「またどうして日本人なんだ?彼らは我々にサハリンを奪い返してくれると約束したが、いったい彼らはどこにいるんだ?」と出席者の一人が聞いた。

「今のところソビエト政権を倒すことは、困難だ。しかし、その準備はしていかなければならない。もし我々が一緒にやればもっとうまくいく。間もなく日本は北サハリンを取り戻すはずだ。しかし我々もこのことで日本を支援しなければならない」とイリジャヌゥは答えた。

「ソビエト政権はギリヤーク人とオロチョン人を全部強制的にコルホーズ(※集団農場)に追い込むはずだ」

火に油を注ぎたしながら、日本利権企業の通訳をしているヴァシカが言った。

「コルホーズでは誰も何物をも持てないのだ。すべてが国家の物になる。しかもこのコルホーズに入らぬ者がいると、ソビエト政権はトナカイもイヌも全部取り上げて、監獄に入れるのだ。そうなると、母親と子どもたちだけが残って、皆飢え死にしてしまうだろう」
ヴァシカは強調して付け加えた。
「だから、海に氷が来ないうちに船で日本(※南樺太)へ逃げるべきだ」
「どうして海を行くんだ」
男たちがざわめいた。
「南部に行くには冬でも森の道を通って行けるよ」
「冬、橇で移住するのはむずかしい」
ヴァシカが遮った。

「オロチョン人なら国境を越えられるだろう。トナカイは雪を恐れないからね。しかし、イヌ橇のギリヤーク人はそうはいかない。つかまってしまうだろう。舟なら、岸からずっと離れて出ていくことができる」

 

ニコライ・ヴィシネフスキー著 小山内道子訳『オタス サハリン北方少数民族の近代史』より

 

南樺太にて、戦争ごっこ中の子供たちとワンコ(昭和14年撮影)

 

無益なシベリア出兵が終り、ようやく平和が訪れた樺太島。しかし、その裏では帝政ロシアの後を継ぐソ連邦との駆け引きが始まっていました。

新たな火種になりかねなかったのが、先住民族の独立運動。

ソ連からの独立を目指す南樺太のヤクート人運動家は、日本政府に対して「樺太全土の奪取」と「シベリアへの軍事侵攻によるヤクーチア建国」をはたらきかけます。

いっぽう、治安当局の弾圧を逃れて北サハリンへ亡命する日本人も相次ぎました。女優の岡田嘉子もその一人です。

 

竹内良一

 

上の画像は昭和8年、蒲田撮影所における竹内良一・岡田嘉子夫妻。エアデールテリアは岡田さんの愛犬「花子」です。

皆が羨む俳優夫婦の仲はやがて冷めてしまい、岡田嘉子は演出家の杉本良吉と駆け落ち。昭和12年末、二人で南樺太の敷香へと向かいます。

共産主義者の杉本は、弾圧を逃れるためソ連への亡命を計画していました。当時の南樺太では、同じ理由でソ連への亡命事件が相次いでいたのです。

昭和13年1月3日、慰問を口実に日ソ国境地帯を訪れた二人は、樺太庁警察部国境警察隊の隙をついてソ連側への越境に成功。ここまではロマンティックな恋の逃避行でした。

 

しかし「共産圏で演劇活動をしたい」という夢物語など、粛清の嵐が吹き荒れるスターリン体制には通用しません。北サハリンへ亡命した日本人たちは、いずれも処刑・投獄されていたのです。
ソ連側は、不法入国した二人を受け入れる気など更々無し。それどころか、反体制派を処刑する口実に利用しました。
亜港からモスクワへ移送後、杉本良吉は日本のスパイとして銃殺、岡田嘉子も10年近く投獄されます。
……さて、岡田さんの人生をとやかく言うつもりはないのですが、気になっていることがひとつ。彼女の愛犬である花子は、亡命時に存命していたのでしょうか。
 
日本とソ連が国境で対峙する樺太島は、二度にわたって正規軍同士の地上戦が展開された「最前線」でした。
そこで暮らすカラフト犬たちも、否応なく日本の戦争に巻き込まれていったのです。
 
岡田嘉子
 昭和8年の軍用犬宣傳行進に参加した岡田嘉子と花子。傍らで日傘をさしているのは水谷八重子(初代)。
 
【陸軍歩兵学校のカラフト犬】
 

明治38年から日本の統治下におかれた南樺太では、犬の軍事利用がスタートしていました。大正2年まで豊原に駐屯していた樺太守備隊は、冬季の輸送に犬橇を用いたようです(正式採用だったのかどうかは不明)。

大正7年にはじまったシベリア出兵時にも、樺太で犬橇を使う日本兵の写真が幾つか残されています。陸軍独自の犬橇部隊ではなく、現地の犬橇を借り上げたのでしょう。
 
犬
シベリア出兵時、幌内川上流域のオノールに駐屯していた歩兵第65連隊第4中隊(大正10年末~11年頃の撮影)
 
