珈琲なんて、
当たり前の日用品。

そして、
当たり前の癒やしだった。

でも去年くらいから、
気候変動による珈琲豆の不作が相次ぎ、
値段が高騰。

気軽に飲めなくなった。

お手軽にできる、
自分へのおもてなし。

でも、お高いから
一日一杯でやめておこう。

湯を沸かし、
ドリップ珈琲の袋を開ける。

開けた瞬間、
ふわりと漂う珈琲の香り。

そして、
湯を注ぐとさらに広がる、
癒やしの匂い。

私はそっとカップを持ち上げ、
珈琲を飲もうとした。

その時。

夫が寝室から出てきて、
ドサッとソファーへ腰を下ろした。

ツン、と鼻につくにおい。

思わず、

「くっさ……」

声が漏れる。

私は息を止め、
無言でキッチンを出た。

「……はぁー」

肩をゆっくり上下させながら、
深呼吸する。

逃げ込んだのは、
二階にある自分の部屋。

ベランダ付きで、
庭全体を見渡せる。

 

暖かい日は
ベランダに併設された階段を降りて
そのまま庭で
珈琲を飲むこともあった。


ここは私の聖域。

シェルターでもあり、
オアシスみたいな場所だった。

白を基調とした机とパソコン。

時々弾く、電子ピアノ。

合皮レザーのデスクチェアに座り、
私はゆっくり珈琲を味わった。

庭の木に小鳥が止まり、

ピーヨ、
ピーヨ。

と鳴いている。

「かわいい……」

思わず声に出た。

どんな子が鳴いているんだろう。

私はベランダの窓から、
そっと外を覗き込む。

その時。

「俺のメシはぁ?」

階段の下から、
夫の声が飛んできた。

「あーぁ……
癒やしタイム終了」

冷蔵庫から、
漬物、納豆、昨日の味噌汁を取り出す。

炊きたてのご飯を茶碗によそい、
一瞬だけ目を細めた。

お米の香りは、
少しだけ幸せな気持ちになる。

でも次の瞬間。

テロみたいに暴力的なにおいが漂い、
私はふと現実へ引き戻された。

夫はダイニングテーブルに座り、
スマホを見ながら
ミネラルウォーターを注いでいる。

シワシワの手。

だらしなく伸びた爪。

爪には何本も線が入っていて、
私は思わず目をそらした。

「はい、どうぞー」

お盆に乗せた朝食を、
テーブルへ置く。

「あ、醤油ないよ」

「はいはいはい……」

私は夫との距離をなるべく空けながら、
醤油差しをテーブルへ置いた。

そして、
さっさと退散する。

私は再び、
二階の聖域へ逃げ込んだ。

 

📢【更新予定】📢

📖 5月7日㈭22時
第2話 自分を後回しにする才能

📖 5月8日㈮22時
第3話 近くにいるだけで、息苦しくなるんだ

📖 5月9日㈯22時
第4話 あなたには、名前で呼ばれたくない

📖 5月10日㈰22時
第4話 切ない声は体のどこから出るんだろう