ワカシャチ漫遊記第6章「山口周遊旅」2023年5月 VOL.1 | wakasyachi24daのブログ

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ワカシャチ漫遊記第6章
4月に還暦を迎え会社を退職。
5月より新たなスタートを切りました。
ワカシャチ漫遊記も6章へ入ります。
■ブログ開設    2011年8月25日
■回顧録編     2011年8月~2011年11月
■第1章 名古屋編 2011年8月~2017年7月
■第2章 愛媛編  2017年8月~2019年3月
■第3章 香川編  2019年4月~2022年3月
■第4章 広島編  2022年4月~2023年2月
■第5章 卒業編  2023年3月~2023年4月
■第6章 還暦編  2023年5月~現在
思い起こせばブログを開設して12年となりました。
引き続き記録を重ねていきます。

2023年5月18日(木)/
本日より3日間で山口を散策しました。
山口(山口市・周南市)には2000年ころに10年間住んでいましたが 
当時はまだSNSなどは全く利用していなかったので
あまり記録に残していなかった。
今回の旅行はほぼこれまで行ったことのある観光地プラス
元乃隅神社など、当時は有名ではなかったが現在は人気の
観光地などを巡ってみました。
また食べたものなども記録がないため思い出に残る
食べ物を食べに行きました。
本来は、角島エリアなど遠い場所から観光する予定でしたが
天気予報で雨が降る予報でしたので、予定の逆のコースを選択。
島根県の津和野より散策開始しました。
太鼓谷神社
津和野の町から城山の方向を眺めると、朱塗りの鳥居がぎっしりと並んだ参道が見えます。
約1,000本の鳥居のトンネルを300mほど登った先に太鼓谷稲成神社があります。
安永2年(1773)、津和野七代藩主亀井矩貞が城の鎮護と領民の安穏を願って、
城山の太鼓谷に京都伏見稲荷から斎き祀ったのが始まりです。
東北の竹駒稲荷、関東の笠間稲荷、近畿の伏見稲荷、九州の祐徳稲荷とともに
日本五大稲荷の一つに数えられています。
一般には稲荷と書きますが、ここは全国でも珍しく「稲成」と書きます。
稲成としたのは願望成就のためといいます。
祭神は宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の2神です。
年間の参拝者は島根県内の神社で出雲大社に次ぐ第2位です。
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津和野城跡
標高362mの霊亀山上に築かれた中世の山城跡です。
なだらかな青野山の山すそに広がる家並みと、その中をゆるやかに流れる津和野川を一望できます。
城跡の石垣が朝霧に浮かぶ姿は、まるで「天空の城」です。
太皷谷稲成神社の参道からリフトを降りて徒歩20分で頂上に到達します。
現在は建造物は何もありませんが、石垣はほぼ完全な形で保存されており、
石組の堅固さ雄大さは比類のないものです。
吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間の後は、
明治維新まで亀井氏が11台225年にわたり城主として 在城しました。
貞享3年(1686)に落雷のため焼失し、その後再建されることもなく、
明治7年(1874)に石垣を残して解体されました。
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三十間台からは石見地方独特の赤瓦(石州瓦)で彩られた城下町と、
城跡から城下町を挟んで見える青野山(標高907m)の絶景を楽しめます。
歌手さだまさしさんの名曲「案山子」の歌詞にここからの眺めが歌われています。
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三の丸の北側から本丸を見上げた石垣の上には、人質櫓跡があり、
津和野城の石垣がよく見えます。
津和野城跡は、竹田城跡と同じ天空の城として売り出しているようですが、
今後まだまだ人気が出てもおかしくないお城跡でした。
リフトを降りて往復ゆっくり1時間もあれば見学できます。
VRなども取り入れて臨場感ある体験も魅力的でした。
森鴎外記念館
明治の文豪・森鷗外の生誕地、島根県津和野町に建つ資料館です。
『舞姫』や『高瀬舟』を始め、多くの作品を著した森鷗外ゆかりの品々や、
直筆原稿など貴重な資料が一般公開されており、
北側には「森鷗外旧宅」も残っています。
軍医と文学者というふたつの人生を生きた鷗外の、
10歳の上京から60歳で生涯を閉じるまでを豊富な資料で紹介するほか、
多感な時期を過ごした津和野時代を振り返る構成になっています。
