日本産狼については、純粋な研究目的から生存説や再移入論なども加わって侃々諤々喧々囂々百家争鳴状態。それらを「崇高な使命」とでも勘違いしたのか、対等であるべき日本犬界史をオオカミ史のオマケ扱いするような態度も散見されます。
イヌのブログとしては関りたくもありません。
 
ただし、牧羊犬史や猟犬史(満洲国や外地を含む)のように「近代日本犬界とオオカミが交錯する部分」もあるのですよ。
そして、本当の意味で両者が混じり合ったのがオオカミ交雑犬。いわゆるウルフドッグです。
 
ウルフドッグに対する日本犬界の反応も様々でした。愛玩犬・闘犬界などでは、そもそもウルフドッグとの接点など皆無ですし。
血統による繁殖を重視していた日本シェパード界でも、オオカミの血を混入させるような真似は言語道断。ドイツSVとの提携や軍犬報国運動という主軸が確立されていた為、帝国軍用犬協会・日本シェパード犬協会ともウルフドッグは無視していました。
 
反対に、やたらと盛り上がっていたのが和犬愛好家たち。洋犬への劣等感からオオカミとの血脈で和犬に箔付けしたがる悪癖は、戦前から蔓延していました。
更に、国粋主義を利用した当時の日本犬保護活動には素っ頓狂な精神論が介入する余地もあり、犬やオオカミを実験動物扱いする原始主義的な試みも許されていたのです。
 
我が国において、狼と犬との交雑犬である「ウルフドッグ」の立ち位置はどうだったのか。その歴史は平岩米吉の著作を読めば済むのですが、改めて取り上げてみましょう。
 

ウルフドッグ
平岩米吉『犬狼交配に關する文献(昭和7年)』より

戦前の日本でも、ウルフドッグはジャック・ロンドンの小説『ホワイト・ファング』等の題材として知られていました。
元々は同じ動物から分化しながら、ニンゲン側についた犬と野生に残った狼。
何万年にもわたって「人間の友」として家畜化された犬と、完全な野生動物である狼。
遺伝子や姿は似ていても、犬と狼は全く違う動物となってしまったのです。

その交配によって生れるウルフドッグには妙な人気があり、近代ドイツの愛犬家にもその手の嗜好を持つ人が一定数含まれていました。で、そちら方面の人達は「オオカミっぽい姿の犬」を作出するPhylaxのような団体へ流れていった訳です。
外見にこだわった結果は無残な失敗に終わり、19世紀末のシェパード界はSV(独逸シェパード犬協会)のようなマトモな繁殖団体へと淘汰されました。
どちらにせよ、狼自体の飼育が難しいこともあってウルフドッグの作出は偶然成功する程度のもの。当時は好事家向けの繁殖などムリでした。
 
【日本人とウルフドッグ】
 

我が国でも、本格的なウルフドッグ作出に取り組んだ過去があります。

最初に断っておくと、「一度だけ繁殖実験に成功した」レベルのお話。あまりにも身勝手な動物虐待か、さもなくば面白ネタとして扱うべき記録です。
 
犬の先祖は狼です。
大陸のどこかでニホンオオカミの先祖からイヌが分岐し、海面上昇で日本列島が形成された後は「在来のニホンオオカミ」と「縄文時代に渡来したイヌ」として棲み分けが始まりました。
長い年月の間には、ニホンオオカミとイヌが交雑したケースもあったのでしょう。話の真偽はともかく、明治後期までは「狼と交配した和犬」が残っていました。
洋犬が普及する中で姿を消した「二俣尾の狼犬」もそのひとつ。
 