続いて、千葉県の陸軍歩兵学校もカラフト犬の軍用化テストに取り組みます。
軍馬の知識しかなかった日本軍は、日露戦争で近代的なロシア軍用犬部隊に遭遇。続く第一次世界大戦でも欧州各国が軍用犬を実戦投入したことを知ります。
特に、ベルギー軍が用いていた荷車運搬犬はその奇異な姿から各国で報道されました。小説『フランダースの犬』でパトラッシュがミルク缶を運んでいたとおり、ベルギーには荷車犬の文化があったのです。
武器弾薬や負傷兵を運ぶ荷車犬は(日本では「負傷兵を引きずって運ぶ犬」と誤訳されましたが)、カラフト犬も得意とする作業でした。
新戦術を研究する歩兵学校では、この運搬犬に注目します。
 
帝國ノ犬達-荷役犬

第一次世界大戦にて、機関銃を運搬するベルギー軍輓曳犬

大正2年に各国の軍事レポートを調査した陸軍歩兵学校は、大正8年度から「近代的軍用犬」の研究に着手。まずはドイツ、オーストリア、イギリス各国の訓練マニュアルを参考に、日本独自の方針が模索されます。
 
鳩及犬を訓練して軍用に使用する事に関しては、既に歐洲諸國に於ては古くより若干の實驗を有せしが、今次の大戰に於て長足の進歩を遂げ、軍事的應用の範圍大に擴張せらるゝに至れり。
此に於て我國も亦臨時軍用鳩研究委員會を設け、軍用鳩研究の歩を進めたるも、軍用犬に関しては未だ何等施設研究の方法を設けられしを聞かず。
元來軍用犬の役務は吾人歩兵と最も密接なる關係を有し、之が研究忽せにすべからざるを以て、大正八年秋季より軍用犬研究に着手せり(陸軍歩兵学校)
 
歩兵学校
陸軍歩兵学校でテスト中の輓曳犬。日本陸軍におけるカラフト犬の用途は、犬橇ではなく荷車牽引を想定していました(大正時代の撮影)
 
極めて小規模の試驗的のものを除き、廣く一般の軍用に供する爲には我國軍として必ずしも歐米某國のものを全然踏襲する事能はざる事明なり。故に我國に於ても比較的多くの得數を豫期せらるゝ各種の優良犬(必ず内國産のものに限らず)に就き其能力を査覈し、訓練術の進歩に伴ひ、之に適する役務を判定し、次で戰術上の判斷に基く實際的用途を加味して、茲に我國軍に於ける軍用犬使用の根本方針を概定し、此方針の下に訓練術及戰術的用法を併せ研究すると共に、一方に於ては犬種の改良並新なる方面の研究を爲すを有利とせん。
従つて研究着手の順序は概ね左の如くなるを適當とす。
(1)我國軍に於て採用すべき軍用犬の種類及之に課すべき役務の決定。
(2)戰術上の顧慮に基き、軍用犬使用の範圍即ち如何なる種類の戰闘に於て如何なる場合に使用するを本則とするや、又如何なる部隊に配属するや及其配属方法の研究決定。
(3)各役務に應ずる犬の訓練法並戰術的用法の研究。
(4)以上と同時に犬種の改良増殖並新資料に關する件。
 
試験用の犬を集めるための方針が定められ、その中にカラフト犬が加えられます。
調達対象エリアとして「西伯利亜、樺太」があげられており、当時のシベリア出兵で得た犬を活用しようとしていたのでしょう。
 
飼養數及蒐集の手段
1.本期の研究目的に對しては、成る可く多くの頭數に就きて試驗するを有利とするも、經費の關係上概ね十五頭以内を目途とす。
2.蒐集手段としては、内地諸方面と連絡して軍用に適する優良犬を蒐集するの外、西伯利亜、樺太、滿洲等にあるものに就ても蒐集の手段を講ず。又、千葉付近の雑種犬中優良なるものも収容し、併せ研究す(陸軍歩兵学校)
 
歩兵学校セッター 
第一期計画では様々な犬種が集められました。画像の長毛犬は歩兵学校のセッターですが、詳細は不明。テスト結果は「軍用に適せず」とあるのみです。
 
第一期計劃目的
訓練順致の方法の研究竝、主として内地産各種類の能力(智力、體力)を試驗し、將來國軍に採用すべき犬種及役務決定の概略資料を得る事。
犬は主に内産及樺太に産する血統を一定せる種類を蒐集す(〃)
 
