個展会場を出たあと、
透子はまっすぐ女子トイレへ駆け込んだ。

 

意味もわからず、
涙が溢れる。

 

呼吸が浅い。

 

自分でも、
過呼吸になっているのが分かった。

 

吐いて。
吐いて。
しっかり……!

 

透子は震える手でバッグを開き、
心療内科でもらった薬を取り出した。

 

口へ放り込み、
ペットボトルの水で流し込む。

 

ごくり。

 

「……はぁ」

深いため息が漏れた。

 

自分が思っている以上に、
精神的に追い詰められているのかもしれない。

 

そう思いながら、
ふと洗面台の鏡を見る。

 

「やだ……」

思わず小さく声が出た。

 

鏡に映る顔は、
想像以上にひどかった。

 

涙でにじんだアイラインとアイシャドウが、
目の下まで流れている。

 

お湯で落とせるタイプのマスカラは、
黒い粒になって目元へ散らばっていた。

 

こんな顔で。

 

さっきの人の腕の中で、
気絶していたなんて。

 

恥ずかしくて、
心の置き場が見つからない。

 

カフェに寄るどころじゃない。

 

早く帰ろう。

 

透子はバッグを抱え、
地下鉄の駅へ足を急がせた。

 

 

駅構内を歩きながらも、
さっき頬に触れたワイシャツの感触が離れない。

 

少しざらっとした生地。

 

それから、
きりりとした清潔な香り。

 

何度も何度も、
頭の中でフラッシュバックする。

 

あの人が。

 

碇みなと……。

 

チュンチュン……

チュンチュン……

 

「まもなく、
1番ホームに新さっぽろ行が到着します。
ご注意ください」

 

チュンチュン……

 

札幌市営地下鉄は、
電車みたいな鉄の音がしない。

 

かわりに、

チュンチュン……

と、小鳥みたいな音が鳴る。

 

透子は昔から、
あの音が少し好きだった。

 

かわいい音。

どうせなら、
カッコウとかウグイスとか、
もっといろんな鳥の声を流したらいいのに。

 

ホームに入ってきた地下鉄を、
鳥たちがみんなで迎えるみたいに。

 

そんなことをぼんやり考えているうちに、
さっきまでの恥ずかしさは少し和らいでいた。

 

薬が効いてきたのかもしれない。

透子は、ほっと息を吐く。

 

けれど。

 

ホームへ滑り込んできた地下鉄を見て、
透子は思わず口を押さえた。

 

「……オレンジ」

 

違う。

 

本当は、
青い東豊線に乗るはずだった。

 

いつもなら、
絶対に間違えないのに。

 

オレンジ色の車体を見つめながら、
透子はぼんやり思う。

 

私はずっと、
あの人のことを考えていたんだ。

 

碇みなと。…

 

 

東豊線へ乗り換え、
いつもの駅へ着く。

 

スーパーで買い物をして、
札幌ドームを背に帰り道を急ぐ。

 

ふと振り返ると、
ドームの向こうに夕焼けが広がっていた。

 

優しいピンクと、
オレンジが混ざった空。

 

あの人も、
この空を見てるかな。

 

……なんて。

 

いやいや。

別世界の人。

 

家では、
ハイボールが待ってる。

 

エコバッグを揺らしながら、
透子は歩く。

 

それでも何度も思い出してしまう。

 

ざらっとしたワイシャツの感触。

 

その奥にあった、
男の人の体温を。

 

📢【更新予定】📢

📖 5月22日㈮ 22時
第9話 こんな女、いないよ

📖 5月23日㈯22時
第10話 大ジョッキの専業主婦

📖 5月24日㈰22時
第11話 白いシャツの人

📖 5月29日㈮22時
第12話 漫画なら、一巻の表紙に描きたい

📖 5月30日㈯22時
第13話 平岸の団地