此頃上流社會の紳士間には盛に犬の珍種を愛育すること流行し、何れもお氣に召したものを手に入れんと八方探索に忙はし、然るに茲に西多摩郡方面に於て日本犬雑種の中に狼の種を混じたるもの罕(まれ)に存するより、之れを廣く世の愛犬家に薦めんと企て居る者多きが、元來狼犬といふは其始め文政年間二、三の畜犬が牝狼と交尾して生れたるものにして、其性質至て剛健なる處より多く番犬として愛養しゐたる中、天保の末に至りて二俣尾の狗醫、了源といへるもの狼犬の交尾を自由ならしめ得る方法を發見し、爾來三多摩郡地方に於ては自然鬪犬の流行を見るに至りしが、是も唯好事家愛犬家の中に止まりて、廣く世人に行はれるにあらず。
斯くて了源死してよりは一層其の勢を減じて絶えて狼犬を愛養する人なき程なりしに、明治初年に至り洋犬次第に世人より愛養せらるゝに至ると共に、狼犬の飼養も之れに伴ひて、復興し來り。
扨て此狼種は三化四化即ち孫玄孫に至るまで形態の上に判然たる特質を有し、他の普通の犬より容易に區別し得べく假令其遺傳が外形の上に現はすとも必らず精神的に遠祖の氣質を存し、世の所謂愛犬家は外形上甚だしく狼に似たる點と又其性質の極めて勇敢なる點とを愛する譯なりと云ふ。
 

眞圓居士「二俣尾の狼犬(明治41年)」より

 
「二俣尾の狼犬」のようなウルフドッグを作出するには、当然ながらオオカミとイヌが必要でした。

日本産狼は明治時代に姿を消しましたが、動物商によって朝鮮半島や満州国から大陸産狼の輸入は続けられています(これらの輸入個体やその遺骸が、「ニホンオオカミの遺物」なるモノに混入した可能性はあるのでしょうか?)。
当時は狼をペットにしている人もいたんですよ。

 

犬を育てては殺す事十數匹、犬運の惡い南理事(※南謙吉)は癪に障つたのか、先般滿洲より狼を手に入れて、訓練に熱心だが、シエパードでさゑ訓練の方ではかなり怪しいのに、狼だから巧く行く譯がない。
毎朝京浜國道を鎖でつないだ狼を左側行進の日課です。日本、否世界中狼を伴れて毎日繁華な街を散歩する人はあるまいと思ふ。警視廳への届には犬としてあります。

狼とシエパードの混血種でも作つて、研究したいと云ふ人はいませんか。南理事の狼を(牝で、牡犬には尾を振つてジヤレつきます。食事は犬と同じものです)貰つてあげます。南理事は時々足をパクつかれて居られるので、同氏の生命保護のためにです。私は早く篤志家を求めたいのです。
 
日本シェパード倶楽部理事 中島基熊(昭和7年)
 
後に帝国軍用犬協会理事となった南さんですが、さすがに懲りたのでしょう。「狼とシエパードの混血種を日本軍で採用しよう!」などとは言いだしませんでした。


甲府狼
昭和14年、甲府動物園で交配作出された「新狼犬」

ウルフドッグ作出の動機は「優れた猟犬を得たい」「カッコイイ犬を作出してひと儲け」「交雑犬の性質を研究したい」など、様々だったことでしょう。

「昔は牝の猟犬を山中に繋ぎ、ニホンオオカミと交配させていた」という伝承がありますし、珍しいハナシではありません。エゾオオカミを神聖視していたアイヌ民族でも、一部のコタン(集落)ではオオカミと猟犬の交配を試みていたと伝えられています。
 

しかし人間の意図など関知しないオオカミ側にとって、そのような犬はテリトリーへ侵入した外敵でした。交配どころか、大部分は殺傷されてしまったと思われます。

ウルフドッグ伝説に幻想を抱いている人には悪いのですが、狼のテリトリーに迷い込んだ犬も、人里へ侵入した狼も、互いに排除されることで何千年も住み分けていたのです。
アイヌ民族も、狼の襲撃を避けるため「子供に犬の毛皮を着せるな」と戒めていました。

昔北海道の山野に夥く棲息した鹿を盛に捕食してゐたことは、後述の通り冬季の鹿の移動と狼の移動とが一致してゐたことからも明かである。然し家畜の被害は古から絶えなかつた。昔はアイヌの畜犬が盛に狼に盗られたと云ひ、近文アイヌの古老は子供の外出する時は犬の皮の衣服を着て出ない様注意されてゐたと云ふ。


犬飼哲夫 『植物及動物(昭和8年)』より

 
【甲府のオオカミ犬】
 
オオカミが消えたことに気付いた時は既に遅し。日本人は慌ててオオカミの痕跡を探し始めます。
民間伝承や遺物を集める人、生存を信じ野山に分け入る人、見慣れぬ日本犬(大正時代に和犬は消滅しかけていました)をオオカミと勘違いして大騒ぎする人、「代用品」たる外国産狼の飼育で満足を得る人。

