遅々として進まん妄想暴走。
妄想を整理しながら
史料と照らして記事を書くってのは
なかなかシンドイ作業であるな。
斯波義将による斯波家の成立と
権勢の確立ってのが凄まじ過ぎる。
足利尾張守家が足利から斯波に苗字を変えた頃合に
義将の叔父・家兼に始まる奥州の一門も
苗字を『大崎』・『最上』としたように思う。
斯波氏の名乗りは奥州の斯波(紫波)に由来する。
足利高経の長子・家長は
尊氏が建武政権に対し反旗を翻すと尊氏嫡男・義詮の執事となる。
更に奥州総大将に任じられ、
奥州・紫波郡を拠点とし、北畠顕家と対峙。
北畠顕家が上洛の軍を起こすとこれを追撃するも
鎌倉での戦いで敗死。
その家長の子とされる『詮経』が
奥州の斯波郡を拠点とする高水寺・斯波氏の祖とされる。
名乗りから見ると義詮の詮と高経の経からなり
嫡流と見れなくは無いのだが
この奥州の斯波郡は
足利尾張守家の祖・家氏が家門設立の際、
父・泰氏から拝領した領国。
足利尾張守家の本貫であろう。
高水寺・斯波氏となる『詮経』、
名乗りから見ると将軍・義詮の詮と祖父・高経の経からなり
嫡流と見れなくは無いのだが、
畿内・北陸で活動する祖父・高経との繋がりよりも
奥州で活動する大叔父・家兼との繋がりの方が強かったように思われる。
故に、足利尾張守家の惣領の座が高経の4男・義将に回り
惣領家になれなかったように思う。
少なくとも『詮経』は『義将』よりも年上である。
『詮経』の父・家長は1337年に死没。
義将の生年は1350年である。
存外、足利嫡流と尾張守家との関係のように
家長は高経の庶子だったのかもしれないが、
奥州総大将や義詮の執事という役職からすると
これまた微妙ではある。
兎も角、斯波を名乗る事になったのは
義将から始まる宗家(武衛家)と
詮経から始まる高水寺・斯波氏、
そして
義将の弟・義種から始まる流れとなる。
義将が管領に復活し越前守護となって以降
義種は加賀・信濃の守護になり、
越前・大野の郡代として斯波宗家を支える。
この義種の流れである大野斯波氏なんだが
後代、加賀の守護職は富樫氏に渡り、
信濃の守護職は小笠原氏に渡る事になり
結局、越前大野の郡代を務める
斯波宗家の庶流という形に落ち着く。
んで、斯波宗家・義将は幕政に於ける存在感を強めるのだが、
将軍・義満も将軍権力の確立の為、
自陣営の有力な足利一門を統制下に置くために色々と画策。
まず、背景に細川氏と斯波氏の対立がある。
義将は初代管領でもあるのだが
この役職は元々将軍家の執事である。
この執事に対しての蜂起というのは
観応の擾乱も当て嵌まるのだが
この構図が室町時代は延々と繰り返されてる訳だ。
観応の擾乱を経て執事に就き権勢を振るったのが細川清氏。
この専横を嫌った諸侯の嘆願を将軍・義詮が聞き、
清氏の追討を匂わすと清氏は落去。
南朝方に鞍替えした挙句、討伐を受ける事となる
『康安の政変(1360年)』が起きる。
この一連の流れで、足利尾張守家の義将が執事(管領)となり
その後見となった高経が権力を握る。
が、高経の専横が強まると
今度は『貞治の政変(1366年)』が起こり、
細川頼之が管領に任じられる。
その頼之も権勢が強まると共に有力諸侯の不評を買い、
『康暦の政変(1379年)』となる。
ココで復権し管領となったのが
斯波氏と苗字を改めた足利尾張守家の義将。
が、細川頼之の赦免を受け斯波義将は管領職を辞任。
新たに細川頼之を後見とした細川頼元が管領となる。(1391年)
この流れってのは
将軍権力の確立の為、2代将軍・義詮が用いた
『康安の政変・貞治の政変』での手法を
3代将軍となった義満が継続活用してるように思う。
しかも義満は『康暦の政変』を経て、
将軍直属軍として奉公衆を設ける。
『康暦の政変』での細川頼之の失脚というのは
