第 19 話  一図で解る「日本建国 前史」 | 日本書紀が正す「千年の誤読」       by wakoku701

日本書紀が正す「千年の誤読」       by wakoku701

日本書紀の原文は漢文ですが、例えば「倭」字は「ゐ(漢語)、わ(和読)、い(和語)、やまと(当て字)」など
様々な内容に使われましたが、後世の「読み下し文」はすべて「やまと」と振り仮名されました。
「千年の誤読」の始まりです。それを正しているのは原文です。

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第 19 話  一図で解る 「日本建国 前史」

 

 

今回は「一図」シリーズ(7)最終編、「日本建国 前史」です。(「一図 全体」はこちら

 

「白村江敗戦(663年)」の後、「倭国滅亡(680年頃)」となりました。そこで、残された唯一の大和王権が「日本国を建国(701年)」しました。

 

淡々と記せば事は簡単です。しかし、そこに至るまでの「唐・倭国・大和・日本の関係」は複雑です。そこで、この四者の関係を「日本建国 前史」に絞って検証するのが本話のテーマ、とします。

 


「一図」(7)   日本建国(赤丸は解説文赤丸と連動)

 

● 倭国と唐の関係  「遣使すれども朝貢せず」

 

倭国は宋滅亡後も「宋(南朝)の継承者」を自認していたふしがあり、隋(北朝)を新参者と軽視したのです。隋建国後20年経ってようやく遣隋使(600年) を送り、「日出ずる国の天子云々」の対等外交を試みますが(607年)、隋煬帝に一蹴され、いったん引っ込めました。しかしまもなく隋が唐に代わると「遣使すれども朝貢せず」の「対等外交」に挑み続けました。それは「白村江戦(663年)」まで変わりませんでした。

 

● 倭国と大和王権の関係 「兄弟国」

 

記紀は「倭国不記載」ですが、海外史料・国内史料を加えて修正すると、倭国(ホアカリ系)と大和王権(ニニギ系)は天降り以来「兄弟国(倭国≧大和)」(雄略紀五年条)の関係を双方が維持していた、と見て矛盾は無いです。

ただ、倭国が「南朝文化」「対等外交」に固執したのに対し、大和はそれに従いつつも「北朝文化」「親唐朝貢」を模索し続けました(推古紀607年~)。

それもあって白村江参戦では「および腰」になり(斉明紀、斉明崩御)、それが「倭国滅亡を加速させた」という自責の念として大和王権に残ったようです。

 

● 大和王権と日本国の関係 「日本のまとめ役」

 

「日本国」は東方諸国(大和・吉備・近江など)の見做し国名で、国号ではありません。元は九州人が東方を「ひもと」、半島で漢語化して「日本」と呼ばせた「他称地方名」でした。のちに日本軍が半島で自称にも使いました。

その「日本」のまとめ役が大和でした。大和が日本を支配していた訳ではありませんが、時として「日本=大和」と見做されました。それは宗主国倭国の兄弟国として、倭国命令の伝達役、諸国要求の仲介役、東方軍の代表を務めたからでしょう。

 

● 唐と日本の関係  「近攻の為の遠交」

唐にとって、大和・日本は「倭国の一部」であり、公式外交相手ではありませんでした。裏外交で日本と接触したい時は大和天皇を日本の王者と見做して(もちあげて)「日本をまとめて倭国と手を切れば、日本を朝貢国と認める」と甘い誘いをちらつかせたのです。倭国を牽制するための「遠交近攻策」でした(推古紀・孝徳紀・斉明紀)。日本は態度には出さなかったようですが、誘いに魅力を感じたようです。

 

● 唐と大和王権   推古・孝徳・斉明を調略

倭国が百済を挟んで隋・唐に対抗的外交を挑んだことで隋・唐は怒り、「遠交近攻策」から倭国内のまとまった勢力としての「日本」、特に「日本のリーダー大和」を調略の対象としました。それは推古調略から始まりました。

 

①’ 推古への調略

倭国(俀(イ妥、たい)国、と改号)の遣隋使に推古は随行使小野妹子を送り、煬帝宛てに「倭国天皇」推古の名で書と献上品を託しました(推論)。それに応えて煬帝は密かに随行使小野妹子に推古宛ての書「倭皇の朝貢を嘉(よみ)する」(献上物を朝貢とみなす=推古天皇を(俀(イ妥)国を除く)列島代表権者とみなす)を与えました。

 

そしてこれを俀(イ妥)国に漏らして脅し、俀(イ妥)国から「対等外交の撤回、朝貢申請、改号撤回」を引き出したのです推古への朝貢認定(=列島宗主権認定)は反故にされました。これが中国伝統の「遠交近攻策」です

 


