鋭敏な犬の嗅覺によつて見出された件の黑い怪物は、まだその場所を離れやうとはせぬので、明瞭と正體を捕ふるに由がない。充分なる射程圏内にも達し得ぬその上に、小松林の中には一面に苔生した大小幾つの岩石が重畳してゐるといふ地の不利がある。
顔を上向てはしきりに吠えつゞくる犬を横に見て、寄らば撃たんずと身構へつゝ、岩石の間を歩一歩ヂリ〃と寄るほどに、彼我の距離約十五六間に達した。
と、突如茶褐色の獸一頭が落葉を蹴立つて跳び出した。一發、又一發、その瞬間に彈丸が飛ぶ。
一の矢は失中、二の矢は慥(たし)かに手應へありと見たけれども、敵もさる者何等の怯む様子もなく、疾風の如く駆け抜けて、彼方の山に馳せ登るとみるや、忽ちにして山奥深くその影は消えた。息も吐かせぬ一瞬の出來事は、唯わが胸に失望の足跡をとゞめて慌だしく過ぎたのである。
獲物の巨大であつた丈に、少からず忘然自失の感を味ひつゝ、彼の勒犬(ヌクテイ・朝鮮狼)の踊り出た岩陰に行つてみると、其處には雉子の白骨や、獐(ノロジカ)の頭の未だ生々しい骨や皮が夥しく散乱して、四邊の白雪は鮮血に染み、見るからに惨らしきその有様は弱肉強食の凄惨な事實を目のあたりに暴露してゐる。地勢の峻嶮なるに辟易して獲物の後を追ふ氣も出ず、此處を見限つて青石頭の方面に路を進めた。


中村生『癸亥劈頭の試練(大正12年)』より

赤頭巾
 
(前回からの続き)
こうしてニホンオオカミとエゾオオカミは姿を消しました。日本列島からオオカミを駆逐した日本人は、朝鮮半島でオオカミを殺し続けます。

今回は、統治下のオオカミ史を取り上げましょう。

【ヌクテと日本人】

現代の日本人は、「日本=日本列島」とイメージするのが当たり前。いまさら「大東亜ナントカ圏」とか言い出す人はいないでしょう。
中・近世の日本人も、蝦夷地や琉球を除いて「日本=日本列島」と考えていた筈です。
しかし、近代の日本人は違いました。あの時代、南樺太や千島列島や朝鮮半島や台湾、そして南洋の島々も日本領だったのです。ついでに傀儡国家の満州(一応は独立国)も誕生し、「日本のエリア」の概念はアヤフヤなものとなっていました。

満州国を除くそれらの地域は、「内地」と対比して「外地」と呼ばれています(南樺太は、後に内地扱いへ)。

外地に棲息する生き物たちも、当時は「広義の日本の動物」という捉え方をする向きがありました。オオカミも同じで、チョウセンオオカミやドールも「日本産の狼」だと考える人がいたのです。
もちろん朝鮮半島でも「豺’(ドール)」と「狼(オオカミ)」は区別されていましたが、当ブログではこれらを纏めて「ヌクテ」と呼称しますね(「オオカミとヤマイヌ論」の混乱を持ち込みたくないので)。
 

この時代、「近代日本犬界」のエリアは北東アジア一帯へ拡大し、満州国を含めた犬界ネットワークが構築されます。内地から大陸へ向けて洋犬や和犬が持ち出され 、逆に大陸の犬が内地へ移入されるようになりました。
明治・大正時代には、猟果を狙って朝鮮在来犬と日本産猪猟犬が、そして容姿の向上を目的としてチャウチャウと和犬が盛んに交配されます。唐犬と和犬の交雑は、ナニも弥生時代に限ったことではありません。

同じ時代、結構な数の大陸産オオカミが日本へ輸入されます。動物園へ行けばオオカミと会えるようになったのです。
日本産オオカミが消滅したことへの反省や罪悪感も、「同等の代替品」のおかげで大いに薄まったことでしょう。

逆に、内地から外地へ「移入」されたのが、オオカミ退治のノウハウ。高性能の猟銃による、オオカミへの対抗手段です。
 
大陸への権益拡大を画策した近代日本。やがて、大陸のオオカミとの衝突が始まります。
朝鮮半島や大陸へ渡った日本人は、現地のオオカミと遭遇。害獣駆除として対峙することとなりました。
中には、日本軍がオオカミと交戦した記録もあります。
明治38年、野津道貫率いる第四軍がオオカミ狩りを決行。日本兵がオオカミに襲撃されたことへの対処とされているものの、実際は戦地でのレクリエーションに近いイベントでした。
野津大将は狩猟が趣味であり、「オオカミ退治」は配下部隊を動員する公私混同の名目に過ぎなかったのでしょう。
歩兵第39連隊を投入して複数回にわたる巻狩りを実施したものの、オオカミは兵士たちの隙をついて包囲を突破。結局、得られた猟果は鹿10頭ばかりだったとか。