そして、大陸産オオカミとイヌとの交雑を試みる人もいました。下記は台湾での事例です。
 

臺北圓山動物園の人氣もの「狼姫」は、遥々朝鮮から贈られたものですが、年頃となつたゝめ臺北市嘱託の勝浦少佐が月下氷人となり、郷軍將校會長厚東少將の愛犬シエパード種牡四歳と同居させたとろ、至極圓滿に首尾よく目的を達したとの事。さてどんな仔が生れるか目下興味の的になつてゐます。
『シエパードと狼の結婚(昭和9年)』より

 

内地で有名なのは、甲府動物園の「新狼犬」作出事例でしょう。まず大正13年、同園で飼われていたヌクテ(朝鮮狼)と犬の交配計画が実施されました。
これに関わったのが、甲府動物園の嘱託獣医師だった小林承吉氏。後の同園園長、そして甲斐犬保存会の設立者でもあります。

 

此の狼としては一番温順の朝鮮狼牝と、犬との交配種を作るべく園長初め甲府の愛犬家が集つて日本犬、ブルドツグ、獨逸ポインター、グレート・デン、土佐犬といづれも狼より大きい強さうな犬を狼の交配適期をみて狼舎の中へ入れましたが、いづれも舎隅に小さくなり、震へ上つて食物も喰べず悲鳴も上げ得ず、のみならず側へ寄つて喰ひ付かれ、重傷を負つたのさへある惨々な状態でした。
更に策を變へ、次の發情期には交尾期前よりものすごく大きく強い土佐犬を狼舎の横に置いて、交配適期を待つて狼舎に入れましたが、矢張り失敗してしまひました。此の犬は狼舎内で腰を抜かしてしまつて、遂に此の計畫はあきらめたと云ふにがい經驗があります。


甲府動物園長小林承吉『日滿合作の新狼犬作出記』より

 

ぶっつけ本番の強制お見合いは、当然ながら大失敗。
ここで諦めればよいものを、甲府動物園はナゼか狼犬作出に執着し続けました。

甲斐狼
昭和14年~16年に亘る満洲狼と甲斐犬の交配実験記録。大正と昭和、2回の交配実験に関わったのが画像の小林承吉園長でした。

それから十数年を経て、甲府動物園はウルフドッグ作出に再挑戦します。
第2回目に試みられたのは、満洲産狼と甲斐犬との交配。前回の失敗に懲りてか、昭和14年から昭和16年に亘る取り組みとなりました。

ちょうど太宰治が甲府へ転居し、現地で拾った犬との体験を『畜犬談』に記した頃ですね。
 
太宰
雑誌初掲載時の『畜犬談』。太宰さんが甲府の犬とマヌケな心理戦を演じていたこの時期、甲府動物園もウルフドッグ作出のため奮闘中でした(『文學者(昭和14年)』より)


どうして甲府動物園は狼犬作出にこだわったのでしょうか?その目的を、小林承吉氏は「甲斐犬の優秀性証明」にあったかの如く書き遺しています。

 

小生としては今一度何んとかして自分の手で再試驗をしようと、今より六年前甲府動物園々長となった頃より、狼をさがしていましたが、中々見付からずに居た處、昭和十四年四月、生後一ヶ月半、三百目位の狼仔二頭を入手しました。それは滿洲産の狼で、途中長い間の旅疲れで牡の一頭は到着三日目に死亡、牝一頭だけが辛うじて回復しました。
此の牝狼と甲斐犬を以って、新しい強い犬、新しいやさしい狼、いずれでもよいから新種を作出したいと思い、前例もあるし、専門家を以って任ずる小生迄失敗してはと色々考慮の結果、甲斐犬の生後二ヵ月の仔犬と、小生愛育中の一ヶ年の甲斐犬と狼と三頭を同居させました處、二ヵ月の仔犬は狼仔のためいつも喰い付かれ、食餌も殆ど食えない状態で榮養不良になり、失敗に終わりましたが、一ヵ年の甲斐犬は非常に強い犬で、食餌の時狼は天性食物を食うのでなく呑む方で、一食を二分位で食べ、甲斐犬は五分乃至七分位掛って食うため、一日三回食餌の都度仔狼は甲斐犬の食器に口を入れるのですが、甲斐犬中々の大食で一粒の米も狼に與えず、一日三度の食餌の度に必ず仔狼を咬み、時には肢や口先に傷害を与えた事も度々ありました。
此の様な生活が幾月か續きます内、狼の方が甲斐犬より大きくなり、甲斐犬四貫二百目、狼八貫目に達しても、やはり甲斐犬が強く、狼は時々肢に傷を負つて居り、「狼、甲斐犬には及ばず」の先入観を完成しました。
尤も常時は中々仲好しで、只食餌の時のみ互いにかみ合いますが、甲斐犬のため撃退され、甲斐犬も、狼より我優れりとの自信を持つ様になりました。
然し小生最大の目的たる交尾期が狼にいつになっても來ないので、各地動物園長や狼研究家平岩米吉氏等に問合わせし處、大略二年半乃至三年目に初交尾が來るとの回答でありました。ところが昭和十六年二月十二日夕景四時半、狼と甲斐犬が十分位交尾したと言う報告を受けました。その時狼は大した月經も無く、幾分外陰部腫脹位で、犬の如き交尾期到來の著名の特徴がありません。