「一図」(7)   日本建国(赤丸は解説文赤丸と連動)_

②’ 孝徳への調略

倭国遣唐使に随行した孝徳の使は唐から裏外交で「出兵して新羅を援け令(し)む」(新唐書日本伝654年)と百済を攻撃するよう命令されています。倭国の友好国を攻撃することはできません。これを受けた孝徳は窮したか、まもなく崩御しました(654年)。

 

③’ 斉明への調略

百済が唐・新羅に滅ぼされかけ、倭国に救援を要請しました(660年)。倭国は救援軍を発令し、斉明(日本代表)もそれに従いました661年1月に難波を発ち、5月に筑紫朝倉宮に着いたと、とあります(斉明紀)通常は20日位のところ4か月かかった訳は、68歳という高齢のせいか、あるいは「および腰」だったかもしれません。

 

朝倉宮に唐からの「密使」が来ました。倭国最後の遣唐使の(大和側)随行員が唐帝からの裏外交の秘密伝言「唐とは戦う、日本国とは平安」を伝え、それを受けた斉明はまもなく崩御します(斉明紀末尾)。崩御偽装説がささやかれるゆえんです。

隋・唐から繰り返し「遠交近攻策」の誘いを受けているからには、その都度「完全拒絶していない」ことの証であり、そうであれば、唐へのそれなりの外交的配慮が続いていたことは否定できません。

 

④’ 天智の日本

「斉明の喪」を理由に天智は「参戦を延期」し、再開するも「規模を半減」した、それが「倭国の敗戦の一因」になった、とする研究もあります。仮にそうであれば、それを「喪に服する当然の決定」と見るか、「および腰」と見るか、国の存亡をかけた「自衛行為」とするか、様々な解釈があり、どれもがそれなりの納得性が感じられます

 

白村江敗戦後、「唐軍の九州進駐」があり、倭国は「傀儡倭国」となりました。日本は遠距離故に傀儡化を免れました。天智は親唐派でしたが、さすが傀儡化を嫌って「倭国からの独立」「日本改号」を宣言した可能性もあります(670年、三国史記新羅本紀)。ただし、次の天武がすぐそれを破棄したようですが(672年)。

 

⑤’ 天武の日本

天智崩御後に「壬申の乱」が起こり、勝利した天武は大和に引きこもり、守りを固めました

 

唐の政策変更(内政重視)があり、唐軍撤退・(傀儡)倭国滅亡(主要王族連行か、不詳、680年頃)となりました。

残った唯一の王権大和の天武天皇は「親倭・反唐派」でしたから「大倭国」(倭国の自称国号)を継承しようとした為(古事記)、唐は天武も敵「日本の残党」と見做しました(祢軍(でいぐん、人名、百済系唐役人)墓誌)。

 

持統の日本

持統は天武(反唐路線)の皇后ながら、天武崩御後称制となると天智(父)の「親唐路線」を取りました。

 

文武の日本

文武は祖母持統の「親唐路線」を引き継ぎ、実行したのが「日本建国」「大宝建元」です(701年)。

 

なぜ国号「日本」を選んだか。「日本」は古来「九州からみて東方(瀬戸内海)」を「ひもと」と呼んだ他称地方名の漢語で、四世紀以来交易など半島で使われた「列島東方諸国の見做し国号」でした。唐が遠交近攻策の「遠交」の対象として「倭国は認めないが、日本は認める」と白村江戦前に密使を送ってきていましたから(斉明紀)、「日本国」は唐の受容する国号でした。

唐が引き込みたかったのは「やまと」ではなく、やまとが代表する「日本」(東方諸国、見做し国名)だったのです。

 

日本初の遣唐使が「日本建国報告」と「日本書紀(倭国不記載)の構想」を持参して唐に朝貢申請をしました(702年)。

唐は「大和が倭国と異なり、年来朝貢を希望していたこと(遣唐使の大和随行使の裏外交)」、「白村江戦でのおよび腰参戦」、「唐の容認する日本国号」、そして「倭国不記載の日本書紀構想」をそれなりに評価したのでしょう。

 

遣唐使は「朝貢承認」を持ち帰りました。日本建国の国際的認証を得たのです。

 

 

 

 

第19話    了

 

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●注1  「一図 全体」    (戻る

 

 

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●注2   孝徳への調略 新唐書日本伝654年 (戻る

孝徳は654年に倭国遣唐使に随行使を出しています。その時、唐は裏外交で随行使に「出兵して新羅を援けよ」と命令を出している。孝徳は倭国(百済支持)との板挟みで窮したか、まもなく崩御している。

 

新唐書日本伝654年

「孝德即位し、白雉と改元す 、虎魄大如斗、碼碯若五升器を献ず、時に新羅は高麗・百濟の暴す所、高宗璽書を賜り、出兵して新羅を援け令(し)む、孝徳死に、、、」

 

ここで「虎魄大如斗を献ず、碼碯若五升器を献ず」を検討すると、次の史料がある。

 