帝國ノ犬達-矢野動物園
明治時代、矢野巡回動物園で飼育されていたオオカミ。明治40年にベルグマン商会から購入したライオンなども一緒に写っていますから、「檻から脱走して射殺された」と記録にある朝鮮半島産のヌクテと思われます。
 

大陸におけるオオカミ駆除について証言を遺したのが、後に日本犬保存運動の指導者となる高久兵四郎(日本犬保存会とはケンカしていましたが)。
かつて満州で牧羊事業を営んでいた高久氏は、オオカミ撃退に滿蒙犬を使用していました。
 
私も今では旅行は最も苦痛とする所で、最早獸獵をやる勇氣も無いが、或る時代には狼獵には相當経験を積んだものである。
私が小兒の時代(※明治初期)に或る老獵師が、猪より狐、狐より熊、熊より狼と云ふ順序に、犬の仕事が困難になるのだと、談じたのを聞いたが、犬の苦手は狼で、自分も狼に犬を仕掛けて見たが、中々三間(数メートル)以上は肉迫せんものである。
然して、餘程の良犬でないと咬み付かんので、此の狼に掛けられる犬の相は、クマ(※高久さんの愛犬。ちなみに、この文は彼の愛犬自慢です)の相の犬より外には無いのである。
滿洲事變で承知であらうと思ふが、蒙古に南王子廟と云ふラマ寺がある。此寺に飼つて居た牝の蒙古グレーハウンドが、私が其邊を調査した時代に、狼獵に掛けての名犬であつた。此犬の相がクマと同一である。
クマ號が南王子廟の牝犬と同じく、狼獵の名犬とすれば、熊や猪ならお茶の子サイ〃であると保證し得るので、先づ獵用番用として理想的の名犬である事を、私は高言して憚らないのである。
 
高久兵四郎『日本犬に就て(昭和9年)』より
 
オオカミと対峙した高久氏は、犬の限界も理解していました。
彼の牧場にいた番犬はオオカミに怯えて役に立たず、現地の獰猛な満蒙犬でなければ羊を守る事ができなかったのです。なので「勇猛な日本犬なら滿洲の狼を蹴散らせる」などと放言する日本犬愛好家に対しては、「日本の裏山で一頭の熊を狩った程度のハンターが大口を叩くな」と苦言を呈していました。
 
そんなアレコレを知ってか知らずか、昭和15年に蒙彊政府包頭予公署巴盟畜産課が「牧場を襲撃する狼対策」として日本犬数頭の購買を計画。しかも、高久兵四郎率いる日本犬協会に調達を打診しております。
ちなみに、日本犬保存会も同じような打診を受けていました。同協会にはオオカミ研究家の平岩米吉が在籍していたものの、彼に満州国での狩猟や牧畜の経験はありません。
どういう結末になったのやら。
 
日本犬保存會關西總支部では、最近まで禁獵區となつてゐた兵庫縣多可郡杉原谷獵區で十二月四日未明より夕刻迄同支部主催の鹿狩大巻狩を打つた。笹ヶ峰、大井戸山、三國岳、千ヶ峰等が急角度に聳え立つてゐる大密林地帯で、これに使用された犬は京都里田氏のピン號その他で、銃士八名、これに會員三十名が應援、勢子を加へ五十名で牡牝とりまぜ六頭の鹿を屠つた。

今回の巻狩は野獸に對する日本犬の肉薄力と戰闘力を再檢討するのが目的であつたが、さらにその眞意は蒙古方面で多數の馬を放牧して飼育してゐるが、仔馬の半數は獰猛な狼のために噛み殺されるので、あらゆる手段を講じたが結局精悍そのものゝやうな純日本犬をして仔馬を守らせるほかはないといふことに決したので、この巻狩で最後的な性能檢査を行つたのだつた。

日本犬を蒙古へ送る下交渉をうけた日本犬保存會では近く二、三頭の優秀日本犬を試驗的に蒙古へ遣り、實地の成績を見たうへ來春約三十頭を彼地へおくつて仔馬保護の重要任務につかせる豫定である。

今回の巻狩で野獸に對する日本犬の聲價はいよいよ高められ、日本犬の蒙古進出の好機はこゝにつくられたのである。

 

『日保關西支部主催杉原谷獵區の大巻狩』より

 

昭和初期の朝鮮出猟記などを読みますと、「ヌクテの遠吠えを聞きながら就寝した」などという記述を目にします。日本で失われたものが、当時の満州や朝鮮半島では残されていたのでしょう。

