僕の原点 | マインドアンチエイジング~すべての人々に漲る若さを!

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マインドアンチエイジング・ジャパン理事長 人財育成・組織変革コンサルタント 千代鶴直愛 公式ブログ

自分のV字回復ストーリーを書いてみて改めて思ったことは、僕にとって母の存在がどれだけ大きかったかということです。

 

母は、太陽のように明るく、維新の志士たちのようにアクティブで、いつも周囲の人たちに元気と刺激を与える存在でした。僕は大学入学と同時に上京し、それ以来離れて暮らしていたので、普段、母がどんな活動をしていたか詳しくは知りませんでしたが、母が地域にどれだけ貢献をしたかは、告別式での特別思いの籠ったご住職の言葉や、参列してくださったとても多くの方々からかけていただいた言葉の数々、何人もの泣き崩れる表情からもうかがい知ることができました。

 

僕も、そんな存在になりたいと思ったと同時に、そんな母のDNAを受け継いでいることをもっと誇りに生きていこうとも思ったものです。

 

僕は、必ず、お母さんに胸を張って報告をできる人間になりますね!

 

以下は、昨年母が他界した時に書いたものです。



【母の唄】

幼い頃、毎晩寝る前は、母に絵本を読んでもらうのがとても楽しみだった。情感のこもった語りに、僕と妹はいつもワクワクしたものだ。小学校にあがると、立派な絵画図鑑を買ってくれ、ルノアールやゴッホの絵を一枚一枚一緒に眺めて楽しんだ。

 

商家の生まれということもあり、とても活動的な母は、男尊女卑が根付いていてとても封建的だったうちの実家の考え方や風習に馴染まず、毎晩のように祖父母と喧嘩をしていた。僕と妹は、母の泣き声を聞くのが辛くて、いつも布団を深くかぶって寝ていた。
 

そんなこともあり、救いを求めて信心深くなった母。毎晩、神棚に向かって熱心に祈りを捧げていた。

 

中学高校と進学しても、「勉強しなさい」などとは一言も言わず、ただただ笑顔で僕の話を嬉しそうに聴いてくれた。

 

東京の大学に進学して初めて帰省した時は、「なんともええ空気を持って帰って来たな〜」と特別の笑顔で喜んでくれたのが昨日のことのように蘇る。

 

就職して安心させたのは束の間で、僕は20代の若さで脱サラをしたため、そこからは、随分母には心労をかけたと思う。

 

電話をするたびに、「どうや…?がんばってるか…?」と心配そうな声で会話は始まったけれど、いつも僕がなんの根拠もない未来のビジョンを熱く語ると、母も徐々に元気が出て来て、「それは凄いな〜、ヘェ〜、それはええなあ!それは楽しみや!」といつも最後は明るい調子で終わった。母の声に元気が出て来ると、電話を終えた僕も、なんとも言えず力が湧き出たものだ。僕は、母に喜んでもらうためにがんばってきたのかもしれない。

 

30代の前半に仕事がなくてどん底に落ちていた頃も、母には随分心配をかけたと思う。それでも実家に帰るたびに、精一杯の手料理を作ってくれ、最大の愛情で、僕の話に耳を傾けてくれた。

 

42歳で愛する妻子のもとを離れ、アパートで一人暮らしを始めた頃、絶望の淵にあえいでいた僕を救ってくれたのも、やっぱり母からの一通の絵葉書だった。
 

「お父さんと山にワラビ採りに行ってきましたよ。あなたも体に気をつけてがんばってね」たったそれだけの内容だったけれども、当時、仕事もなく、誰からも電話の一本も入らなかった僕は、その絵葉書で、「死んじゃダメだ!がんばって生きよう!」と心に強く誓った。
それからずっとかんばってこれたのも、母を喜ばせよう、母の満面の笑顔を見たい、という気持ちがあったからだと思う。

 

母は、会社勤めを終えた後も、地域のボランティア活動に積極的に参加し、様々な団体の役員や世話役を務めた。小学校での「読み聞かせ」、町内会の「お話会」、「体操教室」を始め、どこでもリーダー的存在として、数多くの地域貢献を果たしてきた。昨夜のご住職の言葉からも、集まっていただいた地域の方々の言葉からも、母がいかに明るく世話好きな性格だったかということを再認識させられた。
「明るく太陽のような人だった」

 

とびっきりのおしどり夫婦としても有名だったけれど、大好きな父とずっと一緒にいられて、たくさんの人たちに見舞いに来てもらい、子どもや孫達からも慕われ愛され、本当に母は、幸せな生涯だったと思う。

 

僕らにとって燦々と輝く太陽のような存在を失った喪失感は大きいけれど、あなたの大きな大きな愛とバイタリティと弾けるような笑顔は、永遠に僕らの中に宿っているよ。

 

長い間お疲れ様でした。本当にお母さん、ありがとう!

 

2017年4月17日 母富子は、愛する父に看取られて天国に旅立ちました。81年の生涯でした。