唐会要倭国伝

「永徽五年(654年)、遣使して琥珀瑪瑙、琥珀大如斗、瑪瑙大如五升器を献ず、高宗書を下し、、、新羅素(もと)より高麗百濟を侵す、若し危急有らば、王宜しく兵を遣わしこれを救う(王宜遣兵救之)」

 

この二つの記事は同一事績と思われるが、微妙に異なる。

(1) 新唐書日本伝が採用しているから孝徳の遣唐使は事実であろう(建国後の日本の説明があったか)。唐会要倭国伝と内容が似ているから倭国遣唐使に随行したのであろう。

(2) どちらも「献ず」となって「貢ず」でないから、倭国が主使で大和が随行使だろう。

(3) 日本には璽書による「新羅救援命令」だが、倭国には書による「新羅救援希望」のように読める。温度差がある。

 

まとめると、日本遣唐使は、唐の高宗から「新羅救援の出兵」を命じられている。この事績が旧唐書倭国伝に記されないで、新唐書日本伝に記されているところが鍵である。645年はまだ外交関係の無い日本に皇帝の璽書を出しているから裏外交と解釈できる。対等外交を求める倭国を見放し、朝貢承認を求める大和に「新羅救援命令を実行すれば列島代表と認めよう」と持ち掛けたと思われる。これは唐が倭国を分断して日本を見方につけようとする裏外交取引であろう。

これには孝徳は窮したと思われる。唐皇帝の直接の命令、百済に敵対せよ、との命令である。朝貢を願いながら命令を無視すれば長年の努力も水泡に帰する。さりとて宗主国倭国の友好国百済を攻めることはもっとできない。

 

三国史記百済本紀653年「百済、倭国と通好す」

 

孝徳は病になって、崩じてしまう(654年、60歳)。

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●注3  斉明への調略  密使    (戻る

倭国遣唐使に随行した伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)が唐天子に異例にも声をかけられ、日本国の天皇(斉明)宛ての伝言を託された。唐の裏外交である。

 

斉明紀659年  割注所引伊吉連博徳書

「(遣唐使)難波、、、より発す、、、(唐)天子相見て問訊し『日本国の天皇、平安なりや(天子相見問訊之日本国天皇平安以不)』と、、、勅旨す、国家来年必ず海東の政あらむ(戦争となるだろう)、汝ら倭の客東に帰ること得ざる(抑留)、と、、、」

 

この随行員は例外的に抑留を解かれて、伝言を斉明にもたらした。

 

斉明紀661年  割注所引伊吉連博徳書

「(伊吉博徳は許されて困苦の末帰国し)朝倉の朝庭の帝(斉明天皇)に送られた、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い、近きかな」

 

ここで斉明の近くの人(大和系の人)が「大倭」と言う時は九州倭国を指し、「天の報い」とは「近づく戦争」を意味すると解するべきであろう。

斉明はこの直後に朝倉で崩御した、とされる。  (戻る

 

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●注4   斉明崩御偽装説    (戻る

斉明天皇は白村江の戦いに出兵準備の九州朝倉宮で崩御した(661年)とされるが、「実は崩御は斉明軍を大和へ引き上げる口実とする為の中大兄皇子の仮装で、斉明天皇は実際は666年まで生きていた」とする説がある(九州王朝説の一部)。その根拠は羽曳野市(大阪府)野中寺弥勒像台座の「中宮天皇病気平癒の請願文」であるとする。   (戻る

 

野中寺弥勒像台座銘文

 

「丙寅年(666年)、、、中宮天皇大御身労坐します時、誓願し奉りし弥勒御像也」

 

この説は「666年に天智は称制で天皇ではない。だから天皇でありうるのは斉明天皇の生存説」とする。一つの可能性である。

筆者はもう一つの根拠を挙げたい。「斉明天皇は中皇命(なかつすめらみこと)と呼ばれることもあった。万葉集の中皇命の歌(巻1-10~12)の注には類聚歌林(山上憶良)に『天皇の御製歌なり』とあることなどから斉明天皇である」(折口信夫説を引く坂田隆説、人麻呂は誰か 新泉社 1997年)とされる。ここから筆者は「666年の中宮天皇とは中皇命=斉明天皇である」とする解釈は有り得ると考える。すなわち「斉明天皇は666年まで生きていた」という可能性である。天智は斉明天皇の存命中は称制を続けた、という説が説得力を持つ。

 

もう一つの推測根拠は「孝徳の崩御」である。孝徳も倭国遣唐使645年に随行使を出し、唐の裏外交で「出兵して新羅を援けよ」と命令を受け取っている。倭国の支援する百済を攻撃せよ、である。孝徳は窮したか、まもなく崩御している(前注)。これも崩御偽装かもしれない。   (戻る

 