しかしそれはノスタルジックな風景や自然との触れ合いなどではなく、地域住民への深刻な脅威でした。


【朝鮮半島の狼害】

トラやオオカミが棲息していた朝鮮半島では、日本人が忘れ去った「オオカミの脅威」に直面していました。

 
明治37年から厳しい猟銃所持制限がかけられていた朝鮮半島で、「統治者側の責任」として日本人が猛獣駆除の先鋒となったのも、当然の流れだったのです(それが別の恨みを買うことになったのですが)。
いくら「狼は人を襲わない臆病な動物である」などと日本人が主張しようと、狼が存在した朝鮮半島でそのような安全神話は通用しません。
襲撃事例の数々と、軍隊やハンターにすがるしかなかった狼駆除の実情をどうぞ。
 
▲七月十五日午後十二時頃、龜城郡蘆洞面王月龍洞崔學鳳方にては、自宅構内飼養中の仔豚二頭狼群の爲めに咬殺さる。
▲七月二十日正午頃、寧邊郡鳳山面陽地洞李永宗姪、李炳華(五つ)、金澤龍三男、金應軒(三つ)の兩名は、應軒の兄應九(八つ)と共に洞内水車小屋附近に遊戯中、一頭の豺現はれ炳華の横腹に咬み付き、更に轉じて應軒に咬み付きて、同人を拉去したるを以て、兄の應九は驚きつゝ大聲を發して追跡したる爲め、現場を去る約六十間の地點に應軒を放棄逃走したり。二名共重傷なるを以て直ちに寧邊邑内崔醫院に入院加療中なるも、生命危篤なり。
▲七月二十四日午前十一時頃、碧潼市城南面城下洞、安鳳化所有犢牛一頭、附近の山谷に放牧中、狼群の爲め咬殺さる。
▲七月二十五日午後四時頃、碧潼郡城南面城下洞、朴文桂所有犢牛一頭、附近の山麓に放牧中狼群に咬殺さる。
▲又大邱附近達城郡内金圃方面に頻りに豺現はれ、去る九月七日も玄風龍方面に於いて生後二週間の幼兒を掻さらへられたる事あり。此れにて既に同月に入り四名の被害者を出したるより、大邱憲兵分隊に於て棄て置かれずとて大々的狩立てをなすことに決定せり。其方法に就き研究中なるが、大體に於て金圃を中心に一隊は玄風より山麓を縫ふて漸次頂上に達する計劃なりと。
 
『朝鮮の猛獸被害(大正6年)』より
 
夜行性動物のイメージと違い、朝鮮半島の狼は白昼堂々と行動し、子供や家畜を襲っていたことが分かります。昭和へ移行しても、その被害は続きました。
 
32年を恐怖せしめて横行するテロは人間世界の獨占物かと思へば、朝鮮にはこれを凌ぐすばらしい山のギヤングの跳梁が澤山ゐる。
朝鮮總督府の調査に依れば、昭和六年中の猛獸被害は虎、豹、熊、狼、ヌクテ等に咬殺された人間が二十二人、傷害されたゞけで危く命を拾つたのが五十七人、牛馬など家畜の被害になると夥しい數字を示し、咬殺二千四十頭、傷害六百六十九頭に達してゐる。而して被害の最も多いところは何んと云うても北鮮一帶の密林が第一位で、南鮮へ行くに從つて被害の程度が低くなつてゐるのは文化の尺度を示すものである。
尚この猛獸狩りに出動した警察官、部落民は一萬二千八百三十五人の多きに達した事となつてゐる。
 
『朝鮮の猛獸被害』より

 