その後朝晩注意して居ましたが、一度も交尾をみないので半信半疑の氣持ちで居ました處、四十日目より幾分腹部増大、五十日目乳線肥大、その頃より一般人にも妊娠を認定出來る様になったので甲斐犬を離して狼舎を莚その他で近寄れない様にし、出産を待つ事六十六日目の四月十六日、朝來てみますと健康そうな仔四頭、牡一牝三が生れていました。
毛色的分類に依ると狼灰色二、甲斐虎毛二でしたが、惜しい事に狼色の牝一頭生後六日にして死亡、現存せるは狼色牡一、虎毛牝二です。育成期三十日は人の臭氣を仔狼に移す時は親狼その仔を食すとの伝説を信じ、飼育夫以外には食器を持たせぬ様にしていました。
 
誕生した「新狼犬」については、その性質についての研究もなされました。


狼に似た點
新狼犬種の性能に就いては最初より観察していますが、大要次の如くです。
一、生後一ヵ月目に三尺の金網に上り乗り越し
二、二ヵ月目には三尺の板塀を乗り越し
三、四ヵ月目には四尺高の窓へ飛び上る等、非常に輕快の動作は親狼によく似ており
四、食餌を呑み込む様に食す處も狼似だし
五、吠える事の無いのも狼に似
六、生後四ヵ月迄聲を出さず〇〇の如し
七、恐怖性も狼に似
八、人を噛むのも狼に似
九、活動力、飛び上がる身輕さも狼に似
一〇、骨格も狼に似
一一、鶏の餞別、雄雛を生きているまま一度に二十羽位宛呑む様に食す
一二、夜間狼と同じ遠吠えをする
犬に似た點
一、毛色が虎毛である
二、幾分人に接する様になった事
三、食事の時幾分尾を振る
四、食物が米飯と煮干だけで平氣で成育出來る様になった
五、歸家性が出來、鎖を離れて遠くへ逃げても數時間後犬舎へ歸る事
六、園内の者と他の者の區別が良く分る様になった事
性質
一、赤褐色牡は毛色は狼色であるが、性質は甲斐犬に似て大胆であり人になれ易い。尾も差尾に近い平尾である
二、黑虎毛牝二頭は毛色は甲斐犬に似ているが、恐怖心多く人になれず、手を出すと食い付く。尾は下げ尾で狼に似ている處が多い
三、四ヵ月迄三頭共鳴聲は絶無でありましたが、最近食餌の時一頭は低くワウー、ワウーと二聲位言い、牝二頭は牡より尚低くウウー、ウウーとうなる様に鳴きます。然し三頭共犬の様な聲は絶體に出來ないし、夜間ライオンが啼くと必ず、ウオーウオーと、とても悲しく刺す様な聲で十分位遠吠えをします。


甲府動物園長小林承吉『日滿合作の新狼犬作出記(昭和16年)』より

 
【新狼犬の再評価】
 
甲府動物園のウルフドッグ作出は、長い時間をかけて偶然成功したモノ。二頭の相性が悪ければ、更なる闘争によって甲斐犬やオオカミの命が失われる可能性すらありました。
太宰さんが「山梨県は、もともと甲斐犬の産地として知られているようであるが、街頭で見かける犬の姿は、けっしてそんな純血種のものではない。赤いムク犬が最も多い。採るところなきあさはかな駄犬ばかりである(畜犬談)」と書いているとおり、甲斐犬は貴重な存在だったのです。
その地域の宝を危険に晒してまで遂行すべき実験だったのでしょうか?
せっかく誕生した狼犬たちも、その後の運命は酷いものでした。
 
