妄想暴走 (応永の乱とその後の斯波氏) | つれづれなるまゝに

つれづれなるまゝに

狂ひたるモノ・侘助

いつになったら当初の目的記事が書けるのやら…。

某・漫画家の作品も
幕末を描こうとしたら
江戸幕府の成立にまで遡る事になってたりするから
まぁ、そんなもんなんだろう。

先の記事で
応永の乱(1399年)を鎮圧した事で
足利義満の権勢が
西国から関東にまで及ぶようになったとしたが、
実の所、そこまで支配権が及んだという訳でもない。

確かに応永の乱により
大内義弘は討ち死にしたのだが、
義弘の弟達の動向を見ると
弘茂は義弘と共に堺で城塞を構えて幕府軍と戦闘をし
盛見(もりはる)は義弘から
大内氏の本拠地・防長(周防・長門)の守備を任されていた。

堺の城塞は幕府軍に攻略され
義弘は討ち死にし弘茂は幕府に降伏。
赦免と引き換えに弟・盛見の討伐を命ぜられる。

ここに周防・長門の領有をめぐる弘茂・盛見の争いが生まれる。
盛見の討伐にあたり幕府から守護職に任じれれていた弘茂が
一時は盛見を放逐し支配権を確立するも
その後、豊後・大友氏の元に逃れていた盛見が再起・反攻し、
弘茂を長門下山(佐加利山)城で討ち取り、
防長2ヶ国の支配を確立。(1401年)
幕府方も盛見の家督継承・防長2ヶ国の守護職を
追認する事になる。(1404年)

義満とすれば
大内氏の勢力を弱体化する事が目的であって
何が何でも弘茂を当主として支える必要性も無い。
が、家督継承・守護職の容認にまで時間が空いてる事から
やはり片手落ちな感というか、不服であったろうと思われる。

九州に於ける渋川探題の苦境も
この大内盛見の守護職就任に影響を及ぼしていると思われる。

この応永の乱を経て、1401年、
義満は『明』の建文帝から日本国王として冊封を受ける。
将軍である限りは天皇の臣下であったから
冊封を受けて正式な外交を持つことは出来ず、
交易も出来なかったのだが、
将軍職を退き、出家した事で
天皇の臣下という立場を脱したと思われる。

日明・勘合貿易の開始が1404年という事なので
大内盛見の守護職就任もこれに付随した流れのように思える。

応永の乱で大内氏は和泉・紀伊の守護職を解かれ、
変わりにこの2ヶ国の守護職に任じられたのが畠山氏。

管領・斯波義将とその嫡男・義重も
この乱に討伐軍として参加しており、
戦功を認められた義重は尾張守護職に任じられる。

これ以降、
義満による有力諸大名弱体化という動きは見られず、
各守護職は世襲されていく事になる。

この応永の乱はある種の区切り、節目のようにも思える。

義満は将軍となった後
後円融上皇が院政を行おうとすれば院別当として実権を掌握、
後小松天皇の朝廷に関しても
既に自身の官位・役職によって立場を構築している。

淳和院別当(淳和院は平安時代初期の淳和天皇の離宮)という
淳和帝・嵯峨帝・檀林皇后・淳和太后の陵墓と
大覚寺と檀林寺の管理職と
奨学院別当(奨学院は公家の教育機関)の管理職に就く。

この淳和院別当・奨学院別当の両別当職を兼任する事が
源氏長者の条件と看做される。

更に准后宣下を受け、
皇后・皇太后・太皇太后に准じた待遇を得る。

将軍職を嫡子・義持に譲るも
幕政の実権を掌握し大御所政治が始まり、
公武一体化した統治に移行していく。

この結果、皮肉にも将軍職の形骸化が進み、
嫡子で将軍職にある義持との関係が微妙なものとなった。
義満は晩年に僧籍にあった次男・義嗣を還俗させ、
親王待遇で元服させる。