京義線長湍驛を距ること自動車三時間程、坡州郡の高浪浦から更に一里の山奥に、元憲兵を勤めた金と云ふ知人が住んで居る。
此の地方は漣川郡に連る山地で、明治四十一年の暴徒、近くは萬歳騒ぎなどもあり、餘り人氣の良くない處であるのみならず、野獸の被害年々其率を高め、殊に豺(ヌクテ)の出没するもの多き處から、近來は日が暮ると各戸皆戸を鎖(とざ)して、外出せぬ有様であるが、今年一月八日、金氏から雉の大群を見受けたから、出獵あつてはどうかとの消息に接した。
此の耳よりの情報を得て何でう猶豫すべき、早速四號の散彈百發とA號十發とを用意し、一泊獵のプランを立てて、京城驛午後四時五十分發の平壌行列車に乗込む。
七時半長湍に下車、驛前の一旅館に投宿すると、隣房には京城の獵士と稱する二人連れの客あり。怪しい酌婦を招いて飲む歌ふ踊るの乱痴戯騒ぎ、爲めに更閑くるまで目も合はず、翌朝九時半發高浪浦行の乗合自動車に乗込めば、昨夜の乱痴戯獵士も亦同車したけれども、零時半高浪浦に着くまで、一語も交さず。
此の町は臨津江の流れに沿ふて山を負ひ、物資集散の要區ではあるが、時恰も厳冬に属し、見渡す限り氷雪を以て掩はる。
氷に滑る石高道を辿つて金氏の宅に着くと、氏は吾輩を出迎へのため高浪浦へ行きたりとて在らず。途中何處ぞで行違ひになつたものだらうが、それにしても氏が特に一里もある處を出迎へて呉れるとは、通り一編の儀禮のみではなからうと、家人に就いて容子を問へば、此の部落の驚くべき一椿事突發して、爲めに吾輩の來着を待つこと急に、金氏は即ち隣保の希望を代表して、吾輩を出迎へたのであつた。
椿事の仔細は先づ斯うである。
部落の百姓崔某と云ふ者、夫婦の仲に設けた今年七歳の男の子の成長を楽しみに、夫は日々小山一つ越した向ふの畑へ出ては農業に従ひ、妻は賃仕事などして共稼ぎに憂き身をやつし、正午頃になると父の弁當を、畑まで運ぶのがこの少年の役目であつた。
ト、昨日に限つて毎もの時刻が過ぎても我子の姿見えぬに、何をまた道草喰つて居ることかと、呟きながら鍬の手を休めて、間の山路を子の名呼びつゝ歸つて來ると、只(と)ある道端に生々しい血汐の滴りを見出すと共に、某の胸は異様に轟いた。そして半ば無意識に其滴りを追ふて、傍への松林中へと分け入つたのであるが、やがて何物にか咬みちぎられたやうな、子供の隻脚が瞳に映ずると同時に、其穿ける沓に依つて、其れが正しく我子の隻脚であることを知つた某は、殆ど悶絶せんばかりに打驚いた。
そして其瞬間にそれが豺の仕業である事を頷くや、己れや我子の敵(かたき)、やわか其まゝ逃がさんやと、半狂乱となつて其邊を接(さが)し求めたけれども、松吹く嵐の外には何の答ふるものもなく、最早此の上は我獨りの力には適はじと、心ならずも部落へ取つて還して、斯く〃と触れ廻つた處から忽ち村中の騒ぎとなり、茲に豺狩に就いての評定が開かれた。
丁度其處へ吾輩出獵の沙汰が金氏の許へ届いたので、是れぞ天の與へ、中村氏に頼んで撃ち止むるこそよけれと、斯う云ふ事に相談一決したのであつた。
一伍一什の顛末を聴いて居る處へ、行き違ひになつた金氏も歸つて來て、村の爲めにたつて豺狩の懇望、よし其儀ならばと身仕度に及べば、村民百數十名は棍棒に弓に雁股に鎌に、思ひ〃の得物を携へて勢子の任に當り、隊伍整々村を出發したのは二時半であつた。
獵神冀(こいねがは)くば、我A號をして役立たしめよと心に念じつつ、敵の潜めると見る地點を包囲させ、吾輩は一方から犬を先頭にして進んだ。犬が盛んに雉を追ひ立てるけれども、殘念ながら撃つわけに行かない。
ジツと怺へて一段の注意を拂ひつゝ、尚ほも松林の間を前進すると、犬が俄かに怯えたやうな容子で前進を躊躇すると同時に、約三十間の距離に於て大豺の叢中を横ぎるのを見出した。
御参なれとばかり續けざまに切つて放せば、二の矢はたしかに手答へあつたれど、ゲームは其まゝ逸してしまつた。
一同は銃聲を聴いて駈付けた。叢中を點検すると渠(かれ)の傷口から流れたと覺しい血汐は點々渠の逃げ去つた方面を教ゆるのであるが、惜しい哉暮色蒼然として迫り、遂に其跡を辿るに便宜を失つたので、望みを明日に繋(か)けて一旦引揚ぐ。
翌日も亦好天氣に恵まれたので、村民は前日にも増す多數を以て山に入り、得ばや逃さじと取詰めた。ト、十一時頃に及んで、前方遙かに進んだ金氏の一隊から、突如とし喊聲が起つたかと思ふと、怒聲と罵聲と得物を打合ふ音と消魂(けたたま)しく聞ゆるに、勢ひを得て駈け付ければ、果して其處の岩間に於て大豺の、前脚を撃ち折られて呻き居るを發見し、難なく棍棒で撲殺した處だといふ。
少年の怨みは是れで報いられた。崔夫婦涙を流して喜んだ。
此の途端に一頭の獐(ノロジカ)が、後方二十間程の處を掠めて走り去るのを見出し、之れを唯一發に仕止めたので、一同手を拍つて喜び、二頭の得物と少年の遺物とを拾収して村へ引揚げ、翌日は此の豺を贄として、可憐な少年の葬式が営まれた。吾輩はおかげで目的の雉は一羽も獲なかつたけれども、金氏以下村の青年三十餘名に、高浪浦まで送られて長湍行の自動車に乗込む時は、宛(さなが)らの凱旋將軍であつた。