ジステンパーの流行や不適格犬の入れ替えなどを経て、第二期からカラフト犬「四郎」と「九郎」が参加します。残念ながら九郎は病死、四郎のみでの研究となりました。
 
帝國ノ犬達-歩兵学校
大正10年6月、陸軍歩兵学校で撮影されたカラフト犬「四郎」。「狼犬」とは、後のジャーマン・シェパード・ドッグのことです。
 
第二期計劃目的
國軍に採用すべき軍用犬使用の根本方針として次の二問題を解決し、傍ら訓練及馴致に關する研究を繼續するにあり。
1.軍用犬に課すべき役務及び如何なる戰況に於て使用するを本則とするや。
2.軍用犬の編成及之を戰鬪部隊に配属する方法如何。

一、現在収容犬數 

大正十年二月
【獨逸番羊犬(※シェパード)】四頭 
恵智號、恵須號、レオ號(牡)、タンク號
【獨逸ポインター】一頭 
三保號
【雑種犬】一頭 
不二號
【樺太犬】二頭 
四郎號、九郎號

ニ、演習課目及其成績
第一、傳令犬
1.恵智號(獨逸番羊犬牡)
傳令演習をなしたる外、送(受)信所に停止する時間の延長に慣れしむる事を目的として、演習せり。之が初めに於ては距離を減じ、五百米のニ地に於て約五分間停止せしめ、其確實となるに從ひ漸次に其距離と時間とを増大し、中間には約七百米にして十五分間、日本(原文ママ)に於ては、約一千米の距離にて二十五分間停止せしめ、確実に傳令の勤務に服するを得たり。
演習の一例左の如し
距離一千米、一地點停止時間二十五分間。
第一回 經過時間 二分三十秒 
第二回 右同 三分二十秒
第三回 右同 三分
第四回 右同 二分五十秒

2.三保號(獨逸ポインター牝)
病気の爲演習中止中なりしが、十七日に至り全快せしを以て傳令演習を実施し、五十米のニ地間を往復するに至れり。但し、本犬は其獵犬種たる特性上、將來の發達は覺束なきものと認む。
※猟犬種は遭遇した野鳥などに反応してしまい、軍事任務に集中できない恐れがありました。
3.レヲ號(獨逸番羊犬牡)
課目 左側伴行 日数六日(索革ヲ附ス) 自一月六日 至一月十一日 
課目 左側伴行 日数六日(索革ヲ附ス) 自一月十二日 至一月十八日 
課目 正座 日数七日 自一月十九日 至一月二十五日
課目 正座継続 日数六日 自一月二十六日 至一月三十一日
課目 伏臥 日数八日 自二月一日 至二月十一日
四、五、六、三日間病休。
課目 伏臥繼續 日数十日 自二月十二日 至二月二十四日
十五日、元氣不足の爲中止。
課目 行進中伏臥 日数三日 自二月二十五日 至二月二十七日
本犬は性質怜悧にして、理解力に富み、沈着なる爲、訓練の進歩程度目下の處良好なり。

・タンク號(獨逸番羊犬)
教育表略。

第二、輓曳犬
 
1.不二號(雑種犬)
先月に引續き輓曳演習を実施したるも、本犬は其性質怜悧ならざるを以て、現在の程度以上に進歩せしむる事能はざるものの如く、將來研究上の價値なきを以て、廃犬としたき希望なり。
2.恵須號(獨逸番羊犬牝)
先月に引續き輓曳演習を實施す。別に記すべきものなし。
3.四郎號(樺太犬牡 新規購入)
教育表略。
・九郎號(樺太犬 新規購入)
病死。

第三、衛生状態
一、樺太犬九郎號は本月ニ日午前ニ時發病し、三日午前五時三十分死す。解剖の結果膀胱炎と判定す。
ニ、三保號は先月二十五日發病し、本月二十七日全快せり。
三、其他は良好なり。

研究経過の概要 
第ニ期に於ては獨逸番羊犬ニ頭を借用し、一頭寄贈を受けたる外、樺太犬ニ頭、秋田犬二頭を購買したるも、樺太犬一頭は病死したるを以て、目下學校に有する犬は十一頭なり。
逐次傳令輓曳用として訓練したるも、犬の役務の適不適を判定するに及び、分業的に訓練し、獨逸番羊犬は傳令用に、樺太犬、雑種犬は輓曳用に訓練し、本年の甲種學生野營演習に獨逸番羊犬二頭を初めて傳令用として参加せしめ、相當の効果を擧げ得たり。

現時迄に研究し得たる事項
軍用犬研究の目的は、前述の如く三期に分ち詳細に規定したるも、經費僅少にして所定の犬を得る能はざる爲、充分に其目的を達するを得ずして、功勞相伴はざるものありしも、左記事項に就ては概ね研究する事を得たり。
 