だんだんと成長してくると、食餌を与えるときは危くて飼育人でもうっかり近よれなかった。そのうちにこんどの戦争となり、空襲が激しくなって、万一の場合に危険だというのでとうとう殺されてしまった。

戸川幸夫『世界で初めての犬狼交配』より
 
ピューマ、チータ等の外飼ってみたいのはシベリヤ狼なぞもその一つである。こ奴の牡とシェパードの牝かなにか飼って遊ばせておいたら面白いことだろう。こんなことを考えていたら急にシベリア狼が欲しくなって動物園にお伺いしたら、此春出産したが全部死亡したので来春迄お待ちとの御宣託で愉しみにしている次第である。戦前、動物園に朝鮮狼と甲斐犬の一代雑種が出来て飼育されてた相だが、戦争中食料不足の折柄食べられて終ったらしい。惜しいことである。

山本康生『私の動物記(昭和31年)』より
 
苦労して生み出したウルフドッグも、結局は殺処分された様ですね。戦況が悪化していく時期と重なり、飼育の継続すら無理だったのでしょう。
さて、これらの犠牲を払った新狼犬の研究成果が甲斐犬保存運動に貢献したのかどうか。
 
小林園長が理事を務めていた甲斐犬保存会では、作出の事実を伝えるのみでウルフドッグの評価はほぼゼロ。せいぜい学術目的として第10回日本犬展に出陳されたり、「日満盟邦の血に結ばれた仔犬」としてニュースの題材になった程度でした。
 
結局は単発の打ち上げ花火。戦時中も官民挙げて護り抜いた甲斐犬の評価向上に、オオカミの威光を借りる必要はなかったのです。

強いて取り上げるならば、巷に伝わっていた「甲斐狼犬幻想」を打ち砕く効果があったかもしれません。甲斐犬はあくまでイヌであり、ウルフドッグとは全く性質が異なるという事実を知らしめたのですから。

甲府動物園の取組みで、「イヌ」と「ウルフドッグ」を線引きすることは可能となりました。
 
犬

上の宣伝写真は、小林園長と新狼犬の三兄妹を撮影したものです。
キャプションは下記の通り。
 

ピンとたつた耳、大きく裂けた口、只の仔犬とはちよつと違つた面構―、それもその筈、これは日本犬を御父さんに、滿洲狼をお母さんに、日滿両國の血に結ばれて二ヶ月前、甲府市立公園で生れた三兄妹です。やがては軍用犬として活躍するとのことです(讀賣ニュースより)


やがては軍用犬として活躍”とか書いてますけど、これはマスコミ向けのリップサービス。
新狼犬は、人間によるコントロールが不可能だったのです。

三頭のうち二頭は凶暴過ぎて訓練不能。温和だった一頭も「何か訓練してみたいと思って色々しましたが、歩く事が犬の様に自由でなく、逃げる氣にばかりなつて結局駄目でした」と小林園長も記しています。隙を見せれば脱走を企てるので、訓練どころではなかったとか。

結局、野生動物を家畜として扱うことが間違っていたのです。

因みに、日本軍も希少なウルフドッグやケンカに強いだけの土佐闘犬はお断りでした。

陸軍歩兵学校は、大正8~10年度の軍用犬研究で土佐闘犬を「軍務不適格」と判定。獰猛な満蒙犬をテストした関東軍も、「親和性ゼロで使い物にならん」との結論に至っております。
 
火力中心の近代戦において軍用適種犬に要求されたのは、まとまった数を長期に亘って継続購入でき(調達面のメリット)、血統書や飼育訓練技術が整備されていて(管理面のメリット)、しかも人間との親和性が高く多様な支援任務に対応可能な(運用面のメリット)、つまりは使役犬種のシェパードやドーベルマンでした。
 