 

ソウル在住中村生『少年の仇を報ゆ(昭和2年)』より
 
朝鮮京幾道楊平郡内に發生した最近の豺の被害は、四月十九日龍門面辿壽里の女兒一名咬殺されて以來、葛山面徳半里において同じく女兒一名、江下面金壽里で女兒一名、同面雲泌里で男兒一名咬殺され、被害地附近住民は多大の衝動を受け不安に襲はれて居り、楊平署としてはその都度附近部落民と特に豺狩の名手獵師七名と協力し、驅除に努めて來たが、迅速で狡猾な豺は仲々捕獲出來ず、勞多くして効は少なく殊に最近農繁期に入り獵師の生活費等の關係上、面長及區長と協議し被害地及其の附近部落の資産家から各々百圓を寄附せしめ、獵師の生活を保證し、豺の捕獲一頭につき五十圓の懸賞を附し、更に長日間驅除に從事し捕獲し得ない場合も相當の日當を支給する等の規定を設け、去る十三日から三ヶ所に豚餌を仕掛けて今日に至つたが、未だに一頭も捕獲し得ない状態で、附近住民は尚不安に襲はれてゐる。最近夜間楊平警察署所在地に豺が出没するとの噂があり、勤務員は拳銃を持つて警戒してゐる。
 
『朝鮮の豺退治(昭和7年)』


害獣への恐怖と敵愾心の中、「オオカミと地域社会の共存」などという能天気思考が介在する余地はありません。その恐怖は、日本人入植者がシェパードを持ち込んだ時にも露わになりました。
オオカミを連想させる外貌から、シェパードをヌクテと勘違いする人が続出したのです。

赤頭巾

オオカミが棲息していた当時の朝鮮半島では、犬と狼の区別くらいできていただろう。……などと思っていたらそうでもないんですよね。
帝国軍用犬協会や日本シェパード犬協会のソウル支部・地域分会が設立され、シェパード飼育が普及するまでは混乱が見られました。

 

朝鮮のS犬發達は誠に急テンポで目覺しいものがあつた事は周知の事實で、此の發達を示したのには左記諸氏の功績や大なのである、といふも過言ではない。
道行く人をヌクテ、ヌクテ(朝鮮狼)と驚したのは小十年も前の事。ホオーこれはSV犬(※獨逸シェパード犬協會登録犬のこと)だ。SVの血統書のある犬が來たと、物珍し氣に愛犬家がゾロゾロ押しかけて血統書と犬を眺め乍 ら、神々しい感にうたれ随喜の涙を流した(判りもしないくせに血統書と謂へば譯もなく有難がつて神棚に祭つた〇狂ひが居た)時代は過ぎた。
各地各所にS犬が充滿して來た。次々に優秀犬が輸入されてSV血統書付と言ふだけでは滿足しなくなつた。これ當然の成行ではある。


平壌在住 日本シェパード犬協會ソウル支部 瑞氣山人『朝鮮のS犬人(昭和12年)』より

 

オオカミの恐怖が消え去った日本列島。
オオカミの恐怖が現存していた朝鮮半島。
その意識の差は、想像以上に大きなものだったのでしょう。
こんなことを書くと「やれやれ、西洋人と違って東洋人はコレだから」とか言い出す人(なぜか日本人)がいるんですけど、当時のオーストラリアなんかでも似たような状況でした。

 

イギリスのOur Dog誌にCanis(ペンネーム)氏がイギリスに於けるシエパード犬の衰微に就いて論じてゐる。曰く、「イギリスのシエパード犬はたしかに登録數や天覧會の出陳等に於ては衰へて來たが、犬界誌のニユースを見ても最も豊富である點、英國に於てシエパード犬のみの團體が二十以上もあり、各々活溌な活動をしてゐる點等は意を強くするに足る。
では何故數の上からは減少して來たのであらうか。これには第一にシエパードをAlsatian Wolfdog(※「アルザス地方の狼犬」の意味)と呼んだ事が遠い原因を爲してゐるのである。
一九一九年、この名が正式のものとなつてから最近廃止する迄、約二十年間と云ふものシエパードと狼は縁の近いもので、従つて凶暴なものであるとの印象を一般人に與へて來た。