1.所要訓練日數
軍用犬の所要の訓練日數は、犬の性質及能力に大なる關係を有するを以て、一定する能はざるも、能力中等の犬なれば、傳令用として概ね三ヶ月、輓曳用としてニ、三ケ月を要す。
2.犬の役務の適不適
内地各地に飼養せらるる雑種犬(本邦に飼養せらるゝ犬の大部分)は、輓曳用として使用し得るも傳令勤務に服せしむるを得ず。
優良なる獵犬として賞揚せらるゝセッター種、ポインター種及秋田犬は軍用に適せず。
獨逸番羊犬は軍用犬として良好なる種族と認む。
樺太犬は傳令勤務に使用し得ざるも、輓曳用として最も適當なり。
3.犬の能力
獨逸番羊犬は傳令勤務に服し、一吉米を三乃至五分の速度を以て、四吉米内外の距離を確実に往復通信し得。
樺太犬並雑種犬の強健なるものは、平坦堅硬なる道路に於て、概ね十一、ニ貫の貨物を搬送し、日々十里内外の行軍に連續耐ゆる事を得。
 
帝國ノ犬達-歩兵学校
研究第三期、大正11年に撮影されたシェパードの恵須と恵智、そしてカラフト犬の四郎。
 
カラフト犬の最終評価は下記のとおり。要約すると「輓曳犬として最適のものと認める」と高評価ながら「ただし、戦地、特に夏期に於ける使用は困難」というものでした。
カラフト犬は優れた運搬犬ではあるが、暑さに弱いから使い物にならないという事。最初から分かりそうなものですが、何でも試してみるのが歩兵学校の役割でした。
 
第三期計劃目的
本期に於ては漸次2期の諸施設を擴張し、第2期に於て決定せられたる方針に基き、益々研究を進め、以て我國軍に於ける軍用犬の使用の根本を確定し、併せて犬種の改良及増殖の研究に任す。

第三期研究計画に基き、第二期の研究を繼續す。而して其重なる研究事項次の如し。
1.各種犬の能力の判定並に各種役務達成能力の鑑識
2.既研究の結果に依る訓練方法並訓練回數の研究
3.各種役務に應ずる犬の戰術的用法の研究
4.保育衛生

第二、研究實施の概況
大正十年十二月より大正十一年十一月に至る間を研究第三期とし、前項研究目的に基き左の研究を実施したり。

一、各種犬の能力の判定並に各種役務達成能力の鑑識
研究初期以來飼養して、其の訓練を略々完了したる狼犬、秋田犬及樺太犬の能力並に各種役務達成能力の鑑識の既研究事項に基き、研究を繼續して之が向上を計りしと共に、新役務達成能力の鑑識に努め、又新に左記犬を飼養訓練して、其能力並に之に課すべき役務並に軍用犬としての可否を判定する爲の研究を實施せり。

左記
【狼犬】三頭
牡(六年九箇月)牡(六年十箇月)、牝(六年十一箇月、大正十一年三月より飼養。
【アイリシユテリヤ】一頭
牡(一歳) 大正十一年三月より飼養。
【エヤデルテリヤ】二頭
牡牝仔犬。大正十一年六月より飼養。

尚、前記より飼養せし秋田犬牡一頭は老齢にして研究を繼續するを不適當と認め研究を斷念せり。且つ土佐犬、秋田犬、番羊犬等研究の目的を以つて蒐集に努めたるも、諸種の障碍に依り其目的を達する事能はざりしを遺憾とす。
右の如き状態にありしを以て、自然既研究事項の程度を深くしたるに止まるもの多く、新役務の研究として僅かに傳令犬に對して渡河連絡法、飛行機より投下する通信筒の捜索、市街地の連絡、夜間の傳令等に研究の歩を進めたると、輓曳、斥候、警戒勤務に一部の研究を實施したるに過ぎず。

ニ、既研究の結果に依る訓練方法並訓練回數の研究
本研究は第二期研究に於て略々正鵠を得たるが如き状態なりしも、之を狼犬以外の犬種に對して直ちに適用し得るや否や疑問にして、特に自ら訓練中なるテリヤ種に依りて得たる研究の結果は、注目すべきものと信ず。
 
