「犬」
小ヲ狗ト云、大ヲ犬トス。
春秋考異ニ曰、狗ハ三月ニシテ生ル也、陽ハ三ニ生ス故ニ狗各高キト。
三尺格物論ニ曰、犬ハ家畜也。以吠テ守犬ハ懸蹄(けんてい)ノ者、龐(ほう)ハ多毛ノ者、獫長ハ長喙ノ者、歇ノ驕ハ短喙ノ者、狎ハ短脛、狠ハ猛犬、猘ハ狂犬、宋ノ促韓ノ獹ハ俊犬、獒犬高八尺ト云云。
或書ニ道犬(たうけん)之ヲ大犬(だいけん)ト云、今呼デ唐犬(たうけん)ト稱スル者也ト云リ。
多識編ニ曰、獫(けん・口の長い犬)波志那加伊奴(はしながいぬ)、今案ズルニ多加伊奴(たかいぬ)猲(かつ)ハ波志美志加伊奴(はしみしかいぬ)、今案ズルニ多加伊奴(たかいぬ)、獒犬ハ於保伊奴(をほいぬ)、 今案ズルニ唐犬ト云々。

『武用弁略(圖解)』より

日本在来の犬といえば日本犬。
しかし狆の存在からわかるように、明治以前の日本にも中国やヨーロッパから様々な外国犬が渡来していました。中・近世の日本犬界も、意外と国際化されていたのです。

犬
江戸時代の日本にいた代表的な品種、和犬、唐犬、ムク犬。これに狆が加わります。
寛政元年(1789年)に出版された『頭書増補訓蒙圖彙』より

【和犬の消滅】


現代の我々がイメージする「日本犬の姿」は、ここ100年間くらいのモノに過ぎません。
家畜である犬の姿は50年も経たずに変化しますし、明治・大正期にかけて多くの地犬群が消滅しました。「現代人のイメージする日本犬」が、江戸時代の和犬と同じである保証など無いのです。
江戸時代の指南書に描かれた御鷹狩犬を見ると、当時の武家で基準とされた猟犬の体型は、現代日本人の考える和犬の姿と違っていますし。

古い時代も、狼(オオカミ)・豺(ヤマイヌ)・犬(イエイヌ)は異種の動物であると認識されていました。

縄文時代はほぼ単一品種だった日本の犬ですが、弥生時代になると朝鮮半島や樺太方面から「海外の犬」が渡来し始めます。
古墳時代には中国大陸から犬の渡来が拡大、立耳や垂れ耳、体毛の色もさまざまな地犬群が形成されていきました。これら様々な渡来犬が「ハイブリッド型の現生日本犬」のルーツとなったのです。

樺太方面から渡来した北方犬は、オホーツク文化人が北海道から撤退するとともに消滅。その流れを汲むニヴフ族の犬橇文化として受け継がれ、後世のカラフト犬となります。ニヴフの犬橇は、同じく海の民であった樺太アイヌにも普及しました。
狩猟採集生活の北海道アイヌは猟犬を、漁労生活の樺太アイヌは橇犬を求めた結果、北海道犬とカラフト犬が交雑することはありませんでした。よって、和犬の歴史における「北方ルート」の影響は少なかったと思われます。

やがて南蛮貿易が盛んになると、ヨーロッパ方面の犬も渡来。
在来の「和犬」に対し、中国大陸の「唐犬」、ヨーロッパの「南蛮犬」という概念も生れました。
幕末の開国とともに、欧米から洋犬が大量流入。舶来品が大好きな日本人は洋犬に飛びつき、鉄道網が整備された明治20年代になると、洋犬は全国へと勢力を広げます。
各地の和犬たちは、これら洋犬と交雑化。和犬の多様性は失われ、洋犬と和犬の交雑犬に呑み込まれてしまいます。

日本犬が消えかけていた大正末期の段階で、江戸や明治の和犬は昔話として語られる存在と化していました。現代の日本犬論で拠り所とされる「昔の和犬の姿を知っている」という古老の証言も、多くは大正時代あたりの記憶を元にしている筈。
そのような「新しい昔話」を基準に、江戸や明治の日本犬像を語られても困るのです。
「立耳・巻尾で単色の犬」という日本犬のスタンダードは、昭和3年にスタートした日本犬保存活動の中で定着しました。
消えゆく日本犬を復活させるには、多様性を捨て去った平準化しかなかったのです。

犬
江戸時代の和犬とは、茶色や斑模様など多様な姿をした地犬群でした(歌川国貞『東海道五十三次之内 草津ノ圖』より)