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●注5  天智の「日本改号」 三国史記新羅本紀   (戻る
三国史記 新羅本紀670年 
「倭国、更(か)えて日本と号す。自ら言う、『日の出ずる所に近し』と。以って名と為す」

倭国が改号したと言うのだが、この史料以外にこの改号を記すものは無い。しかも旧唐書にはこの後も倭国は登場する。そこから「これは後世の日本(総国)建国(701年)の記事を、この年にはめ込んだのだろう」と言われている。しかし、701年は「建国」であって「改号」ではない(続日本紀)。

しかし、この年は天智天皇の時代。この時期(670年)に、近畿・大和のいずれかの国名を「日本」と改号できる人物は天智天皇しかいない。天智には「日本」改号の動機はあった。改号の元の「倭国」は九州倭国だろうか。いや、天智天皇に宗主国の改号権限は無い。

一つの可能性が考えられる。それは大和が自らを「倭国(の一員)」と自称してきたことだ(新唐書日本伝・推古紀の「倭皇」など)。「総国倭国の中の分国倭国(=近畿・大和)」を、天智天皇が「分国倭国王」として「日本国」に改号することは論理上可能である。狙いは、「宗国倭国からの独立、傀儡倭国との決別」だろう。傀儡倭国と手を切り、まずは(唐と連携し始めた)新羅と通じたのだ。だから、新羅だけがこれを受け入れたようだ(三国史記670年条)。しかし皮肉にも、この年から唐と新羅は又対立を始めた。

壬申の乱で勝利した天武は反唐派だったから、倭国国号「大倭(たいゐ、漢語、おおやまと、和語読み)国」を継承しようとしたから、天智の「日本」改号は破棄したと考えられる。
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●注6  天武は「日本の残党」   百済人祢軍墓誌     (戻る
この時期の国際関係を示す史料が2011年に中国で見つかった。百済人祢軍(でいぐん、人名)墓誌拓本である。祢軍は中国系百済人で百済朝廷高級官僚、対唐戦で捕虜となったが抜擢されて傀儡百済政権の高級官僚となり、唐の対倭国交渉にも加わった。天智紀665年条(前掲)の「右戎衛郎將上柱國百濟禰軍」がその人と考えられている。678年ごろ没した。墓誌の拓本のみが2011年に中国で見つかった。

全文884字の関係部分を示す。

百済人祢軍墓誌(678年頃)

「、、、去る顕慶五年(660年),官軍(唐軍)本藩(百済)を平らげる日、、、于時(ときに)日本の餘噍(残党=天武)は扶桑(近畿、大和飛鳥)に拠りて以って誅(罰)を逋(のがれ)る、、、」

筆者の解釈を述べる。

(1)  「日本」は墓誌が初出ではない。「日本」は東方という意味では古くから九州で使われ(他称)、百済にとって日本とは日本国(東方諸国の集団名、見做し国名)または日本軍(東方諸国軍)を意味する(他称)。国号では「日本貴国」(東国軍兵站基地、第四章)が神功紀に、また「大倭」と並ぶ国名として「日本」が雄略紀に現れる(雄略紀五年条)。分国名としては次節に述べるように670年に海外文献に出現する。「日本書紀編纂時の改変でない『日本』表記」があることは前述した(斉明紀)。決して墓誌が早い訳ではない。

(2) 「日本」は「倭国」ではない。「日本の残党」は「倭国の残党」ではない。唐は白村江の倭国軍を「倭衆」(旧唐書百済伝)とし、唐帝は斉明天皇を「日本の天皇平安なりや」(斉明紀661年)と使い分けている。

(3) 墓誌の「僭帝」は倭国王でない。墓誌全体の流れから、ここは倭国王ではなく百済義慈王が捕虜になって唐に忠誠を誓わされた事情を指すのだろう。旧唐書百済伝は白村江の戦いに500字余を割いていて、該当部分で旧唐書は「扶餘豊、身を脱し走る、僞王子扶餘忠勝、忠志等、率士女及倭衆並び降る」としているのみで倭王・倭王子はでてこない。もし倭国王が白村江に出陣して陣頭指揮をとり、捕虜になった、ということがあれば、必ず旧唐書に出る。従って、倭国王は捕虜になっていない。薩野馬は倭王・倭王子ではないだろう。日本書紀が倭国王でない筑紫君を記しているのは筑紫君磐井と同様「倭国不記載」の対象外だからであろう。

 (4)「筑紫君薩野馬は倭国王になったか?」について。唐軍監視下の傀儡王とするには倭国王か王子の方がはるかに罰になり、統治もし易い(百済の例では王子)。たぶんそうしたであろう(「筑紫の君」は磐井の後裔倭国内大和系豪族)。

以上、墓誌は多くのことを明らかにし、多くを示唆している。  (戻る

 

 

 

 

第 19 話  注  了

 

 

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