一、各種犬の能力の判定
(1)狼犬(※シェパード)
各種の能力卓越し、各種の役務就中傳令捜索及警戒に優秀なる能力を有し、軍用犬として好適のものと認む。本犬の優越点は前年度報告の如しと雖も、特に怜悧にして服從心に富み、熱心任務を完ふせざれば止まざるの美點は益々之を明瞭に知るを得たり。
唯、本犬の不利とするは之が繁殖力の弱き点にして、本邦に於て産したるものは、良好なる成績を擧ぐるに拘らず、外國産の犬は内地に於て其繁殖力弱し(青島は成績良好なり)。
故に之を國軍に採用するの秋を顧慮すれば、之が繁殖には馬種改良の如き機關を必要とせん。
※国内飼育頭数の少なさが心配されたものの、昭和3年にシェパード愛好団体が設立されると、シェパードが大流行しました。ちなみに「青島」とはドイツ租借地山東省青島の警察犬「青島系シェパード」のことです。
(2)テリヤ種犬
本種犬は更に「ブルテリヤ」「ボストンテリヤ」「アイリツシテリヤ」「エヤーデルテリヤ」「ホオツクステリヤ」等各種犬ありと雖も、斉しく自己の目的に向つては飽く迄努力するの美點を有す。而して體躯は小なるも勁健、勇敢にして嗅覺甚だ鋭敏且つ主人に親しみ易き性大なり。
目下研究中に属し、判決を得るに至らざるも、軍用犬として好適なるものゝ如し。
※エアデールテリアが軍用適種犬に選定されました。
(3)秋田犬
前年度研究に使用したる犬の外、良種を得るの機会なかりしを以て、輓曳の外研究を實施せず。從つて之が軍用犬としての可否は更に優良種を俟つて判決を下さんとす。但し、輓曳能力は良好なるものと認む。
(4)樺太犬 
輓曳犬として最適のものと認む。但し、戰地、就中夏期に於ける使用は困難なり。研究に供するに乏しき爲、其他の能力は不明なり。原産地に於て土人の唯一の伴侶として之に課しつゝある役務に鑑みる時は、之に他の役務を課して大に利用するに足る犬種にあらざるやを思はしむ。
故に之が判決は優良種を得て更に研究を實施したる後に於てするを適當と認む。

暑い本州で頑張ったあげく「研究は続けるけど、夏の戦場では使えない」と言い渡されたカラフト犬の四郎號。
それで切り捨てるのはあんまりなので、四郎の雄姿を紹介しておきましょう。
 

帝國ノ犬達-運搬犬

大正10年に陸軍歩兵学校で撮影された連続写真より、まずは荷車を曳く四郎と秋田犬(おそらく雜種)。

 

帝國ノ犬達-犬車

一旦停止する四郎たち
 

帝國ノ犬達-運搬犬

伏せる四郎たち(下顎を地面につけるのが「伏せ」、頭を上げるのは「休止」)

帝國ノ犬達-運搬犬

ご主人も一緒に伏せます。


帝國ノ犬達-運搬

たとえ主人がいなくても伏せ続けます。

因みにコレ、昭和になって絵葉書用に着色された加工写真。元画像に「弾薬車」の文字はありません。

大正10年に歩兵学校が公表した元の写真はこちら↓

 

 帝國ノ犬達-運搬犬

 

上記の連続写真はとても有名で、軍事系サイトでは「日中戦争で活躍する日本軍の荷車犬」として取り上げられたりします。

しかし、大正時代の千葉県で撮影された四郎の写真をあげて「日中戦争で活躍した」と主張するのは困りものです。

 
帝國ノ犬達-運搬犬
輓曳運搬犬に代わって主力となった駄載運搬犬(昭和5年)
 
陸軍が運搬犬に求めたのは、冬季限定ではなくオールシーズンでの作業能力です。
荷車を曳きながら不整地を移動する輓曳運搬は難しく、兵士による介助も必要でした。それだと戦場では役に立たないとして、歩兵学校は輓曳運搬犬から駄載運搬犬へと研究方針を転換します。
胴体に装着したサドルバッグで荷物を運ぶ駄載運搬は、軽装かつ犬単独で行動可能。伝令犬に荷物を運ばせるだけなので、訓練ノウハウも共有できます。
結果、「優れた橇犬」ではなく「優れた伝令犬」が主力軍犬種の座を射止めました。
それこそが独逸番羊犬。後のジャーマン・シェパード・ドッグです。

 

シェパードが主役となったことで、カラフト犬はデータ収集用に格下げとなりました。

昭和3年頃までは、陸軍歩兵学校の記録にカラフト犬の姿が確認できます。しかし同時期から日本ペット界ではシェパード飼育が大流行。カラフト犬よりも容易に国内調達できる品種となりました。
満州事変で実戦デビューしたシェパードは、主力軍用適種犬として戦地へ投入され続けます。帝国軍用犬協会や日本シェパード犬協会といった大規模団体も発足し、調達システムも確立されました。
シェパードの軍事利用が拡大した結果、カラフト犬は戦争に巻き込まれずに済んだのです。
 
帝國ノ犬達-樺太犬

失格判定後も、陸軍歩兵学校はカラフト犬の研究を続けました(昭和3年)

 

【ヴィノクーロフとオタスの杜】

 