アメリカでは、ずつと以前からDeutsche Schaterhundを正しく譯してGerman Shepherd Dog(ドイツの羊飼いの犬)と呼んで居り、フランスではChienloupと云ふよりむしろBerger Allemagneと呼んでゐる。
又スペインではPerro de Pastor Allemanと呼び、いづれもシエパード犬と數百年間の牧羊作業を結びつけた名前である。
これをイギリスでWolfdog(狼犬)と呼んだ事は、確かにこの犬種に不当の誤解をもたらした。
又シエパード犬流行時の売らん哉蕃殖が神経質の退化的不良犬を大量生産し、やたら喰ひつく犬との悪印象を素人に與へた事も衰微の原因を爲してゐる。
も一つは官憲の不當の圧迫である。オーストラリアでシエパードが殆んど禁止的迫害を受けてゐる事は有名な事實であるが、シエパード犬に對して斯かる方針をとつてゐる國はオーストラリアにのみ止まらない。
(※オーストラリアの場合、オオカミに似た容姿を牧羊家が嫌ってシェパード迫害に繋がりました。それでケルピーが主力牧羊犬種となった訳です)
カナダに於てさへもWinnipegの市會は他犬種が一年二ドルの畜犬税であるのに、シエパード犬のみを一〇ドルにまで引上げた。Flin Flonでは年二〇ドルに迄引上げた。Yorktonに於ては二ドルから三五ドルまで上げようとしてゐる。アメリカに於てすらPennsylvaniaの立法府は二五ドルに引上げようとしてシエパード犬蕃殖者の反對に遭ひ、漸くその難を免れた。
其他イギリス國内に於てもシエパード犬に對する差別待遇(特別に高い課税を含めて)は至る所に行はれてゐる。この爲めに一九三五年 The National Alsatian Defence Leage(シエパード犬防衛聯盟)が創立され、種々の迫害からこの犬種を救ひつゝある。併しこれには一般人の本犬種に對する信頼が最も必要である」と。
英國に於けるシエパード犬が何故少なくなりつゝあるかに就いて書いたCanisの記事を次週のOur dog誌に於てWill Hallyが反駁してゐる。
その中で、何故シエパード犬を German Shepherd Dogと呼ばなかつたかは、當時の反獨的空氣と共に、イギリスではShepherd Dog(牧羊犬)と云へば殆んどコリーに限られて居り、一般人がこの名を外國種に與へたくなかつたからである。
然るにアメリカには土着の牧羊犬は居なかつた。それにドイツから移民させられたアメリカ人がこの犬種をひろめたばかりでなく、この英國風のGerman Shepherd Dogを一般化したのであつた。併し欧州大戰が勃發し、アメリカが聯合國側に加盟すると共にGermanの肩書は除かれて了つた。
そして筆者はCanisがたゞ登録數や展覧會の出陳數の減少を以て、シエパード犬が衰微(decline)して來た等の大げさなる言葉を使ふ事を非難してゐる。
Canis氏のシエパード犬衰微の原因が間違つた名称から來たとする説に對しては、Geo. Horowitzも反對してゐる。
氏に依れば「フランスがシエパード犬をChien de Berger d’Alsace(現在はChien de Berger Allemandと呼ばれてゐる)と呼んでゐた頃、即ち本犬種が初めてイギリスで人氣浚ひ始めた時ですら、KC(英國ケンネルクラブ)では Alsatian Wolfdogとして登録してゐた。そしてシエパード犬が流行の最尖端に立つて總ゆる犬よりも登録數に於て優つてゐた頃ですらこの「恐ろしき」名前が通用してゐたのである。
従つてCanisが述べた所のシエパード犬の衰微は決して昔の名前が惡かつた爲めではない。若しこの犬種が衰へたとするならば、その原因はこの犬種自身にあるのでなく、その資質にあるのである。
この原因は二三の権威者に依れば、主として審査の不統一と審査員の選択に於いて餘りに統一せられてゐる事にある。同一の審査員が各所の展覧會に於て審査を担當し乍ら區々な評價を與へてゐるのである。
これでは出陳者は如何なるシエパード犬を作出すべきかに迷つて了ふ。若し衰微の徴ありとするならばこれが最大の原因であらう」と。
Will Hallyの反駁論に對して、又Canis氏が再度の反駁を發表してゐる。
Canis氏はHally氏の駁論が見當外れである事を指摘し「declineと云ふ語を使つた事を非難してゐるが、シエパード犬がdeclineしつゝ あると云ふ事は今迄も犬界誌上にしば〃散見する所で、何もHally氏が云ふ様にこの語は余の専賣でもなければ又誇張でもない。又余はシエパード犬衰微の原因を何もWolfdogの言葉が惡かつた事にのみ歸してゐるのでなく、三つの原因を擧げてゐるのである。
それに對して如何にもその一つのみを余が主張してゐる様に論じてあるが、之は如何にも理解し難い事である。云々」と。いさゝか泥試合の観なきにしも非ずだが、理論闘争の盛な事はうらやましい次第である。


