個展会場を出たあと、
透子はまっすぐ女子トイレへ駆け込んだ。
意味もわからず、
涙が溢れる。
呼吸が浅い。
自分でも、
過呼吸になっているのが分かった。
吐いて。
吐いて。
しっかり……!
透子は震える手でバッグを開き、
心療内科でもらった薬を取り出した。
口へ放り込み、
ペットボトルの水で流し込む。
ごくり。
「……はぁ」
深いため息が漏れた。
自分が思っている以上に、
精神的に追い詰められているのかもしれない。
そう思いながら、
ふと洗面台の鏡を見る。
「やだ……」
思わず小さく声が出た。
鏡に映る顔は、
想像以上にひどかった。
涙でにじんだアイラインとアイシャドウが、
目の下まで流れている。
お湯で落とせるタイプのマスカラは、
黒い粒になって目元へ散らばっていた。
こんな顔で。
さっきの人の腕の中で、
気絶していたなんて。
恥ずかしくて、
心の置き場が見つからない。
カフェに寄るどころじゃない。
早く帰ろう。
透子はバッグを抱え、
地下鉄の駅へ足を急がせた。
*
駅構内を歩きながらも、
さっき頬に触れたワイシャツの感触が離れない。
少しざらっとした生地。
それから、
きりりとした清潔な香り。
何度も何度も、
頭の中でフラッシュバックする。
あの人が。
碇みなと……。
チュンチュン……
チュンチュン……
「まもなく、
1番ホームに新さっぽろ行が到着します。
ご注意ください」
チュンチュン……
札幌市営地下鉄は、
電車みたいな鉄の音がしない。
かわりに、
チュンチュン……
と、小鳥みたいな音が鳴る。
透子は昔から、
あの音が少し好きだった。
かわいい音。
どうせなら、
カッコウとかウグイスとか、
もっといろんな鳥の声を流したらいいのに。
ホームに入ってきた地下鉄を、
鳥たちがみんなで迎えるみたいに。
そんなことをぼんやり考えているうちに、
さっきまでの恥ずかしさは少し和らいでいた。
薬が効いてきたのかもしれない。
透子は、ほっと息を吐く。
けれど。
ホームへ滑り込んできた地下鉄を見て、
透子は思わず口を押さえた。
「……オレンジ」
違う。
本当は、
青い東豊線に乗るはずだった。
いつもなら、
絶対に間違えないのに。
オレンジ色の車体を見つめながら、
透子はぼんやり思う。
私はずっと、
あの人のことを考えていたんだ。
碇みなと。…
*
東豊線へ乗り換え、
いつもの駅へ着く。
スーパーで買い物をして、
札幌ドームを背に帰り道を急ぐ。
ふと振り返ると、
ドームの向こうに夕焼けが広がっていた。
優しいピンクと、
オレンジが混ざった空。
あの人も、
この空を見てるかな。
……なんて。
いやいや。
別世界の人。
家では、
ハイボールが待ってる。
エコバッグを揺らしながら、
透子は歩く。
それでも何度も思い出してしまう。
ざらっとしたワイシャツの感触。
その奥にあった、
男の人の体温を。
📢【更新予定】📢
📖 5月22日㈮ 22時
第9話 こんな女、いないよ
📖 5月23日㈯22時
第10話 大ジョッキの専業主婦
📖 5月24日㈰22時
第11話 白いシャツの人
📖 5月29日㈮22時
第12話 漫画なら、一巻の表紙に描きたい
📖 5月30日㈯22時
第13話 平岸の団地