関東軍の満蒙犬研究レポート。オオカミや匪賊に対抗していた満洲の猛犬たちも、「滿洲犬は土地に馴致するも人に對する馴致親和は著しく不良なり。今回の研究中、訓練の中期以降に在りても紐を脱するときは直ちに犬舎に逃皈り、招呼に應ぜざるもの多し(画像の関東軍資料より抜粋)」と散々な評価です。
そして「苦労して獰猛な在来犬を馴化するより、満洲軍用犬協会(MK)の発展による満洲シェパード界の充実をはかるべき」という結論へ至りました。
 

もし甲府動物園がウルフドッグの大量繁殖に成功できたと仮定して、日本軍が採用したでしょうか?おそらく土佐闘犬や満蒙犬と同様、「コントロール不能の駄犬」として失格の烙印を押された筈です。
すでに世界規模で運用されていたシェパードに対し、飼育訓練法も確立されていないウルフドッグが太刀打ちすることは不可能でした。

戦前日本ですら万単位(内地での飼育登録総数は6万頭以上、外地や満洲国を含めるとその倍)で繁殖されていたシェパードと、たった3頭を作出するだけで2年がかりの新狼犬では勝負にすらなりません。
 
「甲斐犬は優れた軍用犬だった」説を唱える者が、「戦地へ送られた甲斐は、新たな主人に服従せず脱走してしまったらしい。主人以外には懐かない忠誠心高い犬である」と自慢するのも同レベルの勘違い。軍犬兵との親和すらとれないとか、コントロール不能の駄犬じゃないですか。
そんな扱いにくい和犬より、従順で作業意欲が高いシェパードやエアデールが重宝されたワケです。
※因みに、甲斐犬が軍用犬に勝ったのは事実。ただし日本犬保存会・帝国軍用犬協会共催の持久走大会における「長距離走後の回復力」に限定したお話です。
 
犬
ちなみに中山競馬場における帝犬と日保のレース結果(ピン號が甲斐犬でした)。ドーベルマンは参加していません。
 
こうして何の成果を得ることもなく、甲府動物園のウルフドッグは忘れ去られました。

【無知と妄想のウルフドッグ論】
 
シェパードをウルフドッグと勘違いした人が、狼犬作出を目指した記録もあります。
「獨逸番羊犬」と呼ばれていた大正時代には「ああ、このドイツ犬は牧羊犬種なのか」と理解もされました。しかし昭和3年の日本シェパード倶楽部設立によって、獨逸番羊犬の日本呼称が「ジャーマン・シェパード・ドッグ」へ統一されたのを機に大混乱が始まります。
昭和初期には「シェパード=狼との交雑犬」と信じ込んでいる人も多かったのでしょう。当時の愛犬雑誌にも「シェパードはウルフドッグである」的なウソ解説が堂々と掲載されていた位ですし。
 
昭和4年のジャーマン・シェパード解説より。「自然的にオオカミと野犬とが交尾したものと人工的に作り出したものゝ二種類があるが、前者をウフルドツグ、後者をセフアードドツグと名稱されたものであるといふ人もあつて、いづれにしても狼と犬との混血には相違ないのである」などとウソばっかり書いてあります。
 
「シェパード=軍用犬」のイメージが定着するのは、満洲事変での活躍が報道されるようになった昭和6年以降のこと。
日本シェパード倶楽部が「シェパードは牧羊犬ですよ」と啓発したところで、日本人の先入観を変えることはできませんでした。

シュテファニッツの著書が邦訳された昭和10年になって、「シェパードとオオカミは無関係」「ジャーマン・シェパード・ドッグの主任務は畜群監視、最重要なのは牧羊作業である」という作出者の言葉を知るワケです。

これで「獨逸ウルフドッグ幻想」も下火になったかと思いきや、実はそうではありませんでした。シュテファニッツから謙虚に学ぶ者と、不勉強ゆえ思考停止した者へ二分されたのです。

この時代、帝国軍用犬協会や日本シェパード犬協会は全国規模で活動中。
しかし、両団体のシェパード啓蒙活動にも拘らず
Q「シェパードは狼犬だよね?」
A「違います」

という不毛な質疑応答は絶えませんでした。
 
「年老いたシェパードはオオカミに戻る」という迷信から愛犬を射殺した人は、日本人道会のバーネット大佐夫人からこっぴどく叱られたとか。
ウルフドッグ騒動に巻き込まれた甲斐犬とシェパードこそ、好い面の皮ですよ。