無防備な将軍御所を有力諸侯に包囲され、
頼之の罷免を要求された為でもある。
奉公衆を設け、軍事力を保有した義満は
政変劇を自身で主導するようになる。
因みに『康暦の政変』時の義満の年齢は20歳。
『康暦の政変』から10年後の1389年、
美濃・尾張・伊勢の3ヶ国の守護である土岐氏に
家督継承の問題が生じる。
義満はこの家督継承に介入し、暴発した土岐康行を討伐。
討伐を受けた土岐康行は没落、
更に分裂した土岐氏は
それぞれ美濃国・尾張国の守護職に。
そして1391年。
続いてのターゲットは『六分の一殿』と称される山名氏。
日本は六十余州の国からなってるのだが
山名氏が守護職に任じられてた領国数は11カ国に上る。
ここから『六分の一殿』という呼称が生まれたわけだが
その山名氏の家督継承において内訌が勃発。
将軍・足利義満はココに介入し、『明徳の乱』に発展。
山名氏は2派に分裂し、幕府の裁定に不満を持つ
満幸・氏清の軍勢と幕府軍とで京の都を舞台に戦となる(内野合戦)。
幕府軍の勝利で内野合戦は終わる。
この戦で氏清は討ち死。
戦に敗れた満幸は丹波に逃亡するも後に捕縛され処断される。
畿内にあった山名氏の守護領国である和泉国・紀伊国は
戦で大功のあった大内義弘の守護領国となり、
大内氏は6ヶ国の太守となる。
先の土岐氏の乱で没落した土岐康行は
この戦での戦功を認められ伊勢北半国の守護となる。
一方、尾張守護となっていた土岐満貞は
この戦での不手際を責められ守護職を解任される。
この間、足利義満は将軍御所『花の御所』を造営(1378年)し、
烏丸通の向かい側に将軍家の菩提寺となる
『相国寺』を建立(1382年)。
将軍家の権勢を誇示せんと様々な趣向が凝らされていたようである。
それと、『康暦の政変』と時を同じくして、
ややこしい事案が巻き起こってもいる。
南朝方の武家に奪われた寺社領の返還を求める
興福寺の大衆による強訴。
旧来から『南都北嶺』と称される宗教勢力は
神輿や神木を担いで神威をかさに
強圧的に要求を訴える事を繰り返してた。
南都は『興福寺+春日大社』
北嶺は『延暦寺+日吉大社』。
この強訴で北朝の宮中行事は停滞。
帝も公家も神威にひれ伏しちゃう。
んがそもそも北朝は
足利氏が幕府を成立させる為に擁された朝廷。
足利将軍が宮中を仕切ってると言っても過言ではない。
義満は意にも介さず宮中行事を大々的に行い、
強訴に及んだ南都勢を逆に威圧しながら
『南都・北嶺』との交渉窓口を設ける事で諸般の問題解決を図り、
却って宗教勢力からの支持を得る事になる。
1382年、北朝の後円融天皇が譲位し後小松天皇が即位。
後円融天皇は院政を行おうとするも
院別当となった将軍・義満が院の実権を掌握。
以降、義満が朝廷に積極的に介入し、権勢を欲しい儘にする。
この年、義満は『相国寺』を建立)。
権勢を誇示せんと様々な趣向が凝らされていたようである。
これらの流れが畿内での朝廷勢力の衰退に拍車をかけ、
南北合一へと繋がる。
1392年、
将軍・義満のブレーンであり斯波義将のライバル、
管領・細川頼元の後見人、細川頼之が没する。
この頃にはもはや将軍・義満の権力は確固たるモノになっており
逆に守護領国の多い大名や
幕政に重きを置く『三管・四職』の宿老達は
自らが討伐対象にならぬよう腐心する事になる。
更にこの年、南北朝の合一がなり、
将軍・義満の全盛期となる。
その翌年、後見人を失った細川頼元は管領を辞任。
武家・公家・寺社を統べる絶対者・義満の下で
斯波義将が再々度の管領となる。
1394年、
将軍・義満は将軍職を義持に譲り、翌年出家。
が、政治の実権は握り続けた。
幕政において斯波高経や細川頼之の行っていた
後見人による支配、
将軍家版の『院政』といったところであろうか。