この事から義満の皇位簒奪説が唱えられたりもするが
義満の頓死によって不明な点も多い。

個人的には
義持と義嗣との間に継承問題を産み落としたとは
思うが、それ以上の事は妄想すら難しい。

少なくとも
義満による組下勢力の統制策は
公武問わず義満への恐怖心を生み、
特に武家勢力を束ねる存在としての
求心力の低下をも生み出していたようにも映る。

変わって
武家からの求心力を得たのが将軍・義持であり
その後見人である斯波義将であろう。
まぁ、義満が君臨している限り
両者とも綱渡りの保身状態であろうが。

先に書いたように
義満は晩年の1408年に僧籍にあった次男・義嗣を還俗させ、
共に北山第に居住する。
更に義嗣を親王待遇で元服させた事から
足利宗家自体が家督継承問題を起こしてしまう。

だが義満の頓死により、家督の行方がわからなくなってしまった。
将軍・義持は将軍職こそ譲られたが家督は譲られていない。

これまで他家の家督継承問題に横槍を入れ
有力諸侯の弱体化に励んでいたが
自らが継承問題の火種を残してしまった訳で。

この時の斯波義将の動きについて書くと、

・管領職を辞し、後任に嫡子・義重を推す。
・嫡子・義重、遠江守護職に。
・将軍・義持の後見人or宿老として幕政に君臨・掌握。

・公家社会からの支持を集める義嗣を排し、
 将軍・義持の家督継承を実現させる。

・死去した義満への『太上天皇』追贈を辞退(拒否)。

朝廷への関与も継続はするが
あくまでも幕政主導よる統治を推進。
まぁ、自身が幕政を掌握してるってのもあるだろうしな。

勘合貿易に関しちゃ海外交易としての継続の方向だが
『明国皇帝からの冊封』には拒否反応を示してた。

そんな義将、翌1409年にまたまた管領職に就く。
そしてすぐさまその職を義重・嫡子の義淳に。

義満の死後、足利宗家の家督継承問題を仕切り、
幕府主導の統治体制を復活し、その幕政を掌握した義将だが、
翌1410年に死没。
管領・義淳は職を解かれ、斯波家は幕政から遠ざけられる。

更に、斯波家の分家である斯波民部家・満種は
将軍・義持の不興を買い加賀国守護職を解かれた為、
高野山に遁世するという逆風の嵐。
それでも斯波民部家は斯波家の分家として、
更に越前大野の郡代として
満種の嫡子・持種に継承されていく。

それもこれも
義将の晩年の幕政壟断が
将軍・義持や諸侯の反感を呼んだのであろう。

義将の没後・既に家督を継承していた義重は
守護領国の経営に尽力。
というか、管領職復帰の足掛かりすら無い。

この義重、この頃の名乗りは『義教』である。
足利義満の全盛期、義満の寵愛を受け、
その猶子となって名乗りを『義教』と改めている。

この義重(義教)に抜擢され、守護領国である
越前・尾張・遠江の内、尾張に派遣されたのが
尾張織田家の祖・常昌であると織田家譜に記されている。

義重(義教)は1395年に家督を継承しているのだが
この2年前である1393年(明徳4年)に
藤原信昌・将広親子が劔神社再興の為に尽力する事を誓った文書』が
越前織田庄・劔神社に納められている。

この親子を織田氏の祖と見る向きが多い。
織田家譜にある『常昌』をこの『藤原信昌』に比定してる訳だが
後年の織田信長自身が自らの姓を藤原と記してもいる。

この文書に記された藤原親子の名乗りの内、
『将広』に関しては
斯波義将の『将』の字を偏諱として授かったものであろう。
尾張守護代の織田伊勢守家では
『広』の字を通字としている事から
やはり織田氏の祖である可能性は高いと思われる。

越前織田庄・劔神社(越前二ノ宮)の一帯を治めてるとしたら
相当な存在であろう。

-----------------------------------------------------