江戸時代の絵画に描かれるのは、体格も様々で、白・黒・茶・虎・斑模様の地犬たち。交通網が発達していない時代、各地域でバリエーションに富んだ地犬の系統が存在していたのでしょう。
これら種々雑多な姿の地犬たちこそが、本来の和犬の姿なのです。
しかし明治になると、行政による畜犬取締の強化(野犬駆除、狂犬病対策、畜犬税の導入など)、鉄道網の発達による洋犬の普及と交雑化などにより、その大部分は姿を消してしまいました。

大幅に遅れて、山間部に残存する日本犬の保護活動もスタートします。
昭和6年以降、文部省は地域と関連付けた日本犬7品種を天然記念物に指定。それに対抗する日本犬保存会は「大中小サイズでの日本犬標準化(紀州犬と四国犬を交配させた犬を甲斐犬と交配して生れた犬は何と呼べばよいのだ?的な問題が発生していたので)」を規定しました。
そして、「標準化された日本犬の姿」に合致しない個体はブリーダーも繁殖しなくなり、現代の日本犬の姿へと淘汰されました。
こうなる以前、江戸時代はどうだったのでしょうか?

犬
日本犬が大流行した昭和9年に撮影された斑模様の日本犬。このような体色の個体は「商品価値がない」として繁殖されず、戦前の段階で姿を消します。

【唐犬と南蛮犬】

在来の和犬を除く江戸時代の犬種として有名なのが、大陸から渡来した「狆」や「唐犬」、そして西洋から輸入された「南蛮犬」ですね。
明治~昭和期にかけて作出された日本テリア、土佐闘犬、日本スピッツとは別途で語るべき存在です。

中世あたりに来日したチベタン・スパニエルなどを国内で品種改良したのが「狆」。「唐犬」としては、北条高時が闘犬に使った大型犬などもその一つ。
「南蛮犬」は、1500年代に日本進出を図ったヨーロッパ各国が有力な戦国大名に献上していた記録があります。また、大名同士でも南蛮犬や唐犬の贈呈がおこなわれていました。
その姿は容易に確認することが可能で、例えば17世紀の『南蛮屏風(狩野内膳画)』には、長崎へ上陸したグレイハウンドらしき洋犬たちが詳細に描かれています。
これらの唐犬や南蛮犬は、上流階級のみが飼える高価な希少犬。江戸後期まで庶民が飼うのはムリでした。

江戸時代に描かれた和犬と狆の姿。えのころ(仔犬)と狆(小犬)を並べているのは、小型犬を区分するためのものでしょう。
現代の狆とは似ても似つかぬ姿ですが、当時は小型犬をまとめて「狆」と呼んでいたのかもしれません。

ただし「江戸時代の庶民は犬を飼わなかった」とかいう通説は完全な間違いで、このブログにも一般庶民が飼っていたペットの記録は幾つも載せております(『花咲爺さん』をはじめ、たくさんの忠犬・義犬談や犬の墓も残っていますし)。
高価な唐犬や狆は飼えなくても、その辺にいる地犬なら飼えますよね。

大雑把でいいですから、江戸時代の犬を語る場合は「時系列」や「地域性」も考慮しましょう。江戸時代は260年も続いた訳で、その間にペット観も変化していったのですから。
「ウソをつくな!ネットの情報が正しいのだ!」と21世紀に言われましても、江戸時代の書籍に愛犬を屋内飼育する庶民が描かれているので仕方ありません。
江戸っ子じゃなくて上方の庶民ですけどね。

帝國ノ犬達-名呉町
暁鐘成『義を守つて犬主の子を育む(嘉永7年)』より、江戸時代の大坂名呉町(現在の大阪府でんでんタウン付近)で犬を飼う貧しい一家。
犬用の筵や給餌器など、上方庶民のペット飼育事情を窺い知ることができます。

そもそも、「江戸時代の犬=江戸の犬」という考え方がおかしいのです。
江戸視点で語られる犬界史とは、「江戸時代の関東エリアの犬界史」に過ぎません。そんな局地的なシロモノを、「日本全体の犬界史」扱いされては困ります。
「関東のウドンは汁が黒いから、日本全国黒いに決まっている」みたいな暴論なんですよ、それは。

冒頭の図譜だと、江戸中期の人々は唐犬や狆以外の犬を食用扱いしていました。滋養強壮や病回復の薬として、和犬を食べていたんですね。
しかし、日本は「江戸エリア」だけではありません。北は蝦夷地から南は琉球までを含めた地域犬界の集合体が、「江戸時代の犬界」です。
繰り返しますが、犬の歴史解説においては「時系列」と「地域性」を考慮しましょう。
その意味で、唐犬や南蛮犬の存在は視野を広げる一助にもなるのです。