昭和12年日本公開のハリウッド映画「極北の白狼」より、ウルフドッグを演じるのはシェパードのライトニング號(彼はハリウッド版「フランダースの犬」にも出演していますが、役名はパトラッシュからレオとなり、ラストもハッピーエンドに改悪されました)。

ロクでもない日本ウルフドッグ史の掉尾を飾るため、長崎県でのお笑い事例を載せておきますね。
かなり酷い内容ですが、ご本人は大真面目だった模様。所属先の長崎軍犬倶楽部は帝国軍用犬協会と交流していた筈なのに、情報共有や学びの形跡が見られません。

 

帝國陸軍が軍用犬として指定し、軍部に於ても鋭意その育成に努めて居るシエパード種は、周知の通り獨逸の山岳地帶を以て原産とされ、あの俊鋭な頭腦と輕快勇健な體躯は犬族と狼とを數代前に交配したものである、いやそうでないと種々傳へられもし、一部同好者間では研究されて居るが、今に結論が下さるゝに至らぬやうである。
然るに此種動物の愛好家であり長崎軍用犬倶樂部員である寺門逸蔵氏は是が研究に興味を感じ、同時に二三代以前に狼と交配したるものに非ざれば、狼の血液希薄となり狼の同性能を継承さる勇猛果敢軍犬、警察犬として快適とは言ひ難しとの説あるに鑑み、今回勤務の餘暇をさいて狼を飼育し、シエパードとの交配に成功し、以て問題の解決を期すると共に非常時に際して國家的貢献を爲す事となつた。

而して此の研究は既往の遊戯的のものとは異なり、眞面目に學究的に且つ組織的に飼育管理し研究を爲すべく、狼の購入、犬舎、狼舎の建造、運動場の設置等の為め相當大なる費用を伴ふべきにより、日本學術振興會に申請しその支援を求むべく是が申請に團體の推薦を必要條件とする關係上、長崎軍用犬倶楽部會長推薦の事に決定。
書類に調印歳末に振興會宛て申請書を提出したが、此種の試みは内地では恐らく初めてであらう。

氏は右申請書に添付された理由書に於て理由と目的を次の如く述べて居る。

現今諸國に於て軍用犬、警察犬として使用せるシエパードドツク種は、その祖先を狼なりと云ひ、又は狼と成る種犬との混血種なりとも称せられ、作業訓練の結果は他の犬種の追随を許さざる卓越せる技能を現はし、殊に軍用犬、警察犬として優良な成績を示しつゝある事は己に一般の周知する所。性質怜悧にして鋭敏、勇敢なるは狼の系統なるが故なりと一般に信ぜられて居る。
動物學に於ては古代の狼より野生犬を生じ、野生犬は更に人類に飼育されて家畜犬となりたるものなり。
此説明によれば此種犬族は狼より起源せるものありと解せらるゝも、一説には該犬種は二、三代前に於て狼と交配を繰返したるものに非ざれば、狼の血液希薄となり特長を喪ふにより真のシエパードとは言ひ難しとある。
故に研究の眞目的は果して狼と犬とを交配し、新生體を産出し得るや否や、また狼を馴養し、その子孫に至れば一種の家犬となり他の犬種より層々怜悧にして鋭敏勇敢となるや否や、以上によつて果してシエパードは狼と犬との間に出來たものかどうかとの疑問を解決し、軍犬警察犬として更に優秀なものを作出すべき目的のもとに研究實驗せんとするものである。

 

犬界消息『狼とシエパードの交配(昭和10年)』より
 
前提が間違っていると、ここまでの大惨事へ発展してしまうのですね。無駄な事業へ資金を投じる前に、周囲がストップをかけてやるべきでしょう。

「狼の血液希薄となり特長を喪ふにより真のシエパードとは言ひ難しとある」「果してシエパードは狼と犬との間に出來たものかどうかとの疑問を解決し」などと素っ頓狂な主張を展開されていますが、寺門さんは「ジャーマン・シェパード・ドッグ(直訳すると「ドイツの羊飼いの犬」)」という名称の意味すら知らなかったのでしょうか?名前どおりの牧羊犬なんですけど。

牧羊犬とオオカミの区別もできない人がウルフドッグ作出に取り組んでいたのだから、悲劇というか喜劇というか。

繰り返しますが、日本のウルフドッグ史はお笑いネタとして扱うべきシロモノなのです。残念なことに。

(次回に続く)