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安野光雄美術館
国際アンデルセン賞を受賞した津和野町出身の画家・安野光雅の作品を収納する美術館です。
2つある展示室では、絵本だけでなく風景画や本の装丁、ポスター、エッセイなど
幅広い分野で活躍する安野光雅の作品を約120点展示しています。
美術館では、安野さんの自宅アトリエ(再現)やプラネタリウムのほか、
昭和初期の小学校教室を再現した「昔の教室」や図書室があります。
木曜日は休館日でした。
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津和野駅
SLやまぐち号の終着駅で津和野の玄関口です。
2022年8月5日に開業100周年を迎え、リニューアルオープン。
駅前には、昭和48年9月、山口線現役時代最後のSL列車「さよならデゴイチ号」をけん引した
「D51型194号機」の展示があります。
運転席に入ることもでき、大人から子供まで、そのスケール感、重厚感に驚かされます。
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本日のランチ:口福の馳走屋 梅乃葉
一路山口へ。
須佐で剣先イカ(男命イカ)を食べに行きました。
呼子のイカと変わらなく安く食べることができ大満足。
生ウニも最高に美味しかった。
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須佐フォルンヘルス
約1400万年前のマグマの熱の影響を受けて誕生した須佐ホルンフェルス。
海底に堆積した砂泥互層からなる須佐層群に、高温の火成岩体(高山はんれい岩)が貫入し、
その熱で変成作用を受けてできたものです。
高山はんれい岩の接触部から外側へ向かって、変成鉱物の組成が異なる
ホルンフェルスが帯状に分布し、温度の違いによる変成過程を
連続的に知ることができる点で学術的価値の高い場所です。
縞模様が明瞭に残る辺りは、変成温度が低く、もとの須佐層群に近い様相を保っています。
灰白色と黒色の縞模様をなす雄大な様子は、国指定の天然記念物及び名勝である
景勝地・須佐湾の内でも最たるもの。
駐車場から遊歩道(約500m)があり、断崖下まで降りることができます。
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萩の世界遺産
「明治日本の産業革命遺産」は、製鉄、造船、石炭産業などの重工業が
西洋の技術を取り入れて、日本が「ものづくり大国」となる
基礎をつくった歴史を物語っています。
山口県・萩や九州など8県11市に立地する23の構成資産からなる
シリアルノミネーションで、萩エリアには、産業技術導入の最初期の遺産群として
5つの構成資産があります。
①大板山たたら製鉄遺跡
砂鉄を原料に、木炭を燃焼させて鉄を作っていた江戸時代のたたら製鉄の跡。
日本の伝統的な製鉄方法であるたたら製鉄の遺跡で、
1750年代~1860年代の間に3回操業していました。
恵美須ヶ鼻造船所で建造した1隻目の西洋式帆船「丙辰丸」を建造する際に、
大板山たたらの鉄が使用されたことが確認されています。
建物跡などの遺構が露出した形で整備されています。
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➁萩反射炉
海防強化の一環として、西洋式の鉄製大砲鋳造を目指した萩藩が、
安政3年(1856)に試作的に築いた反射炉の遺跡です。
当時は鉄製大砲を建造するには、衝撃に弱い硬い鉄を粘り気のある
軟らかい鉄に溶解する必要があり、その装置として反射炉を用いていました。
高さ10.5mの安山岩積み(上方一部レンガ積み)の煙突にあたる部分が残っています。
反射炉の遺構が現存するのは、静岡県伊豆の国市の韮山反射炉と
鹿児島市の旧集成館、萩市の3ヶ所のみです。
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③恵美須ヶ鼻造船所跡
萩藩が、安政3年(1856)に設けた造船所の遺跡で、
幕末に「丙辰丸へいしんまる」「庚申丸こうしんまる」という
2隻の西洋式帆船を建造しました。
丙辰丸はロシアの技術、庚申丸はオランダの技術が用いられており、
このように2つの異なる技術による造船1つの造船所で行った例は他にないこと、
また幕末に建設された帆船の造船所で唯一遺構が確認できる
造船所であることが評価されています。
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④松下村塾
明治維新の先覚者 吉田松陰が主宰した私塾。
松陰は海防の観点から工学教育の重要性をいち早く提唱し、
自力で産業近代化の実現を図ろうと説きました。
黒船来航で欧米の軍事力を目の当たりにした松陰は、