陸軍歩兵学校の軍用犬研究が終った大正11年、ロシア革命に端を発するシベリア出兵は、何の成果も得られないまま撤退となります。尼港事件の保障占領として大正14年まで北サハリンに残っていたサガレン州派遣軍も、日本とソ連の国交が樹立されたことで撤退が決まりました。

これにより、北サハリンは再びロシア人の支配下におかれます。

北サハリンで財をなしたヤクート人毛皮商、ドミトリー・ヴィノクーロフは、ソ連による少数民族の抑圧を憂慮していました。

大正14年2月、彼は先住民族の代表者大会に高須俊次少将をまねき、「北サハリンからの日本軍撤退により、我々はソ連の脅威に直面する」と訴えます。

 

ヴィノクーロフがこの言葉に応えるべく登壇した。「ソビエト政権は原地民を侮辱するだろう。私にはこのことが分かっている。なぜなら私はロシア人の中で働いていたからだ。また、この政権は原地民を騙すだろう。金持ちからは財産を没収するはずだ。今、これから全員仕事をしなければならない。
日本の軍人を犬ぞりで運ぶ仕事だ。日本人は十分報酬を支払ってくれる。我々現地民は今では日本国民である(※日本政府は、アイヌ民族以外に戸籍を与えていません)。
もし、日本とソ連邦の間に大きな戦争が起こったら、我々現地民は日本を助けるのだ。ボリシェビキというのは、いわば獣である。我が住民は戦場で戦うことを習い覚えなければならない」
ヴィノクーロフの後にさらに何人かが発言した。
「もしもソビエト政権になったら、ひどいことになるだろう。日本を助けよう!なぜか―我々は今、良い暮らしをしているからだ」
「現地民は皆優秀な射撃手だ。ボリシェビキをサハリンから追い出そうではないか」
「我々住民は無学だから、戦争をするのは無理だ。しかし、もし日本人が教えてくれるなら、我々は断りはしない」
大会決議には次のように書かれた。

「全現地民はこれから日本軍のために犬橇を提供して働くこととする。また戦争になった時には、赤軍と戦うべく協力しなければならない」

 

ニコライ・ヴィシネフスキー著 小山内道子訳『オタス サハリン北方少数民族の近代史』より

 

ソ連への抵抗運動をはじめたヴィノクーロフは南樺太へ亡命。シベリアの少数民族にソ連軍と戦う術はないと理解していた彼は、日本の軍事力にすがろうとしたのです。

迎える側の樺太庁は、ヴィノクーロフを「オタスの杜」の有力者に据えました。突拍子もないシベリア侵攻論に応じる気はなくとも、彼が少数民族を束ねれば越境偵察作戦に利用できるかもしれません。

ウィルタとニヴフの統括者として君臨した彼は、日本政府とのパイプを構築。樺太全土の奪取、シベリアへの軍事侵攻を天皇に直訴しようと上京するも、拓務省はこれを拒否します。荒木貞夫や頭山満が理解を示してくれたものの、具体的な支援は得られませんでした。

日本政府は「ソ連の共産政権が行き詰まるには50年かかる」と予測しており、サハリンの油田開発をスターリンと交渉している以上は満洲の権益確保が優先だったのです。

 

南樺太で大規模な乱開発が進んだ結果、動物たちは自然が残る(開拓が遅れたため)北サハリンへ移動。「国境」という概念がない遊牧民はトナカイを追って国境を行き来し、そのたび日本とソ連の警備隊に拘束されていました。
ソ連内務人民委員部は彼らを工作員として南樺太へ送り返し、スパイ網を構築します。観光地であった敷香は、同時に最前線でもあったのです。

やがて、ソ連当局によって北サハリンの反共勢力は壊滅。ヴィノクーロフも北サハリンへ拉致され、スパイに仕立て上げられます。従順なフリをして南樺太へ戻った彼はソ連側の工作員を捕縛して警察へ連行するも、訊問された容疑者が「ヴィノクーロフは北サハリンへ行った」と白状してしまったため、自身にもスパイの疑いがかかってしまいました。

釈放後もオタスの有力者であり続けたヴィノクーロフですが、日本からもソ連からも見捨てられたまま、昭和17年に死去します。

 

このように、樺太国境地帯では日本軍とソ連軍の双方が先住民族を利用した暗闘を演じていました。

かつてヴィノクーロフが提唱した「先住民族による犬橇部隊」も、上敷香に拠点をおく方面軍特殊情報部樺太支部所属の遊撃戦部隊として発足します。この部隊は国境地帯のソ連軍に対する偵察や破壊工作を任務としており、日本兵では耐えられない樺太の冬季ゲリラ戦も遂行可能でした。

もちろん特務機関は「シベリア先住民の独立支援」など考えていません。国境地帯の地理に詳しく、積雪期の行動にも慣れた先住民を「使い勝手のよい日本軍の手駒」として訓練しただけです。

