「忘れてはいけない」「風化させてはいけない」。
そんな本来人を救うはずの言葉は、時に人に怯えをもたらす。
決して無闇に振りまいてはいけない。
 
忘れなきゃ生きていけない人も大勢いるということを、それこそ忘れないでほしい。
 
同じ温度でいつでもあの衝撃を思い出す必要はないし、そんなことはできない。
あのショックが永遠に癒えないよう戒めながら毎日を過ごすのが善で、適度に風化させることが悪なら、そんな世界、私は生きていけない。
 
とはいえ、日本でイニシアチブを発揮する多くの人達が誰も「忘れてはいけない」「風化させてはいけない」と無垢に訴えていなければ、私はまさにその主張を声高にしていただろう。
のべつ幕なしに誰かしらがその主張を持ち声をあげてくれているからこそのアンビバレントな意見。
無論、自分に影響力がないことは重々承知の上で、影響力の有無はさして問題ではないと私は思っている。
 
問題は、選択肢があることを知らず、自分の無力さを責めてしまうことだ。
無力は罪なんかじゃない!
 
何より恐ろしいのは、無関心になること。
本当に忘れてはいけないことは、必死に忘れようとしても忘れられないことだったりする。
例えそれが自覚の上に成り立つことではないとしても。
 
「忘れてはいけない」「風化させてはいけない」。
震災に纏わる話をする時、この二つの言葉が当たり前のように飛び交う日本。
人のことばかり考えてさ。優しくて真面目で、温かい。
 
日本の世論はいつも、正論がマジョリティに立つ。
良い国に生まれたもんだとは、あらためて。
 
最後に一つ付け加えたい。
『遺体ー明日への十日間ー』を海外の映画祭に出品するにあたり、「遺体」という言葉が英訳できなくて、映画の製作陣はずいぶん困ったそうだ。
「死体」ではなく「遺体」という概念のあるこの国の思想文化を、やっぱり私は、誇らしく思った。
 
 
ごきげんよう