酒井若菜 「遺体  前編」

酒井若菜 「遺体  後編」

以下
2016年3月12日ブログより一部抜粋

必要な風化と、不必要な風化を、分けて考えることのできる理性を、そろそろ取り戻してもいいのではないかと思う
無論、決してそれは押しつけられるものではないのだが
私が知る限り、映画『遺体~』は、いまだ、地上波放送をされていない
当時から監督は、「1人でも多くの人に見てほしい」と意志を持って訴えていた
私はその横で、「この映画は、無理に見せては絶対にいけない。だから見なくても構わない。ただ、この映画が“存在”することは、知っておいてほしい」と訴えた
「見てほしい」「見なくてもいい」、監督と私は、真逆のことを、お互いに心から訴えた
意見は真逆でも、そこにある“意志”の根っこは同じだった
そして私もそろそろ、「1人でも多くの人に見てほしい」と思えるようになってきた
それは、こと私に関しては、必要な風化はもう十分に体感してきた実感があるからだ
再度申しあげる
こと私に関しては、だ
それは例えば、PTSDの症状の改善、等
私はそれは、生きるためにはとても大切な、必要な風化だったと、思っている
時間が必要だった、という体感
誰かに無理強いするつもりは一切ないが、私と同じように、必要な風化を終えた人がいるのなら、よろしければ、『遺体~明日への十日間~』、ご覧になってください


明日も当たり前にあの人が生きてると思わないで
明日も当たり前に自分が生きてると思わないで

私は、いつ誰が明日いなくなっても、後悔しないように生きている

いなくなれば、そりゃあ哀しみで破裂しそうになるけれど、後悔だけはしない、と言い切れる

そんな自分の生き方を、私は誇りに思っている

ーーー

映画『遺体〜明日への十日間〜』
劇中に登場する「遺体」の人形に触れたとき、鳥肌が立った
肌感が、「人」過ぎたのだ
歯科助手役の私は、ご遺体の口の中を診たが、舌を器具で押さえるたび、その感触と見た目のリアルさに神経が壊れそうになった

美術部さんは、泣きながら150体の遺体の人形を準備した
監督は撮影後、何ヶ月もかけて各地のお寺に遺体の人形を供養して回った

撮影中のある日
撮影場所の群馬県に向かう車中、突然マネージャーが車を止めて泣き出した
どうしたの?と聞くと、
「すみません、今日の酒井さんのシーンが辛すぎて……」
と答えが返ってきた
「ずっと我慢してたんですけど、すみません」
彼女はそう言って、しばらく車の中で泣いていた
私はそのとき初めて、それが行きの車中ではなく、すでに帰りの車中であるのだということに気がついた
私の記憶は、その日の行きの車中で止まっていたが、そこから帰りの車中までの記憶がない
現場に入り、撮影を終え、帰っていたところまで、すっかり記憶が抜けていたのである
「え?これ帰り?撮影してた?私」
そんな不可思議な経験だった
恐らく、その日の撮影がキツすぎて脳が記憶を排除したのだろう

この映画は、被災者たちを救おうとする被災者たちの物語だ
「遺体」に対しての素人が、同じ被災者でありながら、哀しむ時間さえ持てず、検死作業や遺体安置に勤しんだ姿を描いている
そんな中で、西原亜希ちゃんは、「ほんとはこんなに哀しいよね。ほんとはそうだよね」の象徴のような役を演じている
その役がしっかり演じられていなければ、哀しみを隠していた人たちのストーリーが成立しなかったと言っても過言ではない
彼女も撮影の記憶が飛び飛びなのだそうだ
クランクアップの日、彼女から、私の『心がおぼつかない夜に』を読んで撮影中を生きのびていたと聞き、私は胸が打ち震えた

『心がおぼつかない夜に』では、震災の部分に関してのみ、日付と更新時間を載せてある
読み返すと、あの一瞬一瞬に私が何を感じ生きていたかを克明に思い出す
私は当時、発言を自粛する芸能人たちに対し、「芸能人の皆さん、今だからこそ声をあげてください。なんのために人前に立つ仕事を選んだのか考えてください」と訴えていた
黙考する大切さも承知の上だった

人には人の事情がある
その「事情」を自分の中に押し込んで押し込んで、吐き出さないように我慢して押し込んで、細胞に染み込んだとき、それは他者への「親切」や「思いやり」として排出される
私はそれを「表現」のあるべき姿だと思っている

震災について考えるとき、
2つの記憶が同時に思い出される
現実の3月11日
そして虚構の映画撮影での3月11日
同じ記憶を共有する友人がいることを、心強く思っている

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私は、被災地のことを想っている
そして、そばにいる人を想っている

人を大切にすることに、躊躇はいらない


本日良き一日を

ごきげんよう