遊撃隊員には自宅待機が命じられたまま、幸いにも出動の機会は訪れませんでした(昭和20年のソ連軍侵攻も犬橇が使えない夏期でしたし)。

しかし、その存在を察知したソ連軍は日本敗戦後のサハリンで部隊員を検挙。矯正労働へ従事させています。

 

帝國ノ犬達-犬橇

日本だけではなく、各国が犬橇部隊やトナカイ橇部隊を編成していました。画像はナチスドイツ軍の犬橇部隊です(東部戦線にて)

 

【戦時下のカラフト犬】

 
短期間で決着するはずの日中戦争は泥沼化。総力戦の様相を呈しはじめ、やがてカラフト犬も巻き込まれていきます。
昭和15年、陸軍第7師団は冬期戦用にカラフト犬の配備を決定。しかし同師団は北海道防衛の要であり、ノモンハンから帰還後は一木支隊(ガダルカナル島)や北海支隊(アッツ島)を派遣した程度です。
「動かざる師団」のカラフト犬部隊が、大陸の戦場へ配備されることはなかったのでしょう。
 
近代戰の兵器として將兵に劣らぬ武勲を輝かしてゐるもの云はぬ戰士軍犬に關しては、専門的立場から北鎮師團(第七師団)で檢討を進めてゐたが、今回酷寒深雪時における樺太犬の威力が認められ、ここに從來のシエパードと共に鄕土部隊が誇る軍犬二種類が新たに登場することとなつた。
石田部隊獸醫部では、樺太犬に對する研究を更に進めるため、來冬から○○頭を大陸戰野、或は特殊地帶に送り、實戰的に使用することとなり、その結果を確める計劃を樹てて居り、殊に長期戰下のこれ等軍犬所有者に對しては、一朝有事の際における晴れの出勤に待機せしめるため、「軍犬カード」を作製することになつてゐる(北海タイムス)
 
また、軍特務機関が先住民で編成した国境遊撃戦部隊とは別に、陸軍独立混成旅団もトナカイとカラフト犬の研究に着手。吠えまくって隠密行動がとれない犬橇はあきらめ、昭和19年にトナカイ橇部隊を編成したそうです。
この部隊は上敷香に配備され、さらに千島列島方面へ犬橇部隊を送り出すため北海道へ移動したものの、敗戦によって計画は中止されました。
ちなみにこの部隊出身者は戦後に北海道へ引き揚げていたところ、第一次南極観測隊の要請で犬橇訓練を指導することとなります。
 
陸軍がこれを利用し出したのは戦争の末期で、敷香の奥の上敷香の駐在部隊にトナカイと犬の部隊が編成されて基礎訓練をはじめたのは一九四四年の冬からであった。翌年に入ってから、千島列島の島々に陸軍部隊が送られたが、島内の連絡には冬季は自動車も馬もつかえず犬ソリ以外にないとして、敷香地方から優秀なカラフトイヌを買い集め、まずそのうち三十數頭を小樽港に送って、千島への廻送を待っていた。しかし戦況はますます不利になり、その一部を千島に送っただけで戦いは敗け、残りは北海道で民間に渡ったのだった。
これとは別に千島の占守島に派遣されていた通信隊の轟部隊は三〇頭のカラフトイヌと三台のソリを保有し、部隊間の連絡に使っていた。戦時でなくても魚類の豊富な千島はカラフトイヌの活用には最も適した場所であった。
 
犬飼哲夫『からふといぬ』より
 
 
画像は北方警備演習に参加した歩兵学校のシェパードです。陸軍歩兵学校軍犬育成所や関東軍501部隊は、対ソ戦を見据えた冬季戦研究に取り組んでおり、シェパードが耐えられない樺太や内モンゴルの酷寒地帯では、現地のカラフト犬や満蒙犬で対処しようという計画もありました(赤倉山麓にて、昭和18年)
 
日本海軍においても、北海道・東北エリアの部隊がカラフト犬を配備しました。
下記は青森県の大湊要港部警備隊における記録ですが、東北の夏ですらカラフト犬にとっては耐え難い暑さだったようです。
 

大湊防備隊の軍用犬(總勢十五頭の樺太犬)は最近の暑さにたまり兼ねてか殺氣立つてゐたが、この程教導犬の竹號(牡)は夜陰に乗じて檻を破り出て、海軍病院の大事なモルモツト四十頭を片つ端から咬み斃したといふので、同隊では水兵さんに二、三頭宛つれさせて毎日水泳をさせたり、橇代りに荷車を曳かせて制御してゐる。

 