『海外落葉籠(昭和15年)』より

 
ヨーロッパの好事家がオオカミと似た容姿のシェパードを求める一方で、オーストラリアではオオカミと似た容姿ゆえにシェパードが迫害されたとは。その基準がオオカミに置かれていたことは興味深いですね。
 
ワレワレ人類はどれだけオオカミ好きで、どれだけオオカミ嫌いなのでしょうか。

【朝鮮総督府とオオカミ】

朝鮮半島の狼史も、日本産狼と同じく判然としません。ただ、害獣駆除方面で詳細な記録が残されたのは幸い(?)でした。
大正12年、朝鮮総督府の史料からどうぞ。
 


狼


朝鮮の害獸驅除
朝鮮總督府 吉田雄次郎

朝鮮狩獵規則第六條に依り大正十二年中害獸驅除に從事したる回數は五千五百二十一度、其の延日數六千九百五十八日にして捕獲したる害獸は虎十二頭、豹九十一頭、熊百九十三頭、狼及ヌクテー二百七十九頭、猪千四百八十九頭、獐三千二百八十三頭、鹿百十一頭、狐六頭なり。
而して之が驅除に從事したる人員は、警察官吏二千五十六名、其の他の官吏二百八十八名、人民二萬六千三十名にして各道驅除状況は左の如し。

獸害驅除道別
▲京幾道▲豹五、狼及ヌクテー四○、猪七七、獐一○四 計二二六頭
▲忠清南道▲狼及ヌクテー二  計二頭
▲忠清北道▲狼及ヌクテー四、猪ニ 計六頭
▲全羅北道▲豹三、猪三八、獐一三六、鹿四 計一八一頭
▲全羅南道▲豹二、狼及ヌクテー三、猪ニ四、獐三一 計六○頭
▲慶尚北道▲熊二、狼及ヌクテー四一、猪四ニ、獐四二、狐六 計一三三頭
▲慶尚南道▲狼及ヌクテー六、猪一○、獐一四 計三○頭
▲黄海道▲豹一ニ、熊七、狼及ヌクテー七、猪一五八、獐二○二 計三九六頭
▲平安南道▲虎一、豹五、熊一四、狼及ヌクテー四二、猪一ニ九、獐四八八、鹿四 計六八三頭
▲平安北道▲豹一三、熊二九、狼及ヌクテー二八、猪六五、獐六六 計二○一頭
▲江原道▲豹一六、熊二三、狼及ヌクテー三三、猪四○五、獐九四五 計一四二三頭
▲咸鏡南道▲虎一、豹一ニ、熊八四、狼及ヌクテー五一、猪三八六、獐八六三、鹿四七 計一四四四頭
▲咸鏡北道▲虎一○、豹二三、熊三四、狼及ヌクテー一ニ、猪一五二、獐三九二、鹿五六 計六七九頭

右の内、捕獲方法を細別すれば左表の通りである。
獸名 虎 銃器八(頭) 罠二 爆薬一 撲殺其他一 計十二
獸名 豹 銃器五○(頭) 罠二二 撲殺其他一九 計九一
獸名 熊 銃器一五二(頭) 罠一五 撲殺其他二六 計一九三
獸名 狼 銃器九一(頭) 罠一一 撲殺其他一七六 計二七九
(以下略)

 
朝鮮半島でのオオカミ駆除は、別にスキ好んで行われた訳ではありません。虎やヌクテによる家畜への被害が頻発していたことから、当局が害獣駆除に踏み切ったのです。
明治40年の「銃砲及火薬類取締規則」によって朝鮮半島における虎やオオカミ狩りが停滞した結果、家畜への被害は激増。
これが「日本人が狼を放っているらしい」という妙な噂の原因となった事もありました。

総督府にとっても、オオカミ問題が抗日運動へ飛び火するのは避けたかったことでしょう。

明治44年4月制定の「朝鮮狩獵規則」は、大正元年、大正4年、大正14年と改正が重ねられたものの、オオカミは駆除対象であり続けました。
内地の狩猟法や狩猟規則が、野ネズミの天敵である肉食獣保護へ動いたのとは対照的です。

