柴犬

柴藪を巧みにくぐりぬけるので、この名があるのですが、信州あたりでは「柴くぐり」とも呼ばれてゐます。長野、山梨、岐阜地方に産し、穴熊獵が得意です。

 

長島重二郎『犬(昭和18年)』より

 
今や世界中で愛されるようになった柴犬。しかし、彼らが歩んできた歴史は意外と知られていません。
洋犬の渡来と戦時体制下で二度にわたって絶滅しかけた経緯を無視し、長い年月も華麗にワープして、縄文時代の犬と21世紀の日本犬を直結する乱暴な解説も散見されます。
良質な部類でも「日本犬保存会が設立された昭和3年以降の柴犬史」だったり。
縄文犬が現生日本犬となるまでには、8000年以上の時間がかかりました。対して、ワレワレが知る柴犬は昭和に入って固定された姿。
「昭和以前に存在した古来の柴犬」と「文部省が天然記念物指定した現生の柴犬」を混同することが、柴犬論を混乱させているのでしょう。
 

犬 

 

上の画像は昭和9年に撮影された斑模様の石州犬(島根産柴犬)。このような和犬古来の多様性は、洋犬が普及した明治時代あたりから「洋犬と和犬の雑種」と混同されてしまいます。

スタンダードにあわせた繁殖活動の過程で多様性は淘汰され(雑種と間違えられた個体は「商品」として売れないからです)、文部省の天然記念物指定によって現代の我々が知る「茶、黒、白一枚、立耳で巻尾」の姿へと変化していきました。

 

本州や九州に分布していた小型猟犬も同じこと。

小動物を狩る柴犬の役割は来日したビーグルなどに交替し、大正時代までに柴犬の産地は縮小します。

昭和になると日本犬ブームが到来し、柴犬はたちまち人気品種となりました(昭和10年度に東京府で登録された日本犬は柴犬600頭、秋田犬335頭、紀州犬25頭、甲斐犬6頭、品種を特定できない日本犬が1451頭)。
しかし、戦時体制へ突入すると犬革統制や食糧難によって犬への迫害がはじまります。からくも生き延びた「石州犬」の系統をもとに、柴犬は何とか復活しました。
二度にわたる絶滅の危機を乗り越える過程で、柴犬の多様性も失われたのです。
 

【シバイヌの誕生】

 

氷期の終り、大幅な海面上昇によって日本海が形成されました。大陸から切り離された日本列島に、まだイヌは存在していなかったと思われます。
やがて、北東アジアのオオカミ(ニホンオオカミの先祖でもあります)からイヌが分岐。その中には「縄文犬」の先祖となる一群が存在しました。
さらに年月が流れて縄文時代、日本列島に縄文犬が渡来。
縄文犬は、シバイヌほどの体躯、立耳・立尾、細身で額のストップが浅い原始的な犬でした。ほぼ単一種だったらしく、全国各地で出土する縄文犬の骨格に大きな差異はありません。列島内で近親交配を繰り返したせいか、矮小化や歯周病の蔓延が見られるのも特徴です。
 
やがて弥生時代になると、西日本を中心に「弥生犬(大小さまざまな渡来犬群)」が上陸。彼らは縄文犬と交雑しつつ東日本へ勢力を拡大しました。
いっぽう、稲作文化が伝播しなかった北海道では、続縄文時代からオホーツク文化や擦文文化の時代へ移行していきます。
当時の北海道北部には、樺太方面から大型の北方犬(カラフト犬の先祖)が上陸。
しかし北方犬は本州へ勢力拡大することなく、オホーツク文化時代の終りとともに北海道から姿を消しました。
 
狩猟採集社会から農耕社会への移行は、耕作地の独占とクニの誕生へつながります。狩猟の友だった縄文犬は稲作とともに用済みとなり、数百年をかけて食用獣としての弥生犬にとって替わられました。
古墳時代になると大陸との交流も活発化し、人の移動に伴って大陸犬が渡来。更なる交雑化によって縄文犬は姿を消し、日本列島各地で地犬の系統が形成されます。
 
その大部分は中型犬となったのですが、原始的な小型の猟犬も各地に残存していました。国内が多数の領地に分割されていたこと、島国ゆえ南蛮犬や唐犬の流入が最小限で抑えられたことも、「地域性」の維持に貢献したと思われます。

多種多様な地犬群の中で、古来の柴犬の姿はどのようなものだったのでしょうか?

 

ここで再登場するのが北海道の縄文犬。

「柴犬は縄文犬の子孫」「北海道犬は、弥生犬が進出しなかった蝦夷地に残存した縄文犬の子孫」という二つの異なる説を見かけますよね。

縄文犬の直系は柴犬と北海道犬のどちらなのでしょう?それを検証するため、弥生犬の影響が少ないとされる北海道は重要な地域であるワケです。

しかし、考え始めると疑問ばかりが増すことに。

 

弥生犬は津軽海峡を渡ることができず、北海道には縄文犬が残存していたと仮定しましょう。

しかし昭和の日本犬ブームが訪れるまで、北海道に柴犬が存在しなかった理由は?

北海道犬が縄文犬の子孫であるならば、柴犬サイズの小型犬になる筈ですよね?何で中型犬なの?

北海道犬のルーツ自体が、鎌倉時代あたりに蝦夷地へ持ち込まれた和犬ではないか?という説もありますし。

……などと、北海道エリアを軸に柴犬史を語るのは止めた方がよいのでしょう。

 

帝國ノ犬達-saru1

柴犬21世紀Ver.

江戸時代の図譜に描かれた和犬は、斑模様が普通だったりします。実は、これこそが「日本古来の和犬の姿」なのです。

ほぼ単一品種だった縄文犬は、時代を経るにつれて大陸の犬と交雑し、多様化を遂げました。

再び茶や黒一枚の柴犬がスタンダードとなったのは、文部省や日本犬保存会が日本犬標準を定めた昭和時代のこと。「日本犬のスタンダード」から外れた斑模様の和犬は洋犬との雑種に間違われ(実際、識別は困難でした)、ペット商やブリーダーも「斑の個体は商品にならない」と敬遠し、いつしか淘汰されてしまいました。

消えゆく日本犬を復活させるには、多様性を排除した繁殖方針を優先するしかなかったのです。家畜である犬の姿など、たかだか50年で変貌してしまうのですよ。

 

しかし、消えゆく日本犬を再興させるための「緊急避難措置」として導入された天然記念物指定や日本犬標準は、いつしか「スタンダードに合致しない犬は日本犬に非ず」という権威と化してしまいました。

それを受け継いだ戦後世代も「江戸時代に描かれた斑模様の和犬は南蛮犬との雑種。現代の日本犬こそが純血種である」などと主張。時系列的にどうなんですかねソレは?

明治から大正に至る「日本犬消滅期」を挟んで、昭和3年以降の「日本犬を復活させるための選択肢」と、明治以前の「いにしえの和犬の姿」を混同するから話が混乱するのです。

 

モチロン、海外交易が盛んだった沿岸部では南蛮犬や唐犬と交雑した和犬群も存在した筈。立耳や垂れ耳、巻尾に差し尾、体格や体色もさまざまだったことを中・近世の絵画からうかがい知ることもできます。

それら多様性を包括したのが「古来の和犬」でしょう。

対して、「文部省が天然記念物指定した日本犬」は淘汰された結果の姿。

双方を区別せずに柴犬を語るのは乱暴すぎます。皆さん「縄文直系」に固執し過ぎなんですよ。

 

犬 

江戸時代の大阪で出版された愛犬物語集『犬の草紙(暁鐘成・嘉永7年)』。おもて表紙と裏表紙には、当時の和犬の毛色であった斑模様がデザインされています。

 

【シバイヌの名称について】

 

全国各地に分布しながら、「シバイヌ」の呼称がいつから登場したのかは不明です。

Wikipediaでは、例によって「昭和初期から確認できる名称」とテキトーな解説をやらかしております(2016年時点の内容)。

 

「柴犬」という名前は中央高地で使われていたもので、文献上では、昭和初期の日本犬保存会の会誌「日本犬」で用いられている。一般的には、「柴」は「柴刈り」などの意味であり、小ぶりな雑木を指す。
由来には諸説があり、
    柴藪を巧みに潜(くぐ)り抜けて猟を助けることから
    赤褐色の毛色が枯れ柴に似ている(柴赤)ことから
    小さなものを表す古語の「柴」から

 

戦前・戦中の日本犬愛好家も「昭和に入ってシバイヌ命名説」、日本犬保存会ですら「“柴犬”という言葉が使われだしたのはそれより前の大正年間ではないかといわれています(日本犬保存会 金指光春『柴犬はこうありたい』より)」などと主張していました。

すべては明治時代の資料を調べていないゆえに広まったウソ情報。

実際は、明治26年(日清戦争の前年)の書籍に「秩父のシバイヌ」が取り上げられています。

 

洋犬の輸入と云ひ飛切打の流行と云ひ、一として日本固有の犬を窘逐せざるなしと雖も、獵と場所とに依りては一概に擯斥し得ざる可し。
余ハ今、芝犬に付き見聞する所を畧叙し以て廣く養犬家に教を乞はんと欲す。世の好獵愛犬の士教る所あれば幸甚なり。
芝犬とは和犬属中体躯矮小のものなれど、頗る壮健にして其の挙動活發なり。毛被は短きを要し狐色と鹿毛色の弐様あれど、優劣あるなし。顔は尖りて狐の如く耳ハ直立して三角形をなし尾ハ長刀(なぎなた)に似たり。忠實にして勇敢なるを以て主人の命を聞くや断崖絶壁と雖も回避せず但時として鷙拗制し難きものあり。
其之を獵に用ゆるには生後廿五日乃至卅日にて乳離しせざれば体躯粗大に過ぎ宜しからずと云へど、普通六十日位なり。其乳を哺ふとき他兒を排して乳に啗へ付くものは健兒なりと云ふ。而して其食料は別に記載する程のことなし。乳離れしよりは鐵鎖を以て繋ぎ置かざる可からず。又他犬と馴れしむ可からず。然かせざれはまゝ驕傲難制に至る。
斯くて生后五六月を経て体躯の生長するに随ひモテコイ杯を教へ、其十分上達せしとき最も能く熟練せる老犬と共に原野に牽き打落せる獲物を嗅せば直に知得し終身忘るゝなし。總て芝犬は鼻を上げて嗅ぐを特質を有す。揚雉子ならば獵士より五六十間先きを追ひ廻し、四本の足を四本に用ゆる老犬に附ければ最もよし。飛切打ならば温良恭謙にして唯命是従ふ老犬に附すべし。
穴裏の狸を嚙殺し、兎を元巣に追廻し來るは勿論、猪鹿を追廻すに至りては芝犬獨特の長所なり。世人が徒に其の疾走狂奔せるを惡み用ゆる所なしと絶叫するは芝犬其の物の爲め非常の冤罪と謂ざる可らず。其惡癖殊に疾走狂奔するは幼時の訓練を怠たりし結果にして、此惡癖は總ての獵犬にあるにあらずや。又揚雉子には間に合ふも飛切打には役立たざる可しと云へど、當地にては年來飛切打に使用し好結果あり。
芝犬は各地に流布せるを以て其原産地は得て知る可からずと雖も、其の最も純良なるものは武州秩父郡大瀧村の産に若くはなかる可しと聞く。該村にては芝犬の純血の交はるを憂ひ、毎戸申合せ他の犬属を入るゝ者あれば誰れ彼れの所有たるを論せず見當り次第撲殺すと云ふ。今日にして此風習あるは斯の道の爲め喜ぶ可きの至なり。
余先年當地の獵士と熊谷川原に出獵せるとき、獵士の引連れし芝犬、芝生地より雉子を追出し之を射撃せしに、半矢にて二三丁さきへ落けるが、會々堤防普請の人夫之を見付拾取んとせしを芝犬追跡し至り、人夫に嚙み附き奪ひ還れり。以て芝犬の忠勇敢爲たるを知る可し。

 

烟波生『芝犬に就きて(明治26年)』より

 

文中に「芝生地より雉子を追出し之を射撃せしに」とありますが、そのような猟に使用されたのが「シバイヌ」命名の由来なのでしょう。

「秩父のシバイヌ」と同時期の文献には、長野や神奈川や鹿児島の小型日本犬も記録されていました。

 

熱海に歸着後は兩三日猪追をなしたると、又三日鶉打をなしたるのみなりし(猪狩の事ハ覔山君が詳述されたれば畧す)。
鶉は當地方にハ澤山なれば此獵ハ随分面白し。銃獵の外に此地方にハ一種の取方あり。網の幅三尺位のもの(箇々の長さは適宜)を鶉の居ると見定めたる場所の周囲ゑ張り、其張りたる中江犬を入れ、鶉を追出させ、網にかゝらせるなり。
此網の張方は一寸六ケ敷く調度鳥の飛び相なる所ゑ張らざれば、無論少しの獲物もなく、又犬の追出し方により鳥の飛立ち方違うと云獵夫の説にて、此獵に使うには背の低く体の少なるタアンスピツド、即ち動物居士の所謂鳥焼犬の如きものを以て最上とす。
此地方にハ一種の小犬ありて、其一種のみを用ゆ。信州しば犬(※信州柴犬)よりも體格少しく小なるものなり。
此取方なれば、鳥縦令(たとい)何十羽取れるとも皆生取故籠の用意さえ爲しをけば其他少しも差閊なく、殊に鶉は雉山鳥の如く數少なきものにあらざれば、一日に五羽や十羽の獲物あらざる様の事なく慰には随分適當のものなり。

 

空山生『豆州遊獵記(明治25年)』より

 

これが書かれた明治中期から鉄道網が整備され、それを介した通信販売網によって洋犬が勢力範囲を拡大。「秩父の芝犬」「信州しば犬」「熱海の小犬」「薩摩の兎犬」たちは、洋犬との交雑化によって姿を消してしまいます。

少数の和犬は洋犬が入り込まない山間部に生き残り、「シバイヌ」の名称も後世の「柴犬」へ受け継がれました。そして正式な命名の際、「芝(芝草)」ではなく「柴(小木の繁み)」の字が用いられたのでしょう。

 

辛うじて残存していた柴犬たちへ、畜犬行政が追い打ちをかけます。

狂犬病対策に苦慮する行政機関が頭数抑制策としての畜犬税を導入した事もあって、貧しい山間部の猟師には犬を飼う事も難しくなりました。犬税取締りや狂犬病駆除により、地域の犬が根こそぎ殺処分されることもありました。

評価の対象となった「国産犬」も、闘犬目的で作出された秋田犬や土佐闘犬ばかり。在来の猟犬たちは、大正末期までに姿を消してしまいます。

 

犬 

石川県産の柴犬(越の犬ではありません)。

 

洋犬との競合に敗れた日本犬は、続いて商業主義の洗礼を受けます。

消えゆく日本犬の再評価が始まった昭和初期、タダ同然の地犬に「商品価値」が出たことで、日本犬の無軌道な繁殖が始まりました。

柴犬の産地にはペット商が押しかけ、手当たり次第に買い漁ります。都市部へ流出した柴犬たちが、系統だてた繁殖をされるまでには時間を要しました。

 

栃木縣以北には、餘り柴犬は見當らない。成る程柴犬とは以前言ひ馴らされたものは居る。これは大概今のより少し大きいものであつたが、これも現在は澤山に居らない。栃木にも今の小さい柴犬は日露戰爭頃迄居たけれど、現在は殆んど混血して仕舞つて、柴犬で御座いますと云はれる格好したものは無いと言ふて差支へないが、群馬縣に這入ると居る。其れも現在では東で赤城山麓、西で十國峠の山道と相場が決つて居る位である。

 

高久兵四郎『日本犬觀察(昭和12年)』より

 

日本犬ブームが過熱すると、悪徳ペット商も跋扈し始めます。

日本犬同士の交配ならまだしも、遂には水増し工作による「偽装和犬」が登場。特に、見栄えを良くするためチャウチャウと交配した「三河雑犬(三州犬)」が大規模流通したことは、戦後にまで影響を及ぼしました。

毛色や姿勢がよい三河雑犬を、「あれこそが純粋な日本犬だ」と勘違いした和犬愛犬家たちは各地で繁殖に注力。偽装和犬が更に増殖するという悪循環に陥ったのです。

戦前の記憶が薄れる中、三河雑犬の子孫が在来の地犬に化けたケースも少なくありません。

「文部省に天然記念物指定されなかった地犬」が全国各地に散在するのは、「チャウチャウ交雑犬の身元調査」による結果なのです。

 

帝國ノ犬達-saru2

 

【柴犬の復興運動】

 

昭和3年に日本犬保存会が設立され、文部省も和犬の天然記念物指定を再開。関東甲信越、北陸、中部、山陰、四国、九州南部に点在する小型猟犬群を、ひとつの「柴犬」へ纏める作業が始まったのです。

国粋主義が隆盛した満州事変以降は日本犬が大流行。各地で日本犬愛好団体が続々と設立され、消滅の危機にあった柴犬もギリギリセーフで救われます。

昭和6年以降に「飼育しやすい手頃な小型和犬」として人気を博した柴犬は、昭和11年の天然記念物指定によって「国犬」へ格上げされました。文部省は郷土愛を利用した日本犬の天然記念物指定に動きますが、各地に分散していた柴犬だけは地域名が冠されない名称となります(「甲斐犬と紀州犬を交配した犬と四国犬との間に生れた仔犬は何と呼べばいいんだ?」的な問題に直面していた日本犬保存会や日本犬協会は、文部省の郷土愛方針に反論を唱えました)。

 

 

チイ號(山梨県生れの柴犬です)の天然記念物証明書。山梨県では「甲斐犬愛護会」と「純日本犬山梨保存会」が別途に活動しており、県庁の指導下で甲斐犬以外の和犬保護もはかられていました。

証明書も、文部省ではなく山梨県庁が発行していたんですね。

柴犬の天然記念物指定方針には地域差があったらしく「名古屋でも柴犬がこの程天然記念物として正式に指定された。小型で茶色の犬は決して今後殺してはならないことになつた。指定とともに縣社寺兵事務課では縣下における柴犬の登録原本がつくられ、全部これに登録され曩に認定された越の犬保存規定が準用され、柴犬が保存されることになつた(昭和12年)」 と記されております。

 

郊外住居の傾向から、平面的に擴がる都市集中の結果から、麦畑は宅地となり、竹林は庭園となり、茲七八年來郊外の膨張は、蓋し甚しいものがある。斯く郊外の發展に連れ、どうも郊外は犬が居なくては物騒だからと謂ふので、犬でさへあれば何でも宜しい。御用聞きの八百屋や肴屋に頼んで貰つて來て育てる。セツタアだと謂ふて呉れたものが、毛の短いポインタア型の犬に成つたと、交配中の寫眞と見比べて、不思議な疑問の解決に没頭する勤人の畜犬家もある。
秋田犬は國犬である。徒に外國かぶれの洋犬萬能を排して、大に國犬主義で行かなくてはと、柴犬を柴犬をと探し、漸く手に入れた柴犬の仔が、一年近くになつても耳が立たない。何とかして立たせる方法はないかと獸醫と相談する愛國々犬黨の飼育家もあり、御蔭を以て柴犬も近頃では、非常な勢力と成つて畜犬家の脳裏を支配して居る。此の點より見ると、日本犬保存會は、實に先覺者として賞賛すべきであると考へる。

 

小林信三『犬界一考察(昭和7年)』より

 

柴犬ブームによって、群馬県の「十国犬」、岐阜県の「美濃柴」、長野県の「信州柴犬(前出の「信州しば犬」とは別物)」や「川上犬」、その信州柴犬のルーツである島根県石見地方の「石州犬」などが見出され、繁殖活動が始まりました。

各地に残存していた小型日本犬は下記のとおり。

 

【群馬県産柴犬】

 

犬 

 

群馬には十國にも柴犬が居る。現在同縣には上州日本犬協會と云ふのが設立されてをり、會員四十名位であつて、春秋に會誌を發行して、地方團體としては有力なものであるが、此の會員中には十國の柴犬の禮讃者が澤山にある。

然し會員中には大體二つの流れが見出される。

一は此の十國犬を主として飼育し、現状維持で進むべしと云ふのと、他は筆者の説と同じく、刷新向上を會の方針とするものである。大きな聲では云はれないけれど、十國犬萬能主義者は、實は十國犬を知らない連中なのである。

同地の古老に聞いても判るが、以前のものは性能體格共に堂々たるものであつたが、何處も同じで大物の野獸が居らなくなつたと共に追々信州から柴犬が入り込んで來た。

七八年前迄は、まだ昔の儘の十國犬と、そして信州から來た柴犬と兩方居たが、今は殆んど柴犬のみになつて仕舞つたのが眞實である。

勿論此の柴犬中には昔の十國犬の血の混じたものも居るので、性能的に言ふと中々優秀なものも居る。

筆者は持論である改良論を屢々説いたけれど聞き入れず、殊に昨年頃は文部省に申請して天然記念物の指定を受ける運動をなさんとするものさへ生じたが、會の方針が刷新主義なので揉み潰されて仕舞つた。全く時代の波は恐ろしいもので、幹部中にも率先して、十國犬の長所を備へたもので、體型も現代人の要望に副ふものを作出せんと努力し、既に着々實績を擧げて居るのであるから、數年を出ずして優秀な犬が群馬縣から出る事を確信して居る。

現在の十國の柴犬とはドンナものかと云ふと、筆者は今年四月上州日本犬協會主催の展覧會に出席して、親しく今の十國犬なるものを觀察したが、大體数年前のものに比して細型のものが多く、筆者の郷里で云ふ兎犬式のものが多かつた。

尤も中に三四頭良犬も居たし、内容の中々優れたものも居たので、今にして何んとかしたらよいと思つた。

西洋人には元來が遊牧民から出發し、今の様な文化生活に這入つても、尚ほ種々な家畜に親しみを持つて居り、犬の改良なぞと云ふ事は常識であるが、日本人は農耕生活を出發點としたので、盆栽とか植木草花には親しみを持つて居るが、家畜に親しみを持つた人が少く、從つて蕃殖の方法なぞは無智識のものが多く、犬の改良なぞと云ふと奇異な感を起すものさへある。

畜犬界にも子供の云ふ様な説が採用されて居るのだから驚く。十國犬の柴犬としての位置は、内容は良いとしても、優秀なる柴犬なりとの折紙は付けられない。

犬と云ふものは何んとしても大衆の支持を得なければ、其犬種の命脈を保つ事は出來ないのであるから、内容ばかり良くても、外型が大衆に向かなければ駄目で、一人よがりでは世に出ない事を忘れてはならない。

 

【岐阜県産柴犬】

帝國ノ犬達-大和

從來、柴犬を東京大阪始め全國的に出したのは、恐らく岐阜縣が初めてであらう。

山國であるのと狩獵が盛んであつた關係上、同縣下には柴犬が至る所に居たのである。數から言へば信州以上で、本當の柴犬らしい柴犬を産出したのは岐阜縣である。

大體の系統は長野縣の下伊那郡以北のものに似て、小型で型の良いものが多い。而して長野縣程出眼やアンダーシヨツトは居らず、先づ無難なものが多いのと、今の柴犬より少し大きい古い型も相當見受けられた時代もあつた。

柴犬とは原始犬の意義であることは既に述べた通りで、口の尖つたスピツツ型のものが柴犬本來の姿である。所謂狐顔の軽快な體躯をして居るのが柴犬なのであるが、追々中型の猪犬を矮化したものも柴犬と呼ばれる様に、今ではなつて來て居る。

岐阜には原始型の柴犬の名に背かぬものが多い。今では岐阜柴の保存會も設立されて居る。

犬の研究は過去を知り、將來の目的を立てるのが大切であつて、過去を知つて無闇に過去に引き返すばかりが能ではないし、又過去を顧みず、現在其儘を固持しても世の進歩に遅れる。

サリとて過去も現在も忘れ、將來のみに望みを置く事も出來ない相談であるが、岐阜の保存會の觀念形態は如何なるものであるか、餘計なおせつかいであれど、聞いて見度いものである。

 
【長野県産柴犬(川上犬)】

犬 

 

同縣は却却大きな縣で山國であるから、「長野の柴犬」と一口に言ふ事は出來ない。數年前迄は木曽にも却々良いのが居た。一體同縣下のものは小型で、且つ毛色の美しいのが多い。

俗に緋赤と云ふ毛色が多い。而して一枚赤の爪黒も多い。

柴犬としては相當のものと云ふ事が出來るけれど、反面には缺點も多々ある。

同縣下のものには丸眼、出眼のものが澤山に居る。筆者の郷里ではこれを信州カメと称して居るが、世間では柴犬と見做して居るから、此處では假りに柴犬として取扱ふ事にする。

其れから下顎の突出したもの、即ち齒の喰ひ合せの悪いのが相當に居る。體格が小さくなればなる程、出眼やアンダーシヨツトが多い。

凡ての犬が體格を矮化するとか、或は近親交配を累加すると出眼やアンダーシヨツトになる傾向があると見へ、西洋犬でも愛玩犬には此れが多く、日本の狆や北京の狆もこれである。

故に信州カメと云ふのは、果して外國の小型犬を混入したものか、其れとも矮化から出たのかは疑問であるが、柴犬としては出眼やアンダーシヨツトは感心は出來ない。

同縣全般の柴犬の事は筆者には判らないけれど、比較的人口に膾炙されて居る南佐久郡には良柴は居ない。これは十數年前から既に居ないのに、評判だけは大したものである。

一般には餘り知つて居る人は少ないかも知れないが、下伊那郡の富豪の原健吉氏は信州柴の優良種を飼養して居る方で、隠れたる柴犬の功労者である。縣南を隅から隅まで捜索して、確信あるものを百頭近く集め、全部自分の犬舎に収容して置くのであるから、一寸普通人には眞似は出來ない。富豪原氏にして初めて成し得られるのである。

同氏の犬舎の代表的のものゝ外觀を述べると、小型であること、一枚毛の緋赤であること、尾巻きのよい事、顔は丸味を帯びて居ることなぞであらう。故に愛玩犬としてはよく出來たものである。

筆者は今春同氏と會見して下伊那郡方面の柴犬の出來を聞いた所、同地方と三河の豊橋市方面とは船楫の便があり、柴犬も互に血液を混交して居たので、同じ長野縣でも下伊那郡以北の犬とは型が違ふと言はれた。

成る程、筆者が以前見た木曽地方の柴犬よりは現代化したもので、斯の如き優秀な物を世に出したらよさ相なものであるが、同氏は自分の犬舎のものは一足も他へ出さぬ主義とかで、未だ同氏作出の柴犬は殆んど都會に行つて居らんとの事で、惜しいものと思つた。

然し犬は澤山飼ふと色々故障が起るもので、テンパーなどに這入られると、仔犬が枕を並べて倒れるので、他の希望に應ずる事が出來ないのかも知れぬ。一二頭の犬を飼つて置くと健康であるが、數が多いと思ふ様にならんものである。

 

いずれも高久兵四郎『日本犬觀察(昭和12年)』より 

 

【島根県産柴犬(石州犬)】

 

 

昭和初期、柴犬の復活において重要な役割を担ったのが島根産の「石州犬」です。日本犬保存運動の一環として島根産の「石」と四国産の「コロ」が交配されたのを機に、滅びかけていた柴犬の頭数は回復へと向かいました。

著名な石州犬ブリーダーだったのが中村鶴吉氏。故郷・島根県の柴犬を東京へ移入した彼は、「エン・ペー・カー犬舎」での繁殖普及につとめます。

島根県のみに石州犬を留め置くと、他府県のように洋犬との交雑、ジステンパーや狂犬病の流行、畜犬取締規則の改正などによって一挙に壊滅する可能性がありました。山村に残存する日本犬は、「畜犬税を払えない」という理由で野犬扱いされ、容赦なく警察に駆除されていた時代です。

それらのリスク回避として、島根出身の愛好家が石州犬の分散保存へ動いたのでしょう。

 

勘違いされやすいのですが、日本犬の復活は愛犬家が一致団結して成し遂げたワケではありません。組織・個人の方針や日本犬観を巡る分裂・対立の歴史だったのです。

 

地域性や郷土愛と関連付けた「地犬」としての天然記念物指定を推進する文部省。

在りし日の日本犬を大・中・小の三タイプに標準化して繁殖復興を目指す日保。

郷土色や過去を捨て去り、海外進出を見据えた新たな日本犬として改良進化を図る日協。

アイヌ犬保存會、秋田犬保存會、甲斐犬愛護會、紀州犬保存會など、各地で活動する諸団体。

日本犬柴犬研究所や日本柴犬倶樂部など、日本犬専門のブリーダーや畜犬商。

彼らは「それぞれの日本犬観」を巡って主張をぶつけ合いました。

 

それぞれの派閥が正々堂々と議論したのであれば、多大な成果が残されたことでしょう。

しかし彼らは、団体間での足の引っ張り合い、誹謗中傷、人格攻撃、デマの流布、相手の展覧会へ潜入してのスパイ行為、会員の引き抜き合戦と、醜悪かつ不毛なバトルを展開。

特に激しく対立したのが、保守派の日本犬保存会と革新派の日本犬協会。柴犬に関しても「小型日本犬のスタンダードにのっとり復興する」という日保に対し、日協は「海外展開を含め、より小型化した全く新しい家庭犬へ改良すべきだ」という主張を繰り広げました。

 

 

日本犬保存会会報の草稿(原本)より、日保を設立した当時の斎藤弘吉(画像の「斎藤弘」はペンネーム)理事が飼育していた柴犬。

 

もっとも、彼らが最初からケンカしていた訳ではありません。日保の斎藤弘吉と日協の高久兵四郎は、日本犬復活を目指す同志だったのです。

上掲した日保創設期の会報草稿も、斎藤・高久両氏が共同で編集作業にあたっているのですよ。信じられないことに。

 

昭和三年十一月二日、群馬縣藤岡町原徳人氏、堤百川氏等同地愛犬家の招待を受け、本會より高久兵四郎氏、齋藤弘氏参り大いに犬談致しました。同三日より原氏と齋藤、同道信州、上野、武蔵の國境の群馬縣多野郡上野村字中の澤部落方面に入り、柴犬を研究し(※「翌四日」追加)やゝ純血に近いもの牡六才一頭を黑川村に於て見出し連れ歸りました(※「十號と改名」追加)。現在、齋藤飼養中、今年夏、再び信州に入り牝を見出すつもりであります。本年二月一日、本會顧問高久兵四郎氏の上京を機とし、齋藤宅に於て愛犬家を會し大いに日本犬の特質を論じ、又高久氏の犬相の話を傾聴しました。來會者十三名(上掲草稿より)

 

物腰やわらかな斎藤氏と異論を認めない高久氏。それぞれのカリスマにすがるシンパにより、日本犬保存運動は分裂していきました。

日保と日協のバトルはあまりにも陰湿かつ低レベルゆえ、日本犬の歴史から抹消されてしまいます(抹消というより、「あの醜態を思い出したくない」「恥ずかしいから戦後世代には黙っておこう」というのが正解ですか)。その結果、傍流の日本犬史は黙殺されてしまいました。

紆余曲折を経た柴犬の保護活動に、さまざまな団体や個人が関わってきた事実も含めて。

 

ちなみに、日本犬協会による柴犬の改良計画は下記のようなものです。高久兵四郎の主張には変遷が見られ、一時期は「マメシバ化した小型愛玩犬としての海外進出」も唱えていました。

 

【柴犬の將來】

柴鶏や牛馬と共に柴犬の狐顔のものは、犬種として珍らしいものである。これを普通の獵師は好むが、都會の愛犬家達は寧ろ獸獵犬を矮化した方の柴犬を好む傾向を認める。これは日本犬に對する認識が足りない爲ではないか。一般は日本犬は柴犬も秋田の大型犬も、體躯の大小の相違と思ふて居るからである。

然し日本犬と一口に言ふても、起源も異り、又從來用途も異つて居たのであるから、柴犬は柴犬としての標準を樹てねばならんのである。筆者の考へでは、狐顔の古い柴犬では勇氣に乏しいから、多少太型を加味し、特に其の内容の長所を採り入れて外形的には柴犬本來の生命である軽快味を失はんものが理想ではないかと思ふ。

島根の柴犬がよいと云ふのも、太型が有ると共に、古い柴犬に太型の長所を工合よく混入したものがあるからである。筆者は太型の方は寧ろ中型に還元するか、又は古い型の改良に用ふべきものと思ふ。

柴犬は元より獵犬であるが、都會で飼はれるのは、愛玩的のものであるから、獵師の理想とする所を其儘採用は出來ないけれど、又全部捨てる事は出來ない。茲に考ふべき所がある。

筆者の知人で朝鮮に在住する者がある。同地に狐が多いから柴犬を狐獵に用ふるから送つて呉れとの事であつた。その手紙には狐は逃走に巧みであるから、追跡に長じたもので、勇氣に富み、格鬪にも使へるものとあつた。

筆者は二十五、六年前、兵庫縣の山の中に居り狐獵を多少した經験がある。柴犬の兎専門犬は追跡はすれど、狐に一度咬まれると再び追はなくなるし、狸犬の如き勇敢のものは追跡が下手である。狐獵には兎犬と狸犬の中間のものがよい事を知つて居るので、此の手のものを見付けてやり、大いに知人を喜ばせたものである。

斯くの如く柴犬は、古い型(兎犬)でも、又强い狸犬でも用途が狭くなるし、家庭の愛犬としても兎犬の古い柴犬では勇氣を要望される現代では好ましくないし、狸犬風のものでは軽快味が乏しいから、中間のものがよいと思ふ。

又獵犬としても内地では今後益々活躍すると云ふ譯には行かないので、恐らく將來柴犬の活動の天地は先づ朝鮮が好適地であらう(※猟場が豊富だった統治下の朝鮮半島には、内地のハンター達が大挙遠征していました)。

今や柴犬はテリアの領域に侵入せんとして居るが、日本テリアやスコツチの如く、全く愛玩犬化して仕舞つてはならないのである。換言すれば、如何に柴犬は矮化された犬種なりと言へ、今日以上に矮化される事は、望ましく無い。

又、都會に飼はれて居るとは言へ、何時でも狐獵位には使へるだけの體構と性能は失はせたなくないものである。犬を矮化さす事は、大きくするのよりは遙かに容易な仕事である。僅か四、五十年間に四五貫のものを今の如く矮化したのであつて、それも決して大して骨を折つてやつたものではない。

【柴犬と矮小化】

茲に柴犬矮小化に就いて少々申上げて見る。山中は食料に乏しい爲め、炭焼き獵師が自己の獵犬に對する要望は、成る可く小食で足りる小型犬で、而して大きな犬の仕事をするものである。丁度筆者の如き貧乏人が貸家を探す如く、成る可く家賃が安く便利な家と云ふ、心理状態と共通したものである。

特に山中に追々大物が居らなくなると、此の心理状態は、露骨になつて來る。犬の仔と云ふものは誰も承知の如く、一腹の中でも體格の小さい堅實のものに良犬が多いものである。

闘犬の如き十二、三貫の親から七、八貫の仔が生れるとこれは體重以上の鬪手であるのと同じで、柴犬も四、五貫の親から出た三貫位のものは、體格以上の獵をやるものが出るので、以上の理由で敢て淘汰改良なぞと云ふ小むづかしい事をせずとも、大きく而かも優秀なものに改良するには相當苦心を要するのは誰れも知つて居る處である。故に今更一層矮化させずとも、若し矮化さす必要が起れば、大きくするよりは骨を折らず成し遂げられるのである。

【改良の重點】

然らば如何なる點を改良すべきかと云ふに、先づ吾人は柴犬と他の日本犬の相違を知つて置かねばならんのである。體構は小型犬の共通として、十對十の正方型であること、尾は垂らした時、飛節より一寸位短くなければならない。即ち中型犬より短い、巻いたのが柴犬の尾であることを知つて置かねばならんし、毛色は赤でも外觀上緋赤であること、何となれば他の犬は使役とか獵が生命であるが、柴犬は愛玩的要素を多分に持つて居なければならんからである。

而して柴犬によく見受ける、オデコ、丸目、アンダーシヨツト等は勿論改良すべきである。

斯く言ふと理想に近いものは前述の如く島根に多いと云ふ事になる。これだけの外觀を備へれば、品位も自づから生じて來るし、番犬としても獵犬としてもやゝ間に合ふ性能をも具備するものと推定されるのである。其の時こそ、柴犬は欧米の檜舞臺に出しても、押しも押されもせぬ地位を獲得する事が出來、犬種としての永遠の生命を保ち得る次第となる。

 

日本犬協会理事・高久兵四郎『日本犬觀察 各地の日本犬比較(昭和13年)』より

 

東京基準を地方へ押し付けようとする日保への反発は関西犬界だけではなく、北海道犬界や東北犬界にも飛び火していきます。

東京に本部を置く「日本犬保存会視点」というのはナカナカ厄介であり、情報発信においては東高西低というか、西日本や沖縄の犬は格下扱いでした。斎藤弘吉も、石州犬に関わる山陰犬界の解説については実にアッサリ風味です。

 

犬
兵庫縣は京都寄りで有望。鳥取にも柴犬がをり、岡山、島根、山口、廣島等の山中にも却々いゝ犬がゐる。

写真・文とも 齋藤弘吉『山に日本犬を探る座談會(昭和8年)』より

 

柴犬の重要な産地なのに、山陰の説明は一行だけ。何ですかコレ。

補足するため、東京の「エン・ペー・カー犬舎」と大阪の「日本柴犬倶樂部」による石州犬解説を取上げましょう。

まずは関東方面、エン・ペー・カー犬舎の中村鶴吉氏から。

 

 

現在の吾輩の調査に依ると、其の數、一、二頭に過ぎぬと云つても、過言ではないので有る。むしろ、殆んど全く無いと云ふ方が正當かも知れないのである。

此所に於て吾輩は、非常に遺憾とし、神代の當時より連綿として殘存せる國粋犬たる石州犬の蕃殖を、文化中心の地點たる東京に於て、多大の犠牲を拂い、其の蕃殖を科學的に、且つ實際的に研究、實行して、最近に於ては、原産地方へ反對に作出犬兒を多數移入して居る状態で有る―。

(中略)

吾輩は、思ふに、石州犬なるものは他系の日本犬の追從を許さざる代表的の點を所有するものと認めて居るので有る。御参考までに日本犬保存會第四回展覧會の審査を結果を見るに、小型種に於ては石州犬は、斷然第一の結果を得たのである。

中型種に於ては、全國に於て第二位の結果を得て居るのである。

即ち此の表に現れ居る如く、石州犬は獨特の光輝ある優秀体型の保持者である。

 

 

年々と吾が石州犬の數は減少し、最近の探査によると其の數、原産地帶にては殆んど全く無き有様である。

吾輩は是れを連綿として殘存せる此の高貴國粋犬たる石州犬の向上蕃殖を科學的に日夜研究實行して止まないのである。既に第四回日本犬保存會展觀會に於て其の成果の幾分を犬界に發表するに至れり。此の人知れぬ日夜の努力は、やがて世界に誇る優秀なる日本犬種、石州犬の出現と成つて一朝有事の際は國家に盡し、且つ吾が日本犬犬界の爲め努力し、且つ切望して止まないのである。

 

中村鶴吉『石州犬に就て(昭和10年)』より

 

翌年には、上記に加筆修正したレポートを投稿されています。

 

 

最近畜犬界に於いて目覺ましい一大躍進をして來たのは、日本犬である。此の日本犬種の中にても石州犬は、吾が犬界に於て非常なる關心を持つて研究されるに至った。

元來日本犬なるものは、どんな種類の犬で有るかと云ふに、我々の祖先と共に日本の國土に棲み、而かも我等の忠僕として、又、好伴侶として生活して來たものである。

此の日本犬が、何故に石見國地方に優秀なる種類として純血を誇りつゝ殘存してゐるか。其の理由としては、神代の當時よりして、山陰地方特に島根縣下一般は神の國とまで稱された程に、素嗚尊の高天原より出雲の國に降り給ひ、八岐大蛇を退治せられたのを初め大國主命は出雲に施政をたれさせられ、此の地が、今の東京とも申す可き、文化、施政の中心地帶たりしことは、何人も歴史上熟知せることである。

此の如く神代の當時より歴史的に有名なりし島根縣下も、地理的、特に天嶮的に後世文化の中心點より遠ざかり、文化移入の鐵道の建設も日本内地としては、極く最近に於いて完通せる有様で、特に島根縣下に於ても、出雲地方は、文化の程度高く、交通機關も比較的早く完成せる爲め、自然的に、石見地方の中國山脈地帶なる高原奥地の天峡的地帶に、優秀なる此の神代当時より純血を保てる日本犬の殘存せらるゝに至つたのである。
最近に至つては、山陰線の鐡路も全通し、石州地方に於てすら奥地に向つて段段と交通文化の度を増すに至り、この石州犬の殘存地點は、島根縣下、那賀郡、美濃郡、鹿足群の中國山脈地帶からなる高原地方で、鐵道驛より自動車にて半日もかかり、自轉車も入らぬ山道を十里、二十里も入り、それより道無き山を、隣りの獵師の家まで七里、こちらの酒屋へ五里、あちらの煙草屋へ四里という、高原地帶の晝尚ほ狸、狐、毒蛇、猿群、鹿、熊等の出歩く地帶に侵入せざれば、この石州犬を發見するに至らぬ狀態と成つて、而も、段々と減少するのみとなつた。
石州犬の日本犬としての特徴は
一、性質。悍威に富み素朴の感を有す。動作敏捷、歩様、輕快にして彈力性を有す。
二、一般外貌。骨格緊密にして、筋腱の發達良く、體高一尺二寸乃至一尺五寸の小型種及び體高一尺六寸乃至一尺八寸の中型種を有す。
三、耳。耳は最も短小にして、三角形をなすを一大特徴とす。
四、眼。三角形の强く眼力を有する一種獨特の眼を有し、虹彩は濃茶褐色を呈す。
五、口吻。鼻梁直にして力强く尖り、鼻鏡黑色にして緊り、口唇は力强く緊り、特に强大なる齒牙を有す。
六、頭、頸。額廣くして頬部の骨格、筋肉はよく發達し、頸は、太く力强く發育す。
七、前肢。肩甲骨良く發達し、傾斜適度にして、下膊直にして趾は緊握し、狐足の型を特徴とす。
八、後肢。力强く踏張り、飛節强靭なり。
九、胸。胸は特に深くして、肋適度に發達し、肺活量の强大なる事。前胸部も亦發達良し。
十、脊、腰。脊直にして馨甲部の發達は他犬に於て見得られざる程なり。腰は强靭にして、特に筋肉良く發達す。
十一、尾。太く力强くして長くも、短くも無く、右巻尾を一大特徴とす。
十二、被毛。表毛剛にして、直立し、綿毛軟にして密生す。尾毛は稍長く太硬毛の開立、實に優美なり。
毛色は、赤、赤胡麻、黑、黑胡麻、赤虎を特徴とす。
特に那珂郡の中國山脈地帶の高原奥地に於ては、シエパード種に見るブラツク・アンド・タン色、即ち脊黑の四肢、頬部、濃茶褐色のモダン色の中型、小型のものを認むる。

以上の如く、獨特の優秀體型を具有し、古來より勇猛にして、忠犬を以て聞え高く、性能、容姿、共に優秀なるもので、また强き遺傳力を有し、且つ、軍用犬、警察犬としての性能力を有し、猪、熊、鹿、狸、狐、猿等の獣獵犬とし、又鳥獵犬として、優秀なる能力を有す。吾輩は、思ふに、石州犬なるものは、他の産地の日本犬の追從を許さざる代表的のものであると。

 

中村鶴吉『山陰犬 特に石州犬に就て(昭和11年)』より

 

続いて関西方面、日本柴犬倶樂部の大谷嘉徳氏による石州犬解説を。

目を通すと、この団体独自の供給ルートが存在したかの様に書いてあるんですよね。島根県内における、エン・ペー・カー犬舎と日本柴犬倶樂部の競合はあったのでしょうか?

もしかしたら中村鶴吉氏が東京で繁殖した石州犬を島根県の愛犬家が逆輸入し、それを日本柴犬倶樂部が関西方面へ送り出すという謎のキャッチボールが展開されていたのかもしれません。時系列的にも微妙ですし。

 

 

優秀な素質を有しながら、從來殆顧られなかつた、島根の石見國産柴犬も、日本柴犬倶樂部主催展覧會に於て、初めて世に出て、其の眞價を認識された事は柴犬信者の筆者が、最も愉快とする所であります。

昨年の展覧會の結果に付いて見ましても、優勝犬牡、牝六頭の内牡二頭牝二頭共に島根の石見國産である結果からしても、立派な物である事は了解願えたであらうと存じます。

然し此の結果が直に石見國産柴犬其の物の優秀さを示するものとは考えたくありません。現状に於ては一流であつても、かつての昔、八十八才で昨年死亡した犬好きであつた祖母の犬に付いての話やら、今年七十五才になる老猪獵師、城市老が盛に猪獵に從事して居た頃、即ち明治十五年から明治二十七年頃迄に手がけた犬の話を参考として、現状を調査した結果から考える時、甚だ寒心すべきものがあります。

即ち外觀に於ける著しい變化もさる事ながら、本質的に、絶對的な精神力な方面に於ける低下は、考えるだに慄然たるものがあります。

あの底知れぬ大擔さ、あの旺盛な他犬に對して恐れを知らない鬪志、古武士を思はす様な淡々たる風格、忠實無比な然も、非常に怜悧な性質が小型洋犬の多分の混血の爲めに、殆ど失われんとして居る實状であります。

筆者所有の倶樂部公認の種犬テン公は、殘された唯一の眞實の柴犬と言つてよい犬でありますが、其にも係らず死んだ祖母の評によると、「外觀こそ先ず昔の犬其の儘であるが、氣性が弱い。昔の犬は此の様な生優しいものではない。昔は自分達は喧嘩さして樂しんで居たのだが、じつと見て居る内にひたいに油汗が湧く程で、實に何とも言えぬ凄じい感じがびしびしとこたえる。

一体にごろつきの様な、下品な感じの犬は喧嘩は强かつたが、大概馬鹿犬だつた。喧嘩も好者な所がなく一本調子だつた。

其に引き替え、底氣味の惡い様な、落付いた恐ろしい感じの犬は、假令ばテン公にうんと凄みを持たした感じの犬は、悧巧だし喧嘩も實二上手で空恐しい程强い。体も馬鹿犬よりは少し骨細であるが、實に立派なしやんとした体だつた」

以上の様な名犬が、段々に後世大物獵がなくなり、小物獵のみとなつた必然の結果と、更に重大な獵師の經濟的理由の爲めに、小さい犬にされたのが今日の柴犬を生じた經路であります。從つて精神的には昔の儘で唯外觀上は殆ど變らずにずつと小さくされた物が、狸、むさゝび、むじな等に使用して、比類ない性能を示す結果、ずつと維持されて來たのであります。

かく觀じ來る時、現在に於いて殆ど、唯一無二の獨歩の觀ある眞實の柴犬と言ひ得るテン公すら、多分に改良す可きものゝある事が感じられます。

筆者としては柴犬の、將來はテン公級の犬が普通一段の柴犬として、取扱われる程のものではないかと存じます。

然し此の程度迄の向上は、亂雑の極にある柴犬界の現状に取つては、實に容易ならぬ一大事業であります。其丈にやり甲斐のある事業であると存じます。

願わくば、柴犬信者の同志のお方の御協力に依り、日本柴犬倶樂部をして、此の大事業を達成せしめられん事を、切に希望致します。

甚だ漫然たる論旨でありましたが、此で一般的な事を終り、次回には少し具体的に柴犬の分布状態、島根に洋犬が侵入して來て、混血した經路、柴犬の部分的な表現をして見る考えであります。

 

日本柴犬倶樂部島根支部 大谷嘉徳『島根の石見國産柴犬(昭和14年)』より 

 

【柴犬の海外進出】

 

各地における繁殖活動が功を奏し、柴犬の頭数は急速に回復していきました。復活した「シバイヌ」は、日本のみならず世界各国へ宣伝されます。

状況が大きく動いたのは昭和10年のこと。日本犬保存会が海外畜犬団体へ向けて日本犬の宣伝パンフを送りまくった結果、大きな反響があったのです。同年の英国ケンネル・ガジェット誌は、日本犬をShishi Inu(ボーアハウンド)、Shika Inu(ディアハウンド)、Shiba Inu(ターフドッグ・柴犬の直訳)の3タイプに分けて紹介しました。

「無価値な地犬」と蔑まれてきた犬たちは、日本独自の品種として世界犬界の序列に加わったのです。

 

しかし海外における柴犬の扱いは、たびたび混乱を惹き起こしました。

例えばジャーマン・シェパード作出者であるマックス・フォン・シュテファニッツの著作に掲載された写真では、Shiba-inu, [Akita-breed] of Korea などと解説されており、「何でシバイヌが朝鮮在住の秋田犬になってんだよ?」という騒動に発展した事もあります。

 

事の真相はあっけなく判明。

帝国軍用犬協会の古屋千秋が愛犬を撮影→日本犬保存会の斎藤弘が写真をイギリスの畜犬団体へ紹介→それを見た獨逸シェパード犬協会が珍島犬と混同した、という国際的伝言ゲームだった模様です。

 

帝國ノ犬達-柴
イギリスとドイツにて Shiba-inu (Akita-breed) of Korea(Japan) と紹介された謎のシバイヌ写真。
昭和10年に上の画像が邦訳されたところ、困惑する人々が続出します。
 

古屋千秋

「これは餘談ですが、シユテフアニツツの獨逸シエパード犬に掲載されてゐる日本犬の寫眞は、あれは實は私の犬で、あの寫眞がどこをどうしてあれに掲載されたのかよくは判りませんが、齋藤さんがケンネルガゼツトに投書せられたのではないかと思つてゐます。
あの犬は猪と鬪つて討死した、馬鹿にきつい、稟性のよい犬でしたが、猪獵などは面白いもので、餘り稟性の強い犬はこの様な失敗をするもので、猪が向つて來ると逃げる位の犬の方が狩獵が上手です」

 

『エアデール談話室(昭和14年3月10日)』より抜粋 

 

シバの海外進出時における、珍事件でありました。

 

帝國ノ犬達-saru3

 

ドイツ側の誤解はともかく、柴犬の産地が時代によって変遷してきたのは確かです。朝鮮半島のような外地はともかく、ペット商の通信販売や柴犬ブリーダーの移住に伴って「産地」が移動することもありました。

前述したとおり、「信州柴犬」のルーツも山陰地方と四国の個体です。それ以前に存在していた本来の「信州柴」は他県へ流出、消滅してしまいました。

柴犬に関しては、かように「地犬」の概念が通用しないのです。

 

現在大多数を占めているいわゆる信州柴犬は、昭和初期の保存運動の中で、島根産の石号と四国産のコロ号を交配して作られたアカ号の子孫が長野県へ移入・繁殖されたものを源流としており、その呼び名からしばしば誤解を受けるが信州地方原産種ではない。このため、天然記念物に指定された7犬種の中で、柴犬のみが地方名を冠していない(Wikipediaより抜粋)

 

柴犬が人気になると、山間部に残存している小型猟犬をペット商が買い漁るようになりました。この「採集圧」によって地犬が消滅した地域もありましたが、多くの猟師は使い物にならない二流犬を売り渡し、優秀な個体は隠し持っていたそうです。

ペット商側も「○○地方産の日本犬」という肩書があれば愛犬家が高値で買ってくれる訳で、その辺は問題になりませんでした。

 

・信州は柴犬の産地、山の中へ行けば未だ澤山の小型柴犬が居る。犬屋が盛に此れを掘り出しては東京へ出す。一頭三圓位で仔犬が賣れるので、山の中の炭焼は「豚を飼ふよりは儲りやす」といつて有卦に入つてゐる。併し犬屋さんはこれを持つて來て「十五圓位で東京へ賣れるんだ」と北叟笑んでゐる。
・それかあらぬか、松本、上田、長野、飯田あたりでは此の柴犬が安くていいので中々の流行をしてゐる。雑種の日本犬を得意げに引張つて歩いてゐる紳士も中々ある。

日本犬は血統書が要らぬので、犬屋としては實に都合がいゝ。雑種でも判らない。誤魔化して賣るには最も都合がいゝらしい。

 

南城達郎『信州だより(昭和11年)』より

 

山間部から流出した柴犬は、都市部で頭数を増やしていきます。

たとえば昭和11年度、東京エリアで飼育登録された柴犬は600頭。多いのか少ないのか微妙な数字ですね。
ちなみに柴犬以外の日本犬登録数は秋田犬335頭、紀州犬25頭、甲斐犬6頭、品種不明の日本犬1451頭。これに土佐闘犬570頭、樺太犬25頭、狆261頭、日本スピッツ1頭を加えてようやく、不動の人気を誇ったシェパード2902頭、ポインター2169頭、セッター1296頭と拮抗するレベルでした。
日本犬ブームも、いつ飽きられるか分からない状況にあったのでしょう。そこへ戦争の時代が訪れました。

 

帝國ノ犬達-輸送

最もハデに柴犬の通信販売を宣伝していたペット商が、磯貝晴雄氏の「日本柴犬研究所」です。

 

【戦時下の柴犬】

 

昭和12年に始まった日中戦争は、遠い海の向こうの出来事。畜犬商の磯貝晴雄氏が柴犬販売広告を出しまくるなど、「戦時シバイヌ業界」は活況を呈していました。

しかし大陸の戦いは泥沼化し、更に太平洋戦争へ突入。国力の減退とともに日本犬界は受難の時代を迎えます。

 

日中開戦によって盛り上がっていたのが、軍用適種犬であるシェパード犬界。しかし何故か、日本犬愛好家たちも「日本軍は国産の日本犬を採用しろ」などと盛り上がっていたんですよね。

世界中で血統が整備され、飼育訓練法が確立され、第一次世界大戦で実戦プルーフされたシェパードに対し、血統書が未整備で、軍事訓練課目が成立すらしておらず、近代戦の経験皆無で、しかも天然記念物の日本犬を軍事利用できるワケがないのですが、集団ヒステリーに陥った戦時下に正論は通用しません。和犬愛好家たちは日本犬に武士道精神を押し付け、幼稚極まりない蛮勇に走ってしまったのです。

しかし、当時ですらシェパードの国内飼育頭数は一万頭規模。滅びかけていた日本犬に出番はありませんでした。

日本軍や帝国軍用犬協会側も、和犬愛好家からの非科学的なクレームをテキトーにあしらっています。

 

当然ながらイレギュラーな事例も存在し、戦時中には「軍用柴犬」が訓練された記録もあります。

昭和15年、千葉県の陸軍歩兵学校では3頭の柴犬が飼われていました。

これはシェパードの調達不足を想定し、戦地の野犬を用いた軍事任務が可能かどうかの研究にテスト犬として採用されたのです。

幸いにもシェパード不足などは訪れず、昭和19年夏まで陸軍シェパード種犬貸付制度などによる調達維持が図られています。ゆえに、軍用柴犬が戦地へ出征することもありませんでした。

 

犬
陸軍の研究対象となったテスト犬一覧。シナ、アソ、カサギが雑種の柴犬でした。

陸軍歩兵学校『雑犬の軍用的價値に就て(昭和15年)』より

 

せっかく復活した柴犬も、戦時体制への移行によって再び大打撃を受けました。

昭和13年に「国家総動員法」が施行されると、軍需皮革の確保を急ぐ商工省は「皮革配給統制規則」を制定。翌年の規則改正によって、犬革(加工革)を統制対象に含めます。戦時食糧難の到来を予測した農林省も「ペットに回す食料は無い。毛皮にすべき」と主張。

「贅沢は敵だ!」を標語に掲げる「国民精神総動員運動」もスタートし、一般市民の間でも「国民が一丸となるべき戦時下に、ペットを飼うような贅沢は許されない」という同調圧力が強まります。

この時点では愛犬家も猛反撃し、「犬を毛皮にしろ」と叫ぶ政治家には激しいバッシングが浴びせられます。

 

しかし残念ながら、戦時下の愛犬家が一致団結することはありませんでした。日本犬団体、シェパード団体、猟犬団体、闘犬団体、愛玩犬団体などは「他団体の犬は犠牲にしても自分たちの犬だけは護ろう」という自己保身に走ってしまったのです。

太平洋戦争突入以降は戦況も悪化。次々と畜犬団体が活動を休止すると共に、組織的防衛手段を失った愛犬家達は各個撃破されていきました。

意外なことに、そのような状況にもかかわらず日本犬ブームは続きました。石州犬の子孫が全国へ拡散したことで、柴犬消滅の危機は回避されたのです。

 

日本犬を飼へとの宣傳が行届いたためか仔犬が無闇に賣れて、豊橋、濱松あたりの仔犬生産地へは關西、東京方面の犬屋さんから「仔犬送れ」の電報が亂れとぶ盛況である。此頃では流石の地元でも、註文に間に合はず、電報とにらめつくらで青息吐息とは嘘のやうな話である。
この日本犬流行に就いて大阪南海鳥獸店の廣瀬氏は「磯貝さん(※日本犬柴犬研究所を経営するペット商・磯貝晴雄氏のこと)があらゆる大衆雑誌や婦人雑誌に大々的に日本犬を飼へと宣傳して呉れるから、それを見て飼ふ氣になつた人が手近で買へる私共の店へ買ひに來るのです」と、さう云はれれば田舎ならともかく、大都會では手紙や爲替を送るよりデパートなどで實物を見て買つた方がどれ丈け手つ取り早く安心か知れない。磯貝氏を商賣かたきとせず、ほめる廣瀬氏もえらい。關西地方の日本犬大型熱は愈よ熾烈で、裏日本を通つて秋田大舘と殆んど隣りつき合ひの有様である。今月はもうこれで何回大舘へ行つた人が尠ない程、往來も頻繁である。このところ東京は全くおいてけぼりの態である。

 

白木正光『犬界放送(昭和15年)』より

 

帝國ノ犬達-金華 

柴犬は戦時中の子供たちにも大人気でした(昭和15年)

 

餌の量が少ない小型犬は、戦時食糧難の時代にも何とか生き延びていました。

戦争後期の昭和18年までは犬猫病院の診察簿にも柴犬を確認することができます。同年には日本犬保存会が活動休止に追い込まれたものの、個々の愛犬家たちは日本犬を護るために奔走しました。

文部省による天然記念物の指定は、日本犬保護の切り札となる筈だったのです。

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より、昭和18年12月11日に牡のシバ(柴犬)が受診していますね。同時期にはセフ(セファード)、秋田犬、雑種犬が飼育されていたことも判ります。

 

しかし昭和19年夏にサイパンが陥落し、絶対国防圏を突破された日本は破れかぶれの一億玉砕へと突っ走ります。

物資不足が深刻化した同年末には、厚生省と軍需省が「畜犬献納」を全国の知事へ通達。多数のペットが殺戮されました。

「軍用犬、警察犬、猟犬、天然記念物指定の日本犬」は保護対象でしたが、集団ヒステリーに陥った銃後社会で「私が飼っているのは天然記念物です」などという理屈は通用しません。

多くの日本犬が、近隣住民の白眼視に耐えきれず毛皮として差し出されてしまいます。

 

犬 

全国でペット献納運動の嵐が吹き荒れていた昭和20年3月、なぜか柴犬を販売し続けていた磯貝晴雄氏の広告。

しかも彼は、敗戦直後の昭和23年には柴犬販売を再開しています。空襲や殺処分や周囲の白眼視に負けず、驚異的なバイタリティで柴犬を護った人々もいたのです。

 

それから半年後に日本は敗北。焼け野原の中で、愛好家たちが死守したごく少数の柴犬が生き延びていました。

しかし、畜犬行政が破綻した戦後の混乱期にはジステンパーや狂犬病が大流行。せっかく生き残った日本犬たちもバタバタと倒れていきました。

 

戦前に天然記念物指定を受けた個体は戦時中に死滅しますが(寿命もありますから)、これを早合点した某全国紙が「純血の日本犬は戦時中に絶滅した」などとトバシ記事を報じたのもその頃のお話。彼らの子孫は戦後へ血脈をつないでいました。

日本犬復興活動をスタートさせたばかりの日保は激怒しましたが、この騒動は「まだ日本犬が生き残ってる」ということを全国の愛犬家に知らしめることにもなったのです。

 

辛い15年戦争を経て、日本人は近代犬界の記憶を忘れました。「忘れてしまった」のではなく、自ら進んで忘却したのです。

戦禍の主犯たる軍部は消滅し、政治家や官僚も戦後復興が最優先。

愛犬家を非国民と罵った一般市民は、敗戦のドサクサに紛れて「戦争で犬を奪われたカワイソウな被害者」へ華麗に変身します。

「戦争によって日本犬を奪われた」などと憤っている日本犬関係者も、戦時を批判するマスコミも、「日本犬を軍用犬にしろ」「畜犬を毛皮にしろ」と戦時体制へ加担していた過去を振り返ろうとはしません。

そうやって各方面が黒歴史抹消に励んだ結果、柴犬たちが受けた受難も綺麗サッパリ忘れ去られます。

 

柴犬繁殖計画は昭和26年頃から本格化し、シバは世界的な人気品種として二度目の復活を遂げました。

現在、当たり前の様に飼われている柴犬は、度重なる消滅の危機から救われた幸運な存在なのです。わざわざ武士道精神とやらで箔付けしなくとも、素朴な美しさをもつ日本の宝なのです。

だから、大事に飼ってあげてくださいね。

 

帝國ノ犬達-saru4

てんねんきねんぶつだよー。