大切な人の死に甘えない。~岩佐美代子『京極派歌人の研究』~【歌の詠み方】【前編】 | わたる風よりにほふマルボロ

わたる風よりにほふマルボロ

美しい和歌に触れていただきたく。

*:..。o○ ○o。..:*

梶間和歌プロフィール小説

 

new梶間和歌YouTubeチャンネルnew

 

new第零歌集『生殖の海』

ご購入はこちらnew


new歌をやり取りする

facebookグループnew

*:..。o○ ○o。..:*

 

 

及ばぬ高き姿を体現する

子宮系歌人 梶間和歌です。

 

 

友人主催のオンライン読書会の

先週分のレビュー記事です^^

 

 

 

 

今回もありがとうございました^^

前回の本の、

別の章、節を読みました。

 

 

 

「永福門院百番御自歌合」

の成立について

考察された論文です。

 

 

この自歌合については

 

・自撰か、他撰か

・編まれた時期はいつか

 

という議論があったそう。

 

 

著者の岩佐美代子氏は、

丁寧な考察と推論から

 

・自撰である

・編まれた時期は、

 女院が夫と母を続けて亡くした

 文保一、二年の直後、

 つまり文保二年

 またはそれを

 あまり降らない時期である

 

という解を導きました。

 

 

素人が読んでいても

無理のない論の進め方で、

私はこれを信用する立場です。

 

 

 

という結論の論拠のひとつに、

 

200首中の

195~199番目の5首の

性格を挙げています。

 

 

筆者の言葉を借りると、

 

>この五首には、

>ひたむきな初々しいまでの

>実感的な悲しみが

>一貫して流露して居り、

>これが多くの詠草中から

>任意に撰ばれたもの

>ではなく、

>ある特定の不幸に際しての

>連作である事を

>暗示するようである。

 

>女院ほどに個性的な歌人が、

>かくもひたむきな姿勢で、

>かくも陳腐な

>哀傷歌・述懐歌を、

>やはり自分の言葉として

>改めて詠出せずには

>居られない

 

>これらの作が多く類型的で

>個性に乏しいのは、

>発想の基盤をなす

>現実の体験の生々しさに

>作者が圧倒されているから

>であって、むしろ

>その体験と作歌時期とが

>非常に接近している事を

>思わせる。

 

>この悲傷の体験を

>心の深部に沈潜せしめ、

>長期間の醇化洗練を経て

>芸術作品としての昇華を

>遂げしめたところにはじめて、

>風雅集の女院作品に見る

>著しい内観的な深み、

>特に恋歌における

>美しく強靭な

>独特の愛情表現が

>生れるのである。

 

 

ここでは

論証を詳しく紹介するより、

ここに引いた言葉から

改めて思われる事を

シェアしようと。

 

 

 

私、

哀傷歌って嫌いなんですよ。

 

感情表現が

あまりにも統制されておらず

感情ダダ流し。

類型的で、陳腐。

 

 

あなたが哀しいのはわかった。

 

だけど、その哀しみの表現は

あなた以前にもう

千年以上にわたって

大勢の人によって

なされてきたのですよ。

 

愛する人を亡くしたならば

陳腐な歌を詠んでも許される、

とでも思っているのか?

 

そういう甘えをお持ちでしたら、

歌など発表せず日記に書いて

オナニーしていればよろしい。

 

 

そう言いたくなるの^^

 

それは、

現代短歌の皆さんに対して

だけでなく

古典和歌の作者に対しても、

同じように思います。

 

容赦ないのです、私。笑

 

 

 

長くなりますので、

続きは明日にしますね^^

 

 

【中編】

 

 

【後編】

 

 

 

*:..。o○ ○o。..:*

 

第零歌集のご購入はこちらから。

 

YouTubeチャンネル

 

梶間和歌の評論の掲載された

『短歌往来』2020年4月号はこちら

 

「現代短歌社賞」応募作8首抄

掲載された

『現代短歌』1月号はこちら

 

和歌・短歌みくじとして遊べる

LINE公式アカウント・*:.。

友だち追加

 

執筆、講義のご依頼はお気軽に・*:.。

キラキラ(執筆関係)

キラキラ(講義関係)