自らを改め、心を改め浄め、魂の向上を願い、図らねば | 2019R01のブログ

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では、今日の伝えを始めん。

 

昨日も申せしように、人には人の、それぞれのみ役がある。 

 

そなたにはそなたのみ役、神には神のみ役がある。

神に み役ありというは、神にもいろいろな方がおられ、神も人と同じく、様々な役割を担われているからなり。

なれば、神も人と同様、その み役を果たしつつ、人間界の行い、営み、万物の仕組みが滞り無く進むよう、日々行を積まれておられる。


そしてその中でも、高い層の神と低い層とがあり、やはり行が進みゆくにつれ、その層が上がり、それに伴いみ役も変わる。


されば、神は人と同じく行をもって自らの霊層を高め、更なる昇華(しょうげ)を積まれる。

 

そして、神と人は、一体となりて行 を積みゆく。
 

なぜなら、神のみ役は人の行い、行に通じ、神の行が滞らば、人の世界にての行もそれを写し、神の世界の乱れが、人間界の乱れとなる仕組みなればなり。


それ故、行を怠りし神の下(もと)では、その神の導かれる、霊体、幽体、人体、全ての生命に乱れが生じることとなる。


なれど、神の世界の乱れは、神の み力、神ご自身のご努力により、いつでも回復し、元に戻すことは容易なるが、人間界の乱れは、人のみの力で回復できぬが常なり。


ときにその乱れは、さらに強まり、極まりて、人類の存亡にまで広がることもあり得べきことなり。


それ故、神は、人に力を貸し、力を与え、光を与えられて、この世を浄めさせ、乱れを改めさせ、そして、自ら気付かせんとして、不幸現象を見せられ、悟れよ、気付けよ、と呼びかけておられる。


なれど、人の多くは、その呼びかけ、神の論(さと)しに気付かず、むしろ神への恨み、他の人間への憎しみ、妬みをもって、
自らの我を なお一層に強めゆくが、多くの常なり。大半の者なり。


されど、中に幾人かの人間が神から下ろされ、人間の姿形を以て地上に現れ、この世の乱れを改め、人の心を諌(いさ)め、人に気付きを与えんとして、この世で特別のみ役をもって生まれる者あり。


それは、ときに人に、書をもって光を示す者あり。声をもって伝える者あり。
また、手から放たれる光、或(ある)いは肉体による神の力の体現をして、神の力を示し、人に神の存在を知らしめ、人の心の改善を図らんとされる。


なれば、この世で、奇跡といわれることの多くは、その者自身の力にはあらず、神がその者に、その者を使いて、神の力を与え、神のご意図、ご意志を示させているに過ぎぬ。


しかれど、神はそれによりて、人を変えんとされるのではなく、人を神の御心に適う者に変えんとされるのではない。


神は、人を変えることを望んでおられるのではなく、ただ、人自らが、神の力を信じ、人自らのみ役に気付き、人としての行、神の子としての行に、真摯(しんし)に目覚め、気付き、悟りて、神の心を取り戻す、そのことのみを望んでおられる。


人が、この世に生を得、生を生き、神の子としてではなく、人の我に囚われ始めてから、この地上に、神の御心に添わぬ物を作り始め、神の御心に添わぬ物質に囚われ始めて、人の心が汚れ、神の御心から遠ざかり、次第に地球、自然、万物の命、魂、肉体を、あらゆるものを汚し始めた。


今から何千年前からのことか、それは与(あずかり)り知らぬ。


なれど、人は、己れの我欲と闘いつつ、行を行わねばならぬ。


それは、決して楽しく楽なことではない。

 

我というものがある以上、人は己れの我と闘わねばならぬ。
 

闘って、そして悟りを得、気付きを得るものなり。

そのように仕組まれているものなり。
 

然(しか)るに、今の世にて、己れの我と闘い、己れの我欲と真摯(しんし)に対峙(たいじ)し、それをなくさんと行を積む者がどれだけいようか。

恐らくは、極く限られた者たちだけであろう。

 

極く少数の、極めて稀な者たちに過ぎまい。
 

しかれど、それではもう地球は、元に戻らぬ。
 

人の全てが、自らを改め、心を改め浄め、魂の向上を願い、図らねば、この地球も、人も、生物、物質、全てのものが 滅びゆくなり。

 

 

 

 

 

 

 

 

~神から人へ〈上〉 :今日の話題社: 新版 (2003/09)ひふみ ともこ より~

 

 
http://www4.tokai.or.jp/kmh/index.html