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及ばぬ高き姿を体現する
子宮系歌人 梶間和歌です。
友人主催のオンライン読書会の
先週分のレビュー記事です^^
今回もありがとうございました^^
前回の本の、
別の章、節を読みました。
「永福門院百番御自歌合」
の成立について
考察された論文です。
この自歌合については
・自撰か、他撰か
・編まれた時期はいつか
という議論があったそう。
著者の岩佐美代子氏は、
丁寧な考察と推論から
・自撰である
・編まれた時期は、
女院が夫と母を続けて亡くした
文保一、二年の直後、
つまり文保二年
またはそれを
あまり降らない時期である
という解を導きました。
素人が読んでいても
無理のない論の進め方で、
私はこれを信用する立場です。
という結論の論拠のひとつに、
200首中の
195~199番目の5首の
性格を挙げています。
筆者の言葉を借りると、
>この五首には、
>ひたむきな初々しいまでの
>実感的な悲しみが
>一貫して流露して居り、
>これが多くの詠草中から
>任意に撰ばれたもの
>ではなく、
>ある特定の不幸に際しての
>連作である事を
>暗示するようである。
>女院ほどに個性的な歌人が、
>かくもひたむきな姿勢で、
>かくも陳腐な
>哀傷歌・述懐歌を、
>やはり自分の言葉として
>改めて詠出せずには
>居られない
>これらの作が多く類型的で
>個性に乏しいのは、
>発想の基盤をなす
>現実の体験の生々しさに
>作者が圧倒されているから
>であって、むしろ
>その体験と作歌時期とが
>非常に接近している事を
>思わせる。
>この悲傷の体験を
>心の深部に沈潜せしめ、
>長期間の醇化洗練を経て
>芸術作品としての昇華を
>遂げしめたところにはじめて、
>風雅集の女院作品に見る
>著しい内観的な深み、
>特に恋歌における
>美しく強靭な
>独特の愛情表現が
>生れるのである。
ここでは
論証を詳しく紹介するより、
ここに引いた言葉から
改めて思われる事を
シェアしようと。
私、
哀傷歌って嫌いなんですよ。
感情表現が
あまりにも統制されておらず
感情ダダ流し。
類型的で、陳腐。
あなたが哀しいのはわかった。
だけど、その哀しみの表現は
あなた以前にもう
千年以上にわたって
大勢の人によって
なされてきたのですよ。
愛する人を亡くしたならば
陳腐な歌を詠んでも許される、
とでも思っているのか?
そういう甘えをお持ちでしたら、
歌など発表せず日記に書いて
オナニーしていればよろしい。
そう言いたくなるの^^
それは、
現代短歌の皆さんに対して
だけでなく
古典和歌の作者に対しても、
同じように思います。
容赦ないのです、私。笑
長くなりますので、
続きは明日にしますね^^