後代の『大御所』みたいなもの。
九州で半ば独立国化していた南朝勢力を駆逐し、
その権益を掌握していた九州探題・今川貞世(了俊)が
1395年、突如罷免される。
九州探題在任中の今川貞世は
豊後を除く九州全域と備後・安芸の守護職という
とんでもない勢力を保有していた。
倭寇対策に絡み周防・大内氏との連携を強め
九州の南朝方へ派遣された明国の使者を抑留して
交渉窓口を幕府方に転じさせたり
高麗・李氏朝鮮との接触も行っていた。
幕府への反抗心は無かったと思われるが
義満からすれば危険人物に映ったであろう。
そしてその職権を羨む周防・大内氏。
対外交易での利潤を目にすればさもありなん。
今川貞世は駿河半国と遠江の守護職に任じられ
対・関東の前線に放逐。
後任の九州探題には足利一門の渋川満頼が任じられた。
この渋川氏、足利一門ではあるが
渋川氏の祖である義顕は
足利尾張守家の祖・家氏の同母弟。
そして今回、
九州探題に任じられた渋川満頼の正室は
管領・斯波義将の娘。
足利高経が権勢を誇っていた当時、
九州探題には斯波義将の兄・氏経が就いていたが
南朝方に長者原の戦いで大敗し帰洛。隠棲した。
そしてその後任として渋川義行が九州探題に就く。
当時の将軍・義詮の正室が渋川幸子(こうし)。
義詮の没後、義満の後見人として存在感を持ち、
斯波義将もこの渋川幸子との結びつきを強めて
幕政での勢力基盤を構築したと思われる。
渋川義行は九州探題に就いたものの
余りにも九州の南朝が他の勢力が強く、
九州に入る事すら出来なかった。
そこで渋川義行を更迭し
今川貞世を九州探題に就けたのが
貞治の政変の後に管領となった細川頼之とされる。
そして今回、今川貞世の更迭の後に
九州探題に任じられた渋川満頼は
渋川義行の子でその正室は管領・斯波義将の娘。
満頼は肥前国に居館を設け、
李氏朝鮮との交易を行うなどして勢力を拡大する。
この渋川満頼以降、九州探題職は渋川氏が世襲する事になる。
一方、九州探題職にあった今川貞世や
明徳の乱や南北朝の合一で将軍・義満への協力を惜しまなかった
大内義弘は九州探題職を望むも果たせず、
鬱屈は溜まっていた模様。
大内義弘は
出家した義満が『北山第』造営に伴い
諸大名に人数の供出を求めた際、
不満を口にし不興を買ったといわれる。
九州探題・渋川氏に反抗する少弐氏の討伐を命ぜられ、
弟・満弘が戦死するも遺児への恩賞は下されず、
1398年、漸く少弐氏を討伐するも義満から上洛を促される。
上洛に応じ失脚した先代・九州探題の事もあり
疑心暗鬼に陥っていたとも思うし
義満は強大化した大内義弘の暴発を画策していたようにも思える。
翌年、我慢の限界を超えた大内義弘が決起、
『応永の乱』が勃発する。
義弘は将軍・義満と対立する鎌倉公方・足利満兼や
土岐康行の乱で没落していた美濃の土岐詮直、
明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男宮田時清、
旧・南朝方勢力と密約を交わした上で軍を起こし、
守護領国の和泉・堺で籠城する。
(籠城拠点に関しての情報は持ち得てない)
この『応永の乱』は
鎌倉幕府の滅亡に至る『元弘の乱』を意識していたように映る。
が、堺に籠城した大内義弘にしろ
上洛軍を起こした鎌倉公方・足利満兼にしろ
反・義満の勢力を糾合出来ず、乱の拡大も促せなかった為、
程なく幕府によって鎮圧される。
この結果、将軍・義満の権勢が西国全域に行き渡り、
尚且つ分権体制でこれまで治外法権に等しかった関東にも
将軍家の権勢が及ぶようになり
鎌倉公方の対立構図が確定されたようにも映る。
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