ヌクテを狩猟獣として明文化したのが大正14年度の改正「總督府令第84號」でした。これは9月15日の朝鮮全道猟期統一への移行をもって発布されます。
それまでの狩猟規則では「狩獵鳥24種のみ明記で獸類無制限」であったのを、狩猟獣類としてイタチ、イノシシ、ヒョウ、トラ、リス、オオカミ、オスジカ、カモシカ、カワウソ、タヌキ、ウサギ、ノロ、マミ、クマ、ヤマネコ、テン(クロテンを除く)、キツネ、ヒグマの18種が規定されました。これ以外の獣類は禁猟とし、特に益鳥・珍鳥・希少獣として鴛鴦、冠筑紫鴨、黒鶫、大鹿、麝香鹿、黒貂は保護対象となります。
乱獲防止や産卵期の保護に鑑み、それまでバラバラだった朝鮮全道の狩猟期間は9月15日~4月30日までに統一。
11月1日より2月末日までは獣類の捕獲も禁止となりますが、特殊の獣(トラ、ヒョウ、クマ、ヒグマ、ヤマネコ、オオカミ、ヌクテ、イノシシ、ノロジカ)は狩猟を許可されていました。

結局のところ、日本人は「オオカミ保護」など考えもしなかったのです(決してイヌ科動物を軽んじていた訳ではなく、朝鮮総督府は珍島犬の保護活動に尽力しているんですけどね)。
こうしてトラやヌクテが大々的に駆逐され、貴重な野生動物は激減していきました。

日本の統治から解放された朝鮮半島では、続いて朝鮮戦争が勃発。国土の荒廃と復興の中で、ただでさえ減少していたヌクテたちは絶滅の淵へと追いやられました。
モノゴトを単純化したがる向きもありますが、動物の絶滅や減少には様々な要因が重なっているのです。


赤頭巾
さすがに丸呑みは無理だろうと。

その辺の経緯を無視して、日韓のオオカミ論争で極論を叫ぶ人がいるのは仕方ないのでしょう。彼らは相手を罵るネタが欲しいだけで、オオカミのことなんてどうでもよいのです。
ほんとうに近代日本のオオカミ史を大事に思うのであれば、その辺の記録までキッチリ調べる筈。
 

イヌの歴史を調べて驚いたのが、「戦後に発行された文献のみ」を参考として戦前の犬を語る人の多さでした。

戦前の史料を調べるのが面倒なので、「犬に関するアレやコレやは戦後に進駐軍が持ち込んだ」と誤魔化す。そんなシロモノを読まされた側も「ああ、戦前の記録は調べなくていいのか」と思考停止する悪循環が繰り返されてきました。

 
……世のニホンオオカミ研究家も同レベルではないのですか?「自説の論拠が戦後に発行されたオオカミ本だけ」という人も散見されますし。
戦前のオオカミに関する研究も、まず戦前の史料にあたるのが筋です。明治時代と21世紀を直結されても困るので、明治から現代へ至る時系列・地域別での情報整理や、オオカミが暮らしていた近代日本の実情(農林業・狩猟・畜産・防疫の分野含む)に関する知識も必要です。
朝鮮半島エリアに関するオオカミ史も同じこと。


韓「日帝がトラやヌクテを絶滅に追いやったのだ!責任とれ!」
日「自分たちが滅ぼしたんだろう!何でも日本のせいにするな!」
という不毛な論争は、21世紀の現在も続いています。
実は近代犬界史でも同じ現象が起きていまして、
韓「日帝が朝鮮在来犬を絶滅に追いやったのだ!責任とれ!」
日「お前らが食っちまったんだろう」

みたいな小学生レベルの応酬が続いております。
 
史料考証の努力もしない癖に、お手軽検索でヒットした薄っぺらな噂話を掲げて首を突っ込むから速攻でネタが尽き、品性を疑うようなヘイトを撒き散らすまでがお約束。

「日本統治下の朝鮮半島ではこのような畜犬団体が活動していた」
「朝鮮総督府の畜犬行政はコレコレこうであった」
「害獣対策はこのように行われた」
ということすら知らない、調べようともしない。

朝鮮半島のイヌやオオカミを大声で論じているのは、斯様に無知かつ無恥な人々なのです。近代史から失われた記録の多さを知っていれば、もう少し慎重になる筈なのですが。
彼らへの反論・反証に動かない愛犬家やオオカミ研究家の態度も、同じく信用できません。


隣り合って棲息していたニホンオオカミとヌクテを比較し、そのルーツを探ること。
関連する一次資料を集めて、それらを共通の土台として議論すること。

日韓オオカミ論争のあるべき姿は、ネット上での罵り合いではありません。雑音の排除によって、両国間の研究が進むことを祈念いたします。
期待はしていませんけど。


(次回へ續く)