自分の目で海外の実情を確かめたいと考え、
国禁を犯してまで黒船に乗り込んで海外密航を計画しました。
松陰の教えを受け継いだ塾生らの多くが、
のちの日本の近代化・工業化の過程で重要な役割を担いました。
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⑤萩城下町(5月19日散策)
萩城下町は、幕末に日本が産業化を目指した当時の地域社会における
政治・行政・経済をあらわす資産で、
城跡・旧上級武家地・旧町人地の3地区からなっています。
ここで萩藩の産業化や西洋技術の導入についての政策形成が行われ、
また当時の城下町に高度な匠の技があったからこそ、
日本の産業化が急速に進んだと考えられています。
萩城下町は、産業化を試みた幕末の地域社会が有していた江戸時代の伝統と身分制、
社会経済構造を非常によく示していることが評価されています。
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松陰神社
明治40年(1907)に創建された、吉田松陰を祭神とする神社。
明治23年(1890)8月、松下村塾出身者などにより松下村塾の改修が行われ、
松陰の実家である杉家により私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠が建立されました。
その後、門人の伊藤博文、野村靖などが中心となり、神社を公のものとして
創設しようという運動が起こり、明治40年(1907)に県社の社格をもって創建が許可されました。
現在の社殿は昭和30年(1955)に完成したもの。
御神体として松陰が終生愛用した赤間硯と父叔兄宛に書いた文書が
遺言によって納められています。
旧社殿は「松門神社」として、松陰の門人であった人々の霊を祀っています。
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吉田松陰誕生の地
吉田松陰は、天保元年(1830)に家禄26石 萩藩士 杉百合之助の次男として
この地で誕生しました。
誕生地は萩市内を一望できる「団子岩」とよばれる高台にあり、風光明媚な場所です。
誕生地そばには吉田松陰・金子重輔の銅像があり、海外密航を企てた松陰先生と
金子重之助(重輔)が下田海岸でペリー艦隊を望見する姿の像となっています。
天保元(1830)年に松陰が誕生。
松陰は吉田家を継いだ後も両親とともにこの場所に住み、19歳頃までを過ごしました。
現在、誕生地に現存の建物はありませんが、
大正時代に設置した間取りを示す敷石が残っています。
誕生之地の石碑の揮毫は、松下村塾の門下生・山県有朋によるもの。
文政7年に聴雨を慕って来萩した一字庵菊舎は
「閑けさや樹々に聴かれよ 秋の雨」の詩を残しています。
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吉田松陰の墓
吉田松陰の墓は、松陰誕生地に隣接し、団子岩とよばれる
小高い風光明媚な場所に建っています。
松陰の没後100ヵ日にあたる万延元年(1860)2月7日、
生家の杉家では百ヵ忌を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に家族や親戚、
高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ在萩の門人のほとんどが出席し、
故人の霊を弔い遺髪を埋葬しました。
そして同月15日に松陰の墓碑を建立しました。
表に「松陰二十一回猛士墓」、
裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれています。
墓前の水盤や花立は、前原一誠や久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一ら
門人17人と妹たちが名前入りで寄進したものです。
当時、松陰は幕府から第一級の大罪人とされており、
その松陰へ対し名前を刻んでの寄進は当時としては勇気のいる行動でした。
それだけ松陰が門人たちから慕われていたということが伺えます。
この墓所には、杉百合之助、吉田大助、玉木文之進、久坂玄瑞など一族の墓のほか、
門人の高杉晋作などの墓もあります。
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高杉晋作の墓
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久坂玄瑞・玉木文之進の墓
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初日は予報通り、午後から雨になりましたが、
思ったより弱い雨で、予定の箇所はほぼ散策できました。
VOL.2へ続く