにみんないたからいえなかったんだ”

 

が~ん!

 

またもやすれ違い。やっぱり結ばれない運命なのね

 

でも、久しぶりに話した彼との話は、私にとってとても刺激的で、彼は彼の道をしっかり歩んでいるから、私もしっかり自分の道を歩いて行かなくちゃというおもいにしてしてれました。そのころには、彼への想いは好きを通り越して尊敬に変わっていました。追いかけても追いかけても手の届かないところへ行ってしまう人なんだとわかった瞬間でもありました。

 

その時、いつ彼に出会っても恥ずかしくない自分でいたいと思いました。

 

それから、彼はアメリカに留学していき、時々お互いの近況を手紙に書いて文通していましたが、帰国後も特に会うこともなく、お互いの進むべき道だけを見つめて歩いていきました。そしてお互い就職が決まり社会人になりました。

 

社会人になって、忙しい時間を過ごしているうちに、私は何でも気軽に話せて、ありのままの自分をさらけ出せるサークルの1年上の先輩と一緒に過ごすことが多くなりました。

 

一緒にいて疲れないし、私が私らしくいられる人でした。心の中にいた元彼は必死で追いかけても手の届かない人でしたが、彼は何もかも丸ごと受けとめてくれ、気を使わず安心してそばにいられる人だったのです。彼と付き合うようになって初めて元彼を卒業できました。

 

その先輩の彼とはその後結婚し、今に至ります。

 

高校を卒業して20年たったころ、クラス会がありました。その時元彼と再会しました。

相変わらずバリバリ仕事をしてかっこよく過ごしているのかな思っていましたが、帰り際に話す時間があり、彼もいろいろ大変な時を過ごしてきたことを知りました。

そして、「ずっと謝りたかったんだ」と言われたのです。私が一番つらいときに別れたこと。その後、私の気持ちにも気づいていたけど、自分は勝手な奴だからまた傷つけてしまうのが怖かったと。

 

20年たって彼はようやく私に「ごめん」ということができたのでしょう。私は「とっくに許しているよ。」と口から出ていました。

 

彼はそんなことを思っていたんだという答えあわせができて、私は嫌われていたんじゃなかったことがわかって、ずっと心の奥に沈んでいた自信を取り戻すことができました。

 

心の中に彼がいたから、ずっと私らしく生きようと頑張ってこられた。あの時夢をあきらめなかったから、小学校や幼稚園の先生を続けてこられた。

 

そして今、先生という枠を超えて、もっと直接世の中のお母さんやこどもたちに寄り添って、身体や心を姿勢の力で元気にできるように骨盤力アドバイザー&骨盤力整体師の資格を取り、新しい挑戦を始めた所です。

 

長年、子どもたちとお母さんたちに寄り添い関わってきた私だからこそ、お母さんが生き生きとして元気でいることが子どもと家族の幸せの源だといいきれます。姿勢が整えば気持ちも生き方も前向きになります。そんなお母さんの姿勢をみて育つ子どもも生き生きと元気にきれいな姿勢で育っていくのです。そんなお母さんや子どもたちのブレない身体と心をつくるお手伝いをしていくのがこれからの私の夢です。

 

彼とは結ばれる運命ではなかったけれど、今ではお互いを応援し合える存在になっています。

死にたくなるような失恋があっても、自分の夢があったから頑張れたといまでは思っているし、辛い経験こそ人を成長させてくれるチャンスなのかもしれません。

 

そして、大切なものはずっとどこかでつながっているのだと思います。

 

【大山五恵子(おおやまさえこ)プロフィール】

 

1965年品川生まれ横浜育ち 現在は東京府中市在住。小学校、幼稚園1級免許、保育士資格取得。小学校勤務後、出産のため退職。のちに子どもが通っていた幼稚園に15年勤務し、今年の3月末退職。骨盤力アドバイザーの資格を取得後、3級骨盤力診断、2級セルフ骨盤力・実践塾、親子骨盤力診断などの講座を府中、武蔵小金井で開催中。

 

公式ホームページ:「母と子のぶれない姿勢を作る骨盤力」