…インフルでぶっ倒れ中。
が、記事を進めたい衝動が収まらん。
全然進展しねぇしよぅ。
先の記事で
漸く織田氏の登場に漕ぎ着けたんだが、
当時の状況ってのを改めて確認せんとならん気がする。
室町幕府による統治の枠組みなんすけどね。
まぁ、トップは将軍さんですわ。
簡略化して書くと
将軍 - 守護 - 守護代 - 国人領主
または
将軍 - 奉公衆or国人領主
ってなる。
この図式を越前国に当て嵌めると
将軍 - 守護・斯波氏 - 守護代・甲斐氏 - 国人領主・織田氏
将軍 - 奉公衆or国人領主・朝倉氏
といった感じか。
守護職を得た大名は
国内の国人領主など在地勢力を直属の被官とし
支配体制の強化に努めた。
また将軍家も義満によって設けられた奉公衆という親衛隊組織の為
各地域の在地勢力を取り込む。
後代に出て来る『明智光秀』もこの奉公衆の出身と思われる。
またこれら在地勢力は
将軍・守護or守護代と掛け持ちで被官化したり
将軍直属の小規模領主が守護や守護代の
『与力』として配属される事もあったと思われる。
単純に申さば
越前朝倉氏は斯波氏へ与力として配属された
将軍直参の御家人といった感じであろう。
まぁこの図式が顕在化するのは
越前朝倉氏7代目当主・孝景(敏景・英林)の頃合と思うが。
そして上記の支配構造に於いて守護職に任じられた大名のうち、
幕府内の上位役職に就く大名は
幕府所在地の京都に居館を構え、殆ど在京状態。
自領の事は守護代以下に一任って事になる。
この状況ってのは
武士団が政治的に成長した経緯とダブる。
元々、皇族・貴族・寺社の荘園の管理・開発を行ってたのが
各地域に派遣された臣籍降下した元皇族や貴族の子弟。
彼等が荘園の管理・開発を行いつつ、勢力を蓄え、
在地武装勢力の武士団となり、武士の世が到来した。
詰まり、下克上。
これと同様の構図が
武家政権の領国支配で再現されちまってる訳だな。
斯波氏の守護代・甲斐氏なんだが、
元々は下野国の荘園を管理する荘官。
元弘の乱(鎌倉幕府への討幕運動)の頃には
足利宗家の被官になっていたものと思われる。
その後、与力として斯波家に配属された模様。
甲斐教光は斯波義重(義教)と姻戚を結び、
斯波家・執事となる。
多分この時期に足利宗家から斯波家の被官へと
立場を変えたように思われる。
甲斐氏の系譜は
甲斐教光 - 将教(祐徳) - 将久(常治) - 敏光 - 信久
となり、没落する敏光の代まで代々、
斯波氏から偏諱を賜っている。
ちょっと気になるのが
将久(常治)という人物。
この人物の名前にある『久』の字と
法名である【常治】の『常』の字。
文献資料で遡れる織田氏の人物名に
この文字を使った御仁が数名現れる。
織田氏の祖とされる
織田常松・常竹(兄弟?)と
織田久長 法名・常祐。
久長は清洲三奉行の1つ藤左衛門家の祖とされる尾張楽田城主。
朝倉氏5代目当主・教景の娘を正室に迎えたとされる人物。
織田常松は
初代・尾張守護代の甲斐将教に代わって
尾張国の守護代職に就く。
なんだけど、名乗りとかを見るに
越前織田庄の国人領主であった織田氏が
越前守護代・甲斐将久(常治)の麾下に収まった感が強い。
将久(常治)は初代・尾張守護代、甲斐将教の子。
詰まりこの頃、越前国内で
越前国二ノ宮・織田庄の劔神社との繋がりの深い
織田氏を取り込もうと甲斐氏と朝倉氏が
色々と蠢いていた様に思うのよ。
まぁ、この推測は
織田久長と朝倉教景の娘との婚姻の時期にもよるが、
織田氏の尾張守護代就任以降に婚姻が為されたにしても
織田氏をめぐる甲斐氏と朝倉氏の暗闘ってのがあったように思える。
んで、越前・尾張・遠江の3ヶ国守護である斯波氏が
この暗闘の鎮静化を図ったのが
織田常松一族の越前放逐を兼ねた、
尾張国守護代への抜擢なんじゃないかと。
(朝倉教景の【教】の字は斯波義重(義教)ではなく、
6代将軍・足利義教からの偏諱とされる。)
穿って捉えると
これが織田氏と朝倉氏の因縁の発端のようにも思えてしまう。
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