近世の和犬・唐犬・南蛮犬たちの姿を伝える書物や絵画は数多く残されています。
今回は、私の所有している『繪本寫寳袋(享保5年)』の原本から引用してみましょう。

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獒犬(からいぬ・ごうけん)
獒犬とは「大きくて強い犬」の意味。江戸時代に福岡県の小郡あたりへ定着し、明治初期まで飼育されていた唐犬とされています。
幾つもの書物に掲載されていますが、複写を繰り返したのか、解説内容は似たり寄ったり。
描かれたその姿は、満蒙犬の中でも「西狗」「細狗」と呼ばれた猟犬種や、ヨーロッパから持ち込まれたグレイハウンドと酷似しています。
当時の日本人からすると目を見張るような大きさだったのでしょう。銀魂のサダハルみたいな感じで。
しかしサイズが四~八尺って、グレート・デーンか何か?

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細狗
満蒙犬の一種である「細狗(シーゴー)」。サイトハウンド系の猟犬です(昭和2年撮影)。
唐犬については「支那犬」「滿洲犬」「蒙古犬」「西蔵犬」などの在来種が混在しており、更にペキニーズやハパ・ドッグ、チャウチャウなどの品種が作出されていました。

宮内省猟犬舎で飼育されていたグレイハウンド(大正2年撮影)

『畫本巻(年代不明)』で描かれた獒犬

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斑模様で描かれたケースもあります(『萬動物圖』より)

農犬(のうけん・むくげいぬ。農はケモノ偏)
ムク犬とは「体毛がふさふさした犬」のこと。現代ではどの品種に該当するか不明ですが、江戸時代の図譜では「狆とは別種の長毛犬」と解説されていました。
ペキニーズやラサ・アプソのような唐犬なのか、朝鮮産のムクイヌなのか、ヨーロッパから来た小型テリアなのか。狆と共に輸出されたことで明治初期に姿を消してしまい、謎の存在となっております。
習性は「よく水中に入」「水犬なり」と解説されており、ますます正体不明。

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さまざまな文献に取り上げられているムク犬ですが、標本や遺物は残されていません。

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江戸時代の日本で、唐土に存在すると信じられていた唐犬たちの想像図。小型犬も描かれていますが、ペキニーズやハパ・ドッグは日本人に知られていなかった模様です(『唐土訓蒙圖彙十三 禽獣』より)

これら和犬、唐犬、ムク犬、狆が「江戸時代の犬種」となりました。
そのうち、現代まで生き残っているのは和犬と狆のみ。唐犬やムク犬は、明治時代までに姿を消してしまいます。
幕末から大量に流入し始めたカメ(洋犬)によって、日本犬界の勢力図は激変していったのです。

明治時代、舶来品が大好きな日本人は洋犬に飛びつき、和犬を捨て去りました。
鉄道網の整備でペット通販が本格化すると、洋犬はあっという間に日本犬界を席巻。大正末期になると、日本犬はペット商にすら入荷されなくなります。
内務省の天然記念物調査(後に文部省へ移管)を機に秋田犬保存運動がスタートすると、昭和3年には日本犬保存会も発足。消滅しかけていた日本犬は、ギリギリセーフで救われました。

しかし再び、日本犬の危機が訪れます。
昭和12年、日中戦争が勃発。軍部の暴走は国力の疲弊を招き、軍需原皮の確保を急ぐ商工省は犬皮を統制し、それに便乗した政治家は犬を敵視する世論を醸成し、体制側に組するマスコミは「畜犬撲滅」を唱え、扇動された一般市民は愛犬家を非国民と罵りました。
保護されるべき日本犬も迫害に巻き込まれ、昭和19年末の畜犬献納運動で大量殺戮されました。
戦後の日本人が目にするのは、戦争を生き延びた日本犬の子孫たち。過去の多様性を失い、繁殖復活のため標準化された日本犬です。

戦時体制に加担した政治家、役人、マスコミ、一般市民、そして犬界関係者は、戦後復興期のドサクサに紛れて「ワレワレは犬を奪われたカワイソウな被害者です」と黒歴史抹消に励みます。
こうして明治・大正・昭和に至る90年間の近代犬界史が削除されたことで、江戸犬界と現代犬界を繋ぐ時代は空白となってしまいました。

明治・大正・昭和の記録すら調べない者が、いきなり江戸時代の記録を調べたところで意味はありません。
犬の日本史を「縄文から現代に続く、ひと繋がりの流れ」として捉えられない以上、ブツ切りの薄っぺらな年表が出来上がるだけ。
その結果、「日本のペット文化は戦後にアメリカからもたらされた」というウソが横行する惨状へ至ったのです。