苦しいだけが行にあらず。 | 2019R01のブログ

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宗教者はみな、知っておりし。

いかなる宗教であろうと、この世の終わりに神が現れ、この世を一度は壊滅させ、そして残されし者を使いて、この世を再び神の国に復活させるであろうことを。


宗教、流派、信条、信念、細かい違いはあろうとも、皆、同じ内容を伝えしものなり。
 

なれば、人は、宗教の違いによらず、全て同じことを知り、目指し、己れを磨くことを、魂を浄め、高めることを、図らずも、行わせられしものなり。


神のみ力、神のお仕組み、神のご意志、ご意図、神経綸(けいりん)、これら全て、今の世にては、人の意識・知識・概念・能力・常識、良識を越えしものなり。


どのように学問を積みし者でも、神を知らぬ者は不幸なり。
 

逆に、何ら学なく、教養なく、知識・学問・特技なく、文字を読むことすらできずとも、神の偉大さ、崇高さを、素直に感じ、信じらるるは幸いなり。


なれど、学問も大事なり。教養も大事なり。文字が読め、ことばが話せ、神の伝えんとすることを素直に聞け、そのことを人に、文字・声・ことば・書・光・音楽・絵画、その他のものを用いて人に伝えること可なる者は、さらに幸いなり。


そなたの思う幸せとは、いかなるものか。

 

答えられしか。


我等の思う答えなるものは、今伝えしことなり。


人としての行が、神の子としての行と直結し、心素直に、目の前の学問・知識に曇らされることなく、踊らされることなく、
己れに課せられし行に取り組み、最善を目指すことができること、そして、神の御心に適うか否かのみが心の基準であり、心の働きが神と一体化し、己れなく、我なく、人なく、自分なく、あるのは神の、ご意志、ご意図のみであるような、そうした心組になれることなり。

さなれば、人は、一切の束縛から放たれ、自由無碍(むげ)に、行い、楽しみ、無限の喜びに満たされ、無限の光に照らされ、神への感謝、歓喜、感動に満ち溢(あふ)れん。


人の幸せとは、現世のみに関わるものではなし。

 

永遠の時の流れの中で、各々の魂に応じて決まりゆくものなり。


今、富に満たされ、金銭・物質に囲まれ、何不自由なく贅(ぜい)を満喫しようとも、あの世に戻らば、何も持ちてゆけぬなり。


あの世に持ちて帰らるるものは、魂一つなり。


汚れし魂 残りし者は、あの世にてその汚れを取るための、苦しく辛く、長き行あり。


汚れ、曇り、濁りし魂の垢を取ることは、この世以上の苦しみなり。


磨き磨きて、磨き続け、神の御心に適うまでには、この世の倍も、数倍もの労苦を伴うものなり。


それ故、人は、できる限り、この世での行を積み、魂を磨き、浄め、高めねばならぬなり。


人はこうして、この世の行を積むなれど、苦しいだけが行にあらず。

 

楽しく、嬉しく、喜びに満ち、心豊かに行えるが 本物なり。


苦痛、快楽、どちらも人間には大切な感覚なれど、どちらも魂に曇りを作らん。

 

どちらに囚われても、魂は雲り、汚れてゆかん。


望ましきは、程良く、どちらも経験し、心を常に中庸に保ち、安定を心がけ、自然に落ち着く境地にあること。


難しけれど、魂を鍛え、心を鍛え、己れを強く律する鍛錬を行いゆかば、自ずと到達せん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~神から人へ〈上〉 :今日の話題社: 新版 (2003/09)ひふみ ともこ より~

 

 
http://www4.tokai.or.jp/kmh/index.html