『暑さに犬も狂ふ(昭和11年)』より

 
これら大湊の海軍カラフト犬たちは、熱中症で全滅したと伝えられています。青森県の夏ですら無理なのに、千葉県の陸軍カラフト犬は大丈夫だったのでしょうか。
 
はじめにこれに着眼したのは海軍で、戦争前のことであったが、青森県の大湊の海軍要港部に三〇頭ばかりのカラフトイヌを飼育しはじめた。ところが冬は無事に過したが、春になって気温が上るにつれてだんだんと消耗してたおれ出し、夏に入ってから丘に土穴を作って暑気を防いだがついに及ばず、夏中に全滅してしまった。敷香の夏の平均気温は六月が八・二度、七月が十四・五度、八月が十六・三度、九月が十三・三度で、一〇月には三・四度に下るから、これよりも一〇度以上も高い青森県の夏の暑さには堪えられなかったのである。
 
犬飼哲夫『からふといぬ(昭和57年)』より
 
太平洋戦争へ突入すると、カラフト犬も最前線へ送り込まれます。
昭和17年、ミッドウェー作戦の陽動として実施されたアリューシャン作戦において、日本陸海軍混成部隊はアッツ島とキスカ島を占領。そのキスカ島守備隊には陸軍のシェパード「勝」、海軍のシェパード「正勇」、カラフト犬の「白」といった軍用犬が配備されていました。
ミッドウェー作戦の惨敗を隠したい大本営は、早期撤退の提言を無視してアッツとキスカの越冬駐留を決定。その間にアムチトカ島へ飛行場を建設した米軍は、圧倒的戦力をもってアッツ島を奪回します。
アッツ守備隊全滅の二の舞を避けるため、キスカ守備隊が撤退したのは昭和18年7月29日のこと。その際、キスカの軍用犬は置き去りにされてしまいました。

私は、終り頃の便の大発(※大型動艇の略。上陸用舟艇のこと)に乗った。振り返って見ると、二隻の最終の大発に兵隊たちが乗り込もうとしていた。
その兵たちに混って白い犬が一生懸命尻尾を振って走り回っているのが見えた。
”いっしょに連れてって”と叫んでいるに違いなかった。
哀れだが、犬は島に残された。
遠ざかって行く海上から見ると、兵舎附近からは黒い煙が上り、可哀想な犬が白い点となって右往左往していた。

 

『キスカ戦記』より 特潜基地隊海軍機関二等兵曹成田誠治郎氏の証言

 
勝や正勇は繋がれたロープを食いちぎり、幾度も追いすがってきました。しかし、米軍の隙をついたキスカ撤退作戦は時間との闘いであり、兵士の救出が最優先。
「軍の装備品」に過ぎない軍犬は、乗船を許されませんでした。
日本側は軍用犬の置き去りに触れず、キスカ島から連れ帰ったように報道しています。
 

B兵長「われ〃の方の生活は、單調を通り越してゐました。軍紀厳正、みな敵撃滅の一念以外にないのですから本當に氣合いがかゝつてゐましたよ。われ〃のキスカ島にも女がゐました。但し二人ではなく二匹です。北千島産の雌犬ですよ、ハハ……」

C一等兵「今度の轉進では、あの犬達も部隊と共に引き揚げたらうと思ひます」

 

報道叢書『キスカ戰傷勇士座談會(昭和18年)』より

 

日本軍の撤退を知らないアメリカ軍は、無人となったキスカ島へ猛攻撃を加えました。幸いにも軍用犬たちは空襲を生き延び、キスカ島を奪回したアメリカ兵に保護されます。

戦略的価値のない北の孤島で無意味な駐留を強行し、救援を信じて奮闘するアッツの将兵を見殺しにした大本営。無能な軍上層部のツケを払ったのがキスカ撤退作戦でした。

白瀬南極探検隊から置き去りにされ、キスカ守備隊から置き去りにされ、戦後は再び南極へ置き去りにされる。カラフト犬は「日本の威信」のために翻弄され続けてきたのです。
 

帝國ノ犬達-キスカ島
キスカ島のツンドラ地帯で橇を曳く3頭の軍用犬

 

【南樺太犬界の終焉】

 

昭和20年夏、ソ連軍は南樺太へ侵攻。先住民族が暮らす敷香では「ロシア人に何も残すな」という理由で焦土戦術がとられ、日本側の放火によって市街地は炎上します。

北海道への脱出は和人優先であり、避難船に乗れなかった先住民の多くが樺太に取り残されました。帰宅しようにも敷香は焼け野原と化し、ソ連領となったサハリンでは「ロシア化」「日本化」に続く「共産化」が強要されます。
犬橇が廃れていった戦後のサハリンにおいて、大食漢の役立たずと化したカラフト犬は激減。

しかし少なくとも、二度と戦争に巻き込まれる事だけはありませんでした。

 

(次回に続く)