【正月から読者を減らす方向にぶっちぎる回】イデアの話【第2章】 | わたる風よりにほふマルボロ

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及ばぬ高き姿を体現する

子宮系歌人 梶間和歌です。

 

 

元日からぶっ飛ばす梶間和歌は

1月2日も加速します。

 

昨日の記事からお読みくださいね。

 

 

和歌におけるイデアの話を

進めようとしたのに、

ごくごく一部の歌集読者さんへの

 

冗談は転生してからにしろ

 

的な怒りが洩れてしまった

ところでした。

 

 

 

さて、イデアの話をするには

題詠から考えるとわかりやすい。

 

 

和歌も中世になれば、

贈答の歌や

一部の雑歌でもないかぎり

ほとんどが題詠である、

 

 

現代短歌での

 

「題は「月」です。

 「月」に関する短歌を

 自由に詠みましょう」

 

なんて題詠とは別物の題詠が

当時なされていたのですよ、

 

 

という話をしていました。

 

 

例えば、「月」であれば

 

「月とは何か」

 

「月の月たるゆえんは何か」

 

「月を最も月らしく表すには

 何を切り取り

 何を排除すべきか」

 

「月を

 月以上に月らしく表すことは

 できないのか」

 

という

“月のイデア”の探究をするのが

中世和歌の題詠です。

 

 

 

イデアの探究

 

そのイデアの表現の可能性の

追究

 

と現代らしい表現をしていますが。

 

 

当時の言葉であれば、

“本意(ほい)”という言い方も

よくなされますね。

 

とりあえずは“イデア”と同義

と捉えてよいのでは。

 

 

「この歌には確かに

 題の○○が詠まれているが、

 ○○の本意に沿っていないので

 評価できない」

 

なんて評は、

中世和歌でよく見られます。

 

 

本意については

こちらにも少しだけ書きました。

 

 

 

という事実を、昨日も引用した

「あとがき」の言葉と合わせて

考えてみてほしいのです。

 

再掲しましょうか。

 

 

承認欲求の塊だった私は、詠歌を始めて半年で新古今和歌に出合い、衝撃を受けた。

誰かに承認されることを目的に生き、理解されようとして歌を詠む……なんてつまらない事をしていたのだろう! オナニーもいいところだ。

そんな事よりうんと楽しく、意味のある歌の詠み方がある。

すなわち、主張したがる自我のおもいを徹底的に削ぎ落とし、「詠むべきもの」をつかみ、「詠むべき形」に表すこと。

この世ならざる絶対不変の美のイデア「及ばぬ高き姿」の一端を、五感で認識できる形に下ろす――歌人であれば、三十一文字(みそひともじ)の歌の形に表すこと。

私を感動させた歌の作者である、藤原定家をはじめとした新古今歌人たちは、そうした営みにしのぎを削っていたのだった。

 

私は自詠から「我」を排除することを決めた。

仮に自分の経験を使うにしても、それは「使う」ものであり、経験や感情を表現することのほうを目的としてはならない。

そうしたがる自我の甘えを削ぎ落し、「詠むべき歌」を詠み続けることは、私にとり我慢や忍耐ではない。たましいの踊る営みだった。

新古今和歌との出合いからもうすぐ八年になる。

 

最初の歌集をすべて「成り代わり」の連作とする構成も、そうした詠歌姿勢からおのずと導き出された。

現代と過去を章ごとに行き来し、歴史上の、また物語上のさまざまな人物に成り代わって歌を詠む、現実や物語中のその人以上(・・)()その人らしく……。楽しかった。

お察しのとおり、いくつかの章には私自身をモデルとした作中主体もいる。

あくまでモデルであり、物語を最も美しくするために私のなかの特定の要素をデフォルメしていること、事実より真実の美を描くことを第一としていることは、ご理解いただきたく思う。

 

 

 

 

私の歌集は『生殖の海』なので、

必然的に恋に関わる歌も

多めになりました。

 

では和歌において、

「恋」のイデアは何である

と捉えられてきたか。

 

 

ラブラブハッピー?

ありえません。

 

恋がようやく叶った喜び?

そんなオナニーは日記に書いて

しまっておけばよいのです。

人に見せるものではありません。

 

(中世の貴族の日記は

 子孫に伝える目的で書かれるので、

 日記にオナニー歌を書いたら

 人に読まれますけどね……)

 

 

 

「恋」とか「恋ふ」とかいう言葉は、

 

いまここにあるべきものや

あってほしいものが

ない

 

そのことを残念に思ったり

そのものを強く求めたりする

気持ち、

 

を表します。

 

 

だから、人だけでなく

“いまはもう荒れ果てて

 昔どおりではない、

 しかし往時の偲ばれる古都”

などに対しても

 

「恋」「恋し」「恋ふ」などの語が

使われる。

 

自分の求める「古都」が

二度と戻らない、手に入らない

前提ですからね。

 

 

恋愛だけでなく、

 

昔の人間関係を懐かしんだり

親族や友に対する気持ちを

表したりするのにも

「恋」は使われます。

 

いまここにあるべきものや

あってほしいものが

ない、

 

そのことを残念に思ったり

そのものを強く求めたりする

気持ち、

 

と考えれば、それはそうですよね。

 

 

 

和歌の、また文語の「恋」に

両想いは想定されていません。

 

 

これは何度でも強調したい。

 

 

和歌の、また文語の「恋」に

両想いは想定されていません。

 

 

……どう読んでも

さらに熱くなる気しかしない

続きは、また明日。

 

 

 

 

 

 

 

いつも応援ありがとうございます。

 

それぞれの及ばぬ高き姿を

それぞれ追ってゆきましょうね!

 

 

引き続き、応援

よろしくお願いいたします^^

 

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それでは、またね。

 

 

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梶間和歌の評論の掲載された

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「現代短歌社賞」応募作8首抄

掲載された『現代